無季俳句と、個人の生を尊ぶヒューマニズム ― 2026/10/29 08:11

 神野紗希さんの「抗(あらが)うための十七音」、8月号は「季語と人間、どちらが大切?」。 あるとき、盛岡の人から梅と桜が同時に咲き季節が混雑するのだが、と質問された正岡子規は、「少しも差支なし。盛岡の人は盛岡の実景を詠むが第一なり。」と答えた。 歳時記は、かつて文化の中心だった京都の季節を軸に編まれているため、季語の分類が各地域の実感と合わないことが多くある。 「写生」という理念を掲げ、個人の見たままありのままを写し取ろうとした子規の考えは、個別の経験した生を尊重するという意味で、近代という時代の個人主義を体現していた。 <葉かくれに小さし夏の桜餅  正岡子規>、明治31年7月23日、病臥の子規は抱え上げられて人力車に乗り、10年前に滞在した向島の長命寺の桜餅屋へ行き、おかみさんと娘さんに歓待された。 桜餅は春の季語だが、あえて「夏の」を入れ、今日ここに来たのだという事実を大切に一句に刻んだ。

 自らの体験が既存の季語大系に収まりきらないという葛藤は、俳句の新たな地平を、箱庭的自然の外へ、拓いていく。 <一塊の光線(ひかり)となりて働けり  灼け土にしづくたりつつトマト食ふ  篠原鳳作>、教師となって琉球宮古島へ赴任した鳳作は、歳時記の季語の外側に広がる風景や暮らしを踏まえた句を詠んだ。 鳳作の拓いた季語を必須としない超季の世界は、同時代の作家に無季俳句の実践を促す契機となった。 <かもめ来よ天金の書をひらくたび  三橋敏雄>、<しろい昼しろい手紙がこつんと来ぬ  藤木清子>といった詩性ゆたかな無季俳句が生み出された一方で、プロレタリアートの立場から労働を詠む俳句もまた、無季のかたちをとって現れた。 <農夫となりぬあゝたくたくと冬の汗  細谷源二>。

 無季俳句が、傾いてゆく時代の中で戦争を主題に選んだのは、必然だったともいえる。 <射ち来たる弾道見えずとも低し  三橋敏雄>、<赤く青く黄いろく黒く戦死せり  戦争が廊下の奥に立つてゐた  渡邊白泉>、<饒舌の傷兵のうしろ闇ふかし  石橋辰之助>。

 歳時記の体系に抗い、季語を超えた無季俳句の芯には、個人の生を尊ぶヒューマニズムが息づいているのだ。

「写生」知識から感覚へ、「あきらめるより以上の事」 ― 2026/10/26 07:18

「等々力短信」に書いた神野紗希さんの『図書』連載の「抗(あらが)うための十七音」、短信に書ききれなかった回も見てみたい。 3月号は「あきらめるより以上のこと」。 <毎年よ彼岸の入に寒いのは 正岡子規>、明治26年作、「母の詞自ら句になりて」と前書きがある。 ふだんの会話がそのまま俳句になっている。 子規は、西洋絵画に影響を受け、「写生」という理念を提唱した。 ある景色や出来事を見て面白いと思ったとき、言葉を飾ったり誇張したりせず、ありのまま見たままに模写するのが良いとする。

  五月雨をあつめて早し最上川  松尾芭蕉

  五月雨や大河を前に家二軒   与謝蕪村

 子規は新聞に連載していた日記「仰臥漫録」で、当時「俳聖」と崇められていた芭蕉と、埋もれかけていた蕪村の二句を比較し、大胆にも蕪村に軍配を上げた。 芭蕉の句は、雨を「あつめ」るという表現に工夫が見え「甚だ面白くない」、頭で拵(こしら)えたところがつまらない。 対して蕪村の句は、たしかに、溢れんばかりの大河を前に流されそうな家が客観的に描かれ、映像を通して自然の驚異と人間の無力さが伝わる。 蕪村は画家だったから、「写生」はお手のものだっただろう。

 子規の革命は、旧派に残る知識重視の句作りを脱却し、感覚を活かした俳句へと転機を図ったことだった。 言葉の巧さを求めず、ありのままを写し取ること。 その実践の底には、手を加えなくともこの世界はそのままでじゅうぶん面白いという哲学が息づいている。

 <歯が抜けて筍(たけのこ)堅く烏賊(いか)こはし 子規>、満身創痍の現状を、対句仕立てで軽快に描いた。 <糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな  子規>、亡くなる十数時間前に詠んだ糸瓜の句では、遺骸となった未来の自画像すら淡々と描いてみせた。 ささやかな光を取りこぼさず、病の身すら己の手でありのまま写すことが、「あきらめるより以上の事」、運命に対する彼の抗いだった、と神野紗希さんは言う。

