福沢諭吉は面白い<等々力短信 第1194号 2025(令和7).8.25.>8/19発信2025/08/19 07:09

     福沢諭吉は面白い<等々力短信 第1194号 2025(令和7).8.25.>

都倉武之福沢研究センター教授の『メディアとしての福沢諭吉―表象・政治・朝鮮問題』(慶應義塾大学出版会)を読み始めている。 福沢が二度目のアメリカから帰った翌慶応4年4月、後に三菱の重役になった荘田平五郎が、入学するために慶應義塾を訪ねたら、町人風の野郎頭、書生風の縞の羽織の福沢が、何処で買ったのか、葱を一束持って帰って来たので、非常に無造作な先生だと仰天したと、回想している。 都倉さんは、「福澤は極めて意識的にネギを買っている。身分相応とか、男たるものとか、学校の先生たるもの、などという常識を軽蔑して一顧だにしない自分の姿を見せている。それが周囲を感化して、やがて自由や平等を日常に変えることを福澤は知っていた。」「「メディアとして」とは、「見られる自分」を最大限活用して「文明主義」を目指した全く新しい福澤の読み解き方を意味しているのである。」と。(『三田評論』7月号「執筆ノート」)

 私は、福沢の手紙、演説、討論、新聞、出版、会合などの活発なコミュニケーションの重視を、福沢がsocietyを初めに訳した「人間(じんかん)交際」という言葉で、要約してきた。 都倉さんは、この本で「交通」communicationという言葉を取り上げ、福沢は幅広い「交通」を、常に最大化しようとする志向性を持って行動していた、とする。 「交通」の最大化、「文明主義」を目的として見据えた福沢が、それを実現するための「媒介者」もしくは自らが自らを「手段」として利用していた――すなわちメディアだった――と、捉えている。

 福沢の本籍地は「教育者」であり、その多彩な活動には、人間の成長への強い関心が貫かれている。 人を成していくのは「学問」であり、それが変わることで社会が、ひいては国も世界も変わっていくと見る。 「文明」の社会は、実証的「学問」の日新月歩の変動の影響から「敢為活発」な人間を生み出す。

 日本や東洋諸国の特質を、学問のあり方に着目して「儒教主義」と呼び、先進世界の潮流を「文明主義」と呼ぶ。 そして「交通」こそが、「儒教主義」と「文明主義」を分ける。 「交通即ち文明開化civilizationなり」、「交通」の意味を「人の智見を交換し有形無形のものを相互に通ずること」とし、学校教育、家庭教育、会議、討論、集会なども皆「交通」だ。 産業革命以降、人は「交通」の発達で芋虫と蝶の違いくらい変わってしまった。 かの「脱亜論」の二日後の社説で、清国と西洋文明国との大差を、福沢一流の強烈な比喩で、「人足に大八車を引かせて蒸汽車と競走するに異ならず」と。 「脱亜論」で「交通」を鍵とする文明認識によって、「儒教主義」を脱したその主義は、いうなれば「脱亜」の二字であると説くのに通じている。 都倉さんは、これは従来十分認識されていないことだとして、第八章「脱亜論再考」で詳述する。

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