「校正・校閲」者、牟田郁子さんの『文にあたる』2023/06/02 06:59

 ときどき書くけれど、高校新聞部出身だから、誤植の発見は、私の得意技であり、不寛容の欠点でもある。 珍しく岩波文庫で発見した、永井荷風「『問はずがたり・吾妻橋』の『墓畔の梅』、「一樹の海」は「一樹の梅」の誤植ではないかと、<小人閑居日記 2020.12.30.>に書いたこともあった。

 「校正・校閲」を仕事にする牟田郁子(さとこ)さんの『文にあたる』(亜紀書房)の書評を読んだ。(朝日新聞2022年10月8日) 本や雑誌の文章に一文字ずつあたり、誤植や間違い、内容の疑問を「拾って(傍点)」は、ゲラ刷りに鉛筆で指摘を入れる。 ときには10行ほどの校正を終えるのに、図書館で資料を探すところから数えて4日間かけることもあるという。

 校正者は間違いが見つかれば責められるが、完璧な仕事をしても褒められることはないという黒衣の存在である。 「畳の埃(ほこり)と誤植は叩けば叩くほど出る」なる言葉があるのだが、この仕事には「失敗は許されないが常に失敗しているという矛盾」がある、と牟田さんも書く。 評者のノンフィクション作家・稲泉連さんは、「その矛盾を引き受けながら、それでもこつこつとできる限りの仕事をしようとする著者の本への眼差しに、まるで人生そのものを語っているかのような熱量があるのだった」と。

 世の中には「校正」を通さない本も多く存在するのだそうだ。 だからこそ、本が信頼できるものであるために何が必要なのか、そう問い続ける牟田さんの思考からは、本への深い愛情とともに、「本作り」にかかわることへのプロフェッショナルの姿勢が伝わってくる、という。

出版の自由、地方分権、交詢社2023/05/31 06:58

川崎勝さん「明治八年に讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例が出る。その時にまともにその批判をしているのは「郵便報知」だけで、小幡の署名で、明らかに讒謗律に対する批判として記事が出されます。ほとんど注目されていませんが、これも小幡の功績です。結局、小幡は出版の自由を強調することの意味を他の誰よりも意識していたのではないか。その結果、福沢がいろいろな著作を出していく中で、福沢を守っていくことになったのではないか。だから、文明の先達者というと福沢のイメージがありますが、そういう基本的なことのリーダーシップを取った人物だと私は小幡を評価したいと思います。トクヴィルは自由民権運動が起こってから騒がれるわけだけど、その時よりも『上木自由之論』(明治六年)のほうがインパクトはあったわけで、津田(真道)の『泰西国法論』とミルの『自由論』が植木枝盛などに影響を与えて自由民権運動に行く。その思想的根拠を与えたものの一つが『上木自由之論』であったと見ているんです。」

 大久保健晴さん「出版の自由を取り締まっていくと専制に至るという、政治哲学的にも重要なトクヴィルの議論が、この時期に翻訳にされたことは、明治思想史上においてもきわめて大きな意義があります。」(馬場註・どこかの国の大統領や首席に読ませたい。)

西澤直子さん「福沢の場合、早くに江戸に出てきており、福沢の周りの中津藩の人たちは、実際に版籍奉還から廃藩置県までの混乱を収拾しなければならない立場にはなかった。福沢は小幡が訳したりまとめたものを見て「そういうことも問題なのだ」と思い、自分の著作にそれを取り入れるという構造があるのではないかと思います。そこを明らかにしないと福沢の実績もわからないし、明治の変革期の実際に行政にいた人たちが何を考え、どう新しい社会をつくっていったのか、というところも見えなくなってしまうかと思うのです。」