抵抗するための俳句<等々力短信 第1208号 2026(令和8).10.25.> ― 2026/10/25 07:56

 俳人・神野紗希(こうの さき)さんが、岩波書店の『図書』に1月号から連載中の「抗(あらが)うための十七音」を、感心しながら読んでいる。 実は、神野紗希さんを知らなかった。 1983(昭和58)年本場松山市生まれ、県立松山東高で俳句同好会を立ち上げ、2001年第四回俳句甲子園で団体優勝、<カンバスの余白八月十五日>が最優秀句に選ばれる。 お茶の水女子大学文教育学部に進み、同大学院博士課程修了。

 「抗(あらが)う」とは、どういうことか。 1月号の「だめって言うちから」では、俳句は、いかんともしがたい現実に、言葉で抗い、いまこの瞬間を肯(うべな)うための力を、数百年かけて静かに蓄えてきた、という。 <病間や桃食ひながら李(すもも)画く 正岡子規>、子規は死を目前にして「平気で生きて居る」ことを悟った。 松尾芭蕉は、「古池や」の句で、和歌の昔から決まっていた季語や地名の詠み方に抗して、鳴く声を詠むものと決まった蛙(かわず)を、水に飛び込む音で表現した。

 2月号は「規範に抗う生のうた」。 <花よりも団子やありて帰る雁(かり) 松永貞徳>、江戸初期の俳人は、桜が咲いたのに、雁が北方へ帰っていくのは、団子があるからだろうかと、俗語の食べ物を配して、俳諧味を出した。 俳人たちは常識とされていた雅語限定のセオリーに抗い、言葉や素材を選別しないことで、どんな世界の片隅でも、どんなありきたりに見える日常でも、そこに見るべきものを発見してきた。

 4月号は「権威に抗い、無冠を寿ぐ」。 句会では、名前を伏せて俳句を出し合い、良いと思う作品を互いに選び合う。 身分や権威から解放され、誰もが平等に尊重される自由な場なので、俳句は「座の文学」ともいわれる。 <木瓜(ぼけ)咲くや漱石拙(せつ)を守るべく 漱石>、「拙」は陶淵明の詩にある生き方で、世渡りが下手で愚直なことを良しとする思想だ。 漱石は明治44年、文部省から文学博士の学位を授与するとの報を受けたが、今後も「ただの夏目なにがしで暮したい」と、辞退した。

 5月号は「当たり前の日々を生きて暮らす」。 <女三界に家なき雪のつもりけり 鈴木真砂女>、そんな時代の中、俳壇の権威となりつつあった高浜虚子は、雑誌「ホトトギス」に女性限定の「台所雑詠」欄を創設し、投句するよう呼びかけた。 この欄をきっかけに女性俳人が次々登場し、男性中心だった俳句界に新たな風を呼び込んだ。

<灰に落ちし涙見られし泣初め 阿部みどり女>、<子の床によりて句作の夜寒かな 長谷川かな女>、<足袋つぐやノラともならず教師妻 杉田久女>。 日常の些事をおろそかにせず、俳句に詠む姿勢には、詠まなければ見過ごされてしまう時間にも価値があり、光が見出せるのだ、という強い信念が宿る、と神野紗希さんは言う。

『万国政表』『増訂華英通語』の刊行、英字新聞の翻訳要約を売る ― 2026/10/15 07:19

まだ、2. 需要を読むのだ。 は続く。 時流に合った情報を伝えることでお金を稼ぐ、――福澤が体験したことは、まさにジャーナリズムそのもので、出版事業そのものであった。 近代文化のマスメディアとはそういうことだ。 福澤の場合、最初にマスメディアとして出版したのは『万国政表』、オランダ人プ・ア・デ・ヨングの『地球上の全ての国々についての統計表』を翻訳した作品だ。 人生初のアメリカ行きが決まったため、適塾の後輩で、のちに慶應義塾の初代塾長になる岡本周吉に任せて渡米、岡本の訳者名で出版した。 福澤にとって統計は、「時流に合った貴重な情報」――つまり当時の日本には存在していないが、今後絶対に必要になる学問そのものだった。 実際、15年後に執筆した『文明論之概略』では、「スタチスチク」(統計)こそが、社会にとって必要だと強く説いている。 人口、物価、婚姻数、出生数、死亡数、病患者数……それぞれ数値を示した表をつくり、比較することで真実がわかるのだ、と。

『万国政表』刊行と同年の万延元(1860)年、サンフランシスコで手に入れた『華英通語』を翻訳した『増訂華英通語』を自分の名前で出版した。 英語にカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横に日本語の訳語を付記した。

