丸の内の銀行員から、下町のガラス工場へ2023/09/29 06:58

 映画『こんにちは、母さん』で、丸の内の高層ビルにある大会社の人事部長、神崎昭夫(大泉洋)は社員のリストラや妻との離婚や娘の家出で日々神経をすり減らしており、下町向島に暮らす母のボランティア仲間、煎餅屋の奥さんが持って来た割れ煎餅をかじって、「旨い! 俺もこういう仕事につけばよかった。こういう仕事は、人に喜びを与える。職人の仕事は裏切らないからなあ。」と、いうのだった。(一流会社のサラリーマンか、職人か<小人閑居日記 2023.9.19.>)

 そのシーンを観て、私が思い出したことがあった。 私は学校を出て最初に入った東京に店舗網を持つ銀行が入行前に吸収合併されることになったため、半年ほどで最初の交流人事で、大手銀行の丸の内の本店営業部に異動になった。 4年ほど本店営業部に勤め、最後もそこにいた。 今まで、書いたことのないことを初めて告白する。 貸付課の窓口に座って事務方の仕事を長くしていたのだが、預金課に異動になった後、なぜか眠られず、当時は「ノイローゼ」といっていた「うつ病」状態になった。 よい学校で学ばせてもらって、一流銀行に勤めることができたのに、両親と学校に申し訳がないという思いが募った。 消え去りたいような気持になって、暗い顔をして歩いていた。 銀行も、病院を紹介したり、調査部のようなところへの転勤なども検討してくれたらしいが、結局、下町の小松川にある家業のガラス工場を手伝うということで、退職する方向になった。 父が話をしてくれ、工場を継いでいた兄も受け入れてくれた。 父と母には、大層心配をかけてしまった。

 そんな折のある時、前の貸付課の課長さんが、私に掛けてくれた一言が忘れられない。 ご自身は高卒で、銀行生活でそれなりの苦労をしてこられたのだろう、息子さんを東大に入れたと聞いていた。 「下町の工場も大変だろう、せっかく一流会社に入ったんだから、辞めることはない」と。

山田洋次監督の映画『母と暮せば』2023/09/24 07:36

     『母と暮せば』と『父と暮せば』<小人閑居日記 2015.12.18.>

 山田洋次監督の映画『母と暮せば』を観た。 井上ひさし原作の『父と暮せば』は、こまつ座の芝居を2004年7月に観て、その8月に黒木和雄監督の映画も観た。 芝居は父・福吉(ふくよし)竹造を辻萬長、娘・福吉美津江を西尾まりが演じ、映画では父を原田芳雄、娘を宮沢りえ、芝居には出てこない木下青年を浅野忠信が演じた。 昭和20(1945)年8月6日の広島の原爆で、父は死んだが、娘は生き残った。 「うちはしあわせになってはいけんのじゃ」と思い込んだ娘は、勤め先の図書館で知り合った青年への恋心を無理やり押さえつけようとする。 そこへ父・竹造が現れ、「恋の応援団長」を名乗って、なだめ、すかし、「じゃこ味噌」をつくり、青年のために風呂を焚き、娘が心を開いて幸せになるようにと、奮闘するのだった。

 井上ひさしさんは、広島の『父と暮せば』と対になる、長崎の『母と暮せば』を書きたいと言い、資料を集めていたという。 2007年、長崎九条の会主催の講演会で、「どうしても今度は長崎を書かなければならないわけです」、「しばらくは長崎言葉を勉強して、今度は『母と暮せば』というタイトルで書こうかと」と、語っていたそうだ。 井上ひさしさんは2010年4月に亡くなった。 3年半ほど前、三女でこまつ座社長の井上麻矢さんが、プロデューサーの榎望さんに相談し、2013年初夏、山田洋次監督にお願いに行く。 ひさしさんと山田監督とはシナリオの共作もあり、親交があった。 タイトルを耳にした山田監督は、たちまちアイデアが浮かんだようで、1週間ほどで快諾したという。

 『母と暮せば』は、昭和20(1945)年8月9日朝、長崎医科大生の福原浩二(二宮和也)が慌ただしく坂の上の家を出て、学校へ出かけるところから始まる。 母の伸子(吉永小百合)は助産婦で、夫を結核で亡くし、長男も戦死して、二人暮しだった。 浩二は満員の市電にぶら下がって、階段教室の席に着き、川上教授(橋爪功)の心臓の講義がはじまる。

