佐々木邦、明治学院、釜山就職、鶴岡の娘と結婚 ― 2026/07/06 08:25
佐々木邦少年である。 6月25日の「等々力短信」第1204号「佐々木邦(くに)を、ご存知ですか?」に、こう書いていた。
「早稲田中学を病気で中退した邦は、16歳の明治32(1899)年に青山学院に入り、35年に慶應義塾理財科予科に進むが、周りは「俗物」ばかりだったので、英語だけを熱心にやり、36年明治学院高等学部に移る。 朝日新聞に原抱一庵がマーク・トウェーンの短篇「シーザー暗殺」を訳し、山県五十雄が「トウェーンは好い加減な英語の力では読みこなせない」と批判したのを読み、邦はトウェーンを読んでみようと発奮する。 慶應で他者に出会い、自分探しに彷徨(さまよ)い込んだ邦は、トウェーンに出会って、明治学院で世界と和解し、自分の思想を鍛え、書くことを始めたのである。」
邦が青山学院に入った頃、父・林蔵は大阪の心斎橋通りに建てられる日本貯蓄銀行本店の現場監督の職を得る。 邦以外の一家は大阪暮らしで、弟の二郎と順三は、邦の影響もあったか、ミッションスクールの桃山学院に入った。 邦は、慶應義塾に入ってからも三田の聖坂にあったフレンド教会(クエーカー派)に出席し、ボールズ先生という宣教師に可愛がれていたという。 邦の明治学院への転校は、実学重視の慶應に比べ、文学に関しては名門だったかららしい。 島崎藤村、馬場孤蝶、戸川秋骨が出ていて、文学的な空気がみなぎっていた。 3年生の12月には、校内誌『白金学報』に佐々木春川というペンネームで「翁の仮面(めん)(お伽噺)」という習作を発表している。 夏目漱石の弟子で明治学院の教授だった皆川正禱の斡旋で、翻訳のアルバイトに精を出した。
明治38(1905)年3月、「明治学院、メシガクエン」という学校を卒業した邦は、就職では苦戦していた。 ミッションスクールの卒業生は、英語教師になる者が多かったが、当時、中学の教師になるには、帝国大学か高等師範を出るか、検定試験を受けるしかなかった。 内地の学校に就職できない邦は、学院の推薦で韓国釜山居留民団立商業学校の英語教師になり、明治40(1907)年4月に赴任する。 日露戦争後、日本は韓国併合への道を歩き始めており、釜山には日本人社会が形成されていたのである。
不本意な赴任ながら、彼の地で徹底的に勉強してやろうと13円で中古のウェブスター大辞典を携えて行くと、主任はおらず、英語教師は一人で、主任兼部下だった。 大きなポプラの木のある未亡人の屋敷に下宿すると、しばらくして、その家の親戚にあたる若い女性が山形県の鶴岡からやってきた。 服部小雪といい、教師の口を求めてのことだった。 同じ屋根の下に暮らす二人は、いつしか親しく会話を交わすようになった。 やがて、彼女に縁談が持ち上がると、邦は行動に出る。 ある朝、学校へ出かける前に、「小雪さん、ウェブスターの中を見て下さい」と言った。 求婚の手紙を入れて置いたのだった。
釜山にいて直接父に会えない邦は、明治学院時代の親友、日高善一を父・林蔵のもとに送り、結婚の許可を求めた。 若い牧師の来訪に林蔵は驚いたが、「思い立つと、決断が早い」人間で、結婚を承諾すると、早速鶴岡に行って話をまとめている。 仲人も立てず、父親が直接出向くのは極めて異例で、そのうえ小雪の服部家は庄内藩の藩士、佐々木家は平民だった。 何と言っても、林蔵の人柄である。 林蔵は、邦の真面目な人柄や将来性を説き、二人の気持が真摯で固いことを訴え、小雪の両親を説得したのだろう。 邦は、「親の恩、けっして忘れるべからず」と、明治41年6月15日の日記に書いている。 その6月、二人は釜山で結婚し、夏休みに上京、初めて父母と弟たちに小雪を紹介した。 いたってカジュアルで、林蔵も邦も小雪も、世間体や体裁にこだわらない合理主義者だったようだ。
佐々木家の「青天の霹靂」、「負けない男」 ― 2026/07/05 07:23
佐々木邦は、早熟で悪戯好きだったが、成績はよかった。 当時の小学校は尋常科が4年、高等科が4年で、中学へは高等科2年終了で進学するシステムになっていた。 邦は尋常科の1年から2年へも、2年から3年へも一番で進級し、尋常科3年から高等科へは一学年飛び級することを許された。 日清戦争の勝利に日本中が沸いた明治28年の春、林蔵は邦を芝公園にあった正則中学(旧制)に入学させる。 正則の最上級にはのちの首相吉田茂も在籍していた。 だが、日清戦争の海軍熱の時代で、邦は職業軍人になる意志を貫き、正則中学から海軍予備校へ転校する。
