「正面に岩手山が見える家」が本になりました ― 2026/02/08 07:51
昨年1月の「等々力短信」第1187号(2025(令和7).1.25.) に「正面に岩手山が見える家」を書いた。
「12日放送の『日曜美術館』「人生で美しいとは何か―彫刻家・舟越保武と子どもたち」を、ご覧になっただろうか。 「戦後日本を代表する彫刻家・舟越保武(1912-2002)。カトリックの信仰を主題とした精緻で存在感にあふれた作品は、見るものに「美しさとは何か?」を問いかける。保武の7人の子どもたちは、その多くが芸術関係の道を選んだ。長女は児童図書出版で活躍。次男と三男は父と同じ彫刻家に。そして末娘は紆余曲折を経てアーティストへ。子どもたちの人生と言葉を通して、舟越が体現した「美しさ」を考察する。」
番組の冒頭、そして何度か、岩手山を正面に広がっている八幡平市の丘の上の家からの美しい景色を、長女・末盛千枝子さんと一緒に、眺めることが出来た。 岩手出身の舟越保武さんが、この地に山荘を建てたのは、1991年秋、早世した親友の画家・松本竣介のご子息莞さんの設計だった。 初めて行った保武さんは、窓から一面に見える景色に、「おい、朝だぞ、岩手山が見えるぞ」と、大喜びしたそうだ。」と。
その末盛千枝子さんが、『今だからわかること 84歳になって』(KADOKAWA)という本を出版された。 たくさんの写真が収録されていて、居ながらにして「正面に岩手山が見える家」の全貌を体験することができる。 赤い瓦の山荘から見下ろすグランマ・モーゼスのような世界、春はまだ雪の残っている岩手山、その木々の緑が日に日に濃くなっていく夏、秋は岩手山の上方から紅葉が始まり、やがて燃え立つような朱色が深い臙脂色へと日々変化して初冠雪、そして手前の雪原の白が美しいブリューゲルの《雪中の狩人》にそっくりになる、岩手山の四季。
季節ごとの花々も、雪解けと共にスノードロップの白い花が、その次にフクジュソウ、追うようにスイセン、レンギョウと黄色い花が咲いていく。 白いニリンソウ、スズランが咲き始めると、初夏。 庭にモミジとメープルが根本で絡み合って不思議な形をした木があり、モミジは朱赤、メープルはまっ黄色に色づく。 桑の木は黒い実をつける。 写真があるのは、クリスマスローズ、シャクヤク、シラン、イヌバラ、リンゴ、プリムラ、ハナニラ、ルピナス、レンギョウ、ドウダンツツジ。 そしてマツバトウダイ、アケボノフウロ、コウリンタンポポ、オオルリムスカリ、と、私の知らない花もある。
「いただきます」と、手を合わせますか? ― 2026/02/07 07:18
1月30日の朝日新聞朝刊、柚木麻子さんの『あおぞら』207回に、弥生さんの用意したちらし寿司を前に、蓮華さんと、秀子さんもサワさんも、「いそいそと箸を取り、いただきます、と手を合わせる」場面があった。 保育園が初めて確立された、戦後、それほど経っていない頃の話だ。 箸を手に持ったままだと、行儀が悪いので、それは措いておいて、「いただきます、と手を合わせる」のは、最近テレビなどで、よく見る。 それを見て、家内などはいつもおかしいと言う。 わが家に、そうした習慣はないし、育ってきた間にもなかった、育ちが悪いからか。 わりと最近の傾向なのだろうかと、ほぼ同年配のLINEの仲間に聞いてみたら、いろいろな返事があった。
「そうなんです! 違和感がありました。両手を合わせた親指にお箸を渡し「頂きます」と。ドラマなどで見かけますが言葉もお作法も時代で変わっていくのでしょうね。」 「食べ物は、突き詰めると、すべからく動植物から命を頂くのだから手を合わせると理解しています。」 「普段は合わせません、お正月位かな。」 「(関係のある)保育園はキリスト教系なので、手を合わせています。我が家は?!」
それで「食事」「手を合わせる」で検索してみたら、一つは仏教由来の合掌、もう一つは、キリスト教の指を組み合わせたり、両手を軽く合わせ親指をクロスさせる「祈りの手」(プレイング・ハンズ)由来と、出て来た。 日本の近年のそれは、どうも仏教由来の合掌から、学校給食の現場で広まったのではないか、と考えられた。 いつ頃からなのか、文部省の通達のようなものがあったのかは、わからない。 ご存知の方があったら、教えてほしい。
中学は明治学院だったが、牧師の息子の友達が家に遊びに来て、一緒に食事をしたら、食前の祈りをしたので、家族みんな神妙に(あるいは、笑いをこらえながら)、それを聞いた。 「天にまします我らの父よ、願わくは、み名をあがめさせたまえ、み国を来たらせたまえ、みこころの天に成るごとく 地にもならせたまえ、我らの日用の糧(かて)を、きょうも与えたまえ…」という「主の祈り」だったか、独自の祈りだったかは、思い出せない。
