定信の質素倹約に、蔦重「書をもって抗いたい」2025/09/19 07:06

 大河ドラマ『べらぼう』第34話「ありがた山とかたじけ茄子(なすび)」。 天明6(1786)年11月、松平越中守定信(井上祐貴)は老中首座となる。 江戸では、まだ三十になったばかりのやり手、吉宗公の孫、吉宗公の生まれ変わりだという噂が広まる。 読売(瓦版)には、「奢侈に憧れ、おのれの欲を求める「田沼病」の世から、質素倹約の享保の世にならい、万民が働く真っ当な世になる」と書かせる。 蔦屋のおてい(橋本愛)は、真っ当な話だ、というが、蔦重は「定信は、田沼様の手柄を横取りして老中になったふんどし野郎だ」と言い放ち、反対に、いい紙や金銀を使った狂歌絵本をつくりたいと。

 大田南畝が、罰せられるかもしれぬ、四方赤良の狂歌を止める、筆を折ると、言って来る。 上司に呼ばれ、「世の中に蚊ほどうるさきものは無しぶんぶといふて夜も寝られず」を、そなたの作ではないかと、詰問され、処遇は追って知らせる、と言われた。 「賄賂政治」といわれた田沼寄りの役人は、「みせしめ」のため、不正役人として、まとめて処分された。 土山宗次郎は逐電した。

 類は、蔦重にも及ぶのか。 だが、蔦重は、「田沼様の世の風を守りたい」、「ありがた山の寒烏、かたじけ茄子」だ、平賀源内が言っていた「自らの思いをよしとして、わが心のままに生きる、もたざる者は…」というのはよかった、成り上がり者と正反対の世を目指すのは当り前だ、と考える。 店で家中の役目も、皆の入れ札でやろう。 入れ札を、国がやったら面白い、べらぼうでござろう、と。

 蔦重は、狂歌師や戯作者、絵師たちを蔦屋に集め、「書をもって抗いたい」ので、皆様の力をお貸し下さい、と言う。 読売のネタ集めは、ふんどしがやらせている、「ふんどしのご政道を持ち上げつつ、皮肉る黄表紙を出そう」という提案に、「首が飛ぶぞ」という意見も出るが…。 「贅沢を禁止される今だからこそ、目玉が飛び出るほど贅を尽くした豪華な絵本を出すんだ」とも。 「天明の狂歌を守りたい」と言うと、南畝は心を動かされ「毛をふいて傷やもとめんさしつけて君があたりにはひかかりなば」を詠み、一同再び興奮し「屁、屁、へ、へ、へ、へ…」と踊り出す。

 年が明けて天明8(1788)年。 黄表紙、朋誠堂喜三二作・喜多川行麿画『文武二道万石通』、山東京伝作・喜多川行麿画『時代世話二挺皷』、恋川春町作・北尾政美画『悦贔屓蝦夷押領』と、狂歌絵本、喜多川歌麿画・宿屋飯盛編・鳥山石燕序文『画本虫撰』が、華々しく出版される。

江戸の打壊し、米がなければ銀を配る策2025/09/18 07:00

 大河ドラマ『べらぼう』第33話「打壊演太女功徳(うちこわしえんためのくどく)」。 「政(まつりごと)を正せ」という新之助たちの幟が、飢えと不満に満ちた江戸の民の心を大きく揺らした。 田沼家の御用米屋を狙った打壊しが始まる。 店を壊し、米俵をばらまく。 意次は江戸城から騒ぎを見下ろして、対処を指示する。 飛び込んで来た町奉行の曲淵の報告に、老中たちも深刻さを実感する。 意次は、ただの騒ぎではないと、察知する。

 蔦重は意次に、打壊しの群衆の中に、平賀源内の屋敷に出入りしていた謎の男を見たと報告する。 そして、打壊しに何か策はないかと聞かれ、「米がなければ、銀を配る」策を思いつく。 その銀によって、後で一升の米が買えれば、人々の怒りも和らぐのではないか、と。 意次は、それを市中に知らせよ、と言う。 蔦重は「またウチがやるんですか」と。

 蔦重は、「三匁二分で米一升」の幟を立て、摺り物を配り、芸人や幇間などを集め、富本斎宮太夫(新浜レオン)の浄瑠璃、鳴り物という、華やかな告知行列で町中を練り歩く。 その行列中の蔦重を、匕首を持った男が襲う。 気付いた新之助が、身を挺して守り、脇腹に刃を受ける。 男は、それを監視していた長谷川平蔵(中村隼人)の矢を受けて倒れる。 蔦重は新之助をかついで医者へ急ぐ、途中の橋で倒れると、新之助は「蔦重、俺はおふくと坊を守れなかった。でもお前を守れた」と最期の言葉を残す。

