メダリスト岡慎之助と早田ひなの「言葉の力」2024/08/13 07:19

 パリオリンピックの新聞を読んで、嬉しかったのは、体操で二つ目の金メダルを(当時)獲得した岡慎之助選手(20)の、「言葉の力 岡を頂上に」「読んで 書いて 見つけた自分」(8月2日朝日新聞朝刊・内田快記者)という記事だった。

 岡慎之助は少年時代「ノー」と言えなかった、つらく厳しい練習や新しい技への挑戦に…。 今でも親交のある地元・岡山の体操スクール時代のコーチは、かつての岡を「表情が乏しく、何がしたいと言えなかった子」と振り返っているという。 中学卒業と同時に親元を離れ、神奈川県の実業団に進んだ。 15歳での入団は異例だが、すぐに世界ジュニア選手権の個人総合で金メダルを獲得した。 実業団に細かく言う指導者はいなかった。 新技に挑もうとしても、誰かに押されないと出来ない難しさがあり、監督にミスをした理由を聞かれても、「きつかったから」と言うだけで、本当の理由を探れなかった。

 18歳の春、右ひざに全治8カ月の重傷を負い手術を受けた。 練習ができない時間を使って本を読み、感想文を書くことを監督やコーチに勧められた。 自分の考えをまとめ、他人に伝えられるようになって欲しいという願いがあった。 1週間に1冊ほどのペースで計20冊。 人生の「谷」にいるときの考え方など、先人の知恵を吸収していった。 自分で選んだ本の感想文をA4用紙1枚につづった。

 練習に復帰すると言葉が少しずつ出てくるようになった。 演技の成功、失敗の要因を説明できるように。 試合中に演技の難易度を下げるよう提案を受けても、必要ないと思えば断るようになった。

 岡がオリンピックで生き生きと演技する姿を見て、地元時代のコーチは、押しつけるような指導の過ちに気づき、「全部、慎之助が覆してくれました」と言ったそうだ。

 卓球女子シングルスで、左手を負傷しながらがんばって、銅メダルを獲得した早田ひな選手には、「ひな語」というのがあるそうだ。(8月6日朝日新聞夕刊・鈴木健輔記者) 五輪前のある大会で優勝した後、プレーで意識したことを問われて、「結構、恥ずかしいけど……。パラパラチャーハン」と言った。 ぽかんとする報道陣に、必死に説明し、「自分は手足が長いので、両サイドは届く。相手は体の真ん中を狙ってくるので、足を動かして」と、フォアハンドで打てるように、右に左に自在に動き回ることを言っているらしい。

 「パラパラチャーハン」は、早田が中学時代から使い始めた独特のワード、「ひな語」の一つだ。 石田大輔コーチは、「何かのひらめきで頭と体にパコッとはまる時がある」、そのひらめきを逃さないよう、良い感覚を言語化したものが「ひな語」だという。

 最初に誕生したのが、「さくらんぼドライブ」。 大塚愛の人気曲「さくらんぼ」が流れていた時、スムーズにドライブが打てた。 「すあー」は、早田本人にも意味が不明だが、硬くなっている時に、口にすると、脱力できるという。 「ひな語」はまだまだあり、「技術が先なのか言葉が先なのかはありますが、頭をシンプルにするためにいいなと思っています」と、話したそうだ。

着物を着て自転車に乗る2024/07/27 07:06

雑誌『サライ』のクロスワードパズル「十字語判断」、8月号のカギに五字で「着物の裏側、尻が当たる部分に補強のために付ける布地。尻当て」という問題があって、まったく知らなかった。 周りから埋めていって、「イシキアテ」となった。 居敷当。

京都の町は自転車での移動が断然便利だと、着物を着て自転車に乗って、走り回っている通崎睦美さんの本にも「居敷あて」が出てきた。 着物に自転車で、一番大事なのは、座り方。 一度、ふと気が付くと、おしりのところの縫い目がほころびていた。 出先では、恥ずかしいので、先に告白した。 知人は爆笑して、糸と針を貸そうといってくれたが、そそくさと用事を済ませると、そのまま自転車に乗って帰った。 一度もサドルから降りなければ、おしりの裂け目はばれることはない。

