柳家喬太郎の「品川発廿三時廿七分」後半2026/04/01 07:09

 旅館の上州屋、お客様のところに、若い女のお客様が俥に乗っていらっしゃいました。 お若さんかい。 間一髪で、伯父の所から逃げて来ました。 わかりました、すぐに新橋へ行きましょう。 人力車に乗る。 新橋発8時20分、横浜行。 乗るんだ、乗るんだ! と駆けつけるが、大きな扉が閉まる。 不人情じゃないか、これが明治というものか。 すぐに切符を買って、次の横浜行9時10分を待つ。 伯父の追手が来るんじゃないかと、気が気でない。 8時55分発の赤羽橋(?)行で、品川へ行きましょう、15分後に横浜行が来る。

 あっという間に品川に着く。 火事だ! 火事だ! 女郎屋から火が出た。 逃げろ! 逃げろ! 雑踏で、大変な状態。 二人は離れ離れになる。 パニック状態で、駆け抜ける。 今日の女、上物だったが、火事騒ぎで、勘定も払わずに逃げ出した。 食い逃げじゃなくて、乗り逃げだ、ありがてえ。 またぞろ、あの女のツラが瞼に浮かぶ。 墨染の勘太、一人の女のことを、思い出す。 大工の見習いをしていた時、離れのお若さんに一目惚れした。 いい女だった。 仕事に行くのが楽しみになったが、仕事に行かなくなった。 こんな稼業に身を落として、女郎屋通い。

伊之助と、はぐれたお若。 帰ろう、帰ろう、品川から新橋まで行こう。 伊之さん、どこへ行ったの。 10時、11時の境になる。 11時15分横浜行に乗らなければ。 どんなに探しても伊之さんはいない、一人で神奈川へ行こうと、二等の切符を買う。 墨染の勘太が、お若さんじゃないか、こんな所でお目にかかるとは思わなかった。 一目惚れした女が、目の前にいる、盆と正月がいっぺんに来たようだ。 お嬢さん、今晩は、こんな夜更けにどこまで。 横浜まで。 12時になる。 ほっといて、下さいな。 心配でしょうがない、お若さん。 なぜ、私のことを。 駆け落ちのし損ないでしょう。 伯父の新斎に頼まれた追手ですか。 一緒に帰りましょう。 勘太は、お若の周りを影のように付いて廻る。

品川11時27分発、雑踏の最終、二等に乗る。 勘太には会わない。 神奈川に着く、ステーションに伊之助はいない。 どこへ行っちゃったの。 外に出て、宿を探す。 ふと前を見ると、お嬢さん、何だ探しちまったぜ、ウハハハハ! 一緒に来ねえな。 やめて! 死んで! と、ドンと突くと、勘太は尻餅をついた。 逃げ出すと、提灯を持ったお爺さんに、ドンとぶつかった。 お女中、どうしました。 悪い男に追いかけられて、助けて下さい。 その女、俺のもんだ、渡せ。 乱暴なことをしないで。 品川を足抜けしやがったんだ。 こっちへ出しなされ。 おっ、お前は勘太でねえか。 親父! (お気持はわかります、しゃべっていても、どうだろうと思う。このまま、やります。) 畑、継がねえで、背中に彫り物、どっちを信じる。 年は取っても、実は倅が弱いことを、俺は知ってる。  覚えてやがれ。 出来の悪い倅で。

駆け落ちでして、神奈川で育った一中節の菅野伊之助と。 そらぁ、おらんとこで育ったたんだ。 (お気持はよくわかります。でも、変えられない。ご都合主義のストーリー展開。) おらんとこへ来るかい。

翌日、伊之助が来て、二人は結ばれる。 岩松という息子が生まれる。 二十年経って、東京へ戻って、伯父さんに謝る。 これから三遊亭円朝作といわれる「因果塚」の噺が展開することになります。

