福澤、世間より個人が大切、時代の潮流に乗る2026/09/03 07:02

 三宅香帆さんの『波』連載「福澤諭吉をよみなおす」、8月号の第2回は「なぜ福澤諭吉の書く本は売れたのか?」。 そもそも福澤が世に知られたのは、著作『西洋事情』初編(慶応2(1866)年)が、バカ売れ25万部のベストセラーになったからだ。 福澤、33歳の出来事だった。 それまでの福澤は、三宅さんがいまふうにいう「やたら勉強する陽キャ(対人関係が得意な人)」で、自分の「実力」には自信があるのに、「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)、身分制度のためにフラストレーションを溜めていた。 手先も器用だった。 やたら器用な陽キャこと福澤の人生は、門閥制度という世間を憎んで始まったのだった。

 陽キャというと人が好きであるように思われるが、そこには案外冷たい視線があるように三宅さんは思う。 たとえば世間というものを、福澤は依存や愛情を前提すべきではない関係のものとして捉えていた。 つまりは愛情というよりは、個人同士自立した存在として関係すべきである、くらいに捉えていたのだ。 家族と世間はちがう。 家族は愛情をもって接し合う相手である。 だが、世間は違う。 面倒で、謎のルールを押し付けてくる存在である、と福澤は何度も語っている。

 福澤にもともとあった世間より個人のほうが大切だという性格と感覚が、ちょうど時代の潮流と重なっていく。 日本が西洋の個人主義を取り入れたいと盛り上がったタイミングに、本を出す著述業を彼が手にしていた。 ベストセラー作家とは、本人の気質と時代の潮流が一致したときに登場するものだと思う。 そして彼は、「演説」というひとりで語るスタイルを日本で流行させるに至る。 それはよく勉強する陽キャだからこそできたことだっただろう、と三宅さんは書く。

 福澤は、中津にいたころ、「世間」の人間関係のなかで生まれてくる嫌悪や不快な感情については、それを意識的に克服した。 褒められても、喜ばない。 軽蔑されても、怒らない。 手を出さない。 19歳で長崎に出て、蘭学を勉強し、その後、緒方洪庵という師にも出会う。 だが根本的な、世間に対しては「個人は個人」という考え方は変わらなかったのだろう。 それは彼の思想の根本になる。 アメリカとヨーロッパに渡り、そして倒幕の嵐が吹く中で『西洋事情』を刊行することになった。 その時も、自分の感情よりも対人関係を優先させる思想こそが、彼の著作の背景にあるものだったのである。

 三宅さんは、それは現代の日本人にとっては、案外親しみやすい思想ではないだろうか、と言う。 「喜怒色に顕さず」、さまざまな人とコミュニケーションをとろうとする。――その福澤の説いた姿は、案外SNS社会的だな、と思ってしまう。 それは彼の中に絶対に突き通したい正義がなかった証ではないか。 むしろ絶対的な正義やビジョンなどなく、彼の人生や著作を眺めていると、そこにあるのはむしろ「西洋という時代の波がやってくるなかで日本人はいかに生きるべきか」という解釈と提言の語りかけである。 その時代に日本人が適応し生きのびる――サバイブするにはどうしたらいいのか、を説いたことだった。

 福澤の言葉がいま響くのは、やっぱり日本人もちゃんと個人で独立しろ、世間に染まりすぎるな、公のことを考え、勉強していろんな人たちとコミュニケーションを取れ、ということがいまだに難しいからだ。 日本人に自由は難しい。 公共のことを考えた個人であれ、という教えはいまも伝わりづらいだろう。 だけどあえていうなら「それだけ」を福澤は語った。 それが近代社会をサバイブするということだからだろう、と三宅香帆さんは指摘している。

「演説」喋りで他人を説得するメディア、相手に伝わる「文体」2026/09/02 07:17

 三宅香帆さんの新潮社『波』連載「福澤諭吉をよみなおす」、7月号の第1回は「動画の時代に読み直す福澤諭吉」だった。 『文明論之概略』の緒言で「一身にして二生を経(ふ)る」といった福澤が、明治維新後の数え40歳になる明治6(1873)年ごろから、意識していたのは「演説」の必要性であった。 「口頭での言語パフォーマンスとそれを中心とした集団的意思決定の仕組みを日本社会に導入すること」が必要だと強く意識していた。 書くことではなく、喋ることで意思を伝えるメディアが必要だ、と。 書籍や新聞だけでなく、喋りで他人を説得するという新しいメディアに彼は注目していたのだ。