 「プルトニウム爆弾」(広島に投下されたのは「ウラン爆弾」)を積んだアメリカ軍のB29「ボックスカー号」(広島は「エノラ・ゲイ号」)が、第一目標の小倉上空へ向かう。 操縦席から見下ろす小倉は、雲に覆われていた。 「目視投下」を厳命されていた「ボックスカー号」は、第二目標の長崎上空へ向かう。 長崎もまた、雲に覆われていた。 だが、長崎上空に達すると、一瞬、雲が晴れて、市街地が目視できた。

 階段教室の机にインク壺を置いてノートを取っていた浩二は、11時2分、突然の青白い閃光、凄まじい轟音に包まれた。 インク壺が、ぐにゃりと歪んだ。

    三年が経った、昭和23(1948)年<小人閑居日記 2015.12.19.>

 『母と暮せば』、母の伸子は浩二を探し歩くが、あの一瞬に消えていて、遺品の一つも見つからない。 三年が経った。 原爆の日、動員されていた工場を腹痛で休んで助かった、浩二の恋人(婚約者? 親戚? 伸子が「町子」と呼び捨てにするのが気になる、と家内も言う。)で小学校の先生になっている町子(黒木華)は、たびたび伸子を訪ねて慰め、手伝ってくれている。 その日8月9日は卵を持って来てくれて、二人で墓参りに行くが、伸子は町子に「もう、浩二のことはあきらめよう」と宣言する。 伸子はその夜、卵焼きをつくり、今日で陰膳をやめよう、と独り言を言っていると、後ろに気配がする。 階段に、学生服の浩二が座って、笑いかけていたのだ。 「あんた、浩ちゃん?」 「母さんは、いつまでもぼくのことをあきらめんから出て来られんかったとさ」 『父と暮せば』は原爆で死んだ父の亡霊が娘を励まし、『母と暮せば』は息子の亡霊が母に、ちゃんと血圧の薬は飲んでいるか、と尋ねる。 「あんたは元気?」 「元気なわけなかやろう。ぼくは死んでいるんだよ。母さん、相変わらずおとぼけやね」

 浩二は、おしゃべりで、よく笑う、ユーモラスで人懐こい性格、映画や音楽を愛し、指揮者や小説家、映画監督になりたいという青年だ。 文科に進みたかったが、召集された柔道二段の兄に、母を守るため理科へ行けと言われて、召集猶予のある医科大学に進んだ。 金を出してくれた伯父に、将来ノーベル賞を取るような学者になれと言われて反発、離島で貧しい患者のために働きたいと言って、大喧嘩になり、伸子がひたすら頭を下げて謝ることになる。

 浩二は、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲ホ短調が大好きで、ベルリン・フィルハーモニーのレコードを聴き、「メニューインのヴァイオリンはいいなあ」と言い、指揮者の真似をする。 町子のウェデングドレス姿を想像して、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」の中の「結婚行進曲」を口ずさむ。 脱線するが、「メニューイン」、私の子供の頃は「メニューヒン」と言っていたような気がする、Menuhinと綴るからか。 同様に、「ディートリヒ」を「デートリッヒ」、「ハーシー」Hersheyのチョコレートを「ハーシェー」と言っていたように思う。

 「ハーシー」で思い出したが、闇屋で伸子に密かに、途中から明らかに、好意を寄せ、奮闘努力の甲斐がなかった、“上海のおじさん”(加藤健一)がいい。 彼が持って来る闇の品物に、「進駐軍」のLUXの石鹸、ピーナツ・バター(SKIPPY?)など、見覚えのあるものがあった。 また、脱線。 わが家にも、“上海の伯母さん”“シャンおばさん”がいた。 父の姉で、戦後上海から引き揚げて来て、父が目黒の工場の一角に建てた家に住んでいた。 子供の頃、兄と私は泊まりに行って、上海に行く前に嫁入り先で覚えた上方の押鮨をご馳走になったり、トランプの一人占いをするのを見、いっしょにダウトや神経衰弱やポーカーで遊んだりした。 昭和23(1948)年は、わが家に弟が生まれ、私が小学校に上がった年だ。

