佐藤賢一『釣り侍』<等々力短信 第1202号 2026(令和8).4.25.> ― 2026/04/25 07:10
「私の城下町」と「庄内のうまいもの」という「等々力短信」を、昭和62(1987)年3月に書いていた。 山形県鶴岡市は父のルーツの地で、公園地と呼ばれていた城跡や致道博物館に近い家中新町で、伯父が魚屋を営んでいた。 鶴岡出身の佐藤賢一さんの近著『釣り侍』(新潮社)の主人公二人、前原又左衛門と山上藤兵衛の家は、「読んで字のごとくに武家の屋敷が並んでいる町」、その家中新町にある。 羽州大泉藩は、将軍徳川綱吉の生類憐みの令の頃の、三代藩主松平忠義公が武士の嗜み、武用の一助として釣り、鳥刺しを侍の鍛錬として奨励した。 前原と山上は竹馬の友、家格も百石、百十石と近い。 二人は初夏四月、夜中に起き出し、内陸の城下から四里二刻の道を、釣り道具を背負い、三間余の荘内竿を担ぎ、大小を差して、海へと最後の山を越える。
波の荒い加地(加茂か)の磯の岩場で、朝まずめの釣りどき、前原は二歳鯛(にせで)と呼ぶ若い黒鯛、山上は大タナゴを釣り、鶴茶屋で料理してもらう。 そこへ用人の川村が、磯釣り中の十代藩主松平忠昭公が海に落ちたと、急を告げる。 溺死、幕府には急な病で逝去と届け、跡目相続を急ぐことになる。 嫡子十三歳の万千代か、忠昭の異母弟鉄之介か、それぞれを推す派閥が藩を二分する。 家老竹林、用人川村は万千代を、藩主の親戚中老の信保、郡代石川は鉄之介を推す。 勘定目付の前原は用人川村に頼まれ家老派、郡奉行の山上は石川が上司で中老派に、加わらざるを得なくなった。
一方前原の娘紗世(さよ)と、山上の息子弁四郎の縁談が進んでいた。 弁四郎は、才気煥発、学問に優れ藩校至道館の助教を務める。 弁四郎は、万千代様に講義して、儒学には朱子学、陽明学、徂徠学があり、朱子学は忠孝の学問、陽明学は理想の学問、徂徠学は解決の学問だ、大泉家の学問は徂徠学、現実の問題に直面したとき、これを如何に乗り越えるか、その知恵を求めようというものだ、と説く。 その弁四郎のひょんな発案から、跡目争いを秋の大泉藩恒例「御磯行」の釣りで決着することになる。
『釣り侍』は、私も知っている「荘内のうまいもの」のオンパレードだ。 だだちゃ豆ご飯。 松尾芭蕉が<めずらしや山をいで羽(は)の初茄子(なすび)>と詠んだ丸茄子の浅漬け。 赤カブの浅漬け、もって菊のおひたし、はららごのなます。 口細鰈や、鮭の味噌粕漬けの焼物。 氷頭(ひず)なます。 アンコウの皮と身さ、すりつぶした肝の、とも和え。 寒鱈の身、頭、鰭、臓物も放り込んだ「胴殻(どんがら)汁」。
十一代藩主を決める磯釣り「勝負」、陰謀やチャンバラも絡み、家老派と中老派の争いに負ければ、失脚や懲罰処分となる。 前原家と山上家の運命、紗世と弁四郎の結婚はどうなるか、その結末を楽しみにして、『釣り侍』を読んで頂きたい。
『この国のかたち』の福沢諭吉<等々力短信 第1201号 2026(令和8).3.25.> ― 2026/03/25 07:01
司馬遼太郎さんの『この国のかたち』が、2000年に文春文庫の6冊本になった時に読んで、一冊のノートに自分なりの「索引」をつくった。 そのノート、ずっと頭の片隅にはあったが、行方不明になっていた。 最近、それが出て来たのである。
たとえば、「福沢諭吉」。 ①70・120・160 ②108・161 ③134→⑥211にも ④51・193 ⑥132・219。
