半蔵門の気さくなフレンチレストラン ― 2026/05/01 07:06
3月末に半蔵門のフレンチレストラン、オー・プロヴァンソーで、慶應志木高の同級生でランチをした。 私のクラシック音楽を聴く貴重な機会である上野浅草フィルのチェリストの馴染の店である。 以前も一緒したことのあったそのコンサートで会う仲間に加えて、暮に花園までラグビーの応援に行った軽井沢でペンションをやっているご夫妻が集まった。 この年になると、同級生でも、あちらへ行った者が多くなってきていて、その懐かしい思い出に始まり、志木高ラグビーや軽井沢の音楽ペンションの話で盛り上がった。 南仏プロヴァンスのリゾートにいるようにリラックスしてほしいという想いから、中野寿雄シェフが名付け、上質なレストランながらも肩肘張らない大人のビストロ【中野食堂】をめざしたという、気さくな店の雰囲気も、美味しい料理も十分に楽しむことができた。
味をしめて、85歳の誕生日を迎えるということもあり、先日、家内を連れてランチに再訪し、家内も大満足、中野シェフは前回のことも覚えていて、暖かく応対してくださった。 ここのデザートは6種類のミニケーキから、いくつでもと選ぶ。 聞けば、全部を選ぶ人もいるそうだ。 ワインを飲まないこともあり、わが家のランチは速い。 そこで思い出したのが、半蔵門ミュージアムのことである。 家内の友人のブログで見た記憶があった。
立川談四楼の「百年目―没後百年、生誕百年」 ― 2026/04/07 07:04
その六代目三遊亭円生が、あることを間違って自慢していたという事実を、最近知った。 私が2月25日の「等々力短信」第1200号に「短信50年」「昭和100年」と書いたのを読んだ友人が、図書館で新潮文庫の『百年目―ミレニアム記念特別文庫』(平成12年(2000年))という本が目に入り、借りてきたら面白かった。 「42人の随筆集で一番目が谷川俊太郎の「百年目」で、最後が立川談四楼の「百年目」です。立川は大学の講義に関するものでなかなか辛辣(塾ではないらしい?)ですが、非常に面白い。貴殿が採り上げているのではないかとも想像しましたがどうでしょうか? もしまだでしたら、コピーを送ります。」 落語の「百年目」は知っているけれど、その本は読んでいないと返信すると、親切にコピーを送ってくれた。
立川談四楼の「百年目―没後百年、生誕百年」を、さっそく読む。 立川談四楼は、どこかの大学の文学部で講師をしたという。 ある日の講義で、有史以来、誰か一人落語家の名を挙げろと言われたら「大円朝」と答えるのは、その功績から必然だと、三遊亭円朝の話をし、明治33年8月11日に62歳の生涯を終えた、という話をした。 そして、三日後の独演会で『真景累ヶ淵』のうちの『豊志賀の死』を演るんで、聴きに来たら単位をやる。 受付で学生証を見せれば千円でいいや、その代わりレポート400字3枚提出しろということにした。
その独演会は、満員札止めとなった。 『豊志賀の死』の出来もよかった。 終演後の会場周辺で、女子学生の輪に引きずり込まれた。 「キャー、タチカワ先生」 「わ、私はタテカワだ」 「そんなことはどうでもいいンです。先生、今日よかった、新しいィ」 「新しい? どこが」 「スゴい先生、ミレニアムですよね」
講義で三遊亭円朝が明治33年に亡くなったと聞いたが、明治33年といえぱ西暦1900年、今年平成12年は2000年、「没後百年だから、ミレニアム記念として円朝作品をやってくれたンですよね。発想が新しいィ」
談四楼は、知らなかった。 この正月、西暦2000年と聞いて、21世紀だと叫んだというのだ。 談四楼は、『真景累ヶ淵』の発端『宗悦殺し』に挑もうとして、亡き六代目三遊亭円生のCDを聴いていて、京須偕光(ともみつ)著『圓生の録音室』(中公文庫)を読んだ。 するとそこに、「私(円生)はね、明治33年の生まれなんですよ。つまり大円朝の亡くなった年に生まれたというわけで」と、円朝の生まれ代わりを自負し、さらに「明治33年は西暦で言うと1900年で、皆さんは私を古い古いと言いますが、私はね、20世紀生まれなンですよ」とあった。 20世紀は1901年に始まり、21世紀は2001年から始まる。 円生も、談四楼と同じように、世紀の始まりの年を間違っていたのである。