学んだ事は、着物で自転車に乗る時は、ぴたっと着付けすぎない。 そして、腰掛ける時は、おしりの縫い目に気をくばる。 「居敷あて」と呼ばれる、おしりの部分への裏からのあて布をしておくと、さらに安心だ。 今、ここ「おしりの部分への裏」をパソコンで打ったら、「おしりの部分屁の裏」と変換した。 通崎睦美さんには、内緒だ。

 着物の袖丈も、問題の一つ、だそうだ。 ある時、袖丈一尺七寸の着物で自転車に乗ったら、いつもの袖丈一尺三寸の着物なら、なんでもないのに、四寸の違いで、袖は風にあおられ、バタバタとひるがえる。 道端の看板や、止めてある自転車のハンドルに引っ掛かりそうになるのだ。 これは、かなり危険。

 ある夏の日、知人が捨てるのはもったいないからもらってくれるかと、数枚の着物を送ってくれた。 なかに、黒地に細い縦縞の、麻の男物が入っていて、これは、いけそう、と洋服の上に羽織ってみた。 その瞬間、計らずも新しいコーディネートが誕生した。 Tシャツと短パンの上に男物の着物を着、それそのままに角帯をしめれば出来上がりである。

 その姿で、自転車に乗って出かけてみた。 麻で全身が覆われているから、直射日光に当たらなくてすむ、身体と着物との空間に風の流れを感じることができ、とても快適。 その上、紐を一本も使っていないから、家に帰れば、ジャケットを脱ぐように着物を脱いで、そのまま仕事ができる。 すっかり、この合理的なコーディネートに、はまってしまった。

 黒が一着あるから、次はうす色がいいかと、男物の着物を探し、見るからに涼しそうな、生成りの小千谷縮(おぢやちぢみ)を求めた。 家に帰って、いつもの通りに羽織って、鏡の前に立ってみた。 すると、問題が発覚。 うす色の着物の場合、中が透けて見えるのだ。 いかにも中に洋服を着ているというのは、美しくない。 黒いスパッツを試してみても足がにょきっと目立つし、白いスパッツをはくとおしりのラインまでくっきりうつる。 困ったなあ、こんな時男の人はどうしているのか、と考えたら、思いついた。 「ステテコ」だ。

 女物のステテコは、和装下着の専門店に、ちゃんと揃っていて、綿のも麻のもある。 とりあえず安い綿のステテコにして、その上にたっぷりとした白っぽいシャツを着て、くだんの着物を羽織ってみる。 これはいける。 このコーディネートで、町に出た。 ステテコのおかげで気分はすっかりオトコだ。 「丸善」で万年筆のインクを物色していると、三文文士のような気分になってきた。 気軽さと楽しさと着心地の良さで、この「ステテコスタイル」に勝る「真夏のカジュアル」はない。

『題名のない音楽会』、雅楽由来の言葉<等々力短信 第1181号 2024(令和6).7.25.>2024/07/25 07:10

 クラシック音楽には、高校同級生のチェロ弾きがいる上野浅草フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に行く以外、ほとんど縁がないのだけれど、テレビ朝日、土曜朝10時の『題名のない音楽会』は、昔から見ている。 黛敏郎の司会で始まったのは1964年8月というから、大学を卒業した年だ。 司会は、永六輔、武田鉄矢、羽田健太郎、佐渡裕、五嶋龍と来て、2017年4月から今の石丸幹二になっている。 最近では、ヴァンオリンの葉加瀬太郎「プロ塾」でプロのコメントの凄さに驚き、子供の頃に指揮することを希望して出たことがあったというピアノの反田恭平の会社組織の多彩な活動や結婚を知り、ピアノの藤田真央の柔らかいタッチと人柄に感心したりしている。