第1巻70頁は5「正成と諭吉」。 『学問ノスヽメ』第7編、西洋の〝マルチルドム〟(martyrdom)にくらべると、日本のは「旦那への申訳にて命を棄たる者」にすぎないと論じて物議をかもした「楠公権助論」。 昭和7,8年前後から尊王論が国民教育の上で凝縮され、「楠木正成」は固有名詞を超えて思想語に近くなった。 明治憲法はりっぱに三権分立の憲法で、三権に統帥権は入らない。
第3巻134頁61「脱亜論」。 「福沢諭吉には、瑕瑾(かきん)がある。人によっては玉に疵(きず)どころじゃない、とみる。」 明治18(1885)年3月、主宰する時事新報に書いた「脱亜論」、第二次大戦後、多くの人々に槍玉にあげられた。「福沢はアジアをバカにしている、自国独善主義である、〝入欧〟一辺倒主義である、すなわち明治後の〝日本悪〟を象徴している、などといわれた。/私などのような福沢ファンにとって手痛いのは、論文の末尾に、列強のアジア侵略を是認しているところである。しかも日本もそれに加われという。まことにけしからぬ。……丹念に読んでみることにする。」
第6巻132頁は「言語についての感想(五)」。 「近代社会は、商品経済の密度の高さと比例している。商品経済の基礎は、物の質と量を明晰にすることを基礎としているが、文章もまたその埒(らち)外ではない。」「福沢諭吉の文章もまた、漱石以前において、新しい文章日本語の成熟のための影響力を持った存在だった。かれは、自分の文章は猿にさえ読めるように書くといった人物である。」「(福沢)でさえ、自分の文章から脱皮したのは、六十すぎに刊行した『福翁自伝』(明治31年)においてである。明晰さにユーモアが加わり、さらには精神のいきいきした働きが文章の随処に光っている。定評どおり自伝文学の白眉といっていいが、ただ重要なのはこれが文章意識をもって書かれた文章ではなく、口述による速記であるということである。」 当時、長しゃべりすると七五調になる伝統があったが、「『福翁自伝』にもその気配がにおう。このため内容の重さにくらべて、文体がやや軽忽(きょうこつ)になっている。」「しかし『福翁自伝』によって知的軽忽さを楽しんだあと、すぐ漱石の『坊つちやん』を読むと、響きとして同じ独奏を聴いている感じがしないでもない。偶然なのか、影響があったのか。私は論証もなしに、あったと思いたい。」
『日曜娯楽版』『陽気な喫茶店』、連続ドラマ、文化全体が〈ごった煮〉 ― 2026/03/22 07:42
昭和22年10月から始まった日曜夜7時半からの『日曜娯楽版』、三木鶏郎(とりろう)を中心につくられた「冗談音楽」の時事風刺がたびたびGHQの忌避にふれて放送禁止のうき目にあったというが、子供ながら好きで聴いていた。 出演者は、楠トシエ、三木のり平、丹下キヨ子、有島一郎、太宰久雄、小野田勇、千葉信男、河井坊茶、逗子とんぼ、左とん平、水の也清美。 放送作家は、三木鶏郎のほか、後にトリローグループ(冗談工房)を結成するキノトール、能見正比古、永六輔、神吉拓郎、野坂昭如、飯沢匡、伊藤アキラ。 作曲家は、神津善行、いずみたく、桜井順ら。 番組から、ジャズミュージシャンのジョージ川口、小野満、鈴木章治らと「三木鶏郎楽団」を結成した。 彼らの「冗談音楽」は風刺と笑いで人気を呼び、ヒット曲「僕は特急の機関士で」(1950(昭和25)年)が生まれた。 その後、各方面でかつやくすることらなる、懐かしい名前の人ばかりである。