私がちょっと心配になったのが、明治34年(1901年)2月3日に死んだ福沢諭吉のことである。 そこで、慶應義塾で世紀送迎会をやり、福沢が「独立自尊迎新世紀」と揮毫したのは、いつだったのか、確認した。 世紀送迎会は、明治33年12月31日午後8時から三田で開かれていた。 福沢諭吉も、慶應義塾も、円生や談四楼と同じ間違いはしていなかった。 めでたし、めでたし。
大の里、贔屓の力士、ここ10年の優勝者 ― 2026/03/24 07:11
隠岐の海や遠藤が引退したのは、寂しい。 今場所は、贔屓にしている若元春、若隆景の兄弟が芳しくなかった。 だが熱海富士は一段レベルを上げたようだし、若手の義ノ富士、藤ノ川が面白い。 湘南乃海も、次第に十両から戻れそうになってきたし、金沢出身の炎鵬も来場所は十両に戻れるかもしれない。
ここ10年の優勝力士を振り返ってみる。
2026年初場所 安青錦 3月場所 霧島
2025年初場所 豊昇龍 3月場所 大の里 5月場所 大の里 7月場所 琴勝峰
9月場所 大の里 11月場所 安青錦
2024年初場所 照ノ富士 3月場所 尊富士 5月場所 大の里 7月場所 照ノ富士
9月場所 大の里 11月場所 琴櫻
2023年初場所 貴景勝 3月場所 霧馬山 5月場所 照ノ富士 7月場所 豊昇龍
9月場所 貴景勝 11月場所 霧島
2022年初場所 御嶽海 3月場所 若隆景 5月場所 照ノ富士 7月場所 逸ノ城
9月場所 玉鷲 11月場所 阿炎
2021年初場所 大栄翔 3月場所 照ノ富士 5月場所 照ノ富士 7月場所 白鵬
9月場所 照ノ富士 11月場所 照ノ富士
2020年初場所 徳勝龍 3月場所 白鵬 5月場所 中止 7月場所 照ノ富士
9月場所 正代 11月場所 貴景勝
2019年初場所 玉鷲 3月場所 白鵬 5月場所 朝乃山 7月場所 鶴竜
9月場所 御嶽海 11月場所 白鵬
2018年初場所 栃ノ心 3月場所 鶴竜 5月場所 鶴竜 7月場所 御嶽海
9月場所 白鵬 11月場所 貴景勝
2017年初場所 稀勢の里 3月場所 稀勢の里 5月場所 白鵬 7月場所 白鵬
9月場所 日馬富士 11月場所 白鵬
2016年初場所 琴奨菊 3月場所 白鵬 5月場所 白鵬 7月場所 日馬富士
9月場所 豪栄道 11月場所 鶴竜
戦争直後の職業野球、東京六大学野球 ― 2026/03/14 07:15
3月1日に三田あるこう会「三ノ輪橋から竜泉、吉原、浅草散策」に行ったとき、都電の三ノ輪橋停留場で集合して、近くにあった東京スタジアムの話になった。 東京球場ともいった、ロッテオリオンズのフランチャイズ球場は昭和47(1972)年に閉場している。 大先輩が永田雅一の大映の球場だと話されたが、毎日大映オリオンズから、東京オリオンズ、ロッテオリオンズとチームの名前が変わっている。 昭和37(1962)年5月31日の開場だそうだ。 一度観戦に行ったことがあるが、南千住駅から行った。
鴨下信一さんの『誰も「戦後」を覚えていない』に、「復員野球―幻影も一緒にプレーしていた」という章があって、戦争直後のプロ野球(そういえば、職業野球と言っていた)の話がある。 私の記憶は、ようやく「赤バット川上、靑バット大下」から始まるのだが、復活の最初は、終戦の昭和20(1945)年の11月23日の東西対抗戦だったそうだ。 場所はステートサイド・パーク、9月18日に進駐軍に接収されていた神宮球場だ。 私は、両国の国技館がメモリアルホール、東京宝塚劇場がアーニー・パイル劇場だったのは、知っていたが、これは知らなかった。 東京六大学野球の歴史をみると、昭和20(1945)年の10月28日にOB紅白戦、11月18日に全早慶戦を神宮球場でやったとあるが、東西対抗戦の直前に、ステートサイド・パークを許可を得て借用したわけだ。 昭和21(1946)年春のリーグ戦は、5月19日から前半は上井草球場、後半は後楽園球場で1回戦制で行われ、6月16日慶應が戦後最初の優勝校となり、東大も健闘して2位となったのが歴代最高順位だそうだ。