 蔦重はひとり墓地で、新之助の土饅頭の前でうなだれていた。 そこへ歌麿(染谷将太)が来て、虫や草花を写した美しい絵を見せる。 「これが、俺の「ならでは絵」なんだ。命を写すことが、自分に出来る償いかもしれない」と。 蔦重の目に、涙が溢れる。 「新さんは、俺をかばって死んだんだよ。」 「いい顔を死んだんだろ?」 蔦重はうなずき、「俺はこの人に命を救われた。今度は俺が命を描いた絵を出していく。」

田沼意次の追罰、打壊しが大坂から江戸へ2025/09/17 07:16

 大河ドラマ『べらぼう』第32話「新之助の義」。 田沼意次の老中辞職で、政局は混乱する。 お役の辞職だけでは手ぬるいと追罰、老中になってからの二万石、大坂と神田橋の屋敷も召し上げとなった。 勘定組頭の土山宗次郎はお役御免となる。 幕臣の大田南畝は震えあがり、蔦重のところに来て、俺の狂歌本を売るなと言う。

 御三家から「田沼の代りに松平定信を老中にすべき」との意見書が出る。 一橋治済は、松平定信を「吉宗の孫」ということで、老中に推挙する。 だが定信が「将軍家の親族」であるため、老中になれないという家重公の「定め」があった。 意次は、老中らが通る雁間詰にいて、定信を西の丸・家斉(次期将軍)の「後見役」として立てる進言をする、一橋の立場をなくせということだ。 天明7(1787)年3月、徳川家斉十一代将軍宣下。

天明6(1786)年秋、お救い米の対象が少ないことが判明して、庶民の不満が爆発する。 大坂で米が四合百文に高騰、打壊しが始まり、全国へ広がった。 江戸でも三合百文、蔦重が深川の新之助のところに行くと、長屋の連中は暴発寸前の状態だった。 蔦重は、「20日にお救い米」が出るというお上の策を読売に摺って広めることを、田沼の側近・三浦庄司に頼まれ、実行していた。 しかし、越中守(松平定信)は、そのお救い米は手配できぬ、と。 撒き広めた「20日にお救い米」の読売は、誤報となった。 「犬を食え」と言われたとけしかける、怪しげな男がいた。

新之助は言う、「おふくと坊は、世に殺された。米屋は、米がないから売らぬほうが儲かる。それは罰する方が、ともに儲けているからだ。おのれのことしか考えぬ。さような田沼がつくった、この世に殺されたのだ。それをおかしいと言うことも出来ないのか。こんな世はおかしい」と。 新之助は、長屋の連中と打壊しへと向かう。 蔦重は、だれ一人、捕まったり、死んだりしないように、幟に思いのたけを書いて、米屋との喧嘩に留めるように、説得する。 「わが心のままに、わがまま、自由に。」「みんなと一緒に笑いたい。まんぷく山のぽんぽこ狸、江戸っ子は喧嘩だろ、カラッといきたい。喧嘩は江戸の華だ。」 新之助は、「おっしゃる通りの油町、米屋との喧嘩だ、米を盗んだり、壊したりしなければ…」と、墨痕鮮やかに幟を書く。 「金を視ることなかれ、すべての民を視よ!」「世を正さんとして我々打壊すべし!」

将軍家治は毒を盛られ、一橋治済は天か?2025/09/16 07:10

 大河ドラマ『べらぼう』、この日記では先月、8月14日から「幕閣の権力争い、一橋家・田安家と田沼意次」、15日「田沼意次に忍び寄る怪しい影」、16日「次の将軍に、一橋豊千代を推す流れ」、17日「田沼意次の嫡男意知、佐野政言に殿中で斬られる」、18日「白河松平家の松平定信、ご公儀の政に登場」までを書いていた。

 第31回「我が名は天」。 天明の大洪水で、江戸市中は本所、下谷など、胸までの水に浸かった。 舟を出せ、残された者を救え、と田沼意次は指示する。 あまたの者が家を失い、お救い小屋がつくられた。 米、水、油、船賃の値上げを禁ずる触れが出された。

 将軍家治の具合が悪い、滋養のあるものをという、お知保の方(高梨 臨)に家斉の乳母大崎(映美くらら)は「『醍醐(だいご)』などいかが」と勧めた。 醍醐は、乳を精製して得られる濃厚で美味な菓子、「醍醐味」という言葉の元。 家治はお知保に、醍醐は父もよく食していた、その昔は田安でもと言う。 お知保は、越中守様(松平定信)に作り方を教えて頂きました、と。 しかし、家治は食べつけぬものは体に障る。 田安は取り潰しが決まりました、一口だけでもと越中守様が…。

