鷲田清一さんの『折々のことば』と気が合う(1)2022/12/06 07:09

 10月20日に発信した「世の中、ついでに生きてる」<等々力短信 第1160号 2022(令和4).10.25.>で、朝日新聞朝刊一面、鷲田清一さんのコラム『折々のことば』から、いろいろと引いた。 このところの『折々のことば』、私の<小人閑居日記>と気が合うようである。

10月27日の2539、辻村史朗「土を愛(め)でるように、指も添える/土に対して、ほんの少しだけ、手を貸すというつくりかたです」。 辻村史朗さんについては、『日曜美術館』「陶の山 辻村史朗」で見て、9月に三日も書いていた。 辻村史朗さん、ひたすら陶器をつくる日々<小人閑居日記 2022.9.9.>、「ただただ人が美しいと思うものを作りたい」<小人閑居日記 2022.9.10.>、「善悪すべてつつみこんでなお静かなる」茶碗<小人閑居日記 2022.9.11.>。

鷲田清一さんは、「『ざらざらの、のびない土/ねばねばで、すぐにへたる土/火に弱すぎる土/火に強すぎる土』。これを欠点とするのは土を制したいと思う人のほうで、それらはむしろ土の個性だと、奈良の山奥に住む陶芸作家はいう。技術などないほうがいいと、人育ても同じ。まずはその懐に『どぼんと』飛び込むこと? 作品集『辻村史朗』から」と。

10月28日の2540、渥美清「役者はもの書きではありません」。 山田洋次監督の随想「夢をつくる」(朝日新聞10月8日朝刊be)から。 私も「夢をつくる」から、28年かけ48作、寅さんは渥美清とともに<小人閑居日記 2022.10.22.>、山田洋次さん、寅さんと落語<小人閑居日記 2022.10.23.>を書いていた。

鷲田清一さんは、「俳優は「寅さん」役に徹し、執筆や講演は一切断った。簡素な暮らしながら、撮影が始まると、雪駄履きの足先が薄汚れて見えないよう美容室でペディキュアをしてもらった。」と。

山田洋次さん、寅さんと落語2022/10/23 07:29

 山田洋次さんが渥美清と最初に出会ったのは、ハナ肇主演の『馬鹿まるだし』(1964年)、『運がよけりゃ』(1966年)に脇役として特別出演してもらったときで、「山田さん、今度は『長いの』やりましょうね」と言われた。 後で、「長いの」が「主演」を意味すると知った。 しばらくしてフジテレビから渥美清を主人公にしたドラマの脚本の依頼がきた。 今振り返ると、渥美清が山田さんを選んだと思うという。 渥美清は、執筆中の仕事場、赤坂の旅館に来て、子どもの頃の思い出話を中心にいろんな話をしてくれた。

 その面白いことといったらない、山田さんは驚愕した。 鋭い観察力、おそるべき記憶力、豊かな表現力。 山田さんの聞きたいことを的確にとらえて、落語名人の話芸を聴くようだった。 彼が少年時代に憧れていたテキ屋の流麗な啖呵売も朗々と披露してくれた。 「四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、粋な姐ちゃん立ち小便……」 「男はつらいよ」のフーテンの寅こと車寅次郎はそんな渥美清の話を聞くうちに湧いてきたイメージだ。 それは山田さんが幼い頃から憧れ、親しんできた落語の熊さんそのものだった。

 満州で山田洋次さんの家は、敗戦によって預金も株券もゼロに、土地も家もすべて失った。 明日、引き揚げ船に乗るというとき、なけなしの家財から何を持っていくか、家族で大議論になった。 洋次さんは宝のようにしていた落語全集を持って行きたかったけれど、父にどうしてもダメだと言われた。 どっしり重い上下二巻だったから。

 落語好きになったのは小学校2年の頃。 毎週土曜夜8時、ラジオの前に正座して「寄席中継」を聞きながら一人でケタケタ笑っていた。 柳家金語楼や六代目春風亭柳橋がお気に入りだった。 小学校4年のときに病気になって、ちょっと危険な状態だった。 病院で父が「欲しいものはないか」と言うので、行きつけの古本屋にあった落語全集が欲しいと思い切って言ったら、買ってきてくれた。