矢野誠一『新版 落語手帖』の「お若伊之助=因果塚」2026/04/02 07:05

 昨日、最後に「これから三遊亭円朝作といわれる「因果塚」の噺が展開することになります。」と書いたが、この柳家喬太郎の噺は、すでに「因果塚」から展開しており、そこからまた新たな因果噺が展開するのであった。 矢野誠一さんの『新版 落語手帖』の「お若伊之助=因果塚」では、町道場を開いているのは長尾一角で、お若と伊之助が手切金三十両後も密会し、お若の腹が大きくなったのを知り、鳶頭初五郎を問いただすと、伊之助は初五郎との吉原通いで根岸に行けるはずがないと判明する。 その晩、一角は初五郎の目の前で、種子島の火縄をつけ、訪れた伊之助を撃った。 死んだのは、伊之助ではなく大狸。 お若が伊之助を恋い慕うところから狸が姿を借りて通ったもので、十月たってお若が産み落としたのが狸のふた子、これを手厚くほうむったのが、根岸御行の松のほとり「因果塚」の由来一席、となっている。

 矢野誠一さんは【成立】に、「三遊亭圓朝作と伝えられるが、疑問視するむきが多い。1談洲樓燕枝、4橘家圓蔵、5三遊亭圓生などが演じた」と書いている。

 【藝談】「親父(5圓生)が演っているのを傍で聞いて覚えたものです。演り出したのは親父が亡くなってからですが、最初は軽すぎるといわれました。三遊亭圓生」

 【能書】「根岸名所の「御行の松」は、弘法大師が御行法を行った所という伝説があり、大樹だったが1928(昭和3)年枯死した。樹齢五百年だったという。二代目の松は、1956(昭和31)年寛永寺から寄贈されたもの。」とある。

さらに展開する、新たな因果噺は、また明日。

「根岸御行の松 因果塚の由来」2026/04/03 07:08

 実は柳家喬太郎、昨年の9月2日の第687回落語研究会で「お若伊之助」を演っていた。(柳家喬太郎の「お若伊之助」前半<小人閑居日記 2025.9.9.>、柳家喬太郎の「お若伊之助」後半<小人閑居日記 2025.9.10.>)

 そのラストを、私はこう綴っている。 「高根新斎は六連発の短筒、ピストルを手にして、参るぞ。 バン! 弾は伊之助の胸元を貫いて、お若は気を失う。 伊之、面を見せろ、先生、伊之助じゃござんせん。 狸! 年経る狸でございます。 夜毎、たぶらかしにきていたのだ。  一件落着でございますね。 さて、どうかな。 先生! 身共の見立てたところ、お若は懐妊しておる。

 十月十日が過ぎて、子供が生まれた。 男と女の双子、タネは狸だ。 お若が、愛しいのはわかるが、このままではいけない。 よい里親を、二組見つけて、育ててもらうことにした。 しかし、運命の糸は、これから狂って参ります。」

  『アーバンライフ東京』というサイトの「東京すたこら落語マップ(7)」に、櫻庭由紀子さん(落語・伝統話芸ライター)が、「お若伊之助」のさらなる物語の展開を書いている。(https://urbanlife.tokyo/post/29778/

 お若の産んだ双子は、男の子と女の子で、伊之吉、お米と名付けられる。 伊之吉は、鳶頭・初五郎の口利きで大工の棟梁・芳太郎に、お米は大阪の豪商越前屋佐兵衛に養子に出される。 お若にどこか嫁に行くように勧めてみても、かたくなに行こうとしない。 そして、西念寺に庵を構え、お若は尼として閉じこもるようになる。

 そのうち、ある一中節の門付けが毎日やって来るようになる。 彼こそ伊之助、再会した二人は、人目を忍んで逢瀬を重ねるようになる。 しかし叔父に知られてしまうところとなり、二人は神奈川へ駆け落ちする。 やがて二人に子供が出来、岩次と名付け幸せに暮らし始めた。

 時が経ち、品川の和国楼という廓で、花里という女郎と良い仲になったのが、お若が産んだ伊之吉だった。 花里が身請けされそうになり、二人は見世抜けをして品川から逃げる。

 一方、お若と伊之助が神奈川で生んだ岩次も十八になった。 叔父のところに謝りに行こうと、根岸へ行く。 すると、叔父は「お若はあれからずっと伏せって根岸の家で暮らしている」と言う。 さてはまた妖の類いかとみれば、どちらのお若も変ったところがない。 二人とも、正真正銘のお若なのだ。  そこに追われて駆け込んで来る男女。 伊之吉と花里だ。 二人は瓜二つ。 花里はお若が産んだ双子の女の子、お米だった。 叔父はお米を身請けしたが、伊之吉とお米は兄妹のため結婚することはできない。 契りを結んでしまっていた二人は、綾瀬川に身を投げて心中した。