 先日、珍しく「雅楽」をテーマにした回があり、雅楽芸人カニササレアヤコを知った。 早稲田大学文化構想学部卒、在学中はお笑いサークルで活動、「R-1グランプリ」に東儀秀樹さんのものまねでファイナリストになる。 2022年4月東京芸術大学音楽学部邦楽科雅楽専攻に進学、経済誌Forbes JAPANで「世界を変える30歳未満の30人」に選ばれたという。 今回は雅楽専攻の仲間との演奏で、本人は管楽器の笙(しょう)を担当、笙は湿ると音が変わるので絶えず乾かす必要があると、炙り続けていた。

話題は、雅楽由来の日本語があるということだった。 諸説あるらしいが…。

「音頭」「音頭をとる」は、それぞれの楽器のパートリーダーが、調子をそろえるために、初めの部分を一人で演奏すること。 オーケストラの音合わせのように。

「塩梅(あんばい)」は、篳篥(ひちりき)で塩梅(えんばい)という、なだらかに息づかいで音を変える演奏法から来ている。 奏者は指孔に手を触れていなかった。

「野暮(やぼ)」。 笙(しょう)は長短17本の竹管が立ち、木製椀型の頭(かしら)にある吹口から吹き、または吸って鳴らす。 17本の内、15本には指孔があるが、2本は音が出ない、17本にはそれぞれの名前があり、この2本の名は「也」と「毛」という。 無音の「やもう」が、「やぼ」となったという。 無粋、無骨、無風流。

「やたら」。 みだり、むやみを意味する言葉。 雅楽はほとんど4拍子なのだが、夜多羅拍子(やたらびょうし)という舞に合わせる4拍子の曲がある。 「千秋楽」。 法会などの最後に演奏される雅楽の曲名から来た。 哀調のある曲で、平安中期の後三条天皇の大嘗祭に監物頼吉(けんもつよりよし)がつくったという。

雅楽は、国風歌舞(くにぶりのうたまい)、外来楽舞、歌物(うたいもの)に大別される。 それぞれ、日本古来の皇室系・神道系の祭祀用歌舞、平安初期までに伝来した唐楽と高麗楽、平安中期頃成立の饗宴用楽舞。 かなり古いことは確かだ。

《近代国語の誕生と近代建築》2024/07/09 07:03

    《近代国語の誕生と近代建築》<小人閑居日記 2012.7.12.>

 槇文彦さんは、第一の特性《近代国語の誕生と近代建築》の話に入る。 1850年頃からの日本の近代化と共に確立された日本の国語は、独特なものであった。 漢字とカナの併用という他の文化に例をみないユニークな言葉として、今日も使われている。 漢字は表意、カナは表音を意味し、そこで抽象概念と感性の所産の同時表現を可能にしている。 一例に、雨の表現を挙げる。 漢字では、理性的・合理的な、驟雨、豪雨、秋雨、私雨(private rain、富士山麓でしょっちゅう雨が降る等)。 カナでは、感情的・感動的な、ぽつぽつ、ぱらぱら、しとしと、ざあざあ。 槇さんは、この議論が内田樹さんの『日本辺境論』(新潮社)にもあることに触れた。 内田さんは養老孟司さんから日本では難読症が少ない(外国の1/10くらい)のは、脳に理性と感性の「二つの袋」があるからだと聞いたそうだ。 内田さんは、日本がアニメに強いのは、この漢字とカナの文化のためだろうという。(〔馬場メモ〕恥ずかしながら『日本辺境論』は未読だが、梅棹忠夫『文明の生態史観』第一地域の日本と関連があるのだろうか。)

