木版から活版印刷へ、福沢の著書と、近代印刷の父・本木昌造2025/03/04 07:06

 木版印刷が、活版印刷になった時期は、いつ頃だったのか、気になった。 『福澤諭吉事典』のIII「著作」に「著作単行書一覧」があり、「印刷技法」と「形態」の欄がある。

 万延庚申(万延元(1860)年)の『華英通語』から始まり、『西洋事情』初編(慶応2(1866)年)、『西洋事情』外編『雷銃操法』『西洋旅案内』『条約十一国記』『西洋衣食住』(慶応3(1867)年)、『兵士懐中便覧』『訓蒙窮理図解』(慶応4(1868)年)、『掌中万国一覧』『英国議事院談』『清英交際始末』『洋兵明鑑』『頭書大全世界国尽』(明治2(1869)年)、『啓蒙手習の文』(明治4(1871)年)まで、全てが木版印刷(和装・半紙本が多く、一部大本、中本、小本)である。

 『学問のすゝめ』(二編登場以降「初編」と呼称)は、中津市学校に学ぶ青年に向けて明治4(1871)年12月に活版印刷(洋装・四六判)で刊行され、好評を博したが、その活版印刷は紙型による鉛版印刷が未発達で大量印刷に不向きであったため、5(1872)年6月に木版印刷(和装・小本)に改められている。 『学問ノスヽメ』初編として、明治6(1873)年4月木版(和装・中本)で刊行、二編が同年11月木版(同形態)で官許出版、三編が同年12月木版(同)で官許出版されている。 そして四編と五編が、明治7(1874)年1月に活版(和装・中本)で刊行された。 だが、六編は同年2月に、七編は3月に、活版と木版の両方(和装・中本)で刊行されている。 同年4月の八編と、5月の九編は、活版のみで、6月の十編は木版のみ、7月の十一編は活版のみ。 12月の十二編と十三編から、明治8(1875)年3月の十四編、明治9(1876)年7月の十五編、8月の十六編までは、木版のみ。 11月の十七編は、活版のみで刊行された。 明治13(1880)年7月、『学問のすゝめ』として一編から十七編まで一冊にまとめられ、活版(洋装・四六判)で出版された。

 日本の活版印刷の歴史を、日本印刷産業連合会の「日本における近代印刷は本木昌造で始まった」というホームページで見てみた。 安政3(1856)年、オランダから船で持ち込まれた印刷機と活字で長崎奉行所は活字判摺立所を開設、オランダ通詞の本木昌造は取扱掛に任命され、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷に取り組んでいた。

安政4(1857)年、オランダに造船を依頼した咸臨丸に乗ってやってきた活版印刷技師が、寄港地長崎・出島に印刷所を設置、持って来た印刷用資機材で蘭書を何冊か印刷した。 本木昌造が感銘し、オランダ貿易商人から印刷用資機材を買い、研究に没頭、片仮名邦文の鉛活字をつくることに成功、自分で書いた本(蘭和辞典)を印刷した。

本木昌造は、明治に入って早々の明治2(1869)年、活版伝習所を開設した。

 活版印刷の歴史に、福沢と縁の深い「咸臨丸」が登場したのが、興味深かった。

出版が商売として成り立つようになる江戸時代2025/03/02 07:48

2月28日の「教養とは何か、本居宣長と上田秋成」は、『江戸狂歌』の第五章「教養とは何かを考えさせられる」に依った。 狂歌の笑いは、作者の教養と読者の教養が木霊(こだま)しあって生まれるので、ある時代の狂歌を読むと、その時代に住んでいた人たちの教養の水準を知ることができるというのだ。

四方赤良(よものあきら・蜀山人(しょくさんじん))の作に、こういう歌がある。 鶉(うずら)を一羽とり二羽とりして焼き鳥にして食べているうちに、深草の里には鶉が一羽もいなくなってしまったよ、というのだ。

  ひとつとりふたつとりては焼いて食ふ 鶉なくなる深草の里

これは、藤原俊成の、次の歌のパロディーである。

  夕されば野辺の秋風身にしみて うずらなくなり深草の里

狂歌のパロディーが成り立つためには、元の歌が当時、広く世間に知られていなければならない。 このような仕掛けで笑った人間が、町人に多かったとなれば、それは町人層の教養の水準を示しているわけである。 かなり高い水準といってよかろう。

では、どうして、そうなったのか。 日本の印刷術は一方ではキリシタンたちが持ち来たしたものである。 他方秀吉の朝鮮侵略時にも朝鮮からもち帰られた、朝鮮の活字印刷術の影響で、印刷術は徳川の初期に大いに発達した。 まず最初に経典の類が出版され、次が、公式の儒学の教科書で、そのあとで文学の本が出る。 当時の大衆は、あらそって古典的な文学作品を買い求めた。 古典が大量に出版され、出版が商売として成り立つと、資本が出版業に集まるようになる。 それに連れて、小説本なども出版されるようになった。 本居宣長の『古事記伝』が成功したのも、そのような背景があったからだ。 こうして、いわゆる作家が職業として成り立つ時代が、到来したのである。 平賀源内たちの現れたのは、ちょうどそのころだった。