しかし、その年の夏、青天の霹靂ともいうべき出来事が一家を襲ったのである。 母はるが、自殺未遂事件を起こしたのだ。 三日三晩、死に場所を求めて歩き回り、最後に家の近くに戻って赤坂の溜池に投身したが、近所の人に救い出され、警察を通して無事に家に戻された。 原因は、年齢とともに顔と手先に出たシミをハンセン病と疑ったことで、一種のノイローゼだが、田舎者のはるが、慣れない都会生活に加え、林蔵の部下の接待や、上京してきた弟達の世話でストレスが溜まっていたのだろう。
結局は事なきを得たのだが、警察沙汰になった事件は林蔵の体面を傷つかずにはおかなかった。 おそらく林蔵は人一倍潔癖な人間だったのだろう。 事態を重く受け止めて、はるが精神的な安定を取り戻すために、はると子供たちを郷里の沼津に帰すことにし、自分は役所から身を引くことにしたのである。 近代化の進展で、西洋建築の需要が高まり、請負業が生まれていた。 林蔵は、役所を辞すと同時に、月給40円の技術員として大阪土木株式会社に入社した。
しかし、林蔵の転職には、思わぬ落とし穴が待ち構えていた。 まもなく大阪土木で、青森連隊の兵舎建設を請け負うため青森支店長として赴任する。 郷里では妻はるの健康も恢復し、邦も一時沼津に帰ったため海軍予備校を除籍になったが、翌年には早稲田中学に入り直し、東京の叔父の家から学校に通っていた。 林蔵は、せっかく努力して建てた青森連隊の兵舎に不正があるという疑いが生じ、その責任者として検挙され、裁判にかけられたのだ。 不正は、出来上がった兵舎の柱が、設計図より細いというものだった。 林蔵は、所要の太さが入手できなかったので、細目の柱を予定以上用いて建築して、安全を期したと主張した。 第一審は有罪だったが、第二審の控訴院で無罪放免となった。
だが、事件発生時、会社は責任を逃れるため林蔵を罷免していた。 孤立無援で無実を主張し、無罪を勝ち取ったものの、以後、林蔵の人生には仕事探しの苦労が常につきまとうことになる。 四人の息子たちは、その父の苦労を見ながら成長したのである。 のちに立教大学の総長になるクリスチャンの三男・順三は、こう書いている。
「父は若いときから「負けない男」である。彼は自分の力を確信して静かに待った。「最後まで忍ぶものは救われん」という聖書の言葉を、もちろん彼は知ってはいなかったが、その生涯は、たまたまこの聖句を地で行ったもののようであるといってもいいだろう。」
明治23年の帝国議会開会に向け、仮議事堂の建設 ― 2026/07/04 07:35
林蔵がドイツ留学から帰国したのは明治22年、内務省臨時建築局は、翌年の11月に開かれる帝国議会第一回議会に向け、霞ヶ関に仮議事堂の建設を急いでいた。 ドイツから帰った職工は三年間臨時建築局で働くことが義務づけられていて、林蔵は衆議院と議長官舎の現場監督になった。 一家は上京し、現場に近い芝区西久保明船町(現在の港区虎ノ門2丁目)に居を構え、邦は明治3年創立の日本初の文部省認可の小学校、鞆絵小学校に入学した。 邦は、悪戯心が常に発動する少年で、近くの金毘羅様で、罰があたるかどうか研究のため、拝殿のうしろに小便をしたという、福沢諭吉少年のようなことをしている。 高輪の泉岳寺も遊び場の一つで、義士の墓の入口の看板「ぎしはか」の文字に、ペンキで濁点を打ち、「ぎしばか」にしたこともある。 現在のホテル・オークラの敷地は池で、氷が張るとスケートを試み、氷が割れて溺れかけるという騒ぎを起こしている。
ようやく完成した仮議事堂は短命だった。 会期が始まって間もない24年1月24日、突然の出火で焼失したのである。 火災の原因は不明だが、当時採用したばかりの電灯の漏電説、電灯で仕事が無くなるガス灯関係者の謀略説が流れたという。 議会の方は旧鹿鳴館と旧工部大学校に場所を移して続けられたが、秋に開かれる第二回議会に間に合うよう、急ぎ6か月で議事堂を再建しなければならなくなった。 昼夜兼行の工事となり、林蔵も夜を日についで詰めていたので、邦が毎朝登校前に牛乳(ドイツの三年間で朝食はパンとバターになっていた)を持って行った。 その途中の琴平町の小間物屋に評判の看板娘がいて、前を通るたびに覗いて見た。 「八つか九つの少年にしてはませていた」と、自分で書いている(「半世紀前の洋行」)。
明治25年12月、林蔵は内務省雇、正式の職員となり、月給30円で、仮議事堂完成後は裁判所(現在の最高裁にあたる)の建築に関わることになる。 技術官僚は、技監が天皇の命令で任命される勅任官、技師が天皇に奏上して任命される奏任官(ここまでが高等官で食堂やトイレも別だった)、技手が長官の判断で任命される判任官、「雇」は技手よりも下だった。 兄弟思いの林蔵は、郷里で大工をしていた弟の弥太郎と春吉、実家を守っていた小僧の長太郎を呼び寄せ、自分の下役として内務省に採用してもらった。
佐々木邦の父・林蔵、田舎の大工がなぜドイツ留学 ― 2026/07/03 07:27
