橘家文吾の「磯の鮑」2025/09/28 07:47

 9月22日は、第688回の落語研究会だった。 会場が国立劇場小劇場から出て以来、お仲間と天ぷら屋で会食してから出かけることが出来なくなっていたが、久しぶりによみうり大手町ホール近くの博多うどん屋で4人集まることができた。 その間に亡くなったYさんに献杯する。

 橘家文吾は、濃紫の着物に、薄紫の羽織、こんな立派なホールで、スマホや音の出る電子機器は電源を切ってと、アナウンスがあって、と始めた。 噺の途中で電話が鳴るのは、慣れっこになって、日々鍛錬している。 池袋演芸場、地下で電波が入らないはずなのに、スマホが二回鳴った。 係に聞いたら、客席だけ電波が届くんです、すみません、と。

 先日、初めて海外へ行った。 スコットランドのアイラ島、ウィスキーの聖地、かみさんが詳しいんで、全部任せて。 飛行機で、エディンバラから入るんで、エディンバラぐらい、あんたが調べなさいと、言われた。 調べると、『ハリーポッター』の執筆者J・K・ローリングがシリーズの執筆活動をおこなっていた「ハリーポッター生誕の街」で、作中に登場するダイヤゴン横丁、その近くにはポッター、マクゴナガル、ムーディ、スクリムジョールの墓もあることがわかった。 地図を開いて、かみさんに見せると、「豊島園じゃねえか、ここ!」

 町内の若い者が集まって、遊びに行く話をしている。 与太郎、遊びが好きか。 独楽、かくれんぼ、鬼ごっこ。 女遊びだ。 おままごとか。 吉原の女郎買いだ。 吉原へ行くと、スッテンテンになるだろう。 損する一方で、儲かることがある。 きちんとした師匠について、今日がある。 隣町の鶴本勝太郎という隠居が「女郎買いの師匠」だから手紙を書いてやる。 取次が出て来るから、熊五郎に言われて来たと、手紙を出す。 どうせ師匠が、いいからお帰りというから、どうしても帰らない、二三日おまんまの支度をしてきた、と言うんだ。

 与太郎、「儲かる女郎買いの師匠」はこちらでと、やってくる。 何ですか? 取次の者に手紙を渡す。 鶴本勝太郎は、手前です。 ただのお爺さんだ。 先生、熊さんに言われたんで来た。 儲かる女郎買いを教えてもらいたい、手紙に全部書いてあります。 無駄に字がきれいだ。 あんた、熊さんに担がれたんだ。 いいえ、自分で歩いて来た。 二日でも、三日でも動きません。 首っ玉に巻いた風呂敷に、お鉢と、梅干も入っている。

 じゃあ、覚悟と情熱を見込んで、教えてやろう。 こざっぱりした形(なり)をして、下地に一杯飲む。 ヤマサかキッコーマンで。 醤油じゃない。 大門の灯りがポッと点いた頃に、大門を入るんだ。 ギュウというのが出て来て、世話を焼くから、向う脛を蹴飛ばす、口でからかうんだ。 「いかがですか」と聞くから、「お屋敷は本郷、いかが様は百万石」とでも言えば、「遊び慣れていらっしゃる、お登楼(あが)りになりますか」。 「登楼ると、富士のお山が見えるかい?」、「よく見えます」。 履物を揃えて脱ぐと、梯子段をトントントンといっぺんに登るんだ、途中で止まらないという縁起だ。 ひきつけ部屋で、若い衆が「初回ですか?」、「初回だよ」。 どの妓がいいですか。 三枚目の煙草盆を引いてくれというと、女の子が上がってくる。 すぐ、おしけだ。 はばかりに立つ。 花魁に手伝ってもらって、着替える。 煙草を一服喫って、花魁の胸をえぐるんだ。 相手の女をいい心持にさせるんだ。 花魁のことはよく知っている、一年前に見て岡惚れでね、磯の鮑の片想いだった、と言って、膝をつねるんだ。 ずいぶん可愛がってもらえる。 それが吉原で儲かる法だ。 早速、行ってまいります。

