「笑いの素研究所」から「漫才学校」へ、秋田實の「漫才」〝戦略〟2026/03/07 07:04

 秋田實がエンタツと出会った昭和6(1931)年」ごろから、大阪に帰る昭和9(1934)年ごろは、都会の生活様式に「洋式」がとり入れられて変化を見せる時期だった。 エンタツ・アチャコが舞台に洋服で出て漫才をしたのも、はじめてではあったが、そういう時代の風俗的変化を背景にしている。 とはいっても、女性の「洋装」はまだ珍しいことであり、「洋食」もまたそうではあり、「低級な」漫才師が、ホワイトカラーの象徴である背広姿で舞台にあらわれるのは、「漫才」の階級上昇、少なくとも「向上」をめざすことをあらわしている。 江州音頭や河内音頭の自慢のセミプロが舞台に立っていた、初期の「万才」では、たいてい着流しで、なかには浴衣に三尺帯というだらしない姿の者もいたが、それを紋つきハカマにしたのは砂川捨丸だったという。 衣装の点でははっきりと「萬歳」から離れようとしているのがわかる。 男女のコンビができるようになると、男は紋つきハカマ、女は裾模様ときまっていった。

 平井巳之助という人が昭和5(1930)年に東大を卒業して大阪に帰った秋に、秋田實は丸善のちかくのバラックのような二階建ビルの一室に「笑いの素(もと)研究所」なるカンバンを出して、京大文学部の学生ふたりを雇い(?)、新聞の切り抜きの分類や整理をさせ、笑いの資料のインデックスをつくっていたという。 藤沢桓夫も、心斎橋のその部屋のことを回想していて、学生のひとりが後に吉本に入った吉田留三郎だった、と。 秋田には特高がつきまとっていたというから、「笑いの素研究所」のカンバンは、秋田の、官憲への戦術的なものがあったのかもしれない。 秋田が、エンタツと会う以前にすでに、それまで集めてもっていた笑いに関する資料を整理し、新聞を綱目別に切り抜いて、「笑いの辞典」のインデックス、たとえば「ヒコーキ」というテーマで笑いのコントを書こうとする時の便宜のために、「ヒコーキ」に関するニュースやデータを分類していたらしいのは、注目していい。 秋田が、「笑い」を「笑いの素」に分析し、それを組み合わせることで新しい笑いをつくり出す帰納法、「笑い」と「笑わせ方」に強い興味を抱いていたことがわかる。 (私はここを読んで、この一連の秋田實についてのブログが、司馬遼太郎『この国のかたち』の「索引」を自作したノートを見つけたことから始まったのを思って、感慨深いものがあった。)

 秋田が昭和9(1934)年に吉本興業に入ると、エンタツが「低級」だといった漫才師たちに、秋田の笑いのネタはことのほか喜ばれた。 こんなに大勢の人達に親しまれるのは生れてはじめての経験で、その信頼にこたえるために夢中になった。 一日中いつも誰か漫才師と舞台の話をし、毎夜のように誰か若い漫才師を家に連れ帰った。 自分の提供するネタ(理論)が漫才師に使われる(実践)と、結果はその日の舞台でわかる。 そのネタが受ければ、これほど楽しいことはない。 漫才と漫才師の変革(それらへの仕掛けも)を、即刻、自分の目で見られるのだ。

 だが60組に余る漫才師の全部のネタの相談には応じられない。 秋田の身体と時間の奪い合いとなったので、日に一回、集まってもらって、小さい1、2分のネタだったが、時事のニュースや色々の笑話や小咄を、希望に応じて配給する「ネタのセリ市」を開くことにした。 「ネタのセリ市」は、のちに発展的解消して、「第一回新作発表漫才研究会」(昭和11年2月)となった。 漫才作者でなく吉本の一社員、編集者林廣次の名で、雑誌「ヨシモト」が、昭和10(1935)年8月に創刊された。 その二年後には、吉本興業に漫才の新人養成機関「漫才学校」を提案し、実現している。 同じ頃、マンガ家の平井房人との共同編集で漫才台本集を次々と大阪パック社から出している。 こうして見てくると、秋田實の「漫才」への〝戦略〟とでもいうべきもの、いや、戦略家としての秋田の才能が見えてくるといった方がいいかもしれない、と富岡多恵子さんは書いている。