この印刷術の話で、蔦屋重三郎の『吉原細見』などの、細かい木版摺りの技術には驚くばかりであるが、私は江戸時代の出版物が木版印刷だったことを、ほとんど意識していなかった。 福沢諭吉の『学問のすゝめ』にも、初めのうち、木版印刷のものがあったのを聞いたことがあった。      (つづく)

教養とは何か、本居宣長と上田秋成2025/02/28 07:12

 敗戦の日まで、陸軍幼年学校という、士官養成のための学校にいた なだいなださんは、漢詩をつくらされ、日記も漢文調で書かねばならかった。 軍人として、それくらいの素養がないと恥だと考えられていたのだ。 なださんは、「明治の代表的軍人だった乃木将軍も児玉源太郎参謀長も漢詩を作っている。作戦用兵が下手で、軍人としての才能から見ると、史上最低の将軍だった乃木の方が漢詩はうまく、軍事的天才だった児玉の方が下手だったのは、それでバランスがとれ、世の中全体としては、それでよいのかも知れない。」と。

 戦争中、本居宣長は軍国主義者の間で大もてで、とりわけこの歌は、お好みの歌だった。

   しき島のやまと心を人問はば朝日ににほふやまざくら花

 大和魂を言いあてた名歌として、この歌は当時もてはやされ、若者たちを死に追いやる儀式の伴奏に、いつも用いられたのである。 さくらの花のようにぱっと散れ、は当時の若者に押しつけられた死の美学だった。 散りたくないものにとっては、この歌がどれだけ重荷になったか知れない。

 なださんは、戦争中は日本中が妙な思想に酔った状態で、「衆人皆酔へり」の中心に本居宣長があった。 本居宣長の時代に、「独り醒めた」上田秋成(あきなり)は、宣長をこんなふうに皮肉っている。

   ひが事をいふてなりとも弟子ほしや古事記伝兵衛と人はいふとも

 秋成は『古事記』の解釈や古代日本語の音韻の理解をめぐって、若い時、宣長と論争したことがあった。 しかし、なにかというと皇国絶対論を持ち出す相手に、うさんくさいものを感じたのであった。 ひが事というのはそうしたことをいうのである。

「お前さん、大衆のこころをくすぐるために、嘘でも間違いでも言うつもりかい、そうまでして弟子がほしいのかい」

   しき島のやまと心のなんとかの うろんな事を又さくら花

 とも歌っている。 なださんは、秋成のこの宣長を揶揄する歌が、戦争当時の若者に知られていたらどうであろう。 少しは命を大事にしたものも出たのではないか、という。

 「歴史をしらべると、ある人間には必ず、それに対抗する人間がいるものだ。本居宣長に上田秋成がいたようにである。戦争中、ぼくたちの教養がそこまで及ばなかったので、一方的に宣長をおしつけられてしまうことになった。そしてそれが日本の方向を歪める原因にもなったのである。」と、なだいなださんは、書いている。

「笑いを忘れた時代」と『江戸狂歌』2025/02/27 07:03

 12日の「なだいなださんの『江戸狂歌』を探して」に、なだいなださんの『江戸狂歌』(岩波書店「古典をよむ-24」)という本を思い出して、「書棚を探したのだが、見つからない」と書いていた。 それは、落語関係のあたりではなく、句集や俳句の本などが並んでいる大岡信・谷川俊太郎編『声でたのしむ 美しい日本の詩』二冊(「和歌・俳句編」「近・現代詩編」岩波書店1990年)の隣に、ひっそりとあった。

 あらためて読むと、1929(昭和4)年生れの なだいなださん(本名堀内秀(しげる)、ペンネームの「なだいなだ」はスペイン語のnada y nada「何もなくて 何もない」に由来、2013(平成25)年83歳で没)は、戦争が終わった時16歳で陸軍幼年学校にいた。 少年のこころにも、ハッキリと分かったことがあった。 笑いたいのに笑えない時代が、けっして、よい時代とはいえないことである。 笑えない時代は、戦争の時代と重なっていた。 それで、戦争が終わった時、やれやれやっと、これから、笑ってもいい時代がくるのだな、と期待した。 だが、平和の方は戻ってきたが、笑いの方はおかしなことに、期待したほど戻ってこなかった。 もっともっと笑っていいと思うのに、みんな笑わないのである。 真面目に復興に励み、真面目に社会主義建設の夢を見ていた。 人間は、戦争中とあまり変わらない顔付きをしていた、というのである。