 蔦重は、深川の新之助(井之脇海)を見舞う。 妻のてい(橋本愛)が整えた子供の着物、巾着に米、金は辞退する新之助に筆耕を頼み、紙と墨を届ける。 妻のふく(小野花梨)は、かつて新之助と吉原から足抜けしたうつせみだが、「蔦重は田沼びいきだ」ともらす。 苦しい下町の生活で、よその子に乳を与え、お互い様だと。

 将軍家治の病状が悪化し、月並御礼を欠席する。 夜半に腹痛が起き、意次を呼ぶ。 醍醐を食した、お知保が越中守に教わり作った。 お知保が毒を盛ることは考えられぬ、外には出せぬ。 一橋治済、あやつは天になりたいのよ、将軍の座を決する天に…。 そうすることで、将軍などさほどのものでないと、嘲笑いたいのであろう。 将軍の控えに生まれついた、あの者なりの復讐だろう。 お知保がからんでいると、奥医師に告げる訳にはいかぬ。 誰か、毒を癒す医者はおらぬか、口の堅い医者を。 余には、生きて守らねばならぬものがある。

 だが、意次は医師を推挙したせいで、毒を盛ったのではないかという疑いをかけられ、目通り差し控えとなる。 さらに老中首座から、自ら退くことを考えたらどうだ、さすれば毒を盛った疑いも晴れよう、そなたのためだ、家名も禄も守れる、と言われる。 貸金会所令も、印旛沼の干拓も取り止めとなり、意次は小野忠友に、老中の職を上様にお返しします、と告げる。

 天明6(1786)年8月、将軍家治の危篤の病床、側に徳川家斉(いえもと)、少し下がって一橋治済らがいた。 家治は、苦しい息で、「田沼主殿(とのも)守は、真っ当の者である。正直な者を重用せよ。蟻の穴、不都合なことを、口にするのは、政(まつりごと)に於てひどく大事なことだ。家斉、不甲斐ない父で済まぬ。」と言う。 そして病床をにじり出て、治済の所まで這って行き、「悪いのは全て治済、天は見ておるぞ、天の名を騙る驕りを許さず。余は天の一部となる。余が見ておることを夢忘るな」と、言って事切れる。

 治済は家斉に、「西の丸様、家基様と間違えておられた、夢と現(うつつ)がわからずに…」、「西の丸様、これからは、この父がお支え致します」と言う。

 深川では、小さな死があった。 新之助の家に、盗人が入り、ふくと坊が殺された。 乳を分けてもらった女が、あの家にはものがあると、話したのを聞いたのだ。 新之助は、「この者は、俺ではないか、俺はどこの誰に向って怒ればいいのだ」という。 蔦重は「新さん、よかったら家に来ないか」と誘うが、新之助は「もう、どこまで逃げても逃げきれない。いや、逃げてはならない、この場所から」と、きっぱり。

東日本大震災直後の畠山重篤さん2025/09/15 07:20

 畠山重篤さんの「追想」(4月19日・朝日新聞夕刊)。 三浦英之記者は、東日本大震災発生直後の2011年3月23日、壊滅した宮城県気仙沼市の養殖場の前で、畠山重篤さんの話を聞いた。 いかだ約70基、船5隻、作業場、加工場、冷蔵庫……。 ほぼすべてを失い、被害額は2億円。 同居の家族は無事だったが、老人ホームにいた最愛の93歳の母を亡くした。

 目をつぶり、風の音を聞いていた。 「こうするとね、何もなかったような気がするんですよ」。 目の前には「絶望」が広がっていた。 美しい海も、「世界一」のカキを育む養殖場も、跡形もない。

 「これも自然なんですよね。時々、人間にどちらが強いのか、見せつけにくる」

 それでも、山に落葉樹を植える活動はやめなかった。 3カ月後の6月にはもう、山の斜面にいた。 気仙沼湾に注ぎ込む大川上流の矢越山。 例年、植樹祭で掲げてきた数百枚の大漁旗は流失したが、1200人の賛同者とブナなど1千本の若木を植えた。

 「これだけの被害を受けてもなぜ、海とともに生きていこうとするのですか?」と問い掛けると、「三陸の海で生きようとする限り、津波という『地獄』は避けられない。でも、好きなんですよ。この海が。単に魚がとれるからじゃなくて、空気とか、風景とか、潮の香りとか。でも、うまい魚介類を食べられるというのはやっぱり大きいですよ」と、ひげもじゃの顔がフッと笑った、という。