「帝人事件」の発端と、『時事新報』武藤山治2024/05/09 07:01

 朝ドラの新聞記者は、『虎に翼』でも、その前の『ブギウギ』でもそうだったが、背広にネクタイ姿などでなく、帽子を阿弥陀に被って、ガラが悪い、紋切り型に描かれる。 かつて高度経済成長期には、新聞は「インテリが作って、ヤクザが売る」といわれ、洗剤やトイレットペーパーなどを自転車に積んだ販売拡張員が、押し売りまがいのことをしたものだが、最近は見かけなくなった。 それ以前は、記者もガラが悪いものと見られていたのだろうか。

 さて、「帝人事件」の発端は、1934(昭和9)年1月17日から始まった『時事新報』の「番町会問題を暴く」というキャンペーンだった。 番町会は、日本商工会議所会頭、日本経済連盟会長などを歴任した郷誠之助(ごうせいのすけ)を囲む財界人のグループで、メンバーは河合良成、永野護、小林中(あたる)、正力松太郎、中島久万吉らで、麹町番町の郷の私邸に毎月1回集まったところから「番町会」と呼ばれた。 1月27日の記事には、「紅葉館で中島(久万吉)君の御馳走を食つたのは政友床次(竹二郎)君、民政町田(忠治)君を始め、政民の錚々たる大幹部多数」、「政治家と実業家と棒組みとなって、良からぬ手段で資金を集め政界財界を腐敗せしむることは断じて許してはならぬ」(政治学者の菅谷幸浩さん)とあるそうだ。

当時の『時事新報』社長は武藤山治(さんじ)だった。 武藤山治については、武藤治太著『武藤山治の先見性と彼をめぐる群像~恩師福澤諭吉の偉業を継いで~』(文芸社・2017年)を読んで、「等々力短信」第1130号(2020(令和2).4.25.)に、「武藤山治の先見性」を書いた。 その後、
武藤山治、与謝蕪村、武藤金太、澤木四方吉<小人閑居日記 2020.5.4.>
國民會館設立趣意書と、武藤記念講座<小人閑居日記 2020.5.5.>

それ以前にも、福澤研究センターの2006年度秋学期の「近代企業家と福澤諭吉」をテーマにした三田演説館での講演会で、11月7日の川口浩早稲田大学政治経済学術院教授の「日本的経営者 武藤山治」を聴き、下記を書いていた。
「日本的経営者 武藤山治」<小人閑居日記 2006.12.14.>
「日本的経営」の考え方<小人閑居日記 2006.12.15.>

コメント

_ 轟亭 ― 2024/05/10 08:40

5月10日の『虎に翼』、猪爪寅子が弁護士になった祝賀会の取材では、背広にネクタイがいた。ネクタイをきちんと締めていなかったけれど。

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