大小絵暦の会、平賀源内と連(サロン)の場2025/03/28 07:04

 吉原には来なかったという平賀源内と、蔦谷重三郎の関係、平賀源内と秋田との関係を、田中優子さんの研究から見ていきたい。 『江戸はネットワーク』(平凡社)、蔦谷耕書堂のサロンからさかのぼること20年ほど前、江戸では、俳諧の連中が大小絵暦(えごよみ)の会を開いていた。 もともとは俳諧集の表紙のための工夫をしていたのだが、その工夫はカレンダーの制作と交換に向かうようになり、そのメンバーには下絵師も彫り師も摺り師も、そして発明ならなんでもという平賀源内もいた。 ともに牛込の旗本の、巨川(きょせん)と莎鶏(さけい)をリーダーとする二つのグループがあったが、職人や武士や浪人や町人がいる連の内部では、俳名をもってかかわることによって、それぞれの階級は消滅した。 これは、狂歌師たちが、狂名によって、階級も身分も消滅させていたのと同じだ。 日本のサロンは、この無名性(または多名性)を一つの特徴としている。 無名(または多名)であるからこそ、連の場は自由を獲得した。

 二つのグループのうち、結局は巨川連が美術史上に名前を残すことになった。 それは巨川連の中に、鈴木春信という下絵師がいて、源内をはじめとする人々が、彼の浮世絵を古典の「見立て絵」という方向へ引っ張っていったからである。 そして、もう一つ、浮世絵のカラー印刷化の技術が、ここで確立したからだ。 このことなしには、蔦屋の店から政演も歌麿も写楽も北斎も出ることはなく、それがヨーロッパ近代絵画に方向を示したりもしなかった。

 この巨川連の時代には、平賀源内というさらに大きなサロン形成者がいた。 源内は18世紀中頃からさかんに博物展覧会「薬品会」を企画、開催しはじめる。 源内はさらに、自分の家で定期的に博物の会を催したり、巨川の大小絵暦の会に顔を出したりしている。 彼は出身地の高松で、少年時代は俳諧の連のメンバーだった。 当時の少年で、文化や文学に興味を持つ者たちには、遊びの場として俳諧サロンが開かれていて、そこでさまざまな年齢、さまざまな職業の人と出会い、同人誌をつくって才能を競ったのだ。 近世の連の文化には、その基礎として、このような俳諧連の全国的普及があったのである。

 源内は地方で積極的に人材を発掘して、江戸の渦の中に引き入れることもした。 秋田藩士の画家、小野田直武を杉田玄白に引き合わせ、『解体新書』の文章と映像を合体させたのは源内である。 ちなみに、『解体新書』そのものが、玄白を中心として構成された蘭学者グループの所産だった。

 蘭学者が春になると日参しはじめる日本橋本石町には、長崎屋ホテルというオランダ・サロンがあった。 ここは『解体新書』の原本をはじめとする、何冊ものヨーロッパ博物学書や、マニュアルを手に入れることができたり、ヨーロッパの最新情報と器物に触れることのできるサロンだった。 多くの蘭学者の見聞がここで育てられた。 蘭学者のサロンは、医学のみならず、地図や銅版画技術や、小野田直武にはじまるヨーロッパ風日本絵画を生み出してゆく。

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