 与太郎、土煙をあげて、駆け出して行った。 お酒、お鉢、梅干、忘れてきた。 ねえ、ギュウ、お前ギュウだね。 いい目をしている、いいから世話焼きな、と膝を蹴飛ばす。 お邪魔します。 登楼って来たよ。 ダダダダッと、梯子段を上って、ひきつけ部屋、初回だよ。 三番目の煙草盆を引いてくれ、あなた、見てないでしょう。 見ていなくても、三番目のだ。 はばかりに行く。 女の子、まだ来ていねえ。 花魁の部屋、お寝間着、お手伝いします。 忘れ物があるだろう、パッパッ。 煙草で。 さあ、一服しなんし、と煙管を差し出す。 俺は煙草は喫わない、ハハハ。 モテのもとだから、胸をえぐるぞ。 花魁のことを知らなかった。 わちきも知らなんだ。 一年前からずっと、表に立っていた。 伊豆のワサビの片想いだ。 女の子の、膝をつねる。 痛い、痛い! 今ので、涙が出たよ。 伊豆のワサビが効いたんだ。

東日本大震災直後の畠山重篤さん2025/09/15 07:20

 畠山重篤さんの「追想」(4月19日・朝日新聞夕刊)。 三浦英之記者は、東日本大震災発生直後の2011年3月23日、壊滅した宮城県気仙沼市の養殖場の前で、畠山重篤さんの話を聞いた。 いかだ約70基、船5隻、作業場、加工場、冷蔵庫……。 ほぼすべてを失い、被害額は2億円。 同居の家族は無事だったが、老人ホームにいた最愛の93歳の母を亡くした。

 目をつぶり、風の音を聞いていた。 「こうするとね、何もなかったような気がするんですよ」。 目の前には「絶望」が広がっていた。 美しい海も、「世界一」のカキを育む養殖場も、跡形もない。

 「これも自然なんですよね。時々、人間にどちらが強いのか、見せつけにくる」

 それでも、山に落葉樹を植える活動はやめなかった。 3カ月後の6月にはもう、山の斜面にいた。 気仙沼湾に注ぎ込む大川上流の矢越山。 例年、植樹祭で掲げてきた数百枚の大漁旗は流失したが、1200人の賛同者とブナなど1千本の若木を植えた。

 「これだけの被害を受けてもなぜ、海とともに生きていこうとするのですか?」と問い掛けると、「三陸の海で生きようとする限り、津波という『地獄』は避けられない。でも、好きなんですよ。この海が。単に魚がとれるからじゃなくて、空気とか、風景とか、潮の香りとか。でも、うまい魚介類を食べられるというのはやっぱり大きいですよ」と、ひげもじゃの顔がフッと笑った、という。

卒業61年目の同期会2025/06/09 06:57

 昨日書いた西岡秀雄先生にご指導いただいた文化地理研究会の同期の会が、5日に東京會館のロッシーニで開かれた。 1964(昭和39)年の卒業なので「六四の会(むしのかい)」、毎年企画してくれる学生時代の代表加藤隆康さんのおかげである。 尾張一宮や箱根強羅からも駆け付けてくれ、卒業61年の爺さん婆さん14名の集合。 85歳から83歳まで、女性8名、男性6名は、健康寿命を表しているのか。 女子学生の多いクラブだったゆえの、おそらく稀な同期会だろう。 ここ数年で男性が何人か亡くなり、この一年では女性一人、男性一人が亡くなった。 来年もまた、元気で集まろうということになる。

 私は、毎日ブログを書きつづけていることや、三田あるこう会に参加しているが『三田評論』「三田会だより」の名前を見て元気をもらっているという人がいるので、毎月ヘロヘロ付いて歩いている話をした。

