進駐軍に接収されていた野球場2023/09/08 06:52

 戦後復活した全国中等学校優勝野球大会の第28回大会(1946(昭和21)年)は、阪神甲子園球場がGHQ(進駐軍)に接収されていたため、阪急西宮球場で行われた、というので思い出したのは、横浜球場がルー・ゲーリック球場だったことだ。 大学のクラスメイトで、横浜育ちのLINE友達に確認したら、日本のプロ野球が赤バット・川上、青バット・大下と湧いていた時代、横浜球場はルー・ゲーリック球場、野毛の映画館はマッカーサー劇場と改名され、横浜は港から街まで、進駐軍に取られて、「オフ・リミット」の看板だらけで、立ち止まることさえ出来なかった、と返信があった。

 その時代、同じく接収されていた神宮球場は何という名前だったのか、わからなくて調べたことがあった。 インターネットで調べたら、「ステイトサイド・パーク」と呼ばれていたという。 辞書を見たらstateside は「アメリカの」という形容詞だそうで、なんと明治神宮のお膝元で「アメリカ球場」だったのである。 接収当時、東京六大学野球のリーグ戦は後楽園球場で行われていたらしい。

「ルー・ゲーリック球場」も「ステイトサイド・パーク」も、戦争直後の当時、ナイター設備があって、煌々と照明をして試合が行われていたというから、焼け跡や停電の続く中で、さぞ目立ったことだろう。 

 ニッポン放送のショウアップナイターで春風亭一之輔が「ジャイアンツ・ファン歴40年」と言っているけれど、私などは、赤バット・川上時代からのジャイアンツ・ファンだから、「ジャイアンツ・ファン歴77年」ということになる。

 のちに監督になった水原茂がシベリア抑留から帰って来て、後楽園球場で「水原茂、ただいま帰って参りました!」と挨拶したのを見た記憶がある。 水原茂は、1949(昭和24)年7月20日に抑留されていたシベリアから舞鶴港に復員した。 その4日後の7月20日(日曜日)午前10時30分、東京駅に帰着、その足で後楽園球場へ行き、巨人-大映戦のダブルヘッダーの試合前に、姿を見せ、ファンに挨拶したのだった。