「もうせん」あったこと、長崎の原爆 ― 2023/09/25 07:12
「もうせん」あったこと<小人閑居日記 2015.12.21.>
長崎の原爆について、吉田直哉さんの『敗戦野菊をわたる風』(筑摩書房)を読んで、前に書いたことがあったのを思い出したので、引いておく。
等々力短信 第902号 2001(平成13)年4月25日 「もうせん」あったこと
しみるのだ。 じんとくるのだ。 1941(昭和16)年生れの私でさえ、そうなのだから、十歳年上の、著者と同じ年代や学童疎開を経験した世代の方々が読めば、なおさらだろう。 若い人にも、すすめたい。 吉田直哉さんの『敗戦野菊をわたる風』(筑摩書房)である。 「敗戦野菊」は、戦後のあらゆる焼け跡に生えてきて、たちまち蔽いつくしてしまう荒地野菊のことを、当時そう呼んでいたのだそうだ。
吉田直哉さんの父上は吉田富三博士、テレビ・ディレクターと文化勲章受賞のガン研究の権威、ちょっと異質な感じがする。 医学に進めば、なにをやっても七光りといわれ、少なくとも比較される。 向かないとも思っていたので、二高を受ける前、父親に、もういちど別の学問をやるとしたら何を専攻したいかと聞いた。 父上は真顔になって考え、「哲学だな」と答えた。 直哉少年すかさず「じや、ぼくがそれをやる」
直哉さんの母上の生家、小石川西原町の家は山椒魚だらけだった。 祖父の田子勝彌さんが大山椒魚とその天敵赤腹の研究家だったからである。 大山椒魚の卵を守るのは雄で、卵を生んだ雌はなぜか赤腹側につき、三者敵味方入り乱れての死闘をくりひろげて、三億年になるという。 なにより実用に遠い研究だから、家計は火の車だったろうに、ご本人は「慈父」を絵にかいたような温厚、世話好きな人物で、その家にはつねに何人もの食客、寄宿人、旅人がいた。 慈父の姉の長男で福島の小学校を卒業したばかりの富三さんが中学入学のため上京して来た時、5歳だったこの家の娘がのちに直哉さんの母上になる。 その家も昭和20年4月13日の空襲で全焼する。 翌朝、焼け跡を見て来た富三さんは、奥さんの「辛さとはくらべものにならないが、俺は俺で、ああ青春というものを焼かれた、あのころが灰になった、と思った」と言う。
これより前、留学から帰った父上が長崎医大に勤務したので、直哉さんは中学2年で長崎中学に転校する。 一家は直前に仙台に転勤して難を逃れたが、同級生の多くが原爆の犠牲になった。 長崎の風景と、仲間たちの思い出が、哀切である。 吉田直哉さんは「私が死ぬと私と共に生きてきた何人もの、すでに死んでいる人びとがもういちど死ぬ」「たくさんの、すでに失われた風景も永遠に消えてしまうのだ」「私事にすぎない思い出の集積が、じつは歴史というものになるのではないか」といい、自分を含め、なるべく大ぜいが書きとめるべきではないかと考えたという。
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