 ずっと大事にしていた、その落語全集だったのである。 結局、洋次さんのリュックの中は衣料と辞書、文房具、そして食べ物でいっぱいになった。 一家が家を出るなり、待機していた中国人の貧しい少年たちがわーっと中に入って家具類を奪い出すのが見えた。 あぁ、僕の宝物の落語全集が……日本語を読めないからストーブで焚くに決まっている。 涙が出るほど悔しかった。

 (『山田洋次 夢をつくる』(6)8月27日、(4)7月2日)

28年かけ48作、寅さんは渥美清とともに2022/10/22 07:02

 『続・遥かなる山の呼び声』では、藤井隆の音楽教師と、筧利夫の虻田が、笑いを誘う貴重な舞台回しを務めている。 朝日新聞be『山田洋次 夢をつくる』8月27日は、今日は「寅さんの日」といわれるそうだ、と始まる。 1969(昭和44)年(私が学校を卒業した年)のこの日、映画『男はつらいよ』の第1作が公開された。 山田洋次さんが、脚本を手がけたテレビドラマ『男はつらいよ』を会社の反対を押し切って映画化したものだが、試写で見ると、喜劇なのに笑えるところがどこもない。 渥美清という当代一のコメディアンを使いながら、笑えない変にまじめな映画をつくってしまったと思い、「監督としておしまいだ」と打ちひしがれていた。 ところが、その日、プロデューサーから「何してる、すぐ劇場に来い」と電話がかかってきた。 「客がいっぱい入って、みんな、大笑いしているよ!」

 急いで新宿の映画館に行った。 場内に入ると、観客がクスクス笑っている。 時々どっと笑い声が起きる。 山田洋次さんはびっくりした。 この映画は笑えるんだ。 喜劇になっているんだという驚きと発見。 その日、観客の笑い声の中でわかったことは、映画のどこが面白いかは観客が決めることだ、自分は一生懸命まじめに寅さんをつくればいいのだ、ということだった。

 寅さんを見ていると、みんな、気が楽になるという。 既成の価値基準、モラル、約束事、上下関係などややこしいことから解放される。 ごちゃごちゃでめちゃくちゃで何でもあり、というふざけきった世界が寅さんの周りにフワッと立ち上がる。 寅さんには常識というものをひっくり返してしまう、ハチャメチャな自由がある。

 この不思議な魅力、それは渥美清という俳優が発した力だ。 渥美さん自身が自由だったからこそ出せたもの。 寅さんは渥美清から誕生し彼とともに生きたのだ、と山田洋次さんは言う。

 28年かけて48作もつくった寅さんシリーズが、始まって7、8作目の頃、山田さんが、映画界でそんなに続いた例はないし、なんだかみっともないからこの辺でやめていいと思うけど、と渥美さんに提案したことがあった。 それに対して彼はこう答えた。 「5作目を封切った頃、私が東京駅のホームで遅い時間に電車を待っていたら、酔っ払ったサラリーマンが通りかかり、私を見てニコニコ笑いながら『いつも寅さん、見てるよ』と言った。私は『ありがとうございます』と答えたけど、その彼が去り際に『渥美清は元気かい』と言う。『元気ですよ』と答えたら『よろしく言ってくれよ』と言って機嫌よく行ってしまった。(中略)東京駅でそのサラリーマンに会った頃から考えが違ってきた。この役をいい加減に演じていると、田所康雄は車寅次郎に追い越されるぞというようなものを感じるのです」

 渥美さんはそれだけ言ってにこやかに席を立っていったけど、それが返事だとよく分かった。 つまり、もっと続けよう、続けなければいけない、あのサラリーマンのようなファンのために、彼らが財布をはたいて劇場に入り、窮屈な日々を忘れて大笑いして人間らしさを取り戻す機会を提供するために私たちは努力しましょう、と彼は言いたかったのだ。

 1996(平成8)年8月13日、大船の撮影所での渥美清さんのお別れの会。 東京駅から1時間もかかるのに、3万5千人が来てくれた。 炎天下、大船駅から撮影所まで約1キロの道に長蛇の列。 1日が終わり、静かになった遺影の前にスタッフが並び、山田さんが代表して「渥美さん、さようなら」と言ったら、急に悲しみがこみ上げて来て言葉が詰まり、みんな声を上げて泣いたという。

(『山田洋次 夢をつくる』(6)8月27日、(7)9月17日)

