慶應志木高ラグビー、創部一年目「幻の花園」2026/03/09 07:06

 昨年末、慶應志木高校蹴球部・創部68年目の第105回全国高校ラグビー大会、花園での活躍を、ブログに書いたことを、同期のメール・アドレス宛に知らせた。 われわれは昭和32(1957)年に農業高校から普通高校に転換した慶應志木高校の最初の入学生で、少なかったクラブ活動や、それまでなかった生徒会を、創設したりして、楽しい充実した高校時代を過ごした年代なのだ。 私が未だに毎日ブログを書いているのも、実は慶應義塾志木髙新聞の創刊メンバーだったことを、引きずっている。

 12月29日の「高校ラグビー一回戦、慶應志木48対12で青森山田に快勝」にコメントをつけてくれたS君が、後日手紙で「花園出場の感動」という文章を送ってくれた。 入学した昭和32(1957)年、ラグビー同好会が発足、1年生の彼が勧誘されて入ると、1チームを組むのがようやくで、高校生とは思えないヒゲ面のキャプテンに「誰でもいいから連れて来い」といわれて、同じ中学から来たA君を引っ張り込んだという。

 夏の多摩川で10日間の強化練習を経た後、12月に中大杉並高と初めて試合をして勝った。 翌昭和33(1958)年4月に同好会から蹴球部に昇格した。 この夏、日吉の慶應高との山中湖合同合宿に参加して、力をつけた。 志木高はラグビーを始めたばかりの素人集団なのに、日吉高は全国大会の常連で、実力差は歴然、カルチャーショックを受けたがやるしかない。 両校の監督が話し合って、メンバー混成の練習を繰り返し、合宿の終盤には、何とか見られるようになったという。 高校の後、大学チームの合宿が予定されていて、大学1,2年生が練習に参加してくれたが、体格の違いと身体がぶつかり合う時の衝撃の強さに圧倒された。 彼のポジションがFWの2列目、セカンド・ロウで、同じポジションの大学生からスクラムの押し方の基礎を徹底的に叩き込まれ、合宿最後の日に「俺の教えを守れば絶対に強くなる」と激励された。

 夏合宿を終えるとすぐに秋のラグビーシーズンに突入して、県民大会の初戦は8月末だった。 当時、埼玉県でラグビー部のある高校は少なく、2、3試合も勝ち上がれば優勝だったが、全国レベルの2校が壁のように立ちはだかっていた。 浦和市立と熊谷高校(熊谷工業の前身)である。 初戦の相手は、何とその熊谷高校で、完封負けを喫した。 しかし、この敗戦はいい薬になり、自分たちの弱点がどこにあるか、はっきりした。 11月中旬の全国大会予選へ向けて、猛練習の日々を送った。

 全国大会予選の初戦の対戦相手は、またしても熊谷高校で、アウェーのグラウンドだった。 いよいよ試合当日、志木高チームはファーストスクラムから押しまくり、得点は前後半各1本のペナルティーゴール(PG)に留まったものの、よく防御した。 残すところあと数分の時点で、1 PGの差で勝っていた。 すると、リザーブ陣がレフェリーから一言二言注意を受けた。 多分応援がうるさかったのだろう。 試合の終盤は、熊谷高の猛攻を受けて、ゴール前に釘付けになった。 終了まであと1,2分のところで、スクラムを組む。 全力で押しまくる。 スクラムが回ったので、ハーフが球を入れるのを、ちょっと躊躇。 ピー! 無情にも、レフェリーの笛が鳴った。 ウェイストタイム(故意の遅延行為)と見なされて、相手にペナルティーゴールの権利が与えられた。 中央からあっさり決められて同点にされてしまった。 ノーサイド、勝敗を抽選くじで決めることになった。 キャプテンのひいたのは、無情にも負け籤だった。 監督は「負けたわけではないから胸を張れ」と言ったが、皆グラウンドに崩れ落ちて我を忘れて号泣した。

 ところが、号泣する志木高チームの面前で、熊谷高チームの猛烈な生タックル練習が始まった。 脇には鬼の形相をした監督が立っていた。 花園への切符はそうやすやすと手に入るものではないことを思い知らされた。 熊谷高はその後、順調に勝ち星を重ねて、花園出場を決めた。

 今回、創部68年目に花園初出場を決めた慶應志木高は、実は、68年前の創部の年に、花園出場の一歩手前まで行っていたのだった。 私は当時、この事実をまったく知らなかった。 初めに書いたように、慶應義塾志木髙新聞の創刊メンバーとして創刊第一号を出したのが、昭和32(1957)年9月9日で、2年生の翌昭和33(1958)年は慶應義塾創立100年の記念の年で、11月14日には「義塾百年のクライマックス 慶應の新しい出発点」の大見出しを立てた第六号を出していた。 今回知った、この蹴球部の花園寸前の活躍を報じられなかったことを、今になって申し訳なく思っている。