鴨下信一さんのプロ野球・東西対抗戦だが、ステートサイド・パークの第一戦の後、西宮球場の三、四戦の前に、群馬県桐生の新川球場で第二戦をやった。 桐生はもともと中等学校野球の名門校が多かったところだが、実は、この土地に審判の一人の知人がいて、全員に腹いっぱい米の飯を食わすと約束したからだそうだ。 いかにも敗戦直後のことらしいが、以後もプロ野球の地方遠征はまず白い米の飯を食わせてくれるところを狙って行われた。 翌々年の第3回東西対抗の優秀選手賞は豚とアヒルだったという。
ラグビーで活躍し、エベレストで亡くなった成田潔思君 ― 2026/03/10 07:12
S君の「花園出場の感動」の後半に、志木高ラグビー草創期の仲間の話がある。 卒業まで残った同期は11~12人だったが、社会人リタイア後しばしば会うようになっていたけれど、残りは5人になってしまったという。 私も同期で、志木高は人数の少ない学校だから、みんな知った名前だ。 残念ながらこの世を去ったという中に、3年の時に私と同じクラスだった成田潔思君の名前がある。
「冬休み中に登山に取りつかれ、大学では山岳部キャプテンを務めて、卒業後はヒマラヤ登山隊に参加して不運にも命を落としました」とある。 その成田潔思君の雨中のハーフラインからのゴールキック成功は、いまだに仲間内での語り草だと、S君はこう書いている。 「ラグビーでサイドキックは珍しい時代でした。豪雨が降りしきる中、たっぷり水を含んで重くなった楕円球を、彼は得意のサイドキックで見事にゴールポストの中央を射抜いたのです。彼はサッカー王国浦和の出身で、もともとキックには自信を持っていました。加えて浦和(与野?)の自宅から志木まで片道10㎞を毎日自転車通学して脚を鍛えました。今でもハーフラインからゴールを狙うキッカーはそう多くはいません。それを60年以上前の高校生がやってのけたのです。それもたっぷり水を含んだ妊娠ボールを蹴って決めました。彼が大学でラグビーを続けていればひとかどの選手になったことでしょう。」
2020年に、三田あるこう会で川越に行った時、会員のNさんが5年下の山岳部OBだというので、成田潔思君の話になった。 成田君は大学山岳部のキャプテンだったが、卒業後の1970(昭和45)年、日本山岳会エベレスト登山隊に参加、4月21日に第一キャンプで体調を崩し、亡くなっている。
テレビのニュースかドキュメンタリーで、同行の隊員がテントの中で「成田ーッ!成田ーッ!」と、叫んでいるのを見た。 この登山隊では、これより前の4月5日、ベースキャンプと第一キャンプの間の難所のアイスフォールで雪崩が発生、6人のネパール人シェルパが遭難していた。 それでも登頂は継続されたので、第一キャンプへの物資の荷揚げその他、責任感が人一倍強かった成田潔思君には過重な負担がかかったものと思われる。 5月11日、エベレストの日本人初登頂を果たした松浦輝夫隊員と植村直己隊員は、頂上に成田潔思君の遺髪と写真を埋めた。
成田潔思君は、寡黙な良い男で、志木高校では蹴球(ラグビー)部で活躍、クラスでも成績優秀だった。 大学では山岳部に入り、キャプテンにまでなった。 Nさんによると、山岳部でも、野球部で言えば四番打者、何十年かに一度出るような逸材と、嘱望されている存在だった。 それで日本山岳会エベレスト登山隊に参加することになったのであろう。 体力気力は抜群、厳しいが優しい先輩だったという。 Nさんが1年生の時、北アルプスかどこかを登山中、増水した渓流の一本橋を渡っていて、ザイルを繋いだ仲間の1年生が転落したのを、成田君が一人で引っ張り上げた。 力の強い成田君でなければ、救えなかっただろうという話だった。 私が成田君と志木高で同じクラスだったというだけで感激し、親しみを感じてもらえた。
2023年1月、三田あるこう会で「与野七福神めぐり」をした。 与野は成田潔思君が志木高に通っていた町なので、ここでも山岳部後輩のNさんと成田君の話をして、彼が務めていたのは、私が思い込んでいた日魯漁業でなく、ニチレイだと判り、海外からの大型買い付けに従事していて、28歳、当時フィアンセがいたと聞いたのだった。 嗚呼。
その話をXに書いたら、与野で成田家の隣だったという女性からコメントがついて、成田君の家が与野だったことが確かめられた。



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