山田洋次監督の映画『母と暮せば』2023/09/24 07:36

     『母と暮せば』と『父と暮せば』<小人閑居日記 2015.12.18.>

 山田洋次監督の映画『母と暮せば』を観た。 井上ひさし原作の『父と暮せば』は、こまつ座の芝居を2004年7月に観て、その8月に黒木和雄監督の映画も観た。 芝居は父・福吉(ふくよし)竹造を辻萬長、娘・福吉美津江を西尾まりが演じ、映画では父を原田芳雄、娘を宮沢りえ、芝居には出てこない木下青年を浅野忠信が演じた。 昭和20(1945)年8月6日の広島の原爆で、父は死んだが、娘は生き残った。 「うちはしあわせになってはいけんのじゃ」と思い込んだ娘は、勤め先の図書館で知り合った青年への恋心を無理やり押さえつけようとする。 そこへ父・竹造が現れ、「恋の応援団長」を名乗って、なだめ、すかし、「じゃこ味噌」をつくり、青年のために風呂を焚き、娘が心を開いて幸せになるようにと、奮闘するのだった。

 井上ひさしさんは、広島の『父と暮せば』と対になる、長崎の『母と暮せば』を書きたいと言い、資料を集めていたという。 2007年、長崎九条の会主催の講演会で、「どうしても今度は長崎を書かなければならないわけです」、「しばらくは長崎言葉を勉強して、今度は『母と暮せば』というタイトルで書こうかと」と、語っていたそうだ。 井上ひさしさんは2010年4月に亡くなった。 3年半ほど前、三女でこまつ座社長の井上麻矢さんが、プロデューサーの榎望さんに相談し、2013年初夏、山田洋次監督にお願いに行く。 ひさしさんと山田監督とはシナリオの共作もあり、親交があった。 タイトルを耳にした山田監督は、たちまちアイデアが浮かんだようで、1週間ほどで快諾したという。

 『母と暮せば』は、昭和20(1945)年8月9日朝、長崎医科大生の福原浩二(二宮和也)が慌ただしく坂の上の家を出て、学校へ出かけるところから始まる。 母の伸子(吉永小百合)は助産婦で、夫を結核で亡くし、長男も戦死して、二人暮しだった。 浩二は満員の市電にぶら下がって、階段教室の席に着き、川上教授(橋爪功)の心臓の講義がはじまる。

 「プルトニウム爆弾」(広島に投下されたのは「ウラン爆弾」)を積んだアメリカ軍のB29「ボックスカー号」(広島は「エノラ・ゲイ号」)が、第一目標の小倉上空へ向かう。 操縦席から見下ろす小倉は、雲に覆われていた。 「目視投下」を厳命されていた「ボックスカー号」は、第二目標の長崎上空へ向かう。 長崎もまた、雲に覆われていた。 だが、長崎上空に達すると、一瞬、雲が晴れて、市街地が目視できた。

 階段教室の机にインク壺を置いてノートを取っていた浩二は、11時2分、突然の青白い閃光、凄まじい轟音に包まれた。 インク壺が、ぐにゃりと歪んだ。

    三年が経った、昭和23(1948)年<小人閑居日記 2015.12.19.>

 『母と暮せば』、母の伸子は浩二を探し歩くが、あの一瞬に消えていて、遺品の一つも見つからない。 三年が経った。 原爆の日、動員されていた工場を腹痛で休んで助かった、浩二の恋人(婚約者? 親戚? 伸子が「町子」と呼び捨てにするのが気になる、と家内も言う。)で小学校の先生になっている町子(黒木華)は、たびたび伸子を訪ねて慰め、手伝ってくれている。 その日8月9日は卵を持って来てくれて、二人で墓参りに行くが、伸子は町子に「もう、浩二のことはあきらめよう」と宣言する。 伸子はその夜、卵焼きをつくり、今日で陰膳をやめよう、と独り言を言っていると、後ろに気配がする。 階段に、学生服の浩二が座って、笑いかけていたのだ。 「あんた、浩ちゃん?」 「母さんは、いつまでもぼくのことをあきらめんから出て来られんかったとさ」 『父と暮せば』は原爆で死んだ父の亡霊が娘を励まし、『母と暮せば』は息子の亡霊が母に、ちゃんと血圧の薬は飲んでいるか、と尋ねる。 「あんたは元気?」 「元気なわけなかやろう。ぼくは死んでいるんだよ。母さん、相変わらずおとぼけやね」

 浩二は、おしゃべりで、よく笑う、ユーモラスで人懐こい性格、映画や音楽を愛し、指揮者や小説家、映画監督になりたいという青年だ。 文科に進みたかったが、召集された柔道二段の兄に、母を守るため理科へ行けと言われて、召集猶予のある医科大学に進んだ。 金を出してくれた伯父に、将来ノーベル賞を取るような学者になれと言われて反発、離島で貧しい患者のために働きたいと言って、大喧嘩になり、伸子がひたすら頭を下げて謝ることになる。

