遊行寺が舞台、古今亭志ん生の「鈴ふり」 ― 2025/01/08 07:06
遊行寺が出てくる落語がある。 古今亭志ん生が、雨が降ってお客がごく少ないような晩の寄席でやる「鈴ふり」という珍品の噺である。 昔、広尾のマンションにいた頃、昭和43(1968)年から始まったTBS落語研究会へ既に通っていて、それを知った隣人が密かにカセットテープを貸してくれて聴いたのだった。
その「鈴ふり」の舞台が遊行寺である。 住持は大僧正の位を持っている。 大僧正になるまでは大変な修行が必要で、江戸時代の浄土宗では関東に「十八檀林」という学問所があって、その十八カ所の寺を抜けて行かなければ大僧正になれなかった。 志ん生は、マクラで、「その修行の一番最初(はな)へ飛び込むのはってェと、下谷に幡随院という寺がある。その幡随院に入って修行をして、その幡随院を抜けて、鴻巣の勝願寺という寺へ入る、川越の連馨寺、岩槻の浄国寺、下総小金の東漸寺、生実(おいみ)の大厳寺、滝山の大善寺、常陸江戸﨑の大念寺、上州館林の善導寺、本所の霊山寺、結城の弘経寺(ぐぎょうじ)へ入って、ここで紫の衣一枚となるまで修行する。それから下総の国飯沼の弘経寺に入る。ここは「十八檀林」のうちで「隠居檀林」といって、この寺で、たいがい体が尽きちゃう。そこを一身になって修行をして、この寺を抜けて、深川の霊厳寺、上州新田の大光院、瓜連(うりずれ)の常福寺を抜けて、紫の衣二枚となって、それより、えー、小石川の伝通院、鎌倉の光明寺に入って、緋の衣一枚となり、江戸の増上寺に入って修行して緋の衣二枚となって、はじめて大僧正の位になる……ここまでの修行が大変」と言い立てる。
そのころ、藤沢に、遊行寺という寺があった。 この遊行寺の住職はてェと、大僧正の位があって、「遊行派」といって、千人からの自分のお弟子さんがいる。 それがみんな、十九、二十というところが、一心に、わき目もふらずに、修行をしている。 でも、どのお弟子に自分の跡を継がせるか、わからない、相談をして、旧の五月の二十八日、大僧正を継ぐ者を選び出す会を催すことになる。
客殿に控えた千人を、一人ずつ一間に呼び出し、手箱から太白の紐がついた小さな金の鈴を出し、若い僧のセガレの頭へ、ちょいと結びつける。 ご住持が御簾の内から、「本日は、吉例吉日たるによって、神酒、魚類を食するように……」と声をかけ、酒とか刺身とか、卵焼きだの鰻だの、付き合ったこともねえ食物(もの)ばかり、ズーッと並んでいる。 お酌の者が出て来る。 これが新橋、柳橋……そういう花街(ところ)の指折りの芸者なンですナ。 年のころは十七から二十まで……。 旧の五月だから、着てェる着物は、全部、揃いで、紺の透綾(すきや)でナ、「紺透綾」。 それに「ゆもじ」が、三尺の丈(たけ)で、ごく幅のせまいものをしめている。 肌の上に、ジカに紺透綾を着る。 肌の色は、ってぇと、抜けるように白いところへ、紺透綾……すき通って見えちゃうわけです。 <庭に水、新し畳に、伊予すだれ 透綾縮みに、色白のたぼ> お乳なんぞ、蕎麦まんじゅうに隠元豆が乗っかってるようなのでね。 こんな姿の、三百人からの女がパアーーッと出て来て、前に座った。 おひとつお酌を、と飲まされる。
ウッ! ウッ! ウッ! チリーン! チ、チ、チリーン! チリン、チリン、チリン、チリン……。 千人からのセガレにつけた鈴でございます。 それがいっぺんに。 チリーン! チリーン! と鳴ってきたから、客殿の中は大騒ぎ。
御簾の内にいて、その音を聞いていた大僧正のご住持が、ハラハラと涙をこぼし、「アーア、情けない。もう仏法も終わりだ。これだけの若者が修行をしていて、全部が全部、鈴を鳴らすとは、何事であろうぞ!?」
正面に一人、十九か二十の青き道心が、目を半眼に閉じて、墨染の衣で数珠をまさぐりながら、静かに座禅を組んでいる。 耳を澄ますと、その若い僧からだけは、鈴の音がしない。 この遊行寺の跡目を継ぐのは、あの僧だ、あの僧をおいてない。 と、呼び寄せて、係の者が、「どうぞ、どうぞ、お見せを願います、さァ、どうぞ…。あッ! あ、あなた、鈴が、ありませんな!?」 「ハイ、鈴は、とうに、振り切れました――」
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