ラグビーで活躍し、エベレストで亡くなった成田潔思君 ― 2026/03/10 07:12
S君の「花園出場の感動」の後半に、志木高ラグビー草創期の仲間の話がある。 卒業まで残った同期は11~12人だったが、社会人リタイア後しばしば会うようになっていたけれど、残りは5人になってしまったという。 私も同期で、志木高は人数の少ない学校だから、みんな知った名前だ。 残念ながらこの世を去ったという中に、3年の時に私と同じクラスだった成田潔思君の名前がある。
「冬休み中に登山に取りつかれ、大学では山岳部キャプテンを務めて、卒業後はヒマラヤ登山隊に参加して不運にも命を落としました」とある。 その成田潔思君の雨中のハーフラインからのゴールキック成功は、いまだに仲間内での語り草だと、S君はこう書いている。 「ラグビーでサイドキックは珍しい時代でした。豪雨が降りしきる中、たっぷり水を含んで重くなった楕円球を、彼は得意のサイドキックで見事にゴールポストの中央を射抜いたのです。彼はサッカー王国浦和の出身で、もともとキックには自信を持っていました。加えて浦和(与野?)の自宅から志木まで片道10㎞を毎日自転車通学して脚を鍛えました。今でもハーフラインからゴールを狙うキッカーはそう多くはいません。それを60年以上前の高校生がやってのけたのです。それもたっぷり水を含んだ妊娠ボールを蹴って決めました。彼が大学でラグビーを続けていればひとかどの選手になったことでしょう。」
2020年に、三田あるこう会で川越に行った時、会員のNさんが5年下の山岳部OBだというので、成田潔思君の話になった。 成田君は大学山岳部のキャプテンだったが、卒業後の1970(昭和45)年、日本山岳会エベレスト登山隊に参加、4月21日に第一キャンプで体調を崩し、亡くなっている。
テレビのニュースかドキュメンタリーで、同行の隊員がテントの中で「成田ーッ!成田ーッ!」と、叫んでいるのを見た。 この登山隊では、これより前の4月5日、ベースキャンプと第一キャンプの間の難所のアイスフォールで雪崩が発生、6人のネパール人シェルパが遭難していた。 それでも登頂は継続されたので、第一キャンプへの物資の荷揚げその他、責任感が人一倍強かった成田潔思君には過重な負担がかかったものと思われる。 5月11日、エベレストの日本人初登頂を果たした松浦輝夫隊員と植村直己隊員は、頂上に成田潔思君の遺髪と写真を埋めた。
成田潔思君は、寡黙な良い男で、志木高校では蹴球(ラグビー)部で活躍、クラスでも成績優秀だった。 大学では山岳部に入り、キャプテンにまでなった。 Nさんによると、山岳部でも、野球部で言えば四番打者、何十年かに一度出るような逸材と、嘱望されている存在だった。 それで日本山岳会エベレスト登山隊に参加することになったのであろう。 体力気力は抜群、厳しいが優しい先輩だったという。 Nさんが1年生の時、北アルプスかどこかを登山中、増水した渓流の一本橋を渡っていて、ザイルを繋いだ仲間の1年生が転落したのを、成田君が一人で引っ張り上げた。 力の強い成田君でなければ、救えなかっただろうという話だった。 私が成田君と志木高で同じクラスだったというだけで感激し、親しみを感じてもらえた。
2023年1月、三田あるこう会で「与野七福神めぐり」をした。 与野は成田潔思君が志木高に通っていた町なので、ここでも山岳部後輩のNさんと成田君の話をして、彼が務めていたのは、私が思い込んでいた日魯漁業でなく、ニチレイだと判り、海外からの大型買い付けに従事していて、28歳、当時フィアンセがいたと聞いたのだった。 嗚呼。
その話をXに書いたら、与野で成田家の隣だったという女性からコメントがついて、成田君の家が与野だったことが確かめられた。
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