女中ふみさんの涙に、映画の力を知る2022/10/21 07:20

 『続・遥かなる山の呼び声』のラストで、妹の加奈が電話に出て、泣きながら「おめでとう、本当におめでとう」と言う所で、見ているこちらも目の中にうるむものがあった。 山田洋次さんが月に一度、朝日新聞beで『山田洋次 夢をつくる』を語り下ろしている(構成・林るみ記者)。

 山田洋次さんは、満州事変の始まった1931(昭和6)年の生まれ(私より10歳上)、お父さんが満鉄(南満州鉄道)に勤めていたので、2歳のときから敗戦まで満州(中国東北部)で育った。 奉天(現・瀋陽)、ハルビン、新京(現・長春)、また奉天、東京に戻って大連、と平均2年で転校、転々としていたそうだ。 満州の日本人は「植民者」であり、「内地」と言われた日本と比べると、いい生活をしていて、多くの家に女中さんやボーイさんがいた。 子ども心にそれが当たり前と思っていたという。 満州の山田さんの家にも、ふみさんというまだ二十歳前の女中さんがいた。 長崎・五島列島の出身で漁師の娘さん。 洋次さんが、ふみさんと一緒に映画に行くことになった。 彼女が長谷川一夫・李香蘭主演のメロドラマ『白蘭(びゃくらん)の歌』を見たいというので、お母さんが「洋次、一緒に行きなさい」と言った。 子供が付いていたほうが安全だろうと思ったからだ。

 併映が田坂具隆監督の『路傍の石』。 貧しい農村の少年が身売りをされて、東京の商家で叱られながら働く悲しい物語を、満州育ちの洋次さんが、日本の風景が珍しいなとぼんやり見ていて、ふと気がつくと隣のふみさんが泣いている。 ぼろぼろと涙をこぼして、色白のかわいいほっぺたが涙にぬれ、スクリーンの反射で光っていた。 洋次さんはびっくりした。 「映画を見て泣くことがあるんだ」

 洋次さんは映画を見て興奮したり笑ったりしてはいたけれど、映画は人を泣くほど感動させることもあるんだということを初めて知った。 同時にこの映画は「ふみさんの映画なんだ」と気づいた。 ふみさんにとって『路傍の石』の貧しい少年は兄弟だった。 彼女には自分とは違う世界があるのだとわかった。

 山田洋次さんは、映画監督になったとき、ふみさんのための映画をつくろうと思った。 ふみさんがほめてくれるような、ふみさんを感動させるような映画をつくるのだと。 そして、いまもずっとそう思っている、という。

(『山田洋次 夢をつくる』5月21日(2))

山田洋次さんの用意した○○○○エンド2022/10/20 07:02

 翌朝、民子は耕作も気づいた牧場の柵の破れを二人で直す。 「耕作さん、昨夜は失礼しました。ついきつい言い方をしてしまって」「いや、そんなこと思ってません」「私が言いたかったのは、つまり…、つまり…、ずっとあなたを思っていたってことなの」(と、その場を去ろうとする)

 (耕作は、追いかけて)「奥さん!」「何?」「お願いがあります」「どんなこと?」「この牧場で、この奥さんの牧場で、ひと一人雇ってくれませんか」「それは、人手はもちろんほしいけど、でも、条件によるわ。あなたも知ってるでしょ、なにしろウチは貧乏だから」「給料は要りません」「要らない? どんな人なの」「図体ばかりでっかくて、中身のない男ですが、牧場の仕事なら一通り出来ます。頭からっぽの分、力はあるし、身体も丈夫です。飯食わして、旨い牛乳飲ましておけば、一生懸命働きます」「そう、でも、そんな人っているのかしら」「います」「その人、家族だっているんでしょ?」「両親はとっくに死んでしまいました。でも、たった一人、妹が札幌で暮らしています。気が強くて、口が悪くて、生意気な女ですが、優しいところがあって、兄貴がこんな素晴らしい牧場で働いて暮らす事になったって聞いたら、きっと泣いて喜ぶと思います。泣き虫なんです、そいつの妹は。 奥さん、どうですか?雇ってくれませんか」(民子は、耕作の胸の中に飛び込む)

 札幌で、妹の加奈が昼の弁当を食べようとしているところに、電話がかかる。 話を聞いて、泣き出し、「いいんだよ、帰って来なくても、そっちで幸せに暮らせるならば…。おめでとう、本当におめでとう」

 山(養老牛岳?)がきれいに見える風見牧場で、民子と耕作が楽しそうに働いていて、バックに「寅さん」映画のテーマ音楽のアレンジが流れる(完)。