 ロッシーニのコースは、事前にMain を肉か魚か選んであった。 テレビ草創期に、『事件記者』というドラマがあって、「八田老人」が登場した。 われわれは、その「八田老人」よりも、だいぶ年上になっているのだろう。 閑居馬場老人、聞いたこともないような、珍しいものを食べたので、メニューを書いておく。 Appetizer「天使の海老のマリネ レモン塩麹 そら豆のムース ココナッツ風味」 Soup「ヴィシソワーズスープ」  Main「岩中豚ロース肉の香草焼き ショロンソース」  Dessert「ヴェリーヌ」  Coffee or Tea「コーヒー」。 西岡先生・雑学の不出来な弟子は、いくつか調べてみる。

 「天使の海老」…世界有数の美しい島ニューカレドニアで、マングローブ林に囲まれた絶好の養殖環境下、100%自然由来の餌で育てられた、アミノ酸含有量の多い旨味と甘味の海老。 「岩中豚」…いわちゅうぶた、岩手県産のブランド豚、東京食肉市場銘柄豚協会指定第一号、岩手中央畜産株式会社の生産。 「ショロンソース」…ベアルネーズソース(澄ましバターとエストラゴン、エシャロット、卵黄、セルフィーユ(セリ科のハーブ、チャービル)と酢をとろ火で煮詰めた)にトマトピューレを加えたもの。フランスのシェフ、ショロン氏の名を冠す。 「ヴェリーヌ」…フランス語でグラスデサートを意味する言葉。 そういえば、季節柄、「ヴィシソワーズスープ」が氷の入った器の上にグラスを重ねるなど、グラスを使った料理が多かった。

 帰宅して、「料理はどうだった?」と聞かれ、「まあ、まあ」と答えたが、これを書いている内に、美味しかったような気がしてきた。

人形町界隈で、食べるもの2025/04/12 07:07

 人形町界隈での、食べるものの話をしたい。 落語の会の土産には、酒悦でセロリの浅漬けや元祖福神漬、重盛永信堂で人形焼とゼイタク煎餅を買って帰った。 最初の日には、志乃多寿司總本店で、折詰を手に入れて、会場で食べたのだが、少し待たされる間に調整してくれるので、めっぽう美味しかった。

 ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションの「南桂子展 小さな雲」へ行った時は、家内と芳味亭(ほうみてい)でランチをした。 芳味亭は、小松川で工場をやっていた頃、取引先で通夜か何かあった後に、兄が連れて行ってくれた。 「ビーフスチュー」「カニクリームコロッケ」が売りの、昔ながらの洋食屋さんである。 きちんと、心を込めて作っているという感じがいい。 横浜のホテルニューグランドで修業した初代の重晴さんが昭和8(1933)年に開店したそうで、修業時代に師のサリー・ワイスに教わった「お客様の喜ぶものを作りなさい」をモットーに、庶民の憧れだった洋食を、日常の生活のなかでも気軽に食べてもらいたいと、始めた店だという。

 実は昨年の11月5日、昔亡兄と行った芳味亭へ、それこそ数十年ぶりに行ってみようと家内と出かけたのだが、たまたま振替休日の翌日の火曜日で休みだった。 しかたなく、前の「双葉」という豆腐屋さんがやっている豆腐料理の店へ行った。 ここは以前、慶應義塾の白石孝名誉教授が、自由が丘のご自宅でサロンを開き、近所の人に話をなさる会があって、私も参加させてもらっていたのだが、先生ご出身の堀留界隈を案内して下さる機会があり、先生に連れて行ってもらったことがあったのだ。 「双葉スペシャル」「冷奴定食」「肉豆腐定食」「揚げ出し豆腐定食」など、気楽で安くて庶民的、近所のサラリーマンが大勢昼飯に来て、おばさんが一人忙しく立ち働いていた。 その日は、たまたま一の酉で、松島神社の酉の市に行ったり、パワースポットと人が集まっている小網神社に行ったりし、鳥忠で焼き鳥を買って帰ってきた。

 芳味亭は2月5日にリベンジし、店がきれいになっていて、サービスも快適なのを確認した。 私は「ビーフスチュー・ハンバーグ」、家内は「ミックスフライ」、けっこうな味で満足した。 それで、「南桂子展 小さな雲」の日にも、花より団子、再度行ったのだった。