「いただきます、と手を合わせる」のは、もろもろの感謝の気持がこもっているのだろう。 気持をぬきにして、一律に押しつけがましいと、ちょっと嫌な感じがするけれど。
福沢諭吉と小泉信三「父の影像、母の偉大」後半 ― 2026/02/06 07:14
1894(明治27)年12月、信三が6歳の時、信吉は盲腸から腹膜炎をおこし急逝する(45歳)。 福沢が直ちに絹地にしたためて届けた「福沢諭吉涙を払て誌(しる)す」の追悼文。 「君の天賦文思濃(こ)にして推理に精し。洋書を読で五行並び下るは特得の長所にして、博学殆ど究めざるものなし。」「学林の一大家たるのみならず、其心事剛毅にして寡欲、品行方正にして能く物を容れ、言行温和にして自ずから他を敬畏(けいい)せしむるは、正しく日本士流の本色にして、蓋(けだ)し君の少小より家訓の然(しか)らしめたる所ならん。」「其学問を近時の洋学者にして其心を元禄武士にする者は唯君に於て見る可きのみ。我慶應義塾の就学生前後一万に近き其中に、能く本塾の精神を代表して一般の模範たる可き人物は、君を措(おい)て他に甚だ多からず。」「今や我党の学界に一傑を喪う。啻(ただ)に慶應義塾の不幸のみならず、天下文明の為めに之を惜しむものなり。」
小泉家では、この書を掛軸にして、母千賀は毎年信吉命日に床の間に掲げて、子供たちに読ませ、信吉を偲び福沢の恩に感謝したという。 信三は、戦時中、この書幅だけは慶應義塾の貴重品と共に疎開させた。
大黒柱を失った小泉一家は、横浜から三田に戻り、福沢の庇護を受けた。 最初は四国町の借家だったが隣家で殺人事件があり、福沢がそんな物騒な所に住ませられないと言い出し、福沢邸内の一棟に住んだ。 信三少年は福沢の毎朝の米搗きの懸け声を耳にし、庭で居合抜の白刃を振り回すのを見た。 遊び友達になった福沢の愛孫中村壮吉(長女里の子)と共に福沢に遊んでもらったり、二頭立て無蓋の馬車で上野動物園に初めてきた「カンガロオ」を見に連れて往ってもらったりした。
一年後の1898(明治31)年12月、闊達な母千賀(紀州徳川家のご典医の娘)が、(今、演説館のある)稲荷山の崖下の福沢と風呂屋の地所に、新築の家を建てて越した。 福沢家出入りの大工の棟梁金杉大五郎が建てた。 信三は幼稚舎でなく、聖坂を登って御田小学校へ通い、阿部泰蔵(明治生命社長)の子・章蔵(水上滝太郎)と同級になった。 信三は、後に章蔵の妹・とみと結婚する。 信三は、1902(明治35)年満14歳の1月、慶應義塾普通部2年に編入、8年後、当時の大学部政治科を卒業し、助手に採用されて塾に奉職することになったから、学校の鐘がなってから出かければ間に合う、朝、家を出て、午後帰るまで、東京の市街に出ることのない少年青年時代を過ごした。 テニスの選手になり、山の上のテニスコートで、冬の朝、霜除けの蓆(むしろ)を巻き、日が暮れてネットを片付ける役だった。
若い寡婦になった時、信三の母千賀の腹には4人目の子がおり、諭吉の母順には諭吉の姉三人と兄がいた。 父の影像を語った母は、女性は、偉大であった。
伊藤公平塾長の年頭挨拶、前半 ― 2026/01/15 08:29
1月10日は、第191回の福澤先生誕生記念会で、三田へ行った。 私の唯一の自慢、1960(昭和35)年に第125回の福澤先生誕生記念会が大阪で開催されたのに、志木高から行かせてもらったのは3年生の18歳、66年前のことだった。 1901(明治34)年2月3日に福沢先生が66歳で亡くなってから、今年は没後125年になる。 先生より18年も余計に生きて、小人閑居、何もできずにいるのが、どうにも恥ずかしい思いがする。
伊藤公平塾長は、年頭挨拶の冒頭、「慶應義塾の年末年始はコレだった」として、花園で活躍した志木高蹴球部のタイガージャージー色の応援タオルを掲げ、拍手を受けた。 12月27日の青森山田との一回戦を、塾長が花園で応援したと聞いている。(全国高校ラグビー一回戦、慶應志木48対12で青森山田に快勝<小人閑居日記 2025.12.29.>、全国高校ラグビー慶應志木高、東福岡高校に善戦健闘<小人閑居日記 2026.1.2.>)
塾長は、昨年、世界のリーダーたちが慶應義塾を訪れたが、それは塾に会いたくなる教授、研究者がいるからだ、と言う。 歴史の厚みがあり、これからにも期待している。 7月、1875(明治8)年の開館から150年になる三田演説館で、ウルズラ・フォン・デア・ライエン欧州連合(EU)委員長がスピーチした。 福沢の説いた「自由と独立」は、19世紀と今日をつないでおり、現在の課題の大切な答だというのだった。(慶應義塾が名誉博士号を授与したEU委員長<小人閑居日記 2025.11.14.>、福沢の「自由」と「独立」の追求は、現在の課題の答<小人閑居日記 2025.11.15.>、欧州と日本のパートナーシップ、学生へのメッセージ<小人閑居日記 2025.11.16.>)
