「自由貿易の平和乱す トランプ関税」「多国協調で「報復」可能」2025/04/30 07:06

 ロシアのウクライナ侵攻以降、トランプ大統領再選へと、テレビの解説やコメントに、慶應の先生の登場が目立つ。 新聞の時評にも、慶應の先生を見る。 17日の朝日新聞「経済季評」は、坂井豊貴慶應義塾大学教授、専攻はメカニズムデザイン、主著に『多数決を疑う』があるそうだ。

 見出しは、「自由貿易の平和乱す トランプ関税」「多国協調で「報復」一理あり」。 現代経済学の祖の一人であるレオン・ワルラスは晩年、自分がノーベル平和賞を得るべきだと考えたという(ノーベル経済学賞はまだなかった)。 彼が打ち立てた交換経済の理論が、平和に資する自由貿易の理論であること、そして関税の廃止による自由貿易の促進を論じていたからだ。 自由貿易を平和に結びつける考えは、ワルラスに端を発するわけではなく、18世紀の思想家モンテスキュー、ヒューム、スミスにまでさかのぼる。 貿易による相互依存の強化は、平和による利益を高めるからだ。 こうした考えは、実利を重視し、人間理性によって社会を構築していこうとする啓蒙思想のなかで育まれた。

 第2次世界大戦後の米国も、自由貿易を平和と結び付けて考えた。 1929年の世界恐慌後、関税同盟を通じて貿易相手を制限するブロック経済が、戦争の主因の一つであったからだ。 大戦で荒れた欧州を援助する米国のマーシャル・プランにも、自由貿易の促進は重要な項目として入っていた。

 坂井豊貴教授は、トランプ大統領の関税とディール(交渉)の背景にある、興味深い論考を紹介している。 大統領経済諮問委員会のミラン委員長は、就任前に「世界貿易システム再構築のユーザーズ・ガイド」という長い論考を発表した。 興味深いのは、そこにある最適関税理論の記述だ。 通常は関税をかけると輸入品の物価が消費税のように上がり、関税をかけた国の消費者は不利になる。 しかし購買力が強い大国の場合は、関税をかけても輸出国が関税の大半を値下げで吸収するので、関税をかけた国の消費者が不利にならない、というのが最適関税理論である。

 ミラン氏は論考で国際経済学のハンドブックを引用し、米国の最適関税率は20%ほどだと述べている。 また、同氏は関税50%のほうが、関税ゼロの自由貿易より望ましいとも述べている。 今回のトランプ関税と、ミラン氏の最適関税理論についての記述は重なっている。

 最適関税理論では通常、関税をかけた相手国が、報復関税を課してこないと仮定したうえで、自国の関税を最適に上げる。 随分図々しい仮定だが、トランプ氏が相手国に報復関税するなと警告するのは、この仮定と合致する。 また、ベッセント財務長官の「相手国が報復関税を課さないならば、現在の関税率が上限だ」という発言も、同理論と非常に親和的だ。

 とすると、「相互関税」が同理論に基づくという前提の上だが、報復関税には一定の理がある。 相手国が報復関税をすると、トランプ氏は高い関税率を課す根拠を失うからだ。 だから、もし今後「相互関税」が発動する事態が起こるならば、多国間で協調して報復関税を課すことが、強い対抗措置になりうる。 多国間でというのは、一国だと交渉力が弱いからだ。 無論そうした事態は起きないことが望ましいが、そもそも現在の事態も起きない方が望ましく、また想定外のものであった。

三田あるこう会「二ヶ領用水・生田緑地散策」2025/04/16 07:22

二ヶ領用水の桜

 今年の桜は、近所の九品仏浄真寺と、東急東横線・目黒線の多摩川駅から田園調布せせらぎ公園と多摩川台公園へ、家内と行ったあと、6日の日曜日に、三田あるこう会の第576回例会「二ヶ領用水・生田緑地散策」で、見た。 午後から雨の降る予報だったが、途中パラパラきただけで、帰りも晴れていたので助かった。 もっとも、立派な桜並木がつづいている二ヶ領用水では、桜のバックに青空というわけにはいかなかったけれど…。

