卒業61年目の同期会2025/06/09 06:57

 昨日書いた西岡秀雄先生にご指導いただいた文化地理研究会の同期の会が、5日に東京會館のロッシーニで開かれた。 1964(昭和39)年の卒業なので「六四の会(むしのかい)」、毎年企画してくれる学生時代の代表加藤隆康さんのおかげである。 尾張一宮や箱根強羅からも駆け付けてくれ、卒業61年の爺さん婆さん14名の集合。 85歳から83歳まで、女性8名、男性6名は、健康寿命を表しているのか。 女子学生の多いクラブだったゆえの、おそらく稀な同期会だろう。 ここ数年で男性が何人か亡くなり、この一年では女性一人、男性一人が亡くなった。 来年もまた、元気で集まろうということになる。

 私は、毎日ブログを書きつづけていることや、三田あるこう会に参加しているが『三田評論』「三田会だより」の名前を見て元気をもらっているという人がいるので、毎月ヘロヘロ付いて歩いている話をした。

 ロッシーニのコースは、事前にMain を肉か魚か選んであった。 テレビ草創期に、『事件記者』というドラマがあって、「八田老人」が登場した。 われわれは、その「八田老人」よりも、だいぶ年上になっているのだろう。 閑居馬場老人、聞いたこともないような、珍しいものを食べたので、メニューを書いておく。 Appetizer「天使の海老のマリネ レモン塩麹 そら豆のムース ココナッツ風味」 Soup「ヴィシソワーズスープ」  Main「岩中豚ロース肉の香草焼き ショロンソース」  Dessert「ヴェリーヌ」  Coffee or Tea「コーヒー」。 西岡先生・雑学の不出来な弟子は、いくつか調べてみる。

 「天使の海老」…世界有数の美しい島ニューカレドニアで、マングローブ林に囲まれた絶好の養殖環境下、100%自然由来の餌で育てられた、アミノ酸含有量の多い旨味と甘味の海老。 「岩中豚」…いわちゅうぶた、岩手県産のブランド豚、東京食肉市場銘柄豚協会指定第一号、岩手中央畜産株式会社の生産。 「ショロンソース」…ベアルネーズソース(澄ましバターとエストラゴン、エシャロット、卵黄、セルフィーユ(セリ科のハーブ、チャービル)と酢をとろ火で煮詰めた)にトマトピューレを加えたもの。フランスのシェフ、ショロン氏の名を冠す。 「ヴェリーヌ」…フランス語でグラスデサートを意味する言葉。 そういえば、季節柄、「ヴィシソワーズスープ」が氷の入った器の上にグラスを重ねるなど、グラスを使った料理が多かった。

 帰宅して、「料理はどうだった?」と聞かれ、「まあ、まあ」と答えたが、これを書いている内に、美味しかったような気がしてきた。

人形町界隈で、食べるもの2025/04/12 07:07

 人形町界隈での、食べるものの話をしたい。 落語の会の土産には、酒悦でセロリの浅漬けや元祖福神漬、重盛永信堂で人形焼とゼイタク煎餅を買って帰った。 最初の日には、志乃多寿司總本店で、折詰を手に入れて、会場で食べたのだが、少し待たされる間に調整してくれるので、めっぽう美味しかった。

 ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションの「南桂子展 小さな雲」へ行った時は、家内と芳味亭(ほうみてい)でランチをした。 芳味亭は、小松川で工場をやっていた頃、取引先で通夜か何かあった後に、兄が連れて行ってくれた。 「ビーフスチュー」「カニクリームコロッケ」が売りの、昔ながらの洋食屋さんである。 きちんと、心を込めて作っているという感じがいい。 横浜のホテルニューグランドで修業した初代の重晴さんが昭和8(1933)年に開店したそうで、修業時代に師のサリー・ワイスに教わった「お客様の喜ぶものを作りなさい」をモットーに、庶民の憧れだった洋食を、日常の生活のなかでも気軽に食べてもらいたいと、始めた店だという。

 実は昨年の11月5日、昔亡兄と行った芳味亭へ、それこそ数十年ぶりに行ってみようと家内と出かけたのだが、たまたま振替休日の翌日の火曜日で休みだった。 しかたなく、前の「双葉」という豆腐屋さんがやっている豆腐料理の店へ行った。 ここは以前、慶應義塾の白石孝名誉教授が、自由が丘のご自宅でサロンを開き、近所の人に話をなさる会があって、私も参加させてもらっていたのだが、先生ご出身の堀留界隈を案内して下さる機会があり、先生に連れて行ってもらったことがあったのだ。 「双葉スペシャル」「冷奴定食」「肉豆腐定食」「揚げ出し豆腐定食」など、気楽で安くて庶民的、近所のサラリーマンが大勢昼飯に来て、おばさんが一人忙しく立ち働いていた。 その日は、たまたま一の酉で、松島神社の酉の市に行ったり、パワースポットと人が集まっている小網神社に行ったりし、鳥忠で焼き鳥を買って帰ってきた。