 そして二人のお若の方はというと、叔父は人の身体が分身し生活するという離魂病を思い出す。 わかれたふたつの体は、同じ空間に存在すると死んでしまうという。 明くる日、伊之助とともに暮らしたお若は消えており、根岸のお若も死んでしまった。

 伊之助は絶望し首をくくり、岩次は両親と兄妹を弔うため仏門に入った。 そして、谷中へ一基の因果塚を建立。 因果塚の由来の一席。

 矢野誠一『新版 落語手帖』の「お若伊之助=因果塚」は、1914(大正3)年の3代目春風亭柳枝の速記と同じ内容になっている。 元々の三遊亭圓朝の噺がどんなものだったかは謎という。 1927(昭和2)年出版の春陽堂版『圓朝』全集を編纂した鈴木行三氏によれば、「これは圓朝の『因果塚』を、偽作屋が勝手に小細工をして、圓朝没後圓朝の名で出版したものと思われます。圓朝の『お若伊之助』の速記が出来ていない為已むを得ず参考として編入したのであります」ということなのだそうだ。

三遊亭圓朝「闇夜の梅(穴釣三次)」の言葉から2026/04/04 07:30

 実は、矢野誠一著『新版 落語手帖』で「お若伊之助=因果塚」を見つける前に、永井啓夫著『三遊亭圓朝』(青蛙房)で「お若伊之助」がないか探したのだった。 「作品解題」の≪怪談噺≫には、「真景累ヶ淵」「怪談牡丹燈籠」「鏡ヶ池操松影」「怪談乳房榎」しかなく、≪落語≫にも「鰍沢」「大仏餅」「黄金餅」「死神」「心眼」「士族の商法」「にゅう」「世辞屋」「笑い茸」しかなかった。 《人情噺》《芝居噺》《伝記物》にも、それらしいものはなかった。

 本棚には、森まゆみさんの『円朝ざんまい』(平凡社)という本もあった。 この本もざっと見たのだけれど、それらしいものは見つからなかった。

矢野誠一さんの【成立】にあった「三遊亭圓朝作と伝えられるが、疑問視するむきが多い。」というのが、正しいのだろう。

そんなことで、森まゆみさんの『円朝ざんまい』に脱線する。 この本、副題は「よみがえる江戸・明治のことば」という。 冒頭の章は「闇夜の梅 円朝、来し方の秘話」である。 「闇夜の梅」は、永井啓夫『三遊亭圓朝』の「作品解題」では《人情噺》にあり、「穴釣三次」という副題がついている。

その[梗概]、「浅草三筋町の紙商甲州屋は後家お杉が営んでいる。手代粂之助は主家の娘お梅と通じたため、頭の口利きで店を出される。

谷中長安寺の住職をしている兄玄道の許に立ちのいた粂之助を追って、お梅は上野三橋まで来る。夜釣りの男に逢い、長安寺の門番だとだまされてかどわかされる。

翌日、千駄木の植木屋九兵衛と名のる男がお梅の巾着を証拠に現われ、粂之助に兄の金八十両を持ち出すようすすめる。

不忍池にお梅の死体が発見され、甲州屋の番頭は粂之助を怪しむ。お梅の巾着や盗んだ寺の金八十両があらわれ、粂之助は玄道に追求される。

そこへ現れたのは夜釣りの男――実は下谷で名高い盗賊穴釣り三次で、話の中に玄道の弟、粂之助の兄であることが知れる。

お梅殺し、その他の悪事を後悔した三次は自訴して三宅島へ送られる。

刑をすませて帰ってからは兄玄道の弟子となり、長安寺の後住となる。また甲州屋は粂之助が継ぐことになる。」

森まゆみさんの『円朝ざんまい』、副題に「よみがえる江戸・明治のことば」とあるように、円朝の使っていた言葉に注目する。 紙商甲州屋のある浅草三筋町についても、「三筋町があるから、其側(そのそば)に三味線堀といふのがあるなどは誠にをかしい、それゆゑ生駒(いこま)といふお邸(やしき)があるんだなんぞは、後から拵へたものらしい。下谷があるから上野があつて、側に仲町(なかちゃう)がありまして上中下と揃つて居る。」と、円朝の速記を引いて、つぎのように説明している。 「三筋町は、桟町(さんまち)ともいった。浅草と下谷との境であって、かつては鳥越神社の社地で、道路が三本きれいに通っている。三味線堀はそのとおり三味線の形をしていた。三味線の糸は三本、糸と胴の間にはさむのが駒、円朝はどこまでも言葉遊びを忘れない。」と。