 例によって午前10時半の南武線の登戸駅集合、多摩川へ出て登戸の渡しの土手を歩き、多摩川の水を二ヶ領用水に取り入れる、宿河原堰取水口を眺め、二ヶ領せせらぎ館まで行く。 全長32キロの「二ヶ領用水」は、江戸時代初期に川崎領と稲毛領にまたがってつくられたので、この名のある農業用水。 天正18(1590)年に関東6カ国に転封となった徳川家康が、江戸近郊の治水と新田開発に取り組み、用水奉行・小泉次大夫に命じて作らせた用水の一つで、慶長16(1611)年に完成した。 それまで、この二ヶ領は水利事情が不便だったため、水田耕作による農業生産基盤が脆弱だった。 二ヶ領用水の完成で、新田開発も進み、米の収穫量が大幅に増加したと伝えられている。

 現在の二ヶ領用水路沿いは、親水公園として整備されていて、満開の桜を見ながら進む。 途中、南武線の下を腰を屈め、頭をぶつけないように潜る場所があるのが、面白かった。 宿河原の住宅地を、向ヶ丘遊園駅方面に歩き、北村橋で左折して、生田緑地ビジターセンターへ向かう。 ここまで、当番の山崎さんがYahooマップで算出した総歩行距離は3.66㎞、総歩行時間45分ということだったのだが、実はかなりくたびれていた。 それで、ここから登る生田緑地の枡形山について、同じ道を登ってまた戻るのかと山崎さんに訊ねた。 枡形山には登らずに、別行動で直接向ヶ丘遊園駅近くの昼食場所まで行くズルを考えたのだ。 下りは別の道で、登りも簡単だからと言われ、私の勝手な考えは却下され、一緒に枡形山に登ることになった。 ところが、そう簡単ではなく、へろへろと登って、西村さんに支えられてようやく登ることが出来た。 今後、長距離で登りのある会は、迷惑をかけるといけないので、少し考えないといけないと思ったのであった。 この日の万歩計は、15,478歩だった。

 生田緑地、庄野潤三さんの本で、その子供さんたちが縦横に走り回っていたのを読んでいた場所だったが(阪田寛夫さんと庄野潤三さん<小人閑居日記 2025.1.30.>参照)、自分の年齢を感じることとなった。 なお、先日雷が落ちてサッカー部の中学生が意識不明になったという帝塚山学園が奈良市だというので、変だなと思っていた。 調べると、阪田寛夫さんが庄野潤三さんの後輩だったという、帝塚山学院小学校は大阪市住吉区帝塚山という高級住宅地にあって、奈良と大阪の両方に「帝塚山」という地名があり、「学園」と「学院」の違いがあるのだった。 東京育ちには、わからないことだった。

水天宮のミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションと福沢諭吉2025/04/10 07:12

 このところ、ときたま人形町界隈に出没している。 昔、会社の帰りに立ち寄ることがあったので、多少は土地勘があった。 TBS落語研究会が、三宅坂の国立劇場小劇場を建て替えで使えなくなり、2023年11月から2024年5月まで、水天宮に近い日本橋劇場(中央区立日本橋公会堂)を使っていたので、毎月人形町へ行っていたからである。 その日本橋劇場も建て替えで、落語研究会はその後、よみうり大手町ホールでやっている。

 先日は、前から行ってみたいと思っていて、なかなか行けなかったミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションへ、「南桂子展 小さな雲」(3月30日まで)を観に行った。 浜口陽三が精密な銅版画家で、ヤマサ醤油の創業家の出身であることは、知っていた。 創業者の浜口梧陵(儀兵衛)と福沢諭吉の関係があったからだ。 浜口陽三は、十代目浜口儀兵衛の浜口梧洞の三男として、1909(明治42)年4月5日、和歌山県有田郡広村(現、有田郡広川町)に生れ、幼少時に一家で千葉県銚子市に転居したという。

 「南桂子展 小さな雲」を後回しにして、南海トラフ巨大地震とも関連するので、浜口梧陵(儀兵衛)と大津波、和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係について、書いたものをまず引いておきたい。

   大津波と浜口梧陵、和歌山と福沢・慶應義塾<小人閑居日記 2019.1.19.>

 浜口梧陵については、まだブログに配信する前の「等々力短信」に、「大津波と浜口梧陵」<等々力短信 第947号 2005.1.25.>を書いていたので、あとで引く。 和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係、福沢諭吉と浜口梧陵、その和歌山教育史との関係については、下記を書いていた。
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その1<小人閑居日記 2012.9.22.>
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その2<小人閑居日記 2012.9.23.>
「紀州塾」、福沢が方向づけた和歌山の教育<小人閑居日記 2012.9.24.>
〈明治前期〉教育史と紀州の中学の個性<小人閑居日記 2012.9.25.>
県立和歌山中学と、自由民権運動の中学<小人閑居日記 2012.9.26.>