川崎勝さん「(明治十三年にできた)交詢社は、最初の一、二年は官僚から政治家、思想家など、あらゆる層の人たちが入っている。それから地域も非常に多岐にわたり、慶應出身者が中心につくった団体だけど、(小幡は)政府に対抗する一つの言論機関として位置付けていたのではないかと見ています。ただ、明治十四年政変以前は、福沢としては言ってみれば、旧体制側ではない政治家たちを含んだ一つの言論機関をつくっていきたいと思っていた。それは福沢がずっと『西洋事情』以降唱えてきた、文明化の象徴としての議論を中心に置いた存在として位置付けるということです。小幡がどう動いたかははっきりとは見えないのですが、とにかく小幡を軸にして、荘田平五郎、矢野文雄、馬場辰猪らのメンバーが議論をしながら交詢社をつくり上げていった。外部から見た場合、やはりいくら違うといっても、一つの政治「的」団体とみなされてしまうのは当然の成り行きだと思う。」

大久保健晴さん「福沢はギゾー、バックルの文明史、文明論に関心があったのに対し、小幡はむしろミルやトクヴィル、つまりは言論の自由や地方自治などに関心を向けた、ということになるでしょうか。」

西澤直子さん「小幡は継続して地方自治に関心を持っていて、しかも福沢より政治的な関心、政治体制に対する関心は強かったのではないかと思います。だから、交詢社も一つの政党だと捉えられてもいいと考え、私擬憲法案を出していったのではないか。一方で、交詢社の仲間を紹介しあったり、情報交換のネットワークの核に小幡がなっています。小幡にとって交詢社は一つの世務諮詢、世の中の情報を交換し合う機関でもあった。特に中央と地方の情報量の差をなくそうという気持ちが強かったのではないか。やはり政治のあり方を考えた時に、都会でも地方でも、同じ情報量を持つことが重要であると思ったのだと思います。」

明治日本の政治課題に取り組む福沢と小幡の共同作業2023/05/30 06:58

 もう少し、川崎勝さん、西澤直子さん、大久保健晴さんの三人閑談「小幡篤次郎を読む」を読んでみたい。

 川崎勝さん「問題の一つは『学問のすゝめ』の初編は小幡・福沢共著だということ。それは中津市学校として、中津に向けて出すには、福沢より小幡のほうが顔が利くからと言われています。ただ、私にはそれだけではないように思われます。共著の意味をもう少し重要視したいと思っています。」

 「後に、「時事新報」が発刊されると、「不偏不党」をモットーにします。しかし、あれは単に政府に対する隠れみのであり、全て、福沢と小幡が立案して読んでやるのだと明言している。全て福沢と小幡が「検閲」しているわけです。福沢の党派性の表れる言論機関と私は位置付けています。つまり、「時事新報」に掲載されたものは福沢・小幡の考えで、その議論の中から一つの方向へ導いていくスタイルを取っていた。これは『学問のすゝめ』以来、一貫して小幡と福沢が共同してやってきたことではないか。だから、福沢の陰で小幡が支えたのでもなく、言ってみれば二人の共同作業ということが前提にあるのではないか。」

 「『西洋事情』以降ずっと福沢が絶えず出してくる問題を、しっかりと原典から、根拠を示しながら伝えていこうとしたのが小幡だったのではないか。だから、合体して一つの作品をつくり上げた関係と言えるのではないでしょうか。」

 大久保健晴さん「小幡の著作活動の注目すべき点はジョン・スチュワート・ミルとトクヴィルという、福沢が文明論や地方分権をめぐる政治論を展開する上で、非常に重要な思想的源泉となる著作の翻訳を行っていることです。『上木(じょうぼく)自由之論』は、フランスの思想家トクヴィルが著した『アメリカのデモクラシー』の中の出版の自由に関する議論を、小幡が明治六年に英訳版から重訳した翻訳書です。トクヴィル受容の点でも、また出版自由を論じた点でも、非常に早い時期に公刊された貴重な作品です。」

「小幡はその後、明治九(1876)年になると同じくトクヴィル著『アメリカのデモクラシー』の英訳版から、「義気」(public spirit)や、「政権」(government)と「治権」(administration)の区分ならびに集権と分権について論じた箇所などを訳出し、『家庭叢談』誌上に発表しています。これらの翻訳は、同じ頃に執筆された福沢の『分権論』(明治十年)の中で紹介されており、福沢は小幡によるこれらの翻訳から影響を受けていたと推測されます。」