 それを受けて槇文彦さんは、建築のデザインは知性と感性の袋の間断なきキャッチボールによって遂行されると言う。 そのことはアニメと同様に、なぜ日本の現代建築が重要な発信基地として位置づけられているかの、一つの証左である、とする。 日本には各年代に、層の厚い建築家が存在し、理性と感性のバランスがよく取れている。 それには現代化の過程での、日本の建築の教育システムに理由がある。 東京大学建築学科は、1877(明治10)年に来日したジョサイア・コンドルが工部大学校造家科講師として日本人建築家を養成し、明治初期の多くの重要な建築を設計、監督したことに始まる。 また、植民地化されていなかったことによって、各国の「いいとこ取り」をすることが出来た。 フランスから料理、イギリスから造船、ドイツから医学、工学というように。 建築は、ドイツの大学の教育法を導入した上に、イギリス人コンドルを招き、両方の「いいとこ取り」をした。 日本には既に工匠清水喜助(築地ホテル館などを手がけ、清水建設の祖)等がいたが、工部大学校造家科の第1回生4人、辰野金吾(日本銀行本店、東京駅)、曾祢達蔵(慶應義塾旧図書館)、片山東熊(東宮御所(今の迎賓館)、東京国立博物館表慶館)、佐立七次郎(旧日本郵船小樽支店)などが、活躍するようになる。 辰野金吾はイギリスに留学して、builder(建築業者、トマス・キュービック?)に就いて、実際に造ることの重要さを学んだ。 曾祢達蔵は慶應義塾創立50年記念の旧図書館を設計したが、創立125年記念で新図書館を設計した槇文彦さんは第73回生だそうだ。

 そもそも建築は、日本人に向いている。 設計は少人数でやる。 コミュニケーションが取りやすい。 三田の山のようなものでも、4~5人で設計する。

言語と建築、その地域性と普遍性、モダニズム建築の現在2024/07/08 07:05

  言語と建築、その地域性と普遍性、モダニズム建築の現在<小人閑居日記 2012.7.11.>              

 槇文彦さんの講演は、《言語と建築、モダニズム建築の現在》という序論から始まる。 私が理解できたかは怪しいが、私がそう聴いたところを書いておく。

 まず言語、歴史的にみると世界の各地域の部族にそれぞれの母語が生れ、日常の生活が営まれた。 交易や戦争で他部族と出合い、優越的な言語ができ、それがさらに広がり、普遍語(ラテン語、サンスクリット語、アラブ語、漢語)が出て来た。 普遍語は、特権階級がそれを維持し、絶えず進歩させ、他所の人を説得、恫喝する武器にもなり、経験と知識の囲い込みを行った。 それは一神教の成立とも関係している。 ローカルな母語と、普遍語が世界各地域に存在してきた。 普遍語について、槇さんは後で水村美苗著『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房)の議論に触れ、この本を薦めた(同書については、当日記2011.2.10.~12.参照のこと)。

 建築の世界でも、ローカルとグローバルの関係は、言語と同じだ。 その土地(国)特有のvernacular建築と、普遍的なstylistic建築(寺院、教会、モスク、シナゴーグ、タウンホール、図書館)が共存してきた。 ローカルな建築はそこにあることによって、普遍的な建築はそれがあることによって、その存在理由が確認されてきた。 16、7世紀まで、この安定した二項構造が続いてきた。 普遍的な建築も、言語と同じく絶えず進歩してきた。 同じことが繰り返されると劣化し、新しいスタイルが出る。 工匠建築家の誕生だ。 16、7世紀、二項構造が崩れる。 ただ国民国家の誕生で国語が生れたが、国民建築はそれほど流行らなかった。

 今日の普遍的な建築スタイルは、20世紀初頭に出現したモダニズムである。 それは古い規範から解き放たれて、人々の幸せを見出すという、産業革命以後に醸成されたものから生れた。 モダニズムが、建築のユニバーサル・ランゲージになった。 例えば開発途上国の首都、ブラジリアなどで試みられた。

 1989年にベルリンの壁が崩壊し、情報、資本が世界中を飛び交うようになった。 グローバリゼーションの進行と共に、そこにある、或いはそれがある建築の存在理由は消失し、またモダニズムの建築も初期のマニフェスト、或いはスタイルは絶え間なき撹拌機構の中でゆっくりと掻き混ぜられてきて、元は何だかわからないポタージュ、けんちん汁、ブイヤべースのようになった。 水村美苗さんが『日本語が亡びるとき』でした警鐘は、建築の世界でも言えるのだ。 モダニズムの進歩は、何が進歩かわからなくなっている。 何でもありで、どこに何をつくってもよい。 1990年以降はデベロッパー(資金のある人)が大きな勢力を持つようになった。 大きなボートに乗った、ライトやコルビュジエの時代ではなくなり、大海原に放り出された建築家は、どうやったら沈まないで済むか、もがいている状態にある。