 『母と暮せば』で、吉永小百合は終始、きちんとした着物姿だ。 息子の名は浩二。 私の名は紘二、字は八紘一宇の紘だが…。 吉永小百合が、「こうちゃん」「こうじ」と呼びかけるたびに、母に呼ばれているような気がした。 と書いて、亡き母へ捧げる。

    「運命じゃない、人間が始めた事」<小人閑居日記 2015.12.20.>

 『母と暮せば』、伸子は甲斐甲斐しく世話をしてくれる町子に助けられ、町子は伸子に頼られることで自分を持ち直し、二人は何とか生きてきた。 だが、町子にはこれからの人生がある。 三年が経ち、浩二のことをあきらめて、好きな人ができたら結婚するように諭すのだ。 しかし町子は、「私たち、もう一遍生まれ変ってもまた愛し合おうねって約束したとよ」と泣き出す。 このあたりが、映画の泣かせどころだ。

明るく、よくしゃべり、よく笑う亡霊の浩二だが、心配なのは、母の健康と、町子のことである。 伸子は浩二に、町子にこう諭したと話すと、浩二は「絶対嫌だ」と怒り出し、涙をためる。 映画は、浩二が悲しくなり、涙を流すと、消えてしまう設定だ。

 黒木和雄監督の映画『父と暮せば』で、娘の恋人役で登場した浅野忠信が、『母と暮せば』でも、町子の相手として登場する。 町子と同じ小学校の先生で、出征の日にメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲ホ短調を聴いて出かけたが、戦争で片脚を失くして帰還、勤務先の学校で同じ曲を聴き、涙を流したという黒田だ。 子供達には「黒ちゃん」と呼ばれて、親しまれている。 母と息子は葛藤し、町子の将来を話し合ううちに、浩二は次第に納得するようになってゆく。 「町子が幸せになってほしいっていうのは、実はぼくと一緒に原爆で死んだ何万人もの人たちの願いなんだ」と言う。 だが、町子が離れていくと、伸子は行き場を失うことになる。

 山田洋次監督はインタビューに、こう答えている。 「ぼくはメッセージのために映画はつくりません。この作品の芯にあるのは、息子に突然先立たれた母の悲しみはどんなに深いか、ということです。太平洋戦争で何百万人の若者が死に、その親や恋人や兄弟は同じ思いをした。観客が、母の悲しみや愛情の深さに涙しつつ「なぜそのような不幸が起きたのか。この地球上で将来起きることはないのか」というようなことを、観終わった後でふと考えてくれるような作品になってくれていれば、ぼくにとってこれほど嬉しいことはありません。」  浩二が、自分が死んだのは「運命だから」と言うと、母は「運命じゃない、人間が始めた事」と、きっぱり否定する。

『母べえ』、治安維持法違反の投獄2023/09/23 06:51

      治安維持法違反による投獄<小人閑居日記 2010. 2.7.>

 映画『母べえ』、治安維持法違反の投獄で、まず思い浮かべたのは、野呂栄太郎と三木清の名前と、『岩波茂雄への手紙』(岩波書店)という本のことだ。 「等々力短信」第935号『岩波茂雄への手紙』に、こう書いていた。 「1928(昭和3)年頃から、岩波書店とその執筆者である学者や文化人が、苦難の時代を迎える。 茂雄あてのそれぞれの手紙の前に、差出人の略歴が付けられている。 それを見ると、主に治安維持法によって逮捕、投獄されているのは、河上肇、久保栄、柳瀬正夢、吉野源三郎、中野重治、久野収、玉井潤次、大塚金之助、小林勇、羽仁五郎、大内兵衛、三木清(獄死)。 辞職を余儀なくされているのが、恒藤恭、美濃部達吉、末川博、矢内原忠雄。 刊行停止や発禁にされたのが、天野貞祐、津田左右吉。 ごく普通の学者や文化人が弾圧の苦難に遭う、それらの手紙を読んで、言論出版の自由の有難さ、貴重さを感じ、何としてもそれを守らなければいけないと思わずにはいられない。」

