『巴爾頓傳奇―百年前的台日公衛先驅』2022/08/05 06:59

 稲場紀久雄さん(大阪経済大学名誉教授)、日出子さんご夫妻から、台湾の本「跨海來台的蘇格蘭人」『巴爾頓傳奇―百年前的台日公衛先驅』をご恵贈いただいた。 「等々力短信」第1089号『バルトン先生、明治の日本を駆ける!』(2016(平成28)年11月25日)で紹介させていただいた稲場紀久雄さんのご著書『バルトン先生、明治の日本を駆ける!』(平凡社)の中国語譯である。 譯者は、鄧淑瑩、鄧淑品姉妹。 中日代表處の謝長廷代表の多大なご尽力があり、台北の出版社、萬巻樓圖書股份有限公司から発行されている。

 日出子さんのお手紙によると、W・K・バルトン先生の曾孫、鳥海幸子さんもこの出版を大層喜ばれたのはよかったけれど、「バルトンのトンは、やはり頓馬の頓なのですね」と言われるので、大慌て! 「ええっと、頓智、頓服、整頓、頓句…」などと、マジメそうな言葉を並べてみたが、何となく微妙な笑いが…。 紀久雄先生が、「ほかに漢字はないのかな。遁走の遁は、とんズラのようでいかんなあ」と言ったので、話はややこしくなるばかり。 鳥海幸子さんが「この「頓」で大変結構ですよ。ありがたいです。」とおっしゃって、クスクスと「漢字は面白いですねえ。」と、楽しく一件落着したそうだ。

ダイアー、帰国後の活動、まるで非公式の日本大使2022/08/04 07:04

 『ヘンリー・ダイアー物語』の第三章「晩年」、第四章「ダイアーが残したもの」では、1882(明治15)年に日本からグラスゴーに戻った後の、ヘンリー・ダイアーが語られる。 ダイアーは帰国後、うまく大学の要職には就くことができなかったものの、スコットランド西部の大学や学校で種々の幅広い教育活動に関与した。 グラスゴーの王立技術カレッジ(現在のストラスクライド大学)では終身理事として貢献、グラスゴー学務委員会の委員を27年間務め、委員長にもなった。 ダイアーはまた、社会的・宗教的活動にも積極的に関与した。 グラスゴー市から治安判事に任ぜられたし、組織されたばかりの協同組合運動の活発な活動家の一人だった。 産業界の仲裁人として労使双方から広く尊敬を受け、西部スコットランド製鋼業仲裁委員会の副委員長を25年間務めた。

 ダイアーは、日本とスコットランドの交流と親睦を推進するために活躍した。 多くの点で、地元コミュニティと日本の国を結ぶパイプ役を果たし、まるで非公式の日本大使のようだったという。 グラスゴーに留学してきた多数の日本人学生を支援し、グラスゴー大学に入学するための資格試験の外国語選択科目に日本語が採用されるよう尽力した。(福沢三八、グラスゴー大学で夏目漱石の問題を受験<小人閑居日記2020.8.12.>「グラスゴウ大学日本語試験委員・夏目漱石」<小人閑居日記 2020.8.13.>)

 ダイアーは、日本から帰国する際、選び抜かれた日本の絵巻物や掛軸、浮世絵、工芸品や楽器を持ち帰っている。 これらは蔵書とともに、没後、娘のマリーによってグラスゴーのミッチェル図書館やエディンバラ市立中央図書館などに寄贈された。 最近になって、エディンバラ市立中央図書館のこのコレクションの中に、古山師政の約13メートルの貴重な絵巻物(吾妻野楼図絵とか、江戸往来図絵とか称される)があるのが発見された。 楽器は、グラスゴーのケルヴィンググローブ美術館・博物館に寄贈されている。

 ヘンリー・ダイアー著“Dai Nippon”(1904)は、1999(平成11)年に平野勇夫訳『大日本、技術立国日本の恩人が描いた明治日本の実像』として、実業之日本社の創業百周年記念事業の一環で出版された。

ヘンリー・ダイアーの出自、来日事情、結婚2022/08/03 06:53

 『ヘンリー・ダイアー物語』は、第一章「若いころ」、第二章「日本における活動」、第三章「晩年」、第四章「ダイアーが残したもの」から成っている。

 第一章「若いころ」は、「訳者あとがき」で指摘されているように、子孫が丹念に調査して書いたものだから、ダイアーとダイアー家の人々の出自や住居、職業が詳らかにされた。 ダイアーは、労働者階級の出身であることが明確になった。 アイルランドから職を求めてスコットランドからやって来た父ジョンは、鉄や石炭が発見されたことでにわかに景気にわきたつ鉄工場などを渡り歩いた。 一家はショッツからグラスゴーに転居、ヘンリー・ダイアーは徒弟修業に入るが、ホイットワース給費生に選ばれて、アンダソン・カレッジ(ストラスクライド大学の前身)の夜間課程に学ぶことができた。 さらにグラスゴー大学に進学、成績優秀で、数々の受賞やホイットワース奨学金を授与されるほどであったから、恩師のマックオーン・ランキン教授の推薦で日本にやって来ることになったのだった。

 これより先、日本に支店をもっていたジャーディン・マセソン商会のヒュー・マセソンは、伊藤博文から、工部大学校の教師陣6名の人選を依頼された。 マセソンは、グラスゴー大学の初代工学教授だった遠縁の従兄弟ルイス・ゴードンに相談、ゴードンは自身の後任教授マックオーン・ランキンに話を伝えた。 ランキンは人選について数々の提案をしたが、その一つが、1873年卒業予定のもっとも優秀な教え子ヘンリー・ダイアーを工部大学校の都検(教頭)に任命してはどうかというものだった。

