出陣学徒壮行会、和田信賢と志村正順 ― 2026/03/18 07:09

   ラジオ放送による「電波戦」が始まる<小人閑居日記 2023.10.13.>

 ドラマ『アナウンサーたちの戦争』、「言葉には力がある。言葉で世界を変える。それはラジオ。」と始まる。 災害の危険をいち早く知らせて、人を守るアナウンサー、声が兵器に変わっていく。 昭和14(1939)年5月、日本放送協会は愛宕山から日比谷の新会館に移り、情報は同盟通信社に依存することになった。 翌年12月には、情報局が設立され、日本放送協会はその傘下に入る。

 昭和15(1940)年2月、夜8時に靖国神社招魂祭の全国放送を実況した和田信賢は、遺族を綿密に取材して、「母ァさん、今年の米の出来はどうです。だけど母ァさん、嘆いていてはいけないよ、俺は故国の英霊となって、永遠に御国の為に生きているんだから、母ァさん、元気を出して生きていっておくれ。俺はいつまでも見守っているよ。」と、放送した。 それを聞いて、第五期新人アナウンサーで、研修を受けていた大島実枝子は感動し、和田が町を歩いたり、電車の中で、市井の人々や情景を、即時描写(実況)している姿に惹かれていく。

 昭和16(1941)年12月8日、午前2時には「西の風、晴れ」と放送していた天気予報が、午前4時から気象管制に入り、天気予報の放送は一切中止となった。 午前6時53分、和田は電話で布告の原稿を書き取る。 「大本営陸海軍部発表、今8日未明帝国陸海軍は西太平洋に於て、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」。 午前7時、それを館野守男が「臨時ニュースを申し上げます」と放送した。 館野は、思わず息んだので、その言葉が国民の熱狂を生むことになった。 川添照夫(中島歩)は、憎しみを植え付けるように読むことに反対したが、情報局との連絡を担当する上司は、マイクが運ぶのは、国家の意志だ、と申し渡す。

 ラジオ放送による「電波戦」が始まった。 ナチスドイツが行うプロパガンダを手本に、戦意高揚や国威発揚を図り、時には虚偽の情報を発信して敵を攪乱させるのだ。

 日本放送協会は、南方へ170名の「電波戦士」を派遣し、放送局を開設した。 100を超える放送局が、言葉の力で戦意を高揚させ、敵軍を惑わす「謀略放送」で「電波戦」を行うとともに、日本文化の普及にも努めた。 フィリピンへは、松内則三(古館寛治)が局長、ナンバー2として米良忠麿(安田顕)が、ビルマへは、館野守男(高良健吾)が、仏印、ベトナムへは、今福祝(浜野謙太)が派遣された。 ジャワでは「謀略放送」で敵を欺き、言葉で勝利した。

   出陣学徒壮行会、和田信賢と志村正順<小人閑居日記 2023.10.14.>

 和田信賢(森田剛)は、戦況の悪化に、「何が本当で、何が嘘かわからなくなった」と洩らす。 「信用のない言葉ほど、みじめなことはない」「自分に、吐きそうだ」「言葉の使い方を間違えた?」「原稿を読む以外に、何ができる」と苦悩するが、情報局に繋がる上司は「最後のアジテーターは、その役割を全うせよ」と迫る。

 和田は、出陣学徒壮行会の実況の準備に入る。 妻の実枝子(橋本愛)は、「招魂祭、衝撃だった、あの声に私は惹かれた。遺族と会って、その言葉を拾い集めていた。一人一人が掛け替えのない人だった。虫眼鏡で調べて、望遠鏡で見るように、分かり易く伝える。調べていたから、あなたの言葉は信頼できた」と、励ます。 和田は、早稲田大学野球部の合宿所へ行き、朝倉寿喜主将(水上恒司)など選手たちの声を聞く。 初めは通り一遍の答を並べ、「言いたくない」としか話さなかったが、「戦争は殺し合いをするところだ、君たちの本心が聞きたい」という和田に、「死にたくない、僕は生きたい、野球がしたい、家族に恩返しがしたい、だが社会が許してくれない」と話す。

 昭和19(1943)年10月21日、明治神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会は、雨だった。 和田は、駄目だと、倒れる。 学徒を戦地に送るやり切れない思いが、酒を過ごさせて体調不良に陥った。 用意していた原稿には、「かあちゃんよーー、かあちゃんの声が聞きたい、行きたくないよーー、私が聞いた学徒の声であります。誰にも言えないその思い、雨は一層激しく学徒たちを打ち付けております。二十年生きて来たのに、いま泥鰌のことしか思い出せない。お父さん、正直怖い、死にたくない、生きたい。この言葉を、私はどのように聞けばよかったのでありましょうか。今、粛々と行進するのであります。壮士ひとたび去りて、復(ま)た還らず。国民の皆様、どうぞお聞きください、若者たちは命を受け、彼らは二度と、もう二度とここに戻らないのであります。」と、あった。

 後輩の志村正順(大東駿介)が、当日欠席した和田に代わって実況中継を担当し、名声を得た。 志村と同じ後輩アナウンサーの刈屋富士雄によると、和田が「学生を戦地に送る壮行会を盛り上げることは出来ない」と上層部に主張して激しく対立したためだという。

 後に私は子供の頃から、志村正順は、「まぁ、何と申しましょうか」の小西得郎解説とのコンビのプロ野球実況で、刈屋富士雄は大相撲の実況で聴いていた。