松田「正平さんのベクトル」と川端道喜2024/08/22 07:03

 7月22日から通崎睦美著『天使突破一丁目―着物と自転車と』(淡交社・2002年)を読んで、京都の話を書いたが、京都には「川端道喜」という和菓子屋さんのあることは知っていた。 岩波書店の『図書』5月号で、川端知嘉子さんの御粽司 川端道喜『手の時間、心のかたち』一「正平さんのベクトル」を読んだ。 「正平さん」といっても、自転車こころ旅の火野正平さんではない。 画家の松田正平さん、私の好きな画家である。

 川端知嘉子さんは、白洲正子さんの住まいを撮った写真に、憧憬する松田正平さんの短冊「犬馬難鬼魅易」が写り込んでいるのを見つけて、嬉しくなったという。 1937年から39年までフランスへ絵画研鑽のための留学もし、当然アカデミックなデッサンを基にした写実絵画はお手のものだが、一見、あんなに「ヘタクソ」風に子供の絵のような表現ができるのはタダ者でない証(あかし)である。 川端知嘉子さん(肩書は川端道喜代表、画家)は、つい力いっぱい描いて、そこから余分なものを引いていく余裕がまだない、という。 掲載されている、歯の抜けた口を大きく開けて、たぶんガハハと笑っている丸眼鏡の、松田正平さんの鉛筆描き《自画像》(1996年)に出合って以来、今はもう天国にいる、この天衣無縫な老人に「ぞっこん」なのである、と書く。

 自画像の横には、「流行を追うな、有名になるな、よい職人のようにこつこつと腕を磨け。 もっとしっかりした絵を、私は描きたいんだ。」という言葉が、『風の吹くまま 松田正平画文集』(2004年、求龍堂)では掲げられている。 川端さんは、この言葉には、AIとか現代もて囃されている技術革新の中で置き去りにされがちな、しかし人間にとってとても大切で高潔なる精神が裏打ちされていると感じている、という。 さしずめ今なら、いち早く流行をキャッチし、あるいは流行するように企(くわだ)て、上手くあらゆる手段を使って有名になり、てっとり早くお金を儲け……、といった現代社会に蔓延(はや)る風潮と真逆なベクトルなのだ、と。

 川端さんは、「これは何かに似ている!」と気付く。 店の包装紙にも使い、毎日のように目にしている川端道喜の起請文の内容と同じ方向を向いていることに。

 一、正直なるべきは無論のこと、表には稼業大切に内心には慾張らず品を吟味し乱造せざる事

 一、声なくして人を呼ぶという意 味(うじわ)う事

右祖先伝来の遺訓確(しか)と稼業相続(あいつづけ)可仕(つかまつるべし)依而如件(よってくだんのごとし)

 乱れた作り方をしてはいけない。 あくまで味、品質を大切にすること。 宣伝で人を呼んではいけない、といった内容である。

 東京遷都の折、長年御所に奉仕したこともあって、東京について来るように再三お誘いを受けたらしいが、十二代道喜は「水が合わん」とか言って京都に残った。 明治4年と6年に、御所で日々の儀式に使われるお餅などの作り方、盛り方、餝(かざ)り方などを記した「御定式御用品雛形」を携えて東京に出向き、当地の絵師に図柄を写し取らせ、方法を伝授して京都に戻った。 御所蛤御門の西に住まって様々な奉仕をしていた六丁衆のまとめ役として、町衆を置いてきぼりにしたまま、道喜が天皇さんやお公家さんに従って東京に行くわけにはいかなかったであろう、という。

 道喜のように宣伝をしないという家訓があっても、今の情報社会は中国や台湾などからもお客様を呼び寄せてくれるという恩恵はあるが、時流から抜け落ちたような手作りの仕事ではそうたいした(最近の「京都風、和風」イメージの)経済効果がある訳ではない。 そんな小さいままの店ではあっても、作る喜びと共に細々と続けていられるのは、京都という質と大きさの町の奥深くに、松田正平さんのことばのような精神が根付いて、まだふんばっていると信じている、信じたいからだと思う、と川端知嘉子さんは結んでいる。