ヒルサイドテラスを文化発信の拠点に2024/07/19 07:12

『代官山ヒルサイドテラス通信』4号(2015秋・冬)に、槇文彦さんは「ヒルサイドテラスと代官山―槇総合計画事務所五〇周年に寄せて」を書いている。 昨日のヒルサイドテラスの第一期に関わった事情のあと、槇さんは旧山手通り沿いに30年かけて、結局十棟を設計することになる。 1998(平成10)年にヒルサイドウエストが出来た時には、日本橋にあった事務所をここに移した。 ヒルサイドテラスは槇さんの生活の中で、切っても切れない関係にあるという。

第一期(A・B棟)のヒルサイドテラスが出来て十年程経った頃、朝倉さんご兄弟と、ショップやレストランだけでは面白くない、ヒルサイドテラスを美術や建築の発信地にしようと話し合った。 1982年、鹿島出版会の主催でSDレビューがスタートする。 それは今に続き、若手建築家の登竜門になっている。 1984年、A棟のギャラリーの企画運営を、北川フラムさんが主宰するアートフロントギャラリーにお願いした。 1987年には、音楽会ができるヒルサイドプラザが竣工、1992年には大きな展覧会もできるヒルサイドフォーラムが完成し、徐々にパブリックスペースが増えていった。 そこがさまざまなアクティビティの舞台となった。 1999年からは代官山インスタレーションが始まった。

槇文彦さんは、面白いのは設計したわれわれが想像もしないような使われ方をされるのを見る時だという。 特にパブリックスペースでは、印象深いシーンを目の当りにする幸運にしばしば恵まれてきた。 ヒルサイドフォーラム前の広場(ヒルサイドスクエア)で、クリスマスイブの日、近所の教会の人たちが聖歌を歌っているのを見たことがある。 それは、楽しい光景だった。 ヒルサイドカフェでよく見かけた中老の男性も忘れがたい。 その人はいつも同じ場所に座り、四分の一のボトルの赤ワインとサンドウィッチを頼み、ボトルが半分になったところでサンドウィッチに手をつける。 そしてコーヒーを注文する。 毎朝一時間ほど、旧山手通りを行き来する人たちをぼんやりと見ていた。 それはひとりの儀式(リチュアル)のようだった。 槇さんは、ニーチェの「孤独は私の故郷である」という言葉を思い出す。 朝倉さんはギャラリーに併設したカフェをつくるとき、あまり混まないほうがいいと考えておられた。 自分の好きな場所に座り、そこからおなじような風景を見、自分の好きな順序で時間を過ごす―それはひとりひとりにとって大事な生活の一コマになる。 もしカフェが混んでいたら、その人は来なかっただろう。 ヒルサイドテラスだからこそ可能となる「都会の孤独空間」なのだ。

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