 なぜ演説を広めようとしたのか。 それは、欧米の議会制度を実際に目で見たことがきっかけだった。 福澤は、議会だけでなく、日常においても日本人が「会議」つまり口頭で意思を伝えあう場が必要になってくるだろう、とも思ったのだ。 「会議」という、独立した個々人が交際するための場が必要になってくるだろうと福澤は直感した。 演説。 それは日本にやってきた新しいメディアだったのだ。

 これを読んだ私は、参考文献に挙げられている、松崎欣一さんの『三田演説会と慶應義塾系演説会』(慶應義塾大学出版会・1998年)と『語り手としての福澤諭吉 ことばを武器として』(慶應義塾大学出版会・2005年)、そして参考文献には挙げられていないが、都倉武之さんの『メディアとしての福沢諭吉―表象・政治・朝鮮問題』(慶應義塾大学出版会・2025年)を思って、嬉しい気持になったのだった。

 三宅香帆さんは、「明治の演説ブーム」で演説=喋りによる説得とは暴力の時代へのアンチテーゼであるから、いまの時代に最も重要なメディアのひとつにも見えてはこないだろうか、と指摘したあと、「福澤諭吉の文体」について書く。 福澤はベストセラー『学問のすゝめ』を生み出した「書き手」であり、同時に、演説を日本に広めた「喋り手」でもあった。 しかもそれでいて、福澤は政治家にはならず、最後まで自分の思想や知識を、言葉で、伝えることに注力した。 ここで、松崎欣一さんの『語り手としての福澤諭吉』の長い引用がある。 「読者を「軽侮罵言する」ということがある。そうなってしまっては、「客を招待して門前に番兵を置き、却てこれを叱咤する」ことに他ならないではないか」、「世情の勢いをより高尚の域に導くべく、当代の学問に励む者-学者-の責務として、難解な書物を読むことで終わるのではなく、翻訳、著述、演説、対話、あらゆる方法を駆使して必要なメッセージを積極的に発信しようというのである。」

 書き手としての福澤の文体も特徴的だ。 彼は洋書の翻訳をするときも、とにかく平易に、だれにでもわかるように書くことを意識していた。 こうして本人いわく「雅俗めちゃくちゃ」文体が完成した。 誰に向かって書いているのかを意識すること。 それは演説においても同様だった。 重要なのは、伝える方法――メディアの選び方、喋り方、身振り手振りの方法など――なのだ、と。 文体も、喋り方も、訳語の選び方も、福澤にとっては同じ問題だった。 重要なのは、スタイルなのである、と。

福沢諭吉と慶應義塾「社中」の由来2026/09/01 07:14

 科学技術・生存システムを研究している友人から、初期の慶應義塾ではなぜ「入社」というのか、と聞かれた。 入塾者の名簿は、「入社帳」と表記されていた。 慶應義塾には「社中」という言い方があり、「先生」と呼ぶのは福沢諭吉だけで、教える者も教わる者も「半学半教」、お互いに教え合い、共に学び続けるので、「入社」なのだろう、と答えた。

 改めて『福澤諭吉事典』の事項索引を見ると、「社中」はないが、「慶応義塾社中之約束」があった。 「明治4(1871)年から30年頃まで出版された慶応義塾の規則集。」「初期の「社中之約束」には、慶応義塾は「福沢氏ノ私有ニアラズ社中公同ノ有」とあり、慶応義塾が「私」の存在ではなく、「公」のそれであることが述べられている。慶応義塾では教える者も教えられる者も同じく「社中」であり、その「社中」の人びとが対等な立場で取り決めた約束として「社中之約束」は存在した。」とある。

