福沢諭吉と小泉信三「父の影像、母の偉大」前半2026/02/05 07:08

綱町グラウンドの古色蒼然たる掲示
 2月3日は、三田あるこう会の第585回例会「常光寺参拝から三田綱町へ」があった。 宮川幸雄会長は、「常光寺参拝は三田あるこう会の原点であり、起点です。常光寺の福澤先生墓地跡には決して福澤家菩提寺・麻布山善福寺墓地に入ろうとしなかった先生の強い意志が籠っています。」と言う。 白金台駅に集合し、常光寺を参拝、ご住職と写真を撮った後、麻布十番に電車移動し、小泉信三さんが空襲に遭った場所、綱町グラウンド、普通部跡(現在は中等部校舎。入学試験中だった。)、綱坂、小泉信三さんの少青年時代の家跡(堀越整復院が立替中)を回り、地蔵通りの中華美食「心勇」で食事をした。 私はそこで、宮川さんに言われていた、福沢先生と小泉信三さんについてのミニ講話をさせてもらった。 その内容を二回に分けて、紹介させてもらう。 題して「父の影像、母の偉大」。

福沢諭吉 天保5年12月12日(1835年1月10日)~1901(明治34)年2月3日没(66歳)今年は没後125年。
  父 百助 1792(寛政4)年~1836(天保7)年6月没(44歳)
小泉信三 1888(明治21)年5月4日~1966(昭和41)年5月11日没(78歳)
  父 信吉(のぶきち)1849(嘉永2)年2月~1894(明治24)年12月没(45歳)

小泉信三著『福沢諭吉』(岩波新書)の最終章は、「父の影像―福沢の道徳的支柱―」。 諭吉が数え3歳(満1歳半)に数え45歳で亡くなった父百助の感化、若い寡婦となった母順が朝夕語る亡き父の在りし日の言行で、「父は死んでも生きているようなものです」(『福翁自伝』)。 百助は小少にして才学秀(ひい)で、野本雪巌、帆足万里に学んだが、後に中津藩の大坂蔵屋敷で経理を扱う俗務に在勤15年、その地で死んだ。 平生好学の心篤く、篤行律儀の人。 諭吉が生まれた時、大きくなったら寺に入れて坊主にすると言っていたと聞き、封建制度の下では身分の低い者は、それしか名を成す途はないからだと、父の心を思いやり、その不平を察し、また我が子の行く末を思う慈愛に感じて泣くことがある、「私のために門閥制度は親の敵でござる。」と『福翁自伝』にある。

小泉信三の父、信吉は1866(慶応2)年に福沢塾に入塾、慶應義塾や大阪舎密(せいみ)学校や大学南校で教鞭を執り、福沢の熱心な働きかけで英国に4年留学、大蔵省に入り、横浜正金銀行の設立にあたり副頭取になる。 次代の指導者として期待され1887(明治20)年慶應義塾総長(のち塾長)に就き、資金募集や学事改良、大学部創設準備などに取り組んだ。 翌年発生した同盟休校(ストライキ)事件の処理をめぐって福沢などと意見を異にして対立し、1890(明治23)年日本銀行に移り、翌年横浜正金銀行支配人となった。 だが福沢との師弟関係は破綻することなく、その後も福沢は娘の縁談や著作集の刊行、横浜正金銀行への預金などについて、信吉に相談している。