 1873(明治6)年4月、ヘンリー・ダイアーは、林董(ただす)在ロンドン駐英公使に付き添われ、サウザンプトン港を出港した。 航海中は主に工部大学校の学校要覧の作成にあて、日本に到着すると修正されることなく山尾庸三工部大輔に受理されたと、自著『大日本』の中で語っている。

 マリー・ファーガソンとの結婚の事情も明らかになった。 マリーは許婚で、1年ほど遅れて1874(明治7)年5月19日、香港経由の英国蒸気船ベハー号で来日、同月23日、横浜の英国公使館で、駐日英国公使ハリー・パークス卿出席のもと、英国国教会様式の結婚式が行われた。

お雇い教師ヘンリー・ダイアー、工部大学校の教頭2022/08/02 07:13

 『ヘンリー・ダイアー物語 日本とスコットランドの懸け橋』は、本文46ページのコンパクトな本であるが、付録1ヘンリー・ダイアー・シンポジウム―産業のグローバリゼーション(1996年・ストラスクライド大学)、付録2ヘンリー・ダイアー・シンポジウム―工学教育に関する(1997年・東京大学)、付録3ヘンリー・ダイアーの著作、付録4ヘンリー・ダイアーに関する記事・論文、さらに謝辞、訳者注、地図、訳者あとがき、索引などの附属資料が充実している。

 ヘンリー・ダイアーのことは、2年前にいろいろ書いていた。 加藤詔士さんが送ってくださった「ヘンリー・ダイアー エンジニア教育の創出」や、論文「「お雇い教師」研究の再構成」によったのである。
加藤詔士先生(英国教育史・日英交流史)との出会い<小人閑居日記2020.8.10.>
ヘンリー・ダイアー、エンジニア教育の創出<小人閑居日記 2020.8.11.>
福沢三八、グラスゴー大学で夏目漱石の問題を受験<小人閑居日記2020.8.12.>
「グラスゴウ大学日本語試験委員・夏目漱石」<小人閑居日記 2020.8.13.>
「世界の一体化とお雇い教師」<小人閑居日記 2020.8.14.>
加藤詔士先生の「「お雇い教師」研究の再構成」<小人閑居日記 2020.8.15.>
日本教育を近代化した「お雇い教師」の面々<小人閑居日記 2020.8.16.>

  ヘンリー・ダイアー Henry Dyer(1848-1918)は、英国をモデルに日本の工業化・近代化をめざした明治新政府が、スコットランドから招いたお雇い教師で、1873(明治6)年から82(明治15)年までの間、工学寮工学校とそれを継承した工部大学校(東京大学工学部の前身)の都検(教頭)ならびに土木学・機械学教師として、日本のエンジニア教育の組織化と実学人材の育成に貢献した。 当時、欧米では工学部を含む総合的な高等教育機関はまだ設立途上だったので、帰国後、日本での体験と成果を、郷里グラスゴーの教育実践の中に移し入れた。 しかも、エンジニアをめざしてグラスゴー大学にやって来た日本人留学生を支援したのである。

スコットランドでは無名だったヘンリー・ダイアー2022/08/01 07:11

 名古屋大学名誉教授の加藤詔士さんから、ロビン・ハンター著、加藤詔士・宮本学訳『ヘンリー・ダイアー物語 日本とスコットランドの懸け橋』(大学教育出版)をご恵贈いただいた。 加藤詔士さんとは、2016年の福沢諭吉協会の弘前旅行でどういう方かも存知上げずに知り合い、以来「等々力短信」を読んでいただいている。 ごく最近の一昨年になって、私がずっと関心を持っている、日本の上下水道の父、W・K・バルトンについてのご講演を、弘前でお会いする10年前の2006年5月13日、目黒の東京都庭園美術館の新館ホールの「W・K・バルトン生誕150年記念講演会」でお聴きしていたのに、うっかりしていたことが判ったりした。

 『ヘンリー・ダイアー物語』の著者ロビン・ハンターは、1938年生まれ、グラスゴー大学卒業、数学・天文学を専攻、天文科学研究で博士号を取得、同大学天文学科の講師等を経て、1967年よりストラスクライド大学に勤務、コンピューター科学の研究と教育にあたり、同大学理学部コンピューター科学上級専任講師を務め、2003年退職、この間ソフトウェア開発工程国際標準規格委員会等の委員として活躍した人だという。

 「まえがき」を、著者ロビン・ハンターの妹レズリー・ハートが、以下のように書いている。 ロビンとレズリーは、ヘンリー・ダイアーの妹ジャネットの曾孫にあたる。 兄と妹は子供のころ、母や大叔母(ヘンリー・ダイアーの姪)から、ヘンリー・ダイアーの話をいろいろ聞いてはいたが、歴史の本に彼の名はなく、1960年代のグラスゴーでは無名で、何年もの間、自分たちにとって「謎の人」だった。 そして、ロビンとレズリーが成人して、グラスゴーのストラスクライド大学に勤務していなかったら、謎のままだったかもしれない。 1980年代の卒業式では著名な卒業生に言及する伝統があり、驚いたことにヘンリー・ダイアーの名前が挙げられるのを耳にした。 そこでロビンは、一家の歴史に関心を持って調査にかかわり、ヘンリー・ダイアーについて自分たちの知らない数々の事実を明らかにするようになった。

 本書によってヘンリー・ダイアーの生涯と業績について、その全体像が浮かび上がることだろう。 学術の世界ならびに実業の世界で、彼の成し遂げた素晴らしい成果が描かれている。 彼はまさしく教育のパイオニアであり、またスコットランドと日本の結びつきを強力に推進した文化使節でもあった。 彼がスコットランドよりも日本での方がずっとよく知られていた事実を、自分たちは知ったのだった。