お梅という十七歳のお嬢さんが、たいそうな別嬪(べっぴん)で、粂之助という心根は優しく、しかも美男の立派な手代と仲が良く、どうも夜中しのんで会っているらしい。 「円朝はデキテルなんて不粋な言葉は使わない。『事によつたら深い贔屓(ひいき)にでもしてゐはせぬか知ら』と母は心配するが『気の付きやうが遅かつた』のである。」 「ほかに作中、「子細(わけ)」「懇(ねんごろ)」といった奥行のある言葉が使われる。これがはっきりすれば「あやしい情交(なか)」「私通(いたづら)」「不行跡(ふしだら)」。なんと多彩なのだろう。」

「闇夜の梅」、三遊亭円朝「来し方の秘話」2026/04/05 07:18

 森まゆみさんの『円朝ざんまい』で「闇夜の梅」が、「円朝、来し方の秘話」となっているのは、つぎのようなわけである。 森まゆみさんに『不思議の町・根津』(山手書房新社)という本があり、「谷底の文化人たち」の章に、「三遊亭円朝」という項がある。

 円朝は本名を出淵(いずぶち)次郎吉といい、天保10(1839)年湯島切通し、俗にいう根性院横丁に生れた。 いまの岩崎邸のあたりである。 母すみが谷中三崎(さんさき)辺で寺院の手伝いをしていたころ、父長蔵(橘家円太郎)といっしょになり円朝が生れた。 すみには前夫との間に徳太郎という子があり、この人がのち谷中長安寺の住僧となる玄昌である。

 円朝は、父に従って早くから高座に上るが、母や兄は芸人になるのに反対し、池之端茅町の寺子屋山口に通わせたり、(この学校が、のちに樋口一葉の通った青海学校である)、池之端仲町の両替問屋「葛西屋」に奉公に出したり、玄冶店の浮世絵師歌川国芳に絵を習わせたりした。 一方、父円太郎は放縦で家にも寄りつかず、一時は兄玄昌のはからいで、円朝は母と谷中長安寺の門番小屋に暮らしたりしたが、やはり持って生れた血というか高座を忘れかね、寺男をしながら修業に打ち込んだ。

 安政2(1855)年17歳の時、浅草森下金龍寺の初代円生の墓前で衰退した三遊派の再興を誓って円朝を襲名し、独立した。 二人の内弟子をとったのが根津七軒町の裏店の桶屋で、弟子より早くおきて手拭かむりで炊事する円朝を、近所の人たちは女房と思っていたとか。

 真打となり、安政の大地震で命は助かった円朝は、池之端の今度は表店に父母を住まわせ、浅草の高座に通う。 円朝は孝行者で父母の面倒を見、師二代目円生が亡くなると墓を立て、遺児二人を養育している。 が、芸風はこのころ派手で、役者の声色や鳴物を用い、赤い襦袢の袖などひらつかせて女性ファンをキャアキャアいわせたと岡本綺堂が書いている。

 円朝がいわゆる芝居噺をやめ、扇子一本の素噺に戻ったのは明治になってから五年目である。 とくに明治九年、高橋泥舟や山岡鉄舟の生き方に影響を受け、家庭的な心労(母の死、妻との不仲、息子朝太郎の非行)も重なる中で開眼し、芸を磨いていった。

 「闇夜の梅」は、幼いころの母子の苦労とやさしい兄の思い出の物語ともいえる。 三崎坂を上ったところに、兄玄昌のいた谷中長安寺がある。 玄昌は永泉と名を改め、小石川極楽水是照院で住職となった。 森さんは、円朝作品に詳しい柳家小満ん師匠に、円朝の羽織の紋が高崎扇なのは、兄玄昌の寺、是照院の紋所だからではないかと、教わったそうだ。 この寺は上州高崎藩主大河内家の菩提寺で、高崎扇は大河内家の紋所なのである。 紋付の羽織は噺家の必需品だが、別に家紋でなくてもよく、円朝の兄を慕う心が紋に現れたのではないか、と。