出版社「工作舎」、雑誌『遊』、杉浦康平さんと造本 ― 2024/09/07 07:00
松岡正剛さん、父親の残した借金をなんとか返し終わって、自分なりに何かを始めなければという時期だった。 次は雑誌だな、と思っていたら、稲垣足穂の本を作った仮面社が雑誌を作らないかと言ってきた。 でも、うまくいかず、いったん断った。 誰も見たことのないメディアにするつもりで、再生して止めて、また再生する、早送りや巻き戻しができる、そういうビデオ的な雑誌が作りたかった。 1971年、元上司に100万円を借金して出版社「工作舎」を作り、雑誌『遊』を創刊した。 「遊」は、遊牧民(ノマド)からきていて、じっとして動く、動いてじっとする、読む人が遊牧的になるメディアを試したかった。 学問も自由にしたい。 国語、算数、理科、社会じゃなくて、それらをまたぐ対角線を発見したいと思っていた。 そのためには、メタフォリカル(隠喩的)な連想や見立てがもっと入っていい。 言語的で、かつ映像的な見立てが利くメディアを模索したかった。 後にこの方法を「編集工学」と呼ぶのだが、編集的な見立ての可能性をふんだんに増やそうと思った。
前に言った航空会社と化粧品会社は両方とも「お出かけ」でしょうみたいな見立てが入ると、まったくちがうものが連動する。 たとえば「神道」の特集に「化学」をぶつけるとか、見立てが利くか利かないか、ギリギリのところへ言葉を持っていく。
ただし、これをビジュアルデザインでやれるのは世の中に一人しかいないと思った。 それでグラフィックデザイナーの杉浦康平さんにお伺いを立てに行った。
杉浦康平さんは、東京芸大の建築科の出身なのに、グラフィックデザインに比べて「建築は線が甘い」と、驚くべき発想をする。 それと、広告ではなく、編集されたものをデザインすることに特化したいという思いを持っておられた。 正剛さんは、編集を生涯の仕事にしようと覚悟を決めていたので、作業と表現を厳しくやる人に学びたいと思った。 自分で『遊』創刊号のダミーを作って、「これをむちゃくちゃにしていただきたい」と頼みに行った。
杉浦さんは目が悪くて、「近乱鈍視だ」と言っていた。 お月様が九つに見えるらしく、そういう「知覚の月」をどうやったら表せるのかを考えていた。 デザインをお願いしたというよりも、考え方や後の「編集工学」の基礎を教わった。
杉浦さんの言うとおりにしようと思っていた20代後半と30代だった。 稲垣足穂『宇宙論入門』、「夕方に行ったらカフェが閉っていたけれども、月が昇ったら扉が開いて、そこに『宇宙論入門』があった、みたいな本にしたい」と言ったら、「ふうん、じゃあ穴をあけよう」と。 「そんなこと製本屋がやりますか」 「やらない。だから松岡君、見本持って工場を探してきてよ」と。 それからが大変だった。 稲垣足穂『人間人形時代』も、真ん中に穴があいている。 『全宇宙誌』は漆黒で、工作舎時代の造本はいまも語りつがれる。 正剛さんは、もうこれをやらないかぎりだめだと思っていた、編集力には「形」がいるのだ、と。
中退、借金返済に広告取り、『ハイスクール・ライフ』編集、稲垣足穂 ― 2024/09/06 07:07
松岡正剛さん、1963年に早稲田大学文学部に入学、新聞会に入るが、学生運動真っただ中、全学連の時代で、「早稲田大学新聞」はその拠点の一つだった。 だが、正剛さんは革命的マルクス主義一辺倒にはならず、途中から相対性理論とか量子力学とかに惹かれて、不確定・不確実なものを相手にすることに夢中になっていく。 マルクス主義や社会主義や共産主義では、正剛さんの世界観を変えるに至らなかった。
1967年3月、父が膵臓がんで亡くなり、借金を残した。 その返済で母に頼まれ、大学を中退して、銀座の広告代理店「PR通信社」に入り、広告取りに集中した。 たとえば、全日空とマックスファクターとか関係ない2社を選んで、「お出かけの日」のコピーをつけ、見開きの広告にしようと考える。 面白がられて、どんどん取れた。 いまだに正剛さんの「編集」には、「離ればなれを出会わせたい」という気持がある、という。
しばらくしたら、PR専門の「マーケティング・アド・センター」(MAC)という子会社を作ることになり、そこに移る。 東販(現トーハン)から高校生向けの読書新聞を作る依頼が来て、『ハイスクール・ライフ』という名前を付け、編集しまくった。 タブロイド判、表紙の絵は宇野亞喜良さん、唐十郎、倉橋由美子、野坂昭如、土方巽らの〝前衛〟に次々と登場してもらった。 全国の書店に無料で置き、当時のとんがった高校生はみんな読んでいたと思う。