11月、ICC国際刑事裁判所(赤根智子所長)のアジア太平洋学術フォーラムを慶應義塾で開催、アジア太平洋地域の10の大学が集い、国際刑事司法の地域連携、学術的立場から「自由と独立」を協議した。 ICCはプーチン氏やネタニヤフ氏など、戦争犯罪者に逮捕状を出している。 この問題は、19世紀末に重なる。 福沢は『文明論之概略』で、愚かな者に権力を与えると、どんなことも出来るといい、目的を定めて文明に進むの一事、内外の、明らかな独立を説いた。 智徳の進歩に、四章を割いている。 智恵では西洋に立ち遅れている、五官で感じ、好奇心を持って研究、探究するのが大事。 役立つものは受け入れ、害するものは外す。 学問、文学は心を和らげる。 歴史は、今後を明らかにする。
当時の日本は、外国交際病、貿易の搾取、「利を争うことは古人の禁句なれども、利を争うは即ち理を争うことなり」、外国人は利益を求めて、理屈を出してくる。 一人、一人の能力を高める必要がある、「一国の人民として地方の利害を論ずるの気象なく、一人の人として独一個の栄辱を重んずるの勇力あらざれば、何事も論ずるも無益なるのみ」。 昨今の国際情勢、利と理を考えないと、弱肉強食の世界になってしまう、現在進行形の問題である。(この部分は、安西敏三甲南大学名誉教授が、あとの記念講演「福澤諭吉の智徳論―J・S・ミルとの関連を中心に」で、述べたことと一致していたので、それで補った。)
豪徳寺、井伊家墓所と「桜田門外の変」 ― 2026/01/14 07:17
三田あるこう会、次に行ったのが豪徳寺。 世田谷に長く住んでいるが、豪徳寺へ行くのは、初めてだ。 「招き猫」の写真がSNSで広まってのことだろうが、行く途中で、外国人観光客と沢山すれ違うのに、びっくりする。 彦根藩二代藩主井伊直孝が鷹狩りの帰りに、門前で手招きする猫に導かれ寺の中に入ると、突如雷鳴が起こり、このことが縁で豪徳寺は井伊家の菩提寺になり栄えたそうだ。
豪徳寺には、大老井伊掃部守直弼の墓を中心にして、彦根藩主井伊家の広大な墓所がある。 実は本日の当番、日下部共代さんが「桜田門外の変」の日下部三郎右衛門の子孫、日下部家の方だという話は、前に南麻布の光林寺へ行き丸亀藩主京極家や高鍋藩主秋月家の墓所があった時に聞いていた。
安政7年3月3日は早朝から牡丹雪だった、午前9時頃、彦根藩上屋敷の門が開き、大老井伊掃部守直弼の行列60人余が、桜田門まで三、四町(約400m)を進んだ。 雪で視界が悪く、護衛の伴侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていた。 行列が桜田門外の杵築藩邸の前に近づくと、水戸浪士の森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に飛び出した。 彦根藩士・日下部三郎右衛門は、これを制止し取り押さえに出たが、森は即座に斬りかかったため、日下部は面を割られ前のめりに突っ伏した。 森が護衛の注意を前方に引きつけた上で、水戸浪士・黒澤忠三郎(関鉄之介、ほか多数とも)が合図のピストルを駕籠めがけて発射、これを合図に浪士本隊による抜刀襲撃が開始された。 防御側不利な形勢の中、彦根藩一の剣豪の河西忠左衛門や永田太郎兵衛正備も二刀流で奮戦し襲撃者側に重傷を負わせたが、共に倒れ、護る者のいなくなった駕籠に、次々に襲撃者の刀が突き立てられ、銃弾を受けて動けなくなっていたと思われる井伊直弼は討たれて、首級をあげられてしまった。
豪徳寺、井伊直弼の墓のある井伊家の墓所の入口に、日下部三郎右衛門の墓と、大きな石碑がある。 藩主を護れずに生き残れば切腹のところを、藩主を護って討ち死にしたので、こういう扱いになっていると、日下部共代さんは話す。 御主人は次男なのでこの墓には入れないが、そのご両親は入っているという。 立派な石碑は、維新後、朝敵の筆頭格と目された彦根藩の不遇の中、筆で身を立てた子孫の書だと聞いた。
世田谷区の中心部は、中世には吉良(きら)氏の所領で、この後、前を通った世田谷城跡が残っている。 江戸時代には、幕府領と彦根藩井伊氏の支配下となった。 この後、行った世田谷代官屋敷は、都内に現存する唯一の代官屋敷で、彦根藩世田谷領の代官を代々務めた大場家の居宅で、その居宅と表門は国指定重要文化財になっている。 門前の通りは、毎年12月と1月の15日、16日に世田谷ボロ市で賑わう。 ちょうど、明日明後日の開催だ。


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