 7月号からの新潮社『波』に、三宅香帆さんが(実は、この人のことを、まったく知らなかった)「福澤諭吉をよみなおす」を連載していて、9月号の第3回は「幕末、饒舌は武器にならなかった」だが、そこに福沢の「社中」の起源が書かれていて、なるほどと納得した。 攘夷渦巻く文久元(1861)年、幕府の翻訳方にいた福沢は遣欧使節団に通訳として加わり、一年間、国制、軍制、税制など制度面の調査をみっちりすることができた。 なかでも彼にとって衝撃だったのが――ロンドン滞在中、イギリスの「或る社中」の「建言書」に出会ったことだった。

 それは、イギリスの外交官オールコックが、日本で乱暴を働いたり、まるで征服者のようにふるまっていることを批判する意見書だった。

 ここでいう社中とは、政府が主導するのではなく、民間人が結びついて立ち上げる学校や病院などの自発的結社・組織のことだと指している。 ようは、海外で外交官が横暴を働いていることを、監視し批判する自発的結社が存在する――そのこと自体が福澤にとっては衝撃的だったのだ。 しかもその監視とは、公明正大な国際法にもとづくものだった。 公明正大な世論こそが、政府の権力主義をチェックし得る。 福澤はこのイギリスの世論と社中の力に衝撃を受け、帰国後の彼の人生は、世論をつくる民衆の言葉を自立させそして慶應義塾というひとつの社中をつくることに尽力するものとなる。

柳田國男、松本烝治の南方熊楠訪問2026/08/21 07:17

柳田國男が田辺へ南方熊楠に会いに行ったのは、松本烝治さんに誘われたからだと、秋山加代さん、小泉妙さんご姉妹にお話することができたのは、私がその頃、南方熊楠に興味を持って、何冊か本を読み、「等々力短信」に書いていたからだった。 それを読んだら、面白いので、再録したい。

          お梅と令息 <等々力短信 第731号 1996.3.15.>

熊楠のエピソードには面白いものがいくつもある。 前に和歌浦から汽船で来たと書いた大正2年柳田國男の突然の来訪時もそうだ。 この時柳田は、高校時代の親友松本烝治と一緒だった。 余談だが、松本烝治は小泉信三さんの姉千と結婚した義兄にあたる。 商法の権威で帝国大学教授、小泉信三さんが「頭脳の明晰さは日本一」「叡知を特別ゆたかに備えた人」(小泉タエ『留学生小泉信三の手紙』)と信頼していた人だ。               

 そこで、熊楠だが、家を訪ねて来た二人にすぐ会わない。 宿をとった旧田辺城内の旅館、錦城館にあとから伺うと帰してしまう。 さんざん手紙をやりとりしていながら、内弁慶で照れ屋の熊楠は、まず銭湯へ出かけて身ぎれいにし、帰りに二軒の居酒屋で酒をひっかけて景気をつけた。 錦城館に着いても帳場で飲んでいて、すっかり出来上がってから、ようやく顔を出す。 お気に入りの老妓を呼び、「歓迎の宴」だからと大酒して、嘔吐するという失態を演じる。                                

 翌朝、柳田が挨拶に行くと、顔を出したってしかたがない、話さえできればいいだろうといって、掻巻(ドテラの、綿を薄く入れたような夜着)の袖口をあけて、その奥から話をした。 熊楠47歳のことである。

 熊楠家のお手伝いさんは、代々「お梅」と呼ばれた。 田辺在住の郷土史家中瀬喜陽さんによると(雑誌『太陽』90年11月号)、だいたい一年か二年で交代したから、30人以上の「お梅」が熊楠の日常を助けた勘定になるという。 昭和10年頃のお梅は、白浜町庄川(しゃがわ)出身、本名も湯川うめさんだったが、恥ずかしいさかりの二十の頃に、えらいものと対面させられている。 ことの顛末は、新聞「日本」に熊楠が書いた「令息漫筆」に詳しいそうだ。