「よく知られるように福沢の『分権論』は、不平士族の反乱が問題化する同時代の政治状況について正面から論じた作品です。そのなかで福沢は小幡によるトクヴィルの翻訳を引用しながら、人々が「政権」ではなく、それとは「源を異」にする「治権」、すなわち「公共の事」に与る「地方分権」を確立し、「自治の精神」に根差した「愛国心」を養うことの重要性を唱えています。」

 「英文と比較すると、小幡の翻訳意図が浮かび上がってきているように思える箇所にいくつも出会います。(その一例)愛国心を自然的なものと合理的(rational)な性格を持つものとに区分するトクヴィルの議論が翻訳されています。特に後者の合理的な愛国心は、福沢の『分権論』の中で、「道理」に適う「推考の愛国心」として紹介されます。ここでトクヴィルは、loyaltyを、前者の自然的な愛着に基づく、一種の宗教とも言える愛国心の一形態として説明しています。興味深いのは、小幡がこのloyaltyに「尊王」という訳語をあてていることです。それにより読者は、小幡の訳文を通じて、「尊王」思想のような愛国心は自然的な愛着による一時的なものであり、これからの世の中はそれとは異なる、政治や行政への参加に基づく合理的な愛国心が求められている、と理解するのです。ここからは、小幡にとって翻訳は単に学問的な営みであるだけでなく、実は一つの政治的行為でもあったことがうかがえます。」

「福沢は『分権論』の序文で、「この書一篇は、我社友、随時会席の茶話を記したるもの」と述べています。小幡や福沢は「会席」を通じて、自らの学問的成果を披露しつつ、現今の政治について語り合ったのでしょう。学問と政治との間を往還しながら討論を繰り返す、当時の慶應義塾の姿が目に浮かぶようです。こうして彼らはトクヴィルなど西洋の思想家の著作に触れ、そこから知的触発を得て、眼前に広がる明治日本の政治課題に取り組んだのです。」

小幡篤次郎と福沢諭吉2023/05/29 06:56

 5月20日、公開講座「小幡篤次郎の再発見」の第1回、西澤直子さんの「小幡篤次郎小伝」を聴きに、三田キャンパス東館6階G-lab(この部屋は初めて)へ行った。 慶應義塾福澤研究センター・福澤諭吉協会共催の、『小幡篤次郎著作集』刊行記念の公開講座で、12月まで全5回の予定である。

 その内容は、あとで触れることにして、大久保健晴さんが参加していた、去年8・9月号『三田評論』、川崎勝さん、西澤直子さんとの三人閑談「小幡篤次郎を読む」を読んでみたい。

 川崎勝さん「ウェーランドというと福沢だけれど、ウェーランドの原書を買ってきたのは小幡です。英語の書物については小幡の着眼点は非常に優れていた。それで小幡が「これ、面白いよ」と福沢に渡したのを福沢が読んでいくというような関係ができていたのではないか。だから、両者は相互関係にあった。」

 大久保健晴さん「これまでは福沢諭吉という光があまりにも強すぎ、小幡はその右腕という位置付けでしかなかった。しかし、実際には互いに切磋琢磨し、福沢自身も小幡から多分に影響を受けていたのかもしれません。『文明論之概略』でも、福沢は緒言の中で、「就中(なかんずく)、小幡篤次郎君へは特にその閲見を煩わして正刪(せいさん)を乞い、頗る理論の品価を増たるもの多し」と記しています。」

西澤直子さん「私は、小幡は福沢とはまた別に、明治の近代化社会をどうつくっていくべきかを考えていたと思います。彼の封建制から郡県制にどうかわっていくのかという視点は、単に徳川からの変化ではなく、六百年来の変化を考える中で封建から郡県への転換をどうしていくのかという関心だと思います。その中で、慶應義塾で何を学生たちと一緒に読み、議論すべきかを考え、トクヴィル、あるいはミル、それから海外の宗教論などを翻訳・紹介してきた。小幡は学生を教え、一緒に議論しながら、自分の著作にまとめて行ったのではないかと思います。」