 芳味亭は2月5日にリベンジし、店がきれいになっていて、サービスも快適なのを確認した。 私は「ビーフスチュー・ハンバーグ」、家内は「ミックスフライ」、けっこうな味で満足した。 それで、「南桂子展 小さな雲」の日にも、花より団子、再度行ったのだった。

松田「正平さんのベクトル」と川端道喜2024/08/22 07:03

 7月22日から通崎睦美著『天使突破一丁目―着物と自転車と』(淡交社・2002年)を読んで、京都の話を書いたが、京都には「川端道喜」という和菓子屋さんのあることは知っていた。 岩波書店の『図書』5月号で、川端知嘉子さんの御粽司 川端道喜『手の時間、心のかたち』一「正平さんのベクトル」を読んだ。 「正平さん」といっても、自転車こころ旅の火野正平さんではない。 画家の松田正平さん、私の好きな画家である。

 川端知嘉子さんは、白洲正子さんの住まいを撮った写真に、憧憬する松田正平さんの短冊「犬馬難鬼魅易」が写り込んでいるのを見つけて、嬉しくなったという。 1937年から39年までフランスへ絵画研鑽のための留学もし、当然アカデミックなデッサンを基にした写実絵画はお手のものだが、一見、あんなに「ヘタクソ」風に子供の絵のような表現ができるのはタダ者でない証(あかし)である。 川端知嘉子さん(肩書は川端道喜代表、画家)は、つい力いっぱい描いて、そこから余分なものを引いていく余裕がまだない、という。 掲載されている、歯の抜けた口を大きく開けて、たぶんガハハと笑っている丸眼鏡の、松田正平さんの鉛筆描き《自画像》(1996年)に出合って以来、今はもう天国にいる、この天衣無縫な老人に「ぞっこん」なのである、と書く。

 自画像の横には、「流行を追うな、有名になるな、よい職人のようにこつこつと腕を磨け。 もっとしっかりした絵を、私は描きたいんだ。」という言葉が、『風の吹くまま 松田正平画文集』(2004年、求龍堂)では掲げられている。 川端さんは、この言葉には、AIとか現代もて囃されている技術革新の中で置き去りにされがちな、しかし人間にとってとても大切で高潔なる精神が裏打ちされていると感じている、という。 さしずめ今なら、いち早く流行をキャッチし、あるいは流行するように企(くわだ)て、上手くあらゆる手段を使って有名になり、てっとり早くお金を儲け……、といった現代社会に蔓延(はや)る風潮と真逆なベクトルなのだ、と。

 川端さんは、「これは何かに似ている!」と気付く。 店の包装紙にも使い、毎日のように目にしている川端道喜の起請文の内容と同じ方向を向いていることに。

 一、正直なるべきは無論のこと、表には稼業大切に内心には慾張らず品を吟味し乱造せざる事

 一、声なくして人を呼ぶという意 味(うじわ)う事

右祖先伝来の遺訓確(しか)と稼業相続(あいつづけ)可仕(つかまつるべし)依而如件(よってくだんのごとし)

 乱れた作り方をしてはいけない。 あくまで味、品質を大切にすること。 宣伝で人を呼んではいけない、といった内容である。

 東京遷都の折、長年御所に奉仕したこともあって、東京について来るように再三お誘いを受けたらしいが、十二代道喜は「水が合わん」とか言って京都に残った。 明治4年と6年に、御所で日々の儀式に使われるお餅などの作り方、盛り方、餝(かざ)り方などを記した「御定式御用品雛形」を携えて東京に出向き、当地の絵師に図柄を写し取らせ、方法を伝授して京都に戻った。 御所蛤御門の西に住まって様々な奉仕をしていた六丁衆のまとめ役として、町衆を置いてきぼりにしたまま、道喜が天皇さんやお公家さんに従って東京に行くわけにはいかなかったであろう、という。

 道喜のように宣伝をしないという家訓があっても、今の情報社会は中国や台湾などからもお客様を呼び寄せてくれるという恩恵はあるが、時流から抜け落ちたような手作りの仕事ではそうたいした(最近の「京都風、和風」イメージの)経済効果がある訳ではない。 そんな小さいままの店ではあっても、作る喜びと共に細々と続けていられるのは、京都という質と大きさの町の奥深くに、松田正平さんのことばのような精神が根付いて、まだふんばっていると信じている、信じたいからだと思う、と川端知嘉子さんは結んでいる。

祇園祭の厄除けお粽、和菓子屋三種、おけら詣り2024/07/26 07:03

 通崎睦美著『天使突破一丁目―着物と自転車と』(淡交社・2002年初版刊行)から、京都のことを、もう少し書く。 京都の方、といっても市内でなく、府内の方だが、祇園祭の厄除けお粽「鶏鉾厄除御粽」をいただいたことがあった。(「蘇民将来之子孫也」<小人閑居日記 2008.7.21.>) 通崎睦美さんの本に、浴衣を着たお札(ふだ)売りの子供達が声を合わせて繰り返す、歌声が出ている。 各鉾町によって歌詞や微妙な節回しの違いがあるそうだが…。