留学の経緯を、順三はこう説明している。 「日本にも神社仏閣等の大建築はあったが、西洋風の大建築殊に議事堂という特殊の新建築は初めてである。勿論、大学教授や外国人技師等に設計はしてもらえるが、現場で大工や職人を指導する技術員は、日本には全くいなかったのである。政府はこれに備えて、急遽二十数名の若い建築研修員を全国から募集してこれを三年間独逸に留学させ、西洋建築を学ばせて国会議事堂新築の際、技手としてそれぞれの部門の指導者とすることにした。「何かやって見たい」アンビシャスの父が、これを看逃す筈はなかった。彼は直ちに母や母の親達に相談し、その賛成を得、東京に出て採用試験に応じこれに合格した。」
だが、松井和男さんが、文献や資料に当ったかぎりでは、「募集」や「試験」に関する記録や証言は見つからなかった。 公募も試験もなく推薦によったとすれば、誰に推薦されたのか。 邦は「半世紀前の洋行」に、「大工は腕に覚えがあるけれど、もう満員で入れなかったから、左官(正しくは石膏職)ということにして採用して貰ったのである」と書いている。 松井さんは、順三のいう「アンビシャス」から考えて、当時、西洋建築への憧憬があり、洋風校舎などを建てた棟梁たちがいたことを考える。 林蔵の出身地から遠くない西伊豆の松崎町に明治13年9月に「岩科(いわしな)学校」が建っている。 そこには松崎出身の左官で鏝(こて)絵師の入江長八の仕事が残っている。 しかし、息子たちの回想からは、それが林蔵の「アンビシャス」の核心だったとは思えない、という。
松井さんは、林蔵ドイツ留学時の、留守中の思い出を書いた邦の文章に(「半世紀前の洋行」)、そのヒントを見つける。 「母と4歳の私と2歳の弟を無一物で残して行った父は村の評判が悪かった。命知らずだというのだった。何分明治19年だ。当時「日の出の独逸の国へ……」という歌が出来たそうだ。独逸へ行くのは好いけれど、後に残った妻や子は何(ど)うしてその日を送るやらというのだった。しかし、道理の分かった人達は父を褒めた。
「林(りん)さんは今に出世する」
と言ってくれた。(中略)父の帰る少し前に、私は小学校に入った。
「お前の親父は今に官員さんになるんだ」
と言って、友達が私の顔に髭を描いてくれたことを覚えている。」
「官員」とは政府の役人だ。 普通なら田舎の大工に開かれた世界ではない。 しかし、官費で職人を留学させるのは、帰国後、政府の仕事をさせるためで、それは官吏になるということだろう。 新しい身分へと上昇する道だ。 明治の日本は官僚国家である。 官吏になれば、生活も安定し、東京に出て子供たちに教育を受けさせることもできる。 それが、時代を読んだ林蔵の「アンビシャス」だったのではないだろうか、と松井和男さんは考えるのだ。
「独立自尊の意義・修身要領」個人の尊重、未完の理想 ― 2026/07/02 07:25
「修身要領」は、福沢諭吉の死の1年前の明治33(1900)年2月、福沢が門下生と共に、これからの日本人の生き方の指針として編纂した「独立自尊」の精神を柱とした道徳要領である。 しかし発表されると、忠孝を論じず教育勅語を軽視しているなどと激しい批判を浴びた。 批判に対して編纂者たちは「独立自尊の意義」と題し、さらに平易に「独立自尊」を解説した箇条を発表して、この綱領を広く日本中に普及しようとした。
その「独立自尊の意義」から、いくつか引いてみる。
独立自尊の人は能く人と交り人を敬愛すれども苟(かりそめ)にも己の所信を抂(ま)ぐることなし
独立自尊の人は自治自制の人たらざる可らず
独立自尊の人は常に信義を重んじ人を欺き己を欺くことなし
独立自尊の人は亦(また)よく人を助けて其独立自尊を全からしめんと欲するものなり
自労自活よく一身一家を修るも未だ社会に対して其義務を尽さゞるものは独立自尊の人と云ふ可らず
独立自尊の人は守るべき紀律は人の命を俟(ま)たずして自ら能く之を守るの人なり
独立自尊の人は一身一家一国は無論、人類一般に対し又下等動物に対して其義務を尽さゞることなし
(以下略。『慶應義塾学報』明治33年6月号)
6月13日の日本経済新聞夕刊は、この企画展の開催を報じ、展覧会を主催した都倉武之教授の談話を、こう紹介していた。 「個人の独立と尊重という未完の理想を考える手がかりにしてほしい」、「どう表現すれば個人の重要性が社会に伝わるか」。 福沢の死後、門下生たちは「修身要領」の普及を図ったが、十分に広まらなかった、その後、日本は個人の尊重とは逆方向に進み、太平洋戦争の敗戦に至った。 「偉人と思われがちな福沢だが、その夢は未完だと言える。失敗を恐れずに歩み続けた人間として福沢を捉える機会になれば」と。
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