松戸の戸定邸(とじょうてい)<等々力短信 第1170号 2023(令和5).8.25.> ― 2023/08/21 07:13
松戸の戸定邸(とじょうてい)<等々力短信 第1170号 2023(令和5).8.25.>
大河ドラマ『どうする家康』で、徳川家康の小姓から赤備えの武将になってきた井伊直政の板垣李光人、「りひと」と読む名はドイツ語の「光」Lichtから来ているそうだ。 一昨年の渋沢栄一(吉沢亮)を描いた大河ドラマ『青天を衝け』で、徳川慶喜の弟・昭武(14歳)を演じた少年民部公子が印象深い。 将軍慶喜の名代として慶應3(1867)年のパリ万博に日本代表で派遣され、随行した渋沢栄一らの幕臣は、薩長に対抗するために小栗上野介が、フランス公使ロッシュと練り上げた幕府の起死回生策、フランスから600万ドルの借款を調達する密命も帯びていた。 しかし、万博の日本のスペースの1/3には薩摩琉球国の展示品が並び、借款も薩摩藩と英国の妨害で不調となる。
万博後、3年から5年の予定で欧州留学のはずだった昭武だが、幕府が瓦解、慶喜は徹底恭順の意を示して謹慎、その直後兄の水戸藩主・慶篤が急死し、昭武はその後継者に指名される。 新政府は、昭武に帰国を命令、昭武は最後の水戸藩主となる。
一方、慶喜は明治2年9月謹慎を解かれ、徳川の新封地静岡に移った。 司馬遼太郎の『最後の将軍―徳川慶喜―』によると、沈黙を守り、政治とのかかわりを避けて、渋沢栄一以外旧臣に会わず、渋沢が連れて行った幕末秘書のように寵用した永井尚志(なおむね)にも、会わなかった。 まだ数え33歳だった慶喜は、趣味生活に没頭した。 大弓と打毬、鉄砲猟と放鷹、宝生流の謡曲、油絵の稽古、「将軍をやめてよかったとおもうのは、この油絵をかいているときだ」といった。 そして写真、旧幕時代から撮られることが好きだったが、退隠後は現像するために暗室のなかで徹夜までし、とくに風景写真が好きで、静岡近辺のいい所はほとんど撮った。 三十年の蟄居の間、多くの子女ができた。 明治4年には長男と次男が同時に出来、明治5年にはその長男と次男が死んで三男が生まれ、翌6年にはその三男が死んで、長女がうまれるといういそがしさだった。 むろん母親はひとりではない。 子女のうち、成人した者だけで十男十一女であった。
昭武は明治16(1883)年、家督を養子篤敬(あつたか)に譲り、翌年松戸に富士山や江戸川をのぞむ別邸・戸定邸と洋風庭園(芝生が植えられた日本最古)を造り、隠居した。 松戸宿は江戸時代には江戸と水戸を結ぶ水戸街道の宿場町だった。 松戸神社には二代藩主徳川光圀ゆかりの銀杏がある。 「戸定」は、松戸城(松浪城)の外郭「外城」に由来する地名。 明治30年代、兄の慶喜は何度も戸定邸を訪れ、昭武とともに趣味の写真撮影や狩猟、陶芸などを楽しんだ。 平成3(1991)年松戸市が「戸定が丘歴史公園」として整備、一般公開している。 園内の「戸定歴史館」(博物館)には、昭武と家族の暮らしや、慶喜・昭武兄弟の撮影した写真などの展示がある。
わが青春の春夫の詩。今日も一日無事に生き。 ― 2023/08/11 07:10
「凌宵花(りょうしょうか)」が「ノウゼンカズラ」であることは、俳句をやるずっと前、高校生の頃から知っていた。 佐藤春夫の『殉情詩集』に「酒、歌、煙草、また女」三田の学生時代を唄へる歌、というのがあり、試験の前になって、やむを得ず勉強しなければならなくなると、愛唱していたものだった。 赤煉瓦の旧図書館の右手、「文学の丘」の入口に立派な棚が設えられ、説明はないが「ノウゼンカズラ」が植えられている。
ヴィッカスホールの玄関に 咲きまつはつた凌霄花 感傷的でよかつたが 今も枯れずに残れりや / 秋はさやかに晴れわたる 品川湾の海のはて 自分自身は木柵(もくさく)に よりかかりつつ眺めたが / ひともと銀杏(いちょう)葉は枯れて 庭を埋めて散りしけば 冬の試験も近づきぬ 一句も解けずフランス語 / 若き二十のころなれや 三年(みとせ)がほどはかよひしも 酒、歌、煙草、また女 外(ほか)に学びしこともなし / 孤蝶、秋骨、はた薫 荷風が顔を見ることが やがて我等をはげまして よき教へともなりしのみ / 我等を指してなげきたる 人を後目(しりめ)に見おろして 新しき世の星なりと おもひ驕れるわれなりき / 若き二十は夢にして 四十路に近く身はなりぬ 人問ふままにこたへつつ 三田の時代を慕ふかな
