田沼意次と「江戸打ちこわし」2024/03/24 08:13

 田沼意次は、沢木耕太郎さんが現在、朝日新聞土曜日beに連載中の小説『暦のしずく』で、主人公の講釈師・馬場文耕が左京という名だった少年時代に、芝にある直心影流の長沼四郎左衛門国郷の同じ道場に通っていた田沼龍助だった。 一緒に連れ立って帰ることになった二人の道場通いは、享保18(1733)年から19(1734)年にかけての一年ほどだった。 龍助の意次は、享保17(1732)年7月、14歳のときに八代将軍吉宗に初御目見得し、15歳で西の丸の家重の小姓になることが内々に決まった。 実際に小姓に上がるのは享保19年3月になるが、父と相談し、それまでの間に一度はということで、道場通いした、という物語になっていた。(2023年11月25日、第56回)

 「田沼時代」のところに出てきた「江戸うちこわし」とは、江戸の下層都市民が米屋などを打ちこわした事件で、三つあった。

 (1)1733(享保18)年1月、前年の凶作による米価騰貴を原因に、30・31年幕府の米価引上げ政策に積極的に加担した下り米問屋高間伝兵衛宅を2000~3000人で打ちこわしたもの。

 (2)1787(天明7)年5月、天明飢饉による米価騰貴を原因に、江戸市中の米屋をはじめ質屋・酒屋など900軒以上が打ちこわされた事件。 最盛期の20~30日にかけて江戸は無警察状態に陥った。 当時幕府は前年に田沼意次が老中を罷免され、政治は停滞状況にあったが、この事件を契機に田沼につながる勢力が追放され、松平定信の老中入りが実現した。

 (3)1866(慶応2)年5・6月、第2次長州戦争による政治不安・物価騰貴のなかで、米屋を中心に横浜商いの商人も打ちこわしをうけた事件。 直後に発生する武州一揆とともに幕府に衝撃を与えた。 9月にも下層民が集結したが、大規模な打ちこわしにはいたっていない。 これらの事件は幕府の膝元で発生したため、幕政に多大な影響を与えた。

18世紀後半、日本文化の大変化2024/03/23 07:09

 池大雅(1723~1776・享保8~安永5)と与謝蕪村(1716~1783・享保元~天明3)が《十便十宜図》を描いたのは、明和8(1771)年だという。 芳賀徹さんは『絵画の領分』で、江戸時代の18世紀後半に、日本文化の多くの分野で、大きな変化があったと指摘している。 ごく大づかみにいうと、自然と人間社会と世界とに対する、より合理主義的な、そして内面に向かっても外界に向かっても、よりリアリスティックな態度を志向していた。 いずれも海外世界からの影響や衝撃による変化というよりは、むしろ18世紀初頭以来の徐々の内発的醸成が、「田沼期」独特の自由主義的雰囲気のなかで開花したと見るべきだという。

 「田沼期」、「田沼時代」とは、田沼意次が側用人・老中として幕政の実権を握った宝暦(1751~1764)年間から(明和8年間、安永9年間をはさみ)天明(1781~1789)年間にかけての時期をいう。 貿易振興・蝦夷地開発・新田開発など経済政策による幕政の積極的打開を意図したが、賄賂政治と批判され、天明飢饉や江戸うちこわしにより失敗に終わった、といわれる。

 日本文化の多くの分野での、大きな変化とは、深浅の差こそあれ、共通の反伝統的姿勢をもった新しい知的好奇心と一種の啓蒙思想が発動し、また旧来の規範からいっそう自由になった感性と感情の表現がひろまったことだった。  平賀源内、前野蘭化(良沢)、杉田玄白、あるいは志筑忠雄、本多利明というような洋学派の自然科学や世界地理の分野における活動ばかりではない。 本居宣長の文献学による古典再評価と、それによる日本人のアイデンティティ探究の試みにおいて、三浦梅園の認識論上の方法的考察において、さらに上田秋成、大田南畝、与謝蕪村、加舎白雄(かやしらお)、小林一茶らの散文や俳諧、あるいは川柳において、大坂の混沌社グループや菅茶山らの漢詩において、また池大雅、伊藤若冲、与謝蕪村、丸山応挙、小田野直武、佐竹曙山から鈴木春信や喜多川歌麿や司馬江漢にいたる絵画において、日本文化は「田沼時代」を中心に、たしかにさまざまの新しい、はなやかな相貌を見せはじめた、と芳賀徹さんはいうのだ。