      等々力短信 第947号 2005(平成17)年1月25日
                 大津波と浜口梧陵

 番組表に「浜口梧陵」の名前があったので、13日NHK放送の“その時、歴史が動いた”「百世の安堵をはかれ―安政大地震・奇跡の復興劇」を見た。 黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、三つの巨大地震が日本を襲った。 嘉永7(1854、改元されて安政元)年11月4日、下田でプチャーチンのディアナ号を大破した安政東海地震が発生、その30時間後の5日の夕方には、紀伊半島南部と四国南部が震度6以上の安政南海地震に見舞われ、紀伊半島南西岸から土佐湾沿岸を大津波が襲って、多数の死者が出た。 銚子と江戸で醤油醸造業(ヤマサ)を営み、半年は故郷の紀州広村(現、広川(ひろがわ)町)で暮していた浜口梧陵は、地震直後、海の様子を見に行き、真っ暗で、閃光が走り、雷のような物凄い音を聞いた。 津波の襲来を予感した梧陵は、村民に高台の八幡神社への避難を呼びかけて回り、暗闇で道がわからないと見ると、たいまつで稲むらに火を放ち、避難路を照らした。 地震発生から40分で津波の第一波が到着、5回にわたり最大5mの津波が押し寄せた。 浜から神社まで1.7km、避難には20分かかる。 津波を予感した梧陵の早い判断と的確な避難指示によって、全村民の97%の生命が救われた。

しかし地震と津波による被害は甚大で、梧陵が私財で仮小屋50軒を建て、農具などを提供しても、離村者が出るようになった。 梧陵は村人に希望と気力を取り戻させるため藩に願い出て、私財を投じ、村人の働きには給金を出し、津波を防ぐ大堤防の建設に着手する。 翌安政2(1855)年の安政江戸地震で江戸の醤油店が罹災、閉鎖に追い込まれたものの、銚子で最高の生産高を上げて堤防建設に送金し、安政5(1858)年12月、これだけの規模の盛り土堤防は世界最初、村民の自助努力で防災と生活支援を同時に実現した復興事業も画期的という「広村堤防」が完成する。 下って昭和21(1946)年、M8.0の昭和南海地震では、高さ4mの津波が襲ったが、村の大部分は被害を免れた。

『福澤諭吉書簡集』に、浜口儀兵衛(梧陵)あて書簡が3通、浜口の名の出てくる書簡が10通ある。 梧陵は慶応4(1868)年、和歌山藩の藩政改革で抜擢されて勘定奉行となり、翌明治2年藩校の学習館知事に転じ、明治3年松山棟庵の協力を得て洋学校・共立学舎を設立した。 この時、旧知の福沢を招聘しようとしたが、福沢は受けなかった。 だが二人の交際は続き、晩年の梧陵が計画し明治18(1885)年ニューヨークで客死することになる世界一周視察旅行には、福沢が格段の配慮をしている。

慈覚大師円仁が開いた目黒不動尊、「独鈷の瀧」2025/03/15 07:14

「独鈷(とっこ)の瀧」

 その少し前の、大河ドラマ『べらぼう』の後の「紀行」(ナレーションは鈴木奈穂子アナ)で、目黒不動尊、瀧泉寺(りゅうせんじ)を取り上げていた。 田舎出の若者がうたた寝する間に見た夢の話、鱗形屋が出版した青本『金々先生栄花夢』の金々先生が立ち寄った場所だというのだ。 金々先生、金村屋金兵衛、目黒不動尊で名物の粟餅を食べようとして、出来上がりを待っている間に、夢を見ることになる。 江戸の近場の行楽地として、目黒不動尊や品川宿が人気だったという。 目黒不動尊は、徳川家にとってもゆかりの地で、三代家光がこの近くで鷹狩りをしていて、鷹がいなくなったのを、この寺で祈願したら戻ってきたという。 番組が映したその記念の碑は、辻さんが正面階段の男坂でなく、右手の女坂で見つけたそうだ。