 台風で瓦が飛び、雨漏りするようになった屋根の修理をしたら、ネズミの死骸が出た。 それから一家は家ダニに悩まされる。 松枝夫人はフマキラーがいいと聞き、買ってきて噴霧した。 ようやく家ダニの害はおさまったが「しかるに不幸にしてその一疋が小生の尿道に侵入し、痒痛堪うべからず」という大変な事態になった。 家ダニ退治にはフマキラーが一番だというので、お梅に「件の薬」フマキラーを持ってこさせた。 お梅がフマキラーを持ってうろうろしていると、松枝夫人が「お梅、お吹き」と命じた。 あわれ花も恥じらうお梅は、熊楠の腫れた一物に対面する羽目になったのである。 しかし「男根が包皮炎を起こし、径一寸五分ほどに膨れまことに困り切り」ついに「医師方」に行くことになる。

2001年、福沢協会の和歌山旅行、南方熊楠旧邸で2026/08/20 07:29

 福澤諭吉記念慶應義塾史展示館は、秋季企画展として「諭吉と熊楠―未完の二人」を、10月15日(木)~12月12日(土)に開催する。 その趣旨は、「「日本人の可能性の限界」とも呼ばれる南方熊楠(1867-1941)と、近代日本を代表する思想家・教育者である福沢諭吉(1835-1901)の両者は、直接の接点はほぼありませんでした。しかし、熊楠は在野を貫き、無位無冠、天爵の人として生きた諭吉を意識していた形跡があり、また、諭吉や慶應義塾の和歌山人脈は非常に幅広く、熊楠の生涯に影響を与えた周囲の人々との重なりは極めて厚いものとなっています。/本展では、それぞれに興味深く豊かな研究蓄積のあるこの二人の比較を通して、両者の学問観、人間観、さらにはその個性的なキャラクターなど、それぞれの人となりや智の探究に対する姿勢、目指したものを改めて描き直すことを試みます」という。

 これを知って、私が思い出したことがあった。 それは、松本烝治さんに関係することだった。 家業のガラス工場を畳んで、福沢諭吉協会の旅行に参加できるようになった2001年10月、福沢史蹟見学会「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」に参加した。 和歌山の紀州藩は、第五代徳川吉宗を始め歴代藩主が教育熱心で、大藩の実力をもって広く人材を求め、抱えては、藩の子弟の教育に当たらせてきた。 幕末、緒方洪庵の適塾から、池田良輔、福沢の一年後輩にあたる山口良蔵、塩路(崖(きし、岸)嘉一郎を召し抱えたことから、紀州と福沢の関係が出来た。 福沢が江戸で福沢塾を開くと、紀州から入塾する者があいつぎ、特に慶応2(1866)年には小泉信吉(のぶきち)、松山棟庵、和田義郎、小川駒橘、草郷清四郎ら11名が入塾した。

 というわけで、この旅行には、紀州と縁の深い小泉信吉の孫、秋山加代さんと小泉妙さんが参加していた。 三日目に田辺で、南方熊楠旧邸を訪れ、書庫も開けてもらって膨大な資料が整理されているのや、庭では熊楠ゆかりの楠、粘菌を発見した柿、普及を計った安藤みかんの木も見た。 私は、熊楠に興味があり、米山俊直著『クニオとクマグス』(1995年・河出書房新社)を読んでいたので、柳田國男が田辺へ南方熊楠に会いに行ったのは、松本烝治さんに誘われたからだということを知っていた(同書168頁からの「二人の別離まで」「一期一会」)。 その話を、松本烝治さんの姪、加代さん、妙さんご姉妹にお話したのだった。(詳細は、明日から)

 この旅行については、『福沢手帖』第111号(2001年12月)に、福沢史蹟見学会の「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」を、インチキ俳句をちりばめて、書かせてもらった。 『三田評論』8・9月号、巻頭「丘の上」長島昭さんの「育つ慶應の山林 海瀬亀太郎氏の貢献」の海瀬亀太郎さんも、この旅行に参加されていて、二日目、高野山から白浜へ高野・龍神スカイラインのバスの中で林業や福沢記念育林会の話をしてくれた。 元は林道として開拓した道を、後に和歌山県が整備したこの道路の、左側は奈良県、右側の和歌山県の山林は海まで全部海瀬さんが管理しているという。 添えた拙句は、<尾根の右「すべてわが山」ブナ黄葉>。