 それで、疑いはじめる。 日本は、あの戦争の時代だけ、笑いを忘れていたのではなく、もともと、笑いなど、持っていなかったのではないかと。 しかし、過去に目を向けると、日本人は、けっこう、けたたましく、あるいは豪快に、声をあげて笑っていたのだ。 中世には、豪快な笑いを持った民話がいくつもあり、狂言という舞台芸術もあった。 江戸時代には、狂歌が、満開の花のように咲き狂っていたのである。

 明治から現代にかけての、勤勉と生まじめさを売り物とする日本は、決して日本的な日本ではなかった。 上から見下ろすだけで、下から上を見あげる民衆の目を欠いた、一眼の日本に過ぎなかったのである。 と、なだいなださんは、まえがきの「笑いを忘れた時代」に書いていた。

15年前に「江戸文化の仕掛け人」蔦屋重三郎2025/02/15 07:04

 吉原のことは、長く聴いてきた落語の廓噺で、知っているつもりだったが、知らないことも多いのだった。 大河ドラマ『べらぼう』の第一回「ありがた山の寒がらす」で、吉原の不景気の原因を岡場所の隆盛だと見た蔦重・蔦屋重三郎が、頓智を使って一計を案じ田沼意次に「警動」を頼みに行くのだった。 「警動」は、「怪動」や「傾動」とも書くようだが、2022年からの、沢木耕太郎さんの朝日新聞連載『暦のしずく』を読むまで知らなかった。(深川芸者お六と「怪動」、江戸に戻った文耕の暮らし<小人閑居日記 2024.8.2.>)

 蔦重・蔦屋重三郎については、いままでいろいろ書いてきていた。 その最初が、2010(平成22)年12月25日の「等々力短信」第1018号「江戸文化の仕掛け人」だった。 『べらぼう』の第二回「吉原細見『嗚呼御江戸』」の『吉原細見』も出てきた。

      等々力短信 第1018号 2010(平成22)年12月25日                   江戸文化の仕掛け人

 柳家小満んが、先月のTBS落語研究会に「二階ぞめき」をかけた。 「ぞめき」というのは、遊廓をひやかし騒ぎ歩くこと。 吉原は、元和3(げんな・1617)年から40年人形町にあって、今の千束に移ったが、昭和33(1958)年になくなるまで340年間、「アメリカ合衆国」より長い歴史がある、と演ったのには、吹き出してしまった。

 蔦屋(つたや)重三郎(1750~97)、通称「蔦重」は、その吉原で生れた。 24,5歳で妓楼や遊女の名などを詳しく記したガイドブック『吉原細見』を出版、飛ぶように売れる。 毎年刊行し、版元として頭角を現す。 時は江戸の中期・安永、戦国の時代ははるかに遠く、百万都市江戸の市民たちは、太平の御代を謳歌していた。 当時の吉原は、知識人が集う文化サロンであり、文化の発信地だった。 蔦重は新吉原大門口の、自らの書店で出版工房でもある「耕書堂」をたまり場とし、狂歌師の大田南畝、戯作者の山東京伝など、その頃屈指の文化人たちと意図的に交流、南畝や京伝の本を出版し、自らも蔦唐丸(つたのからまる)の名で狂歌の会に参加していた。

 六本木のサントリー美術館で「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展を見た。 蔦重版『吉原細見』は18.5×12.4センチ、今の新書判より少し大きい位、細かくびっしりと書いてあるので、老眼には読みにくい。 吉原へ行くような連中、昔は特に、目が良かったのだろうなどと、思う。 安永9(1780)年、蔦重の黄表紙出版が始まる。 黄表紙も、同じような大きさだ。 山東京伝は、もともと北尾政演(まさのぶ)という浮世絵師で、22歳の時に文章と挿絵の両方を手がけた黄表紙『御存商売物』のヒットで世に出る。 その天明2(1782)年の暮、京伝は蔦重の招待で、当時人気の戯作者でその後の狂歌ブームを牽引していく四方赤良、朱楽菅江、恋川春町、唐来参和、元木綱といった面々や、さらには師匠の北尾重政、同門の北尾政美(鍬形斎)らと共に、吉原の大文字屋で遊んでいる。

 蔦重は当代一流の絵師を起用して、花魁道中など遊女の艶姿や生活の情景を華麗な浮世絵として刊行し、人気を集めた。 京伝・北尾政演の『青楼名君自筆集』、早くからその才能を見込んで家に居候させていた喜多川歌麿の「青楼十二時」シリーズはその成果だ。 蔦重は松平定信の寛政の改革で身上半減の処分を受けるが、「学問ブーム」に乗り単価の高い堅い往来物(初歩の教科書)や稽古本を出したり、歌麿の大首美人絵や写楽や北斎の役者絵を世に送る、アイデアマンだった。