 目黒不動尊、瀧泉寺は、天台座主第三祖慈覚大師円仁が開いた関東最古の不動霊場だという。 正面階段左手に、「独鈷(とっこ)の瀧」がある。 堂宇建立の敷地を定めるに当たり、円仁が持っていた法具「独鈷」を投じた浄地から流れが湧出し、瀧となって数十日間の炎天早魃が続いても涸れることがなく、不動行者の洗心浄魂の場として、今日まで滔々と漲り落ちている、という。 現在は、二つの龍の口から、チョロチョロと間歇的に流れ出している。 「独鈷」は、ドッコともいい、両端が分岐していない金剛杵、煩悩を打ち砕く仏具。

 円仁(794~864)が目黒不動尊の開祖だとは知らなかった。 天台宗山門派の祖。 諡号は慈覚大師。下野(しもつけ)の人。 最澄に師事。 838(承和5)年入唐し天台教学・密教・五台山念仏等を修学、847(承和14)年武宗の仏教弾圧を経験して帰国。 常行三昧堂を建立し、東密(空海を祖とする東寺を本山とする真言密教)に対抗する台蜜(日本の天台宗で伝える密教。最澄・円仁・円珍らが中国から伝えた)の基盤を整備、比叡山興隆の基礎を確立した。 エドウィン・ライシャワーに円仁の研究があるのは、聞いていた。

「めいわく」の「行人坂火事」、江戸三大火事2025/03/14 07:14

 3月2日は、三田あるこう会の第575回例会で、「目黒不動尊&林試の森」散策だった。 まあ、地元のような、よく知るところで、志木会の「歩こう会」でも2017(平成29)年10月7日に、逆のコースを三田迄歩いたこともあった。

 目黒駅集合、当番の配慮で、行人坂の急坂を避けて、逆「く」の字の権之助坂を下り、大円寺へ。 明和9(1772)年2月29日に大円寺から出火した「行人坂火事」は、折からの強風によって、たちまち白金から、江戸城の櫓、神田、湯島、下谷、浅草、吉原まで焼き尽くした。 大河ドラマ『べらぼう』のしょっぱなの火事が、この火事である。 明和9年、「めいわく」の火事といわれたと、『べらぼう』でもやっていた雑学を、当番の渡邉美保さんに話したら、皆さんに伝えていた。 江戸城の櫓まで焼いたので、大円寺は以後76年間も再建を許されなかったそうだ。

 結婚式キャンセルのニュースがあった雅叙園の前に「お七の井戸」がある。 大円寺のそばに「お七の井戸」があるため、お七の火事と行人坂火事を混同しがちだが、別物である。(なお、お七の火事と「振袖火事」も別物なのを、後で述べる)本郷追分の八百屋お七は、天和2(1682)年12月の大火で焼け出され、駒込の寺に避難して知り合った寺小姓吉三に恋こがれ、吉三逢いたさに自宅に放火して、鈴ヶ森で火刑に処せられた。 吉三は、お七の火刑後、僧侶になり、名を西運と改め、明治13年頃までこの場所にあった明王院に入り、境内のこの井戸で水垢離を取り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行を成し遂げたといわれる。

 「行人坂火事」「振袖火事」「車町(くるまちょう)火事」を、江戸三大火事というのだそうだ。 「振袖火事」は「明暦の大火」…明暦3(1657)年、江戸本郷丸山町から出火、江戸城は西丸を残して本丸も焼失、死者10万人以上といわれる。 なお、振袖火事の名前の由来となった、丸山町本妙寺の和尚が施餓鬼で因縁のある振袖を燃やした火が本堂に移り大火になったという話は、史実とは言い難いそうだ。 「車町(くるまちょう)火事」…「文化3年の大火」文化3(1806)年3月4日に江戸芝の車町(牛町ともいい現港区)から出火し、大名小路の一部、京橋・日本橋のほぼ全域、神田・浅草の大半を類焼した大火。

 何で江戸には火事が多かったのかと、辻さんに聞かれたが、うまく答えられなかった。 「火事と喧嘩は江戸の華」という、江戸に人口が集中、安普請の木造家屋で燃えやすかったのだろう、そしてすぐ建て替えられた、各藩は屋敷の再建に多額の出費をしたことが財政負担になった、紀伊国屋文左衛門など木場の材木屋が儲かった、などと話した。