 私が名前も知らなかった、志筑忠雄(しづきただお、1760~1806)は、蘭学者、オランダ語法を本格的に研究した最初の日本人で、『暦象新書』を編み、ニュートンの天文・物理学を紹介した。『鎖国論』『助字考』。 本多利明(1743~1820)は、経世家、江戸に算学・天文の塾を開き、かたわら蘭学を修め、天文・地理・航海術を学ぶ。ヨーロッパの事情に明るく、『西域物語』『経世秘策』『経済放言』を著し、開国・貿易と北防の急務を説き、北夷先生と称した。

『池大雅―陽光の山水』展<等々力短信 第1177号 2024(令和6).3.25.>3/21発信2024/03/21 07:09

   『池大雅―陽光の山水』展<等々力短信 第1177号 2024(令和6).3.25.>

 生誕300年記念『池大雅―陽光の山水』展を出光美術館で観てきた。 美学美術史卒の方から招待券を頂いた時、そばにいた人が「素晴らしい」とおっしゃった通りの展覧会だった。 国宝《楼閣山水図屏風》は展示期間を過ぎていたが、国宝《十便十宜図》は「樵便・宜晴」を見ることができた。 17.9×17.9cmの小さなものだ。 池大雅が数えで49歳、与謝蕪村が56歳の年に、尾張の素封家の求めに応じて競作した画帖である。 清初の文人で『芥子園画伝』の編者李笠翁が、自分の別荘伊園の暮らしとたたずまいを自讃した詩「十便十二宜詩」のうち、十便を大雅が、十宜を蕪村が受けもって、その詩を絵画化した。 大雅の「樵便」、右上から左下へ渓流にかかる橋を、背中に薪を背負った男が渡っている絵だ。 詩は、秋以降女中が来てくれないので、書物をなげうって、自分で薪拾いに樵の仕事へ、柴の扉を出れば、前は山である、の意。

 池大雅は、中国の文化に深い憧れを抱き、遠い中国の名勝へ叶わぬ渡唐を夢見つつ、四季が彩る日本の自然に遊び、未見の中国のモデルとした。 吉野の桜を始め、日本各地の名所をめぐり、白山・立山・富士山の三霊山も踏破、優しく明るい筆づかいで、美しい日本の風光を描き出した。 富士白糸瀧図、浅間山真景図、那智滝濺瀑図、箕山瀑布図、墨や色の点描だけで、樹の葉のさざめきや水面のきらめきが表されている。

芳賀徹さんは、『絵画の領分―近代日本比較文化史研究』(朝日選書)を、「徽宗(きそう)皇帝や池大雅やセザンヌの絵を見て楽しむには、彼らが使っていたはずの中国語や日本語やフランス語についてはもちろんのこと、彼らの伝記やその背景の歴史についてさえ、何も特別のことを知らなくともよい。彼らの作品は国籍をこえ、時代をこえて、いつどこでも見る者の眼と心に語りかけてくる――こちらがじっと耳を澄ます術(すべ)さえ心得ているならば。」と、始めた。 夏目漱石は、橋口貢宛の手紙(大正2年7月3日)に、「此間ゴッホの画集を見候、珍なこと夥しく候。西洋にも今に大雅堂が出る事と存居候。」と書いた。 芳賀さんは、色彩や墨をときには点描風にも用いて、たっぷりと光と空気と潤いを含んで奥行き深い別天地を画面に打ち開いた池大雅は、まさに18世紀日本の印象派に違いなく、南仏の野で日本に憧れたゴッホの先駆け足り得る天才であった、とする。 漱石は、子供の頃から南画の山水を見ているのが好きだったという(『思ひ出す事など』)。 晩年には、自分でも南画風の絵を描いた。 津田青楓が「ワハハ」と笑ったという《樹下釣魚図》を、芳賀さんは、「漱石が前から憧れていた風流洒脱の境涯、<見るからに涼しき島に住むからに>と詠んだ閑適の理想郷を画にした、胸中山水の一点、ハイカラな文人画にほかならない」と優しい。

「熱海の雪崩」考2024/02/29 07:09

 小泉信三さんについて、私が今まで書いたものの一覧を出そうと思っている。 その中で、ネットのブログで読めないものの一つに、この等々力短信「熱海の雪崩」があった。 興味深い話なので、「マクラ」として再録しておく。

        等々力短信 第1023号 2011(平成23)年5月25日                       熱海の雪崩

 「熱海の雪崩」が、ずっと気にかかっていた。 『慶應義塾史事典』のVII「社中の人びと」の「阿部泰蔵」の項目にある。 阿部泰蔵は、三河国下吉田(現愛知県新城市)生れ、慶應4(1868)年に福沢の塾に入り、明治2(1869)年には慶應義塾の教員となり、その年3か月ほど塾長も務めた。 当時は当番制、交代で塾長に任じたものだったそうだ。 福沢門下生の保険事業を実行しようという動きの中、その中核として阿部に白羽の矢が立ち、明治4(1871)年7月、日本最初の生命保険会社明治生命の創業者となる。 水上滝太郎(阿部章蔵)が四男なのは、小泉信三の著作でよく知られている。

