谷中をさらに「碑文探訪」する ― 2024/06/24 07:13
金文京さんの「東京碑文探訪」、谷中本行寺から御殿坂をさらに進み、経王寺前で左に曲がって朝倉彫塑館の前を過ぎると、間もなく右側の長安寺「狩野芳崖翁碑」(『図書』3月号)。 芳崖は長府藩(山口県)御用絵師の家に生れ、維新後にフェノロサの指導により西洋画を取り入れた日本画を描き、また東京美術学校(現東京芸大美術学部)創設にも尽力、近代日本画の父とよばれる。 絶筆の「悲母観音像」は重要文化財に指定されている。
長安寺の手前を左に(朝倉彫塑館の方からは右に)曲がり、築地塀のある道を赤塗門の加納院前で左折すると、右側に安立寺(あんりゅうじ)がある。 安立寺には、日本画の下村観山の墓があるけれど、金文京さんが『図書』4月号で扱うのは、「良工市原君墓碣銘」。 明治時代、はじめて西洋式消防ポンプを作った市原求(もとむ)の墓碑である。 市原求は、黒船来航の時期に砲術で功名を立てようと土佐藩に仕官したが、廃藩で伯父を頼って江戸に出、鉄砲師の徒弟となって鉄砲製法を学んだ。 明治6年、川路利良大警視(今の警視総監)がフランスから持ち帰ったハンドポンプを民間に普及させようとしたが、誰も応じる者がいない。 市原はそれを研究し、鉄砲製造の技術を活かして、翌7年に見事おなじものを製造した。 その威力は江戸時代から使われていた木製の簡単な手動ポンプである龍吐水(りゅうどすい)とは雲泥の差で、江戸の華といわれた火事の撲滅に大きく貢献した。 日本橋蛎殻町の市原喞筒(ポンプ)諸機械製作所の製品は、警視庁に採用され、東京から地方にまで急速に普及し、市原は財を成した。
その安立寺から道なりに進むと三崎坂(さんさきざか)の上に出る。 道を渡ったところにある永久寺は、『安愚楽鍋』、『西洋道中膝栗毛』などで知られる明治時代の作家、仮名垣魯文の菩提寺である。(『図書』5月号) 寺門を入ると、向かって右から猫塚供養碑、猫猫道人紀念碑、山猫めを登(と)塚が並ぶ。 魯文は大の愛猫家、ただし本物の猫だけでなく人間の猫も好きだったらしい。
「猫塚供養碑」、上部の題額の場所に猫の顔が彫ってあり、文字はない。 題がないが、魯文が「猫塚供養碑」と呼んでいるので、それにしたがう、というのだ。 撰者は成島柳北、もと幕府の奥儒者で、幕末明治期に江戸、東京随一の花街として栄えた柳橋の繁盛とその内幕を描いた『柳橋(りゅうきょう)新誌』の著者として知られる。 「余友(わがとも)仮名垣魯文翁独り猫を愛するを以て称せらる。」「翁遂に自ら号して猫猫(ミョウミョウ(猫の鳴き声))道人と曰う。然れども翁は実は猫を愛する者に非ず。其の刊する所の新聞紙、日々に猫の説話を録する者は何ぞや。蓋(けだ)し猫は獣の至って柔媚(物腰柔らかく人に媚びる)なる者なり。而して世の清声(せいせい)と便体(べんたい・歌声としなやかな肢態)、猫の皮を鼓して(三味線を弾いて)客に侍る者、其の柔媚は或いは焉(これ・猫のこと)より甚だしき者有り。」
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。