 「厄よけ火よけのお粽は これよりでます つねはでません今晩かぎり ご信心のおん方さまは うけてお帰りなされましょう おろうそく一ちょう 献じられましょう」

 京都の町の中には千件を超える和菓子を扱う店があるが、一般的に、扱う品物の違いによって、三つの分類が人々の間に浸透している、という。 お餅、赤飯をメインとしながらお饅頭も売る「おもちやさん」、多種類の饅頭や餅菓子を並べる「おまんやさん」、そしてお茶席で使う上菓子を扱う「菓子司(かしつかさ)」。 この「菓子司」が普段は「お菓子やさん」と呼ばれている。 睦美さんの家から一番近い「おもちやさん」は、「小島餅本店」、一番近い「菓子司」は、お茶人さんの間での評判も高い「末富(すえとみ)」。 それぞれのおじさんを呼ぶときは、「小島のおっちゃん」、「末富さんのご主人」となる。 三種の店には、そういうニュアンスの違いがある。

 大晦日から元旦にかけて、祇園の八坂神社にお詣りする。 境内で買った縄に、本殿前のおけら灯籠からおけら火をいただき、火が消えないように縄をくるくる回しながら、家に持ち帰る。 そして、その火を神棚の灯明に灯したり、雑煮を炊く時に用いるなどして無病息災を願い、新年を祝う。 これが、京都で古くから行われているお正月を迎える行事、おけら詣りである。

 おけら火のもとの火は、一年中絶やすことのない御神火として本殿に灯される浄火。 毎年十二月二十八日の寅の刻、午前四時に鑽火式(ひきりしき)を行い、身を清めた権宮司が、古式に従い檜の火鑽り杵(ひきりきね)と火鑽り臼をこすり合わせて、鑽りだす。 この日が大晦日の除夜祭で、削り掛けの木片(檜の削りくず)に移され、参拝者が願い事を書いて奉納したおけら木とおけらの根をまぜ、鉄灯籠で炊かれる。 ちなみに、おけらとはキク科の植物で、健胃の薬草として知られ、邪気を祓う力があるとされている。

 燃え残った縄は、台所に祀っておくと、火伏のお守りになる。 浄火を移す檜の削りくずは、老舗の箸店、市原平兵衛商店で檜箸を作る時に出る削り屑で、毎年、事始めの日に納められるのだそうだ。

ヒルサイドテラスを文化発信の拠点に2024/07/19 07:12

『代官山ヒルサイドテラス通信』4号(2015秋・冬)に、槇文彦さんは「ヒルサイドテラスと代官山―槇総合計画事務所五〇周年に寄せて」を書いている。 昨日のヒルサイドテラスの第一期に関わった事情のあと、槇さんは旧山手通り沿いに30年かけて、結局十棟を設計することになる。 1998(平成10)年にヒルサイドウエストが出来た時には、日本橋にあった事務所をここに移した。 ヒルサイドテラスは槇さんの生活の中で、切っても切れない関係にあるという。

第一期(A・B棟)のヒルサイドテラスが出来て十年程経った頃、朝倉さんご兄弟と、ショップやレストランだけでは面白くない、ヒルサイドテラスを美術や建築の発信地にしようと話し合った。 1982年、鹿島出版会の主催でSDレビューがスタートする。 それは今に続き、若手建築家の登竜門になっている。 1984年、A棟のギャラリーの企画運営を、北川フラムさんが主宰するアートフロントギャラリーにお願いした。 1987年には、音楽会ができるヒルサイドプラザが竣工、1992年には大きな展覧会もできるヒルサイドフォーラムが完成し、徐々にパブリックスペースが増えていった。 そこがさまざまなアクティビティの舞台となった。 1999年からは代官山インスタレーションが始まった。

槇文彦さんは、面白いのは設計したわれわれが想像もしないような使われ方をされるのを見る時だという。 特にパブリックスペースでは、印象深いシーンを目の当りにする幸運にしばしば恵まれてきた。 ヒルサイドフォーラム前の広場(ヒルサイドスクエア)で、クリスマスイブの日、近所の教会の人たちが聖歌を歌っているのを見たことがある。 それは、楽しい光景だった。 ヒルサイドカフェでよく見かけた中老の男性も忘れがたい。 その人はいつも同じ場所に座り、四分の一のボトルの赤ワインとサンドウィッチを頼み、ボトルが半分になったところでサンドウィッチに手をつける。 そしてコーヒーを注文する。 毎朝一時間ほど、旧山手通りを行き来する人たちをぼんやりと見ていた。 それはひとりの儀式(リチュアル)のようだった。 槇さんは、ニーチェの「孤独は私の故郷である」という言葉を思い出す。 朝倉さんはギャラリーに併設したカフェをつくるとき、あまり混まないほうがいいと考えておられた。 自分の好きな場所に座り、そこからおなじような風景を見、自分の好きな順序で時間を過ごす―それはひとりひとりにとって大事な生活の一コマになる。 もしカフェが混んでいたら、その人は来なかっただろう。 ヒルサイドテラスだからこそ可能となる「都会の孤独空間」なのだ。