 『岩波茂雄への手紙』巻末の飯田泰三さんの解説によると、三木清と小林勇の場合はこうだ。 1945(昭和20)年3月27日、岩波茂雄が貴族院議員選挙に当選した。 翌日、選挙の応援活動をしてきた三木清と、選挙事務長をしていた小林勇が事務所で話しているところへ、警視庁の特高刑事が二人来て、三木を逮捕した。 警視庁を脱走して逃亡中の高倉テルが三木の埼玉鷲宮の疎開先を訪ね、三木は一晩泊めた上で、靴や外套を与え、青森までの切符を買って逃がしたことによるものだった。 三木は小林に「子ども(洋子)のことを頼む」とだけ言って引かれていった。

 小林勇も、5月9日、鎌倉の自宅に中谷宇吉郎といるところを特高六人に踏み込まれ、治安維持法違反の嫌疑で検挙され、横浜の東神奈川署に留置された。 前年1月『中央公論』『改造』の編集者が逮捕された、いわゆる「横浜事件」(拷問で三人の獄死者を出した)関連という名目だったが、要するに前年解散させられた中央公論社、改造社に続いて、岩波書店をつぶそうということだった。 小林は毎日竹刀でなぐられながら、まず、「岩波新書」が反戦的であり、共産主義思想によって編集されているのではないかとして追求された。 同じ頃、岩波茂雄の秘書役などをしていた藤川覚も検挙され、『日本資本主義発達史講座』について、同様の追求を受けた。 小林が釈放されたのは、敗戦後二週間経った8月29日だった。

      「横浜事件」に実質無罪判決<小人閑居日記 2010. 2.8.>

 実は昨日の日記用に「横浜事件」のことを書いた4日、たまたま横浜地裁が「横浜事件」実質無罪の判決を出した。 1945年に治安維持法違反で有罪とされた元被告の、無罪判決を求めた再審請求は1986年から4次にわたって行われ、3次からようやく再審が認められたが、4次とともに「すでに治安維持法が廃止されている」などの理由で、有罪、無罪を示さない免訴の判決が出ていた。 刑事補償法は、法の廃止や大赦などの免訴となる理由がなければ無罪判決を受けたと認められる場合には、補償金を支払うと定めているので、今回の判決は実質的な「無罪」ということになるそうだ。

 朝日新聞4日夕刊の記事。 「決定は、神奈川県警特別高等課(特高)の当時の捜査について「極めて弱い証拠に基づき、暴行や脅迫を用いて捜査を進めたことは、重大な過失」と認定。検察官も「拷問を見過ごして起訴した」、裁判官も「拙速、粗雑と言われてもやむを得ない事件処理をした」としたうえで、「思い込みの捜査から始まり、司法関係者による追認により完結した」と事件を総括した。」

 1945年から65年、被告はみんな亡くなり、訴訟は遺族である息子さん娘さんたちの世代に引継がれていた。 その一人、小野新一さん(63)が掲げた「雪冤(せつえん)なる」の文字が、深い思いを伝えて、印象的だった。

映画『母(かあ)べえ』のユーモア2023/09/22 07:07

 山田洋次監督の『こんにちは、母さん』と共に、「母」三部作といわれる 『母べえ』(2008(平成20)年)、『母と暮せば』(2015(平成27)年)も、『母べえ』はテレビで、『母と暮せば』は映画館で見ていた。 それぞれ、いろいろ書いていたので、順次再録することにする。

        映画『母べえ』のユーモア<小人閑居日記 2010. 2.6.>

 10月30日の日記に書いた山田洋次監督の『おとうと』の公開に合わせ、31日にテレビ朝日が「地上波初」放送していた『母べえ』(2007年・松竹ほか)を見た。 吉永小百合、坂東三津五郎、浅野忠信、檀れい、笑福亭鶴瓶。 黒澤映画の記録係として知られる野上照代さんのドキュメント作品を映画化したもの。 太平洋戦争へと進んでいく暗い時代に、治安維持法違反で投獄された夫“父べえ”野上滋(坂東三津五郎)を信じ続け、“初べえ”“照べえ”(これが照代さん)の姉妹を守って、懸命に生きた女性の姿を描く。 その苦境に、夫の教え子“山ちゃん”(浅野忠信・好演)が現われ、“父べえ”の妹(檀れい)と共に、一家を支える。 ドイツ文学者・野上滋は、実際は野上巌(筆名・新島繁)といい、映画と違って獄死はせずに戦後も左翼運動をした人だそうだ。

