秋田實の親友、長沖一(まこと)のこと ― 2026/03/06 07:12
富岡多恵子さんの『漫才作者 秋田實』に、司馬遼太郎さんが登場する。 司馬さんは、「昭和5年からの手紙――長沖一とその世代環境」(「中央公論」昭和56年10月号)に、甲種合格で何度も軍隊に「とられた」長沖一(まこと)が軍隊体験を書いた小説「肉体交響楽」を、藤沢桓夫が「中央公論」の編集長のところへもっていったが、昭和5(1930)年当時、雑誌に載せるのはむずかしいと長沖に返されたことを、書いていた。 当時、「中央公論」から武田麟太郎、林房雄、丹羽文雄等の新進作家がデビューしていたことを思えば、ここに長沖の作家的不運があった。 「幻の名作」となった「肉体交響楽」は、藤沢桓夫が長沖の遺族に探させて、50年ぶりに「中央公論」に載せるようにはからった。 (秋田、藤沢、長沖の関係は、2月28日の当日記参照。) 長沖一は、秋田の手引きで雑誌「ヨシモト」の編集のために吉本興業に入り、昭和25(1950)年BK(NHK大阪)がエンタツを中心としたバラエティー「気まぐれショーボート」をはじめた時、秋田と共同で作・構成を担当した。 私は子どもの頃に聴いていた、その後の、アチャコと浪花千栄子の「お父さんはお人好し」を長沖一作と覚えていた。
司馬さんは、昭和31(1956)年に新聞記者で、長沖一の家にいったら、帝塚山の長屋の一軒で、家の外から老人が風呂に薪を割りながらくべていた。 長沖(当時52歳)と思い違いしたが、そのひとは長沖の父親だった。 維新で没落した加賀藩士の子で、先代が綿屋でこしらえた家作の家賃で食いつないでいたのである。
長沖一は、庄野英二との「わが有為転変」と題された対談で、自分は「水の流れに沿って泳いでいくタチ」といっていて、ガムシャラに他人を押しのけたり、自己主張したりしたことはない。 司馬さんは、「ただちょっとした可笑しさは、その質樸な性格とうらはらに秀麗すぎる容貌をもち、文字どおり痩身長軀で、姿がよかったことだが、しかし自己愛(ナルシシズム)がまったくなかったか、それとも屈折していたのか、自分自身の外観も空気のように思っていたらしく、たとえば女性についてのトラブルも一度もなかった。結婚も晩かった」と書いている。 長沖は、見合いをしてもことわると相手を傷つけるといって、はじめて見合いした相手と結婚したそうである。
私は、庄野潤三を愛読しながら、その帝塚山学院との関係を知らなかった。 富岡さんは、大阪には、作家の庄野英二、庄野潤三兄弟の父庄野貞一の創立した女子の私立学校、帝塚山学院がある、と書いている。 長沖一はそこに戦後新しくつくられた短期大学部の講師を頼まれて(井原西鶴を講じていたそうだ)、家から歩いて通っていたが、人望あつく、ついに死ぬ前年には学長にされてしまった。 昭和51(1976)年72歳で亡くなった。
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