その頃、出会った作家の一人が、稲垣足穂さんだった。 京都の桃山にお住まいで、ふんどし姿で応じられるのだが、初対面で「あんた、サムライみたいやなあ」、「『許さんぞ』という顔をしている」と言われた。 いつも酔ったような感じで、翻弄された。 「ホックと留め金、これが世界やで」とか、片言隻語でパーッと先に進む。 わかるようなわからないようなことを、おシャレな口調で言う。 前代未聞だった。 1969年にパステル画家と結婚、『ハイスクール・ライフ』の対談の収録と一緒に、新婚旅行先に稲垣足穂邸を選んだ。 妻も足穂にぞっこんで、後に挿絵を描くようになる。
稲垣足穂のセンスは、宇宙論と存在学、とくに物理学が好きで、それらが混じった独特の人体哲学を持っていた。 そこに独特のダンディズムが加わっていた。 わからなさこそが多重な意味を発するんだという思想だ。 足穂さんの言葉でいえば、何十層にもなっている雲母を傾けていくと、ある角度だけ隙間から向うが見える。 その瞬間を「薄板界」と呼んで、「それをわしは見たいんや」と言われていた。 「僅かなもの」「はかなさ」を重視しているのだ。
高校新聞で印刷所の現場、「編集のめざめ」 ― 2024/09/05 06:57
松岡正剛さん、科学への目覚めは小中学生のときからで、虫と鉱物と電気、この三つからほぼ同じだけ刺激を受けた。 虫は昆虫採集、鉱物は化石採集。 電気は、友達と結成した「電気倶楽部」で、乾電池をつなげた回路を作って模型の家を動かしたりした。 後々の寺田寅彦にぞっこんになることとつながる。 一方、思春期に自己をめぐる葛藤はなく、それより昆虫のデザインなど、自分を取り巻く世界の方が、圧倒的に面白すぎた。 同時に、教科書や先生の語り方が方法的に自由じゃないと感じるようにもなった。 生物や地学、物理や化学といった枠組みで捉えるのではなくて、あれも面白い、これも面白いと、世界を面白い状態のまま生き生きと見せることに関心を持つようになる。
高校入学の直前に、父が横浜・元町に呉服の店を出すことになり、横浜に越して、東京の九段高校に入った。 中学卒業のとき、ガリ版印刷で卒業文集のような冊子を作った。 そのとき京都の「アメリカ文化センター」で見たニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストが、ものすごくかっこよく見えて、新聞や雑誌というメディアに関心を持ち、新聞記者にあこがれた。 高校では出版委員会(新聞部)に入った。 『九段新聞』は日刊工業新聞社の印刷所で組み版や校正をしていたので、すぐ横では大人たちが赤鉛筆でゲラ(校正用の試し刷り)に書きこんでいたり、将棋を指しながらたばこを吸っていた。 そういう印刷の現場がかっこよく、活版印刷、段組み、見出し、「囲み」など、初めて出会う文化の技術だったので、ひとつ一つを知るたびに、ものすごく面白く、わくわくして夢中になった。 こんなに人を興奮させるものはないと思った。 活版職人というものに初めて出会ったのも大きかった。
それは世界を知る喜びや面白さとはまたちがって、メディアやジャーナリズムが持つ面白さだ。 知識や情報は、何かを媒介にして変じていくんだという驚きだ。 では、何が素材になって、誰がどのようにその「変化」を紡ぎ出しているのか。 松岡正剛さんの「編集のめざめ」がここから始まる。
(私もまったく同じ体験をした。「ルーツは高校新聞<小人閑居日記 2005.5.19.>」「「ゲラ刷り」を校正する仕事<小人閑居日記 2023.6.4.>」「高校時代「ゲラ」校正の思い出<小人閑居日記 2023.6.5.>」を書いていた。)
「編集」という方法、父の「組み合わせ」と母の「取り合わせ」 ― 2024/09/04 07:14
松岡正剛さんの『語る―人生の贈りもの―』は、「「わかりやすさ」に抵抗がある」で始まる。 反論があると言ってもいい。 むしろ複雑なもの、畳み込まれたもの、組み合わされたもの、重畳的であるということに、ものすごく惹(ひ)かれる。 たとえば、あるお菓子を「雪見だいふく」と名付けるのは上手なネーミングだとは思うけれど、それ以上に、大福とアイスクリームが一緒になったことが重要だ。 それこそが「編集」という方法だ。 モノ自体も見るけれど、方法だけを見るにはどうしたらいいのか。 そのことをずっと考えてきたような気がする、という。