<筍をさつくり割りしゾーリンゲン>、都築華子さんは少し上だがほぼ同世代であることが、この句で判る。 我が家でも、父も母もゾーリンゲンの刃物、ナイフや剃刀、鋏、爪切などを珍重していた。 ゾーリンゲンは、関や三条・燕のような都市の名で、ヘンケルスはメーカーらしい。 そういえば、「デリカテッセン」という一文を綴ったことがあった。 「等々力短信」第1105号 2018(平成30)年3月25日「デリカテッセン」。
今日ひとひ無事に了へたるはうれん草 田中温子
「はうれん草」菠薐草、『ホトトギス 新歳時記』二月に「もっともふつうの野菜である。紅色の茎の部分から葉が叢生する。」「浸し物、和え物などのほか、各種の料理に重用される。」とある。 当り前の日常生活を象徴しているのであろう。 私などは、歳を取ってきてから、毎日風呂に浸かって白いタイルの壁を見上げながら、今日も一日無事に生きられて、なんとも有難いものだと、つくづく思うようになった。
<うちの子と言ひて朝顔商へる>、そんな声は聞いたことはないけれど、毎年入谷鬼子母神の朝顔市に行って、五十年近い。 コロナ禍で三年ぶり開催となった今年、通信販売に慣れて、つい入谷に出かけるのを怠けてしまったのも、年のせいだろうか。 <新涼や席譲られることに慣れ>、電車でびっくりしたように立ち上がってくれる人がいる。 有難く座らせてもらうことにして、久しい。 降りる時に、挨拶はするようにしているが…。
耶馬渓競秀峰<等々力短信 第1169号 2023(令和5).7.25.> ― 2023/07/18 07:00
耶馬渓競秀峰<等々力短信 第1169号 2023(令和5).7.25.>
7月10日九州北部の大雨のため、大量の流木がひっかかり、中津市本耶馬渓町の山国川に架かる国の重要文化財「耶馬渓橋」の欄干の約半分が流失したことが判明した。 「耶馬渓橋」は、全長116メートル、8連のアーチ橋で、現存する石造りのアーチ橋では国内で最も長い。 大正12(1923)年に旧東城井村が競秀峰(青の洞門)近隣の周遊のため敷設した観光道路の一部として架橋した。 令和4(2022)年5月10日に国の重要文化財に指定されたばかりだった。 「青の洞門」は、山国川右岸の競秀峰下の通行の難所に穿たれたトンネルで、18世紀中ごろ僧禅海が30年余を費やし鑿と槌だけで開削した。 菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で知られる。 中学の国語で読んだ。
「日曜美術館」の「アートシーン」で、木島櫻谷という日本画家の、物凄い描写力に驚いて、泉屋博古館東京の「木島櫻谷―山水夢中」展を見に行った。 コノシマと読むことも知らなかった。 木島櫻谷(1877-1938)は、近代の京都画壇を代表する存在として、近年再評価が進んでいるそうで、山海の景勝の写生を重ね、それを西洋画の空間感覚も取り入れた近代的で明澄な山水画として描いている。 中に明治42年5月の写生帖の11枚を張り合わせた《渓山奇趣》耶馬渓と、それを紙本墨画金泥で描いた《万壑烟霧(ばんがくえんむ)》6曲1双の屏風があった。 「壑」は、手前の奥深い谷。
長年福沢をかじりながら、中津に行ったことがなかったが、2009年11月に福澤諭吉協会の第44回福澤史蹟見学会で、念願の中津に行き、耶馬溪へも行った。 全国の羅漢寺の本になったという羅漢寺門前に、つい3日前建てられた「福澤諭吉羅漢寺参詣記念之碑」も見てきた。 耶馬渓競秀峰は約1kmにわたり美しい峰が連なる景勝地で、福沢諭吉はその景観保全に尽力した。 競秀峰の名は宝暦13(1763)年に訪れた江戸浅草寺の金竜和尚、耶馬渓の名は文政元(1818)年に訪れた頼山陽による。
福沢は明治7年11月17日には日田-耶馬溪-中津を結ぶ「豊前豊後道普請の説」を発表した。 今回の水害のニュースで、よく名が出た場所である。 明治27年3月墓参のため長男一太郎と次男捨次郎を伴い帰郷した折、一日耶馬渓に遊び、競秀峰が売りに出されていることを知った。 心ない者が購入して樹木を伐採すれば景観が損われてしまうことを憂えた福沢は、曾木円治に仲介を依頼して、同年4月30日から30年5月31日までの7回にわたり、目立たぬように少しずつ売りに出されている土地を買い、その名義はかつて山林の事業に関係した義兄小田部武にした。 武の子菊市、福沢捨次郎、時太郎と引き継がれ、風致保存を条件に譲渡された。 この風景保全の為の約1万平米の土地買収は、ナショナル・トラスト運動の先駆けともいわれている。
廃仏毀釈と興福寺の数奇な運命 ― 2023/07/10 07:04