 浩二は、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲ホ短調が大好きで、ベルリン・フィルハーモニーのレコードを聴き、「メニューインのヴァイオリンはいいなあ」と言い、指揮者の真似をする。 町子のウェデングドレス姿を想像して、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」の中の「結婚行進曲」を口ずさむ。 脱線するが、「メニューイン」、私の子供の頃は「メニューヒン」と言っていたような気がする、Menuhinと綴るからか。 同様に、「ディートリヒ」を「デートリッヒ」、「ハーシー」Hersheyのチョコレートを「ハーシェー」と言っていたように思う。

 「ハーシー」で思い出したが、闇屋で伸子に密かに、途中から明らかに、好意を寄せ、奮闘努力の甲斐がなかった、“上海のおじさん”(加藤健一)がいい。 彼が持って来る闇の品物に、「進駐軍」のLUXの石鹸、ピーナツ・バター(SKIPPY?)など、見覚えのあるものがあった。 また、脱線。 わが家にも、“上海の伯母さん”“シャンおばさん”がいた。 父の姉で、戦後上海から引き揚げて来て、父が目黒の工場の一角に建てた家に住んでいた。 子供の頃、兄と私は泊まりに行って、上海に行く前に嫁入り先で覚えた上方の押鮨をご馳走になったり、トランプの一人占いをするのを見、いっしょにダウトや神経衰弱やポーカーで遊んだりした。 昭和23(1948)年は、わが家に弟が生まれ、私が小学校に上がった年だ。

 『母と暮せば』で、吉永小百合は終始、きちんとした着物姿だ。 息子の名は浩二。 私の名は紘二、字は八紘一宇の紘だが…。 吉永小百合が、「こうちゃん」「こうじ」と呼びかけるたびに、母に呼ばれているような気がした。 と書いて、亡き母へ捧げる。

    「運命じゃない、人間が始めた事」<小人閑居日記 2015.12.20.>

 『母と暮せば』、伸子は甲斐甲斐しく世話をしてくれる町子に助けられ、町子は伸子に頼られることで自分を持ち直し、二人は何とか生きてきた。 だが、町子にはこれからの人生がある。 三年が経ち、浩二のことをあきらめて、好きな人ができたら結婚するように諭すのだ。 しかし町子は、「私たち、もう一遍生まれ変ってもまた愛し合おうねって約束したとよ」と泣き出す。 このあたりが、映画の泣かせどころだ。

明るく、よくしゃべり、よく笑う亡霊の浩二だが、心配なのは、母の健康と、町子のことである。 伸子は浩二に、町子にこう諭したと話すと、浩二は「絶対嫌だ」と怒り出し、涙をためる。 映画は、浩二が悲しくなり、涙を流すと、消えてしまう設定だ。

 黒木和雄監督の映画『父と暮せば』で、娘の恋人役で登場した浅野忠信が、『母と暮せば』でも、町子の相手として登場する。 町子と同じ小学校の先生で、出征の日にメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲ホ短調を聴いて出かけたが、戦争で片脚を失くして帰還、勤務先の学校で同じ曲を聴き、涙を流したという黒田だ。 子供達には「黒ちゃん」と呼ばれて、親しまれている。 母と息子は葛藤し、町子の将来を話し合ううちに、浩二は次第に納得するようになってゆく。 「町子が幸せになってほしいっていうのは、実はぼくと一緒に原爆で死んだ何万人もの人たちの願いなんだ」と言う。 だが、町子が離れていくと、伸子は行き場を失うことになる。

 山田洋次監督はインタビューに、こう答えている。 「ぼくはメッセージのために映画はつくりません。この作品の芯にあるのは、息子に突然先立たれた母の悲しみはどんなに深いか、ということです。太平洋戦争で何百万人の若者が死に、その親や恋人や兄弟は同じ思いをした。観客が、母の悲しみや愛情の深さに涙しつつ「なぜそのような不幸が起きたのか。この地球上で将来起きることはないのか」というようなことを、観終わった後でふと考えてくれるような作品になってくれていれば、ぼくにとってこれほど嬉しいことはありません。」  浩二が、自分が死んだのは「運命だから」と言うと、母は「運命じゃない、人間が始めた事」と、きっぱり否定する。

コメント

_ 轟亭 ― 2023/09/25 07:21

X(ツイッター)で、山田組プロデューサーの房俊介さんが「いいね」をつけてくれました。また、27日放送の「プロフェッショナル仕事の流儀」は、『こんにちは、母さん』の制作現場に密着するそうです。

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