なんだか、よくわからない。 なるほど「「わかりやすさ」に抵抗がある」というだけあって、私などにとっては、わかりやすくない。
松岡正剛さんは、1944(昭和19)年、戦時中の京都に生まれた。 父は呉服商を営んでいた。 悉皆屋というもので、自分では商品を何も持たず、白生地を先染めにするか後染めにするかを決めたり、着物に始まって帯に至るまで、いろんなものを組み合わせてご注文に応える。 注文主の趣味をぜんぶ把握していたようだ。 敗戦後の46年に、東京の日本橋芳町に越し、小学校3年の途中までいて、また京都市下京区、祇園祭で鶏鉾(にわとりほこ)を出す町内に戻った。 父はいわゆる町衆の旦那で、祇園や先斗町で遊びもしたし、歌舞伎や踊りなどの文化を楽しむことに非常に熱心だった。 正剛さんも、わりと小さい頃から南座に連れて行かれ、「一流だけを見ろ」と言っていた。 自分は一流でもなんでもないのに、ただ町衆としては、「ええもんだけ」を見たい(笑)。 顧客に贈りものをしたり、お芝居のチケットを提供したり、旦那衆だから、もてなす方が大事、サービスのし過ぎで、ついには不渡りを出してつぶれてしまう。
母は、同じ呉服屋の大店の娘、演劇が好きで、女学校時代にラジオのドラマコンクールで優勝したといい、絵も、俳句もうまいし、小唄も上手だった。 父と結婚してからは一切そういう才能を見せなくなったが、正剛さんにはすごく影響を与えてくれた。 鉛筆の削り方から文字の書き方、本の読み方まで。 ルビの入っていないところに自分で入れてみなさいと促したのを覚えている。 それから、京都らしい旬のもの、来客に出すお茶が季節ごとに変わるとか、そういうモノとコトの取り合わせを教えてくれた。
(私の父も「一流」ということを言っていた。<等々力短信 第753号 1996.10.25.>「渚ホテルから」に、こう書いていた。「幼時に上京して、養子として育った私の父は、家族団欒をとりわけ大事にした人で、よく家族で食事に出かけた。 子供の友達が来れば、一緒に連れて行った。 父の基準の「一流」が、世間の評価と一致するかどうかわからないけれど、子供には幼い時から「一流」のスポーツを観せたり、レストランで食事を共にしたりすることによって、雰囲気になれさせたいという気持があったようだ。」)
松岡正剛さん、情報や文化を組み合わせた「編集工学」 ― 2024/09/03 07:10
松岡正剛(せいごう)さんが、8月12日に亡くなった。 1944年、京都市生まれ、80歳だった。 訃報は、「情報や文化を独自の視点で組み合わせる「編集工学」を提唱し、日本文化を幅広く論じた編集者・著述家」と。 早稲田大学文学部仏文科を中退後、広告会社勤務を経て、71年に出版社「工作舎」を設立、雑誌「遊」を創刊し、みずから編集長を務めた。 87年に編集工学研究所を設立、「情報の歴史」や「知の編集工学」など、情報や編集をキーワードに文明の歩みをたどる著作を次々と発表した。 美術や宗教も幅広く論じ、「日本という方法」など日本文化論にも取り組んだ。 2000年からインターネット上で読書ガイド「千夜千冊」の連載を始め、今年7月の1850夜まで続けた。 編集工学を教える「イシス編集学校」では校長、20年からは角川武蔵野ミュージアムの館長を務めていた。
松岡正剛さんは、ずっと気になる人だった。 「編集工学」というものも、よくわからないながら、関心の範囲が近いという感じを持っていた。 私は、高校新聞部出身で、ずっと個人通信(ひとり新聞)の発信をつづけてきた。 加藤秀俊さんの『整理学』、梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』以来、情報の処理、発想法に関心を持ち、インターネットのパソコン通信にも初期から関わることになった。 仕事は零細な町工場の経営だったから、経験の範囲が狭いので、書くものはどうしても本で読んだものが多くなる。 好奇心の範囲は、学校の関係から福沢諭吉、幕末を中心とした日本の歴史と文化、子供の頃から好きだった落語、そして文芸、俳句と、雑多で広い、言わば雑学である。
松岡正剛さんは、今年3月11日から29日まで、朝日新聞朝刊文化面の『語る―人生の贈りもの―』で14回にわたり、その人生を山崎聡記者に語っていた。 切り抜いてあったので、読み返してみたい。
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