三田あるこう会「陣ケ下渓谷公園」と和田義盛 ― 2024/05/16 06:53
12日の日曜日、三田あるこう会の第566回例会で、横浜市保土ヶ谷区の陣ケ下(じんがした)渓谷公園を散策した。 相鉄線の上星川駅に集合、環状2号線の高架下まで歩き、環状2号線の側道を歩いて、陣ケ下渓谷入口まで行き、みずのさかみち口から西原口まで昇り、そこから園内を周遊した。 環状2号線が通ることになって、都市公園(風致公園)として整備され、2004(平成16)年に公開された公園である。
初めて名を聞く場所だったが、横浜で唯一「渓谷」と呼ばれている谷戸で、帷子(かたびら)川の支流にあたる市沢川の渓谷だという。 倒木のために「渓谷」の河岸までは下りて行けなかったが、その手前までは下りて、水の流れるのを見ることはでき、好天に新緑の季節、絶好の森林浴を楽しむことができた。 連続して木を叩くような鳥の鳴き声が随所で聞けたが、名前はわからない。
陣ケ下の名は、鎌倉時代に源頼朝の御家人、和田義盛が狩の陣を張ったので、この名がついたという。 和田義盛(1147(久安3)~1213(建保1))は、鎌倉幕府初代侍所別当。 相模国三浦郡和田に住し、源頼朝の挙兵に応じ、叔父三浦義澄のもとで奮戦。 治承4(1180)年11月設置された侍所の別当となり、御家人武士の統制にあたった。 寿永3=元暦1(1184)年には平家追討の源範頼軍に属して中国地方に向かい、文治5(1189)年には頼朝の欧州征伐に従い功を立てた。 正治1(1199)年頼朝が没し、頼家が跡を継ぐと、「鎌倉殿の13人」の一人として合議政治に参画。 建仁3(1203)年実朝擁立を画する北条時政の追討を頼家に命じられたが、時政に内応し、頼家を引退に追い込んだ。 甥胤長の陰謀に端を発して挙兵したが、三浦義村の裏切りにあって破れ、一族ともに全滅した(和田合戦)。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(三谷幸喜脚本)では、和田義盛を横田栄司が演じた。 興味のある方は、下記をお読みください。
『鎌倉殿の13人』の光と影<小人閑居日記 2022.3.25.>
密着400日、小栗旬、仕事の流儀<小人閑居日記 2022.5.11.>
『鎌倉殿の13人』は誰で、年齢は?<小人閑居日記 2022.5.22.>
みんな死んでゆく三谷幸喜脚本<小人閑居日記 2022.10.27.>
北条氏と比企氏の権力闘争ドラマ<小人閑居日記 2022.10.29.>
初めて名を聞く場所だったが、横浜で唯一「渓谷」と呼ばれている谷戸で、帷子(かたびら)川の支流にあたる市沢川の渓谷だという。 倒木のために「渓谷」の河岸までは下りて行けなかったが、その手前までは下りて、水の流れるのを見ることはでき、好天に新緑の季節、絶好の森林浴を楽しむことができた。 連続して木を叩くような鳥の鳴き声が随所で聞けたが、名前はわからない。
陣ケ下の名は、鎌倉時代に源頼朝の御家人、和田義盛が狩の陣を張ったので、この名がついたという。 和田義盛(1147(久安3)~1213(建保1))は、鎌倉幕府初代侍所別当。 相模国三浦郡和田に住し、源頼朝の挙兵に応じ、叔父三浦義澄のもとで奮戦。 治承4(1180)年11月設置された侍所の別当となり、御家人武士の統制にあたった。 寿永3=元暦1(1184)年には平家追討の源範頼軍に属して中国地方に向かい、文治5(1189)年には頼朝の欧州征伐に従い功を立てた。 正治1(1199)年頼朝が没し、頼家が跡を継ぐと、「鎌倉殿の13人」の一人として合議政治に参画。 建仁3(1203)年実朝擁立を画する北条時政の追討を頼家に命じられたが、時政に内応し、頼家を引退に追い込んだ。 甥胤長の陰謀に端を発して挙兵したが、三浦義村の裏切りにあって破れ、一族ともに全滅した(和田合戦)。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(三谷幸喜脚本)では、和田義盛を横田栄司が演じた。 興味のある方は、下記をお読みください。
『鎌倉殿の13人』の光と影<小人閑居日記 2022.3.25.>
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