 私の引っ掛かっていた記述は、「(大正)八年熱海温泉に逗留中、雪崩の被害に遭い瀕死の重傷を負う。以後自宅で療養、一三年一〇月二二日没、享年七五。」 温暖な熱海に雪は降ることはあったとしても、雪崩があったのだろうか、ということだった。

 5月16日、福澤先生ウェーランド経済書講述記念日の講演会で三田に行き、次の予定まで一時間ほどの時間があったので、卒業以来40数年ぶりに図書館に入った。 塾員(卒業生)は、慶應カードで入れてくれる。 レファレンス・カウンターで尋ねて、『慶應義塾史事典』の参考文献にあった明治生命保険相互会社編『本邦生命保険創業者 阿部泰蔵伝』(1971年)を、地下2階の書庫で探し出す。 第一三章 終焉 一「奇禍に遭う」に、当時明治生命大阪支店副長だった阿部章蔵の、後年の追憶が引用されている。

「大正八年二月、父は鈴木旅館に入湯中、雪崩(なだれ=ルビ)の為に浴室の天井の厚硝子が砕け、大腿部を深く剥(えぐ)られてあやふく即死せんとし、爾来六年間病床を離れる事が出来ず、晩年を苦痛のうちに終った。」 おそらく、これが『慶應義塾史事典』の、基だろう。 『水上滝太郎全集』十二巻13-4頁の引用とあったので、カウンターで見覚えたKOSMOSの端末を叩いて、地下3階にあった現物を読む。 その時、『水上滝太郎全集』の端に立っていた「補遺・年譜・索引」の袋を一緒に手にしたのがヒットだった。 年譜「大正八年(三十三歳)」「二月三日、父泰蔵、熱海温泉鈴木旅館に於て、入浴中、積雪の為玻璃窓砕け大腿部に重傷、爾来六年間病床を離れ得ざるに至る」。 「雪崩」よりも「積雪」で天井のガラスが割れたという方が、妥当ではなかろうか。

 気象庁お天気相談所と、そこから回された静岡気象台防災業務課にも電話してみたが、大正8(1919)年2月3日(福沢諭吉命日)の熱海の積雪の記録は確認できなかった。

柳沢吉保の評価、将軍綱吉の評価につながる2024/02/23 06:55

 柳沢吉保の評価が二分されるという問題だが、以前、家内の同級生の奥様、川口祥子さんの「柳沢吉保と六義園」という講演を聴いて、いろいろ書いていた。 その川口祥子さんだが、残念ながら2022年11月30日に亡くなられて、『源氏物語』などの古典に関する深い学識にふれることができなくなってしまった。

「柳沢吉保と六義園」のお話を聞く前に<小人閑居日記 2018.10.9.>
和歌浦、和歌三神、そして和歌山の地名の由来<小人閑居日記 2018.10.10.>
「古今伝授」北村季吟→柳沢吉保、「六義園」<小人閑居日記 2018.10.11.>
柳沢吉保と五代将軍綱吉<小人閑居日記 2018.10.12.>

 改めて、それらや、そこにリストを挙げている「六義園」について書いたものなどを読むと、柳沢吉保の評価が二分されることは、吉保が仕えた五代将軍徳川綱吉の評価が二分されることにも、つながっていた。

2月12日に発信した、元禄地震 房総沖巨大地震と大津波<等々力短信 第1176号 2024(令和6).2.25.>に書いた、柳沢吉保の出世ぶりについては、柳沢吉保と五代将軍綱吉<小人閑居日記 2018.10.12.>にくわしく書いていた。 古山豊さんの本によって記した、吉保生母きの女、その二度の再嫁と、そこで産んだ子供や、荻生徂徠との関わりについては、ウィキペディアなどにも記述がないけれど、八木書店の史料纂集古記録編『楽只堂年録』を校訂している宮川葉子さん(元淑徳大学教授)のコラム「柳澤吉保を知る」第5回吉保の側室達(一)飯塚染子で確認することができた。 柳沢吉保の公用日記『楽只堂年録』は、元々柳沢家には『静寿堂家譜』と呼ぶ公用日記があったのだが、火災で焼失したため、荻生徂徠が史料を博捜、再編したものだった。
https://company.books-yagi.co.jp/archives/7610