司馬遼太郎さんは書く、明治元年の「神仏分離令」で、奈良においてその新政の嵐を正面から受けたのが興福寺だった。 ただ一片の命令で僧たちは春日大社の神職にさせられ、興福寺は廃寺同然になった。 この時期に五重塔はわずか二十五円で売りに出された。 広大な境内や領地は大きく姿を変える。 「僧がいっせいに還俗することによって寺を捨てた以上、寺も仏像も宝物も持主なしで路上にほうりだされたのと同然だつた。軽薄といえばこれほどすさまじいものもないが、一方、明治維新の革命性ということからみれば、興福寺におけるそのことほどはげしいものは他になかった。」
「その広大な境内も同様だった。/明治四年正月、大乗院とならんで最大の「邸宅」だった一乗院の敷地は、太政官が「官没」し、ここに奈良裁判所を置いた。いまは奈良地方裁判所になっている。/明治五年九月、一山の土塀・諸門などがことごとくこわされて、一空(いっくう)に帰した。もっともすこしは残った。五重塔、三重塔、北円堂、南円堂、大湯屋。/のちに成立する奈良公園のうつくしさは、興福寺を毀(こぼ)つことによって成立したのである。」
『新 街道をゆく「奈良散歩」』で、高島礼子は旧興福寺がどれだけ広大な面積だったかを、仏教史が専門の西山厚さん(奈良国立博物館名誉館員)に案内された。 奈良ホテルは、旧大乗院跡だが、上流貴族のようなお屋敷で、大乗院庭園が旧興福寺の南端になる。 藤原氏の、兄は都で摂政、関白となり、弟は仏教世界のトップとなった。 「神仏分離令」で、興福寺の公家出身の上層部の僧は、進んで寺を捨て、たやすく春日大社の神官となった。 公家の世の中になったのだから。 興福寺は、経済的基盤がなくなった、国の経営で檀家のない寺だったから、「神仏分離令」で一番強く影響が出た。 下級の僧侶は難しい選択を迫られた。 奈良文化財研究所歴史研究室の吉川聡さんによると、近年の研究で、承仕(事務方)の宗円の日記に、「神仏分離令」の明治元年三月十七日坊さんをやめる「一大事の評議」とあった。
旧興福寺の西端は、東向商店街。 西山厚さんお勧めの奈良県庁から旧興福寺域の全体を眺望する。 旧興福寺のかつての境内の中央を貫いて、登大路(のぼりおおじ)という大通りがつくられ、周囲が奈良公園となった。
興福寺は、明治十四年に再興が認可される。 300年ぶりの中金堂再建を2018年に30年に渡る念願で果たした多川俊映元貫主は、創建時と同じように建てて、コンセプトは「天平回帰」だと語っていた。 五重塔もそうで、剛直で、力強さがある、と。
興福寺の歴史と藤原氏 ― 2023/07/09 06:51
興福寺。 「もともと、法相をインドから唐に持ちかえったのは、『大唐西域記』の玄奘三蔵(602~64)であった。かれは長安の慈恩寺(大雁塔のある寺)などでこれを翻訳し、その弟子窺基(きき・632~82)が承(う)け、『成唯識論(じょうゆいしきろん)』という註釈書を書いた。/それが、興福教学の根本の典籍になっている。/法相・唯識の学問と思想は、日本人の思弁能力を高めたとはいえるが、しかしただ一冊の哲学書を、興福寺という巨大な大学が千数百年も研究しつづけるというのは、尋常とはいいにくい。」「人間の精神活動のなかでの袋小路のような一主題を千数百年もくりかえしたのは、世界にも類のない知的営為であったといえる。」
「そういう壮大な奇現象を可能にしつづけたのは、思想ではなく、経済であった。/ここで考えねばならないのは、興福寺の大檀那が藤原氏であることである。鎌倉期までの日本政治史は、藤原氏の家族史であり、権力と富はこの一門にあつまった。そういう家の氏寺である以上、平安期いっぱい、興福寺には荘園が寄進されつづけた。その荘園は、ほぼ大和地方に集中した。/その経済力は、僧兵を擁し、中央から地方長官として大和国の国司がきてもこれを相手とせず、ついには大和一国を私領化した。平安後期のことである。」
「源頼朝が鎌倉幕府を興したときも、大和における興福寺の勢力に手がつけられず、頼朝はむしろ妥協し、興福寺をもって、「大和守護職」とした。興福寺は鎌倉を怖れず、大和一国は「武家不入の地である」と豪語した。」
「織田・豊臣政権によって旧興福寺は大きく寺領を削られた。江戸期、それでも幕府は二万余石を与えた。万石以上というのは、石高からいえば大名である(塔頭のぬしの位階はなみの大名を超えている)。」
「旧興福寺の致命的欠陥(もしくは特徴)は、この巨刹を構成している塔頭子院のぬしが、ことごとく京の公家(藤原氏)の子だったことである。」
「公家にも、階級がある。最高位の摂関家の子弟は、興福寺筆頭の一乗院・大乗院に入り、門跡になる。この両院が交代して興福寺別当(長官)の地位につくのである。」
興福寺は、藤原氏の氏神である春日大社を支配下に置き、大きな権勢を振るっていた。
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