昭和24年4月5日スタートの『陽気な喫茶店』、レギュラーは松井翠声(すいせい)、活動弁士出身だったが、アメリカ生活が長かったはずで、とてもモダンなおじさん、配するのは若い女性で荒井恵子という歌手、〝コトコトコットン、ファ・ミ・レ・ド・シドレミファ〟という歌詞の「森の水車」、ひどく健康的な歌一曲で世に出た、まるで手アカのついてないお嬢さんだった。 加えるに三枚目、お笑い出身、漫才の内海突破、この人の発する「ギョッ!」が流行語になった。 いまのトーク・バラエティー番組の先駆けである。
社会への影響力の大きさでは、連続ドラマに敵うものはない。 昭和22年7月に代表的な帯ドラ二本が同時に始まる。 菊田一夫の『鐘の鳴る丘』(昭22.7.5.~25.12.29. 790回)、浮浪児と呼ばれた戦争による孤児たちのストーリー、主題歌の「とんがり帽子」「緑の丘の赤い屋根、トンガリ帽子の時計台」は、全日本人が歌えたといってもいいだろう。 『向う三軒両隣り』(昭22.7.1.~28.4.10.)脚本・八住利雄、伊馬春部、北条誠、山本嘉次郎、ホームドラマ(というより、ご近所ドラマ)の元祖。 車屋の亀造(巌金四郎)や山田のおばあちゃん(伊藤智子)は本当に隣人だった。
『えり子とともに』(昭24.10.~ 阿里道子ほか、作・内村直也)は、新生した市民の家庭像、知的で自立心に富んだ主人公えり子のキャラクターは新しい理想像だった。 『鐘の鳴る丘』が終ると『さくらんぼ大将』(古川ロッパとボーイ・ソプラノの加賀美一郎)がはじまり、やがて昭和27年の『君の名は』につながる。
もっとも望まれたのは音楽番組だった。 はやくも昭和20年12月31日に『紅白歌合戦』の前身『紅白音楽試合』が放送された。 それより早い10月に『希望音楽会』が始まった。 聴取者の希望(リクエスト)は、純音楽(クラシック)3割、軽音楽6割、邦楽1割だった。 新旧とりまぜ、東西ごちゃまぜは音楽ばかりではない。 文化全体が〈ごった煮〉だった。 面白い時代でもあったとつくづく思う、と鴨下信一さんは回想する。
エンタツ・アチャコの「早慶戦」 ― 2026/03/08 07:34
エンタツ・アチャコの「早慶戦」を、少し見てみよう。
アチャコ…早よう出かけたんやけれどもなあ、満員でまァようような、ファースト側に座ったんやが、君はどこにおったんや。
エンタツ…僕もいったところが、どこも座るところがないからね、ようよう、セカンド側に割り込みました。
アチャコ…セカンド側? そんなとこ入られへんや。
エンタツ…その入られへんのをね、特別入場を許されて……。
アチャコ…そんな無茶なことできるかいな。
エンタツ…それでも僕は、真ん中に座ってましたよ。
アチャコ…ホー、それやったら君、外野やないか。
エンタツ…あっ、そうそう外野ですわ。
アチャコ…たよりないこというてんなあ。
エンタツ…しかし、おもしろかったねえ。
アチャコ…そりゃ、君、早慶戦というたら、なんというても日本一の試合よってになあ。
エンタツ…はあ、実際おもろかった。しかしね、僕は、あの、ちょっとわからんとこがあるのやがなあ。
アチャコ…ほう?
エンタツ…早慶の相手は、あれ、どこでしたいな。
アチャコ…なに! 早慶の相手?!
エンタツ…ええ。
アチャコ…君、早慶戦のこというてんのやろが。
エンタツ…ええ。だけどね、早慶対どこそこというでしょ?