3. キュレーション雑誌で学費をつくる。 福澤は、幕府に翻訳方として勤め、同時に副業で福澤塾を経営しているときも、翻訳で金を工面することを思いつく。 中津藩の藩命で始めた塾を、元治元(1864)年に拡大を狙って中津から6人ほど優秀な若者を呼び寄せ、英語を勉強させて、塾の講師役を手伝ってもらおうとした。 彼らの生活費が必要で、福澤はご近所さんだった友人に頼る。(木挽町汐留の中津藩上屋敷の近く、旧新橋停車場鉄道歴史展示室のあたりに仙台藩の上屋敷があった。福澤塾は、築地鉄砲洲の中屋敷。)

大童信太夫、2歳年上の彼は、洋風趣味で、洋書も大好き、仙台藩の重臣・留守居役だった。 ちなみに同じ仙台藩の開国論者・大槻磐渓は『万国政表』に序文を書いている。 大童が福澤に頼んだのは、「仙台藩の資金で購入した毎週発行の英字新聞の主要記事を、翻訳し買ってもらう」という案だった。 福澤は「今週読むべき記事」をキュレーションし、翻訳したものを毎週仙台藩に売ったのである。 これは「横浜出版日本形勢新聞」とか「横浜開板日本新聞」とか題して10冊ほどの写本になり、熊本藩や佐賀藩などの留守居(いわば諸藩の外交官的な部署)に定期購入してもらった。 この英字新聞は、文久元(1861)年からイギリス人のA・W・ハンサードが横浜居留地で創刊した『ジャパン・ヘラルド』で、上海から輸入した輪転機を使用したらしく、このとき協力した日本人はその後日本語の日刊新聞の創刊にかかわることになる。 そこに掲載される政治的意見は、イギリス人から見た日本、という見方を意識させるのにじゅうぶんだっただろう。

需要に合わせれば、人は文章を買ってくれるという体験は、のちに『学問のすゝめ』や『時事新報』という書籍や新聞の執筆につながったのではないか、と三宅香帆さんは考える。 福澤にとって文章とは、最初は自分の想いを綴ったりするものではなく、まずは相手の期待に合わせて翻訳するものだったのである。 時勢の学問を理解していなければ、ただの飯を喰う字引になってしまうからだ。

この時期、福澤は幕府の公務として外交文書を翻訳しつつ、イギリス人から見た日本政府を英語でずっと読んでいた。 そしてその技術で、福澤はお金を稼いだ。

だが同時期、福澤は著作『唐人往来』を著し始めている。 自分の意見をテキストに書くようになるのである。 まとめサイトの編集長では終わらない。 自分自身の文章を、提言を、文体を、書くようになる。

三宅香帆さんは、脚注6で『増訂華英通語』について、福澤がどうやって出版したのか謎で、矢放昭文氏が誰か出資者がいたのではないかと指摘してはいるが、ご存じの方がいたらぜひ教えてほしい、と書いている。 富田正文著『考証 福沢諭吉』上(岩波書店・1992年)には、『増訂華英通語』の表紙の見返しに「快堂蔵版」とあり、慶應義塾図書館の元副館長伊東弥之助氏は木村摂津守の日記から研究して、木村喜毅家が版元であったとしている、とある。 蔵版元の「快堂」は木村喜毅の別号「楷堂」と音通である、と。 それで私は、新潮社『波』編集部にその旨メールし、三宅香帆さんに伝えてもらうように頼んだ。

8年経ってつくった「たほいや」問題の答 ― 2026/10/09 07:26

 はたして、何点取れたでしょうか?
1.「みこなす」・・・E【見こなす】「みくびる。軽蔑する」
2.「こちなし」・・・B【骨なし】「洗練されていない。ぶしつけである。無骨である。」
3.「たかしこ」・・・E【竹矢籠】「竹筒で作った、矢の容器。」実は、7日に正解が出ていた。
4.「たかしる」・・・C【高知る】「立派に造る。立派に治める。しろしめす。」
5.「たかたぬき」・・・A【韝】「鷹狩で、鷹を腕に据えた時、爪で傷つけられないように装着する具。鷹手貫。」
6.「まほら」・・・C「すぐれたよい所・国。まほらば。まほろば。」
7.「いますがり」・・・A【在すがり】「おいでなさる。いらっしゃる。」
8.「こじはん」・・・C【小昼飯】「間食。こじゅはん。」
9.「ひかりだて」・・・A【光立て】「盛んに光ること。」
10.「かわおし」・・・D【熟皮】「皮をなめすこと。また、その人。」

  もしや、私のインチキ語釈を選んでくれていたら、ウヒヒヒヒ!