「小幡の中では「吾党(わがとう)」という意識がすごく強くあり、福沢とは別の考えを持っているのだけれど、一つの大きな仲間内であるという意識は持っていたのだと思います。そして、だんだん吾党のために小幡が背負う部分が多くなっていってしまった。明治十年以降、西南戦争があり、義塾の経営が傾いていくと、義塾を維持していかなければという気持ちが小幡は福沢よりも強く、その仕事がどんどん増えていった。福沢は亡くなるまで本を出し続けますが、小幡は明治二十一年を最後に、単行本は出していない。また交詢社は福沢が書いているように、発案も小幡であると思いますが、その実務は彼で、「時事新報」にしても、福沢がどれだけ記事の校閲をしたかは怪しいし、小幡の負担はどんどん大きくなっていったのではないかと思います。」

「なぜ小幡が地方自治に関心を持ったかと言えば、中津藩の上士階級に生まれたということが大きかったと思います。実際に版籍奉還以後、廃藩置県までの中津藩の行政を担った人たちは小幡の仲間だった人たちで。」

「小幡の著作、特に明治十年ぐらいまでの著作はとても重要です。それは小幡を知るだけではなく、その時期に日本に訪れていた変化がどんなものであったかを知るためにです。それを知ってもらうことに『著作集』刊行の一番の意義があると思います。」

福澤諭吉協会・慶應義塾編『小幡篤次郎著作集』(慶應義塾大学出版会)は現在、第1巻、第2巻まで、刊行されている。

「慶應義塾之記」、「蘭学」の伝統と「洋学」2023/05/28 07:33

 福沢諭吉が慶応4(1868)年4月、塾を築地鉄砲洲の中津藩中屋敷から芝新銭座に移し、「慶應義塾」と命名した際、小幡篤次郎が文案を起草し、福沢が加筆した「慶應義塾之記」は、志を同じくする人々が互に切磋琢磨しながら「洋学」を講究する機関として、今ここに「義塾」を創立すると宣言する。 「士民を問わずいやしくも志のあるもの」、つまり武士や平民という身分を問わず、志があれば来学を歓迎する、と表明した。

 そしてまず、「洋学」の来歴として「蘭学」の歴史が語られる。 安政6(1859)年の横浜見物から10年近く経っているのに、だ。 「洋学」の起源は、オランダとの通商交易に携わった長崎のオランダ通詞に遡り、青木昆陽、前野良沢、杉田玄白らが「和蘭の学」を志すなかで「洋学」の基礎を築き、日夜、寝食を忘れて研究に取り組み、ひたすら「自我作古の業」に専心、大槻玄沢、坪井信道、箕作阮甫らを経て、緒方洪庵に至り、「読書訳文の法もようやく開け」、多くの翻訳書が公刊され、こうして「蘭学」が成熟した。

 そして、嘉永年間のペリー来航を契機にアメリカをはじめ西洋諸国と諸条約を結ぶなかで、「世の士君子」はみな、西洋世界の事情に通じることが「要務」であることを知るようになる。 ここに至って、オランダ語を媒介に「医」学ならびに「窮理、天文、地理、化学等の教科」を中心とした「蘭学」は、西洋諸国の諸言語を学び「百般の学科」を対象とする「洋学」へと発展した。 ただし、「蘭学」と「洋学」は決して断絶して捉えられるものでなく、「蘭学」自体が徳川日本の「洋学」であり、ペリー来航以降の「洋学」の起源である。

 そう論じたうえで、福沢と小幡たちは、高らかに主唱する。 「洋学」の教育と探究を目的とする「吾が党」慶應義塾もまた、「古人の賜」、すなわち徳川期における「蘭学」の学問的伝統のうえにこそ成り立つ。 この命脈を引き継ぎ、「洋学」を世の中に教え広めるのが慶應義塾の使命である、と。

 こうして福沢諭吉は、「慶應義塾」の誕生に際し、自分たちの学問は「蘭学」の分厚い蓄積と精神を継承し、それを基礎に新たな「洋学」の道を切り拓くものであると強く主張した。 福沢はこの学問観と歴史認識を生涯にわたって抱きつづけた。 と、大久保健晴さんは指摘している。