アチャコ…そんなたよりないことよういうてんなァ。早慶戦とはやねェ、つまり、早慶……早稲田対慶応の試合をもって、これ早慶戦というのやがな。
エンタツ…そんなことぐらい、わかっとるわいな。早稲田と慶応の試合を早慶戦というのやろ。
アチャコ…ちょっともわかったれへんが、心細いなあ。
エンタツ…いや、わかっとる。これでも野球通ですからなあ。
アチャコ…そんな、たいそうに。
「笑いの素研究所」から「漫才学校」へ、秋田實の「漫才」〝戦略〟 ― 2026/03/07 07:04
秋田實がエンタツと出会った昭和6(1931)年」ごろから、大阪に帰る昭和9(1934)年ごろは、都会の生活様式に「洋式」がとり入れられて変化を見せる時期だった。 エンタツ・アチャコが舞台に洋服で出て漫才をしたのも、はじめてではあったが、そういう時代の風俗的変化を背景にしている。 とはいっても、女性の「洋装」はまだ珍しいことであり、「洋食」もまたそうではあり、「低級な」漫才師が、ホワイトカラーの象徴である背広姿で舞台にあらわれるのは、「漫才」の階級上昇、少なくとも「向上」をめざすことをあらわしている。 江州音頭や河内音頭の自慢のセミプロが舞台に立っていた、初期の「万才」では、たいてい着流しで、なかには浴衣に三尺帯というだらしない姿の者もいたが、それを紋つきハカマにしたのは砂川捨丸だったという。 衣装の点でははっきりと「萬歳」から離れようとしているのがわかる。 男女のコンビができるようになると、男は紋つきハカマ、女は裾模様ときまっていった。
平井巳之助という人が昭和5(1930)年に東大を卒業して大阪に帰った秋に、秋田實は丸善のちかくのバラックのような二階建ビルの一室に「笑いの素(もと)研究所」なるカンバンを出して、京大文学部の学生ふたりを雇い(?)、新聞の切り抜きの分類や整理をさせ、笑いの資料のインデックスをつくっていたという。 藤沢桓夫も、心斎橋のその部屋のことを回想していて、学生のひとりが後に吉本に入った吉田留三郎だった、と。 秋田には特高がつきまとっていたというから、「笑いの素研究所」のカンバンは、秋田の、官憲への戦術的なものがあったのかもしれない。 秋田が、エンタツと会う以前にすでに、それまで集めてもっていた笑いに関する資料を整理し、新聞を綱目別に切り抜いて、「笑いの辞典」のインデックス、たとえば「ヒコーキ」というテーマで笑いのコントを書こうとする時の便宜のために、「ヒコーキ」に関するニュースやデータを分類していたらしいのは、注目していい。 秋田が、「笑い」を「笑いの素」に分析し、それを組み合わせることで新しい笑いをつくり出す帰納法、「笑い」と「笑わせ方」に強い興味を抱いていたことがわかる。 (私はここを読んで、この一連の秋田實についてのブログが、司馬遼太郎『この国のかたち』の「索引」を自作したノートを見つけたことから始まったのを思って、感慨深いものがあった。)
秋田が昭和9(1934)年に吉本興業に入ると、エンタツが「低級」だといった漫才師たちに、秋田の笑いのネタはことのほか喜ばれた。 こんなに大勢の人達に親しまれるのは生れてはじめての経験で、その信頼にこたえるために夢中になった。 一日中いつも誰か漫才師と舞台の話をし、毎夜のように誰か若い漫才師を家に連れ帰った。 自分の提供するネタ(理論)が漫才師に使われる(実践)と、結果はその日の舞台でわかる。 そのネタが受ければ、これほど楽しいことはない。 漫才と漫才師の変革(それらへの仕掛けも)を、即刻、自分の目で見られるのだ。
だが60組に余る漫才師の全部のネタの相談には応じられない。 秋田の身体と時間の奪い合いとなったので、日に一回、集まってもらって、小さい1、2分のネタだったが、時事のニュースや色々の笑話や小咄を、希望に応じて配給する「ネタのセリ市」を開くことにした。 「ネタのセリ市」は、のちに発展的解消して、「第一回新作発表漫才研究会」(昭和11年2月)となった。 漫才作者でなく吉本の一社員、編集者林廣次の名で、雑誌「ヨシモト」が、昭和10(1935)年8月に創刊された。 その二年後には、吉本興業に漫才の新人養成機関「漫才学校」を提案し、実現している。 同じ頃、マンガ家の平井房人との共同編集で漫才台本集を次々と大阪パック社から出している。 こうして見てくると、秋田實の「漫才」への〝戦略〟とでもいうべきもの、いや、戦略家としての秋田の才能が見えてくるといった方がいいかもしれない、と富岡多恵子さんは書いている。
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