 暗く、悲しい、絶望的な時代を描いた物語なのだが、それを救っているのが山田洋次監督のユーモアだ。 ○真面目だが、ぶきっちょで、カナヅチの“山ちゃん”が、先生の検束連行を聞いて、駆けつけて来る。 正座して、丁寧な口上を述べていて、足がしびれ、ひっくりかえると、靴下には大穴が開いている。 ○獄中の先生に代わり、姉妹を海水浴に連れて行った“山ちゃん”だが、溺れてしまい、浜辺で見ていた“母べえ”が洋服のまま飛び込んで、颯爽としたクロールで助けに行く。 ○隣組の寄り合い。 最初に「宮城遥拝」、天皇陛下は葉山にお出かけ中というので、葉山はどの方角かとか、「宮城遥拝」というのだから宮城だろうとか、あっちを向いたり、こっちを向いたり。

 NHK『知る楽』「こだわり人物伝」1月、立川志らく「小津安二郎は落語だ!」で、山田洋次監督は小津安二郎監督のユーモアを語っていた。 山田作品には、小津安二郎を元祖とする松竹(大船調)ホームドラマの伝統が、受け継がれている。 それは小津が、サイレント時代のハリウッドのドタバタコメディに憧れて、撮り始め、チャップリンの作品を見て、とてもかなわぬとホームドラマに転進したからだと、立川志らくは指摘していた。

吉永小百合『男はつらいよ』寅さんのマドンナ二本2023/09/21 06:56

 山田洋次監督と吉永小百合、1972(昭和47)年の『男はつらいよ 柴又慕情』のマドンナが最初だが、その前年、「寅さん」シリーズ8作目の『寅次郎恋歌』の脚本を旅館(神楽坂だろう)にこもって書いているとき、渥美清が陣中見舞いに現れた。 次回作の説明をして、「失恋した寅が冷たい雨に濡れて寂しく去っていく、というのがラストシーンかな」と言うと、渥美清が「ソコヘスッと傘が差しかけられるというのはどうです。寅が振り返ると美女が優しく微笑んで、どうぞ、と言う。これが次の回のマドンナ」。 監督が大笑いしながら、それは誰だろうと言ったら、「吉永小百合でしょう。小百合ちゃんは確か日本テレビの番組で局にいるはずだから、今行って頼みましょうか」と言う。 監督は驚いて、渥美さん、今ノッているなと思ったという。 脚本や配役について口を出すことは絶対しない彼が、そんな口をきいたのはあとにも先にもあのときだけだという。

 翌年の『男はつらいよ 柴又慕情』で、その夢は実現、衣装合わせで吉永小百合が初めて撮影所に現れる日、スタッフはちょっと興奮していたものだそうだ。 ついにわれわれの作品はあの吉永小百合をマドンナに迎えるんだ、という喜びでしょうか、と監督は「山田洋次 夢をつくる」第19回に書いている。 吉永小百合の役はOLの歌子、友人と旅行している際に寅さんと出会うストーリーで金沢を中心に北陸ロケをしたそうだ。

 旅行で知り合った歌子が、柴又の家に寅に会いに来る。 いっぺんで歌子に惚れた寅だったが、歌子は小説家の父(宮口精二)の反対を押し切って、若い陶芸作家と結婚。 寅の恋は、またもや破れるのであった。

 「だいたい小説なんて書くような人間てのはね、われわれと比べるといっぷう変わった人が多いんだよなあ」

 (おいちゃんとおばちゃん、さくらに)
 「たった一人の甥っ子の陰口をきいてケタケタ笑っているような、そんな悪魔の住居(すみか)みてえなところへ二度と帰って来られるかい」
 (その数秒後、現れた歌子に)
 「みんな田舎者ばっかりですけど、心の優しい人ばっかりいるところですからね」

 吉永小百合は、1974(昭和49)年の第13作『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』で二度目のマドンナになっている。 失恋して悲しく旅に出た寅は、津和野の町で、以前恋に落ちた歌子と再会する。 歌子は、陶芸家の夫に死なれて、町の図書館に勤め、寂しく姑と暮らしているのだった。 柴又に帰った寅は、そこで意を決して東京に出て来た歌子と会い、小説家の父と歌子の仲を取り持ってやる。 歌子は他人のためになる生き方を、と障害を持つ子供たちの施設で働くことを決意し、寅は再び旅に出るのだった。