松田「正平さんのベクトル」と川端道喜 ― 2024/08/22 07:03
7月22日から通崎睦美著『天使突破一丁目―着物と自転車と』(淡交社・2002年)を読んで、京都の話を書いたが、京都には「川端道喜」という和菓子屋さんのあることは知っていた。 岩波書店の『図書』5月号で、川端知嘉子さんの御粽司 川端道喜『手の時間、心のかたち』一「正平さんのベクトル」を読んだ。 「正平さん」といっても、自転車こころ旅の火野正平さんではない。 画家の松田正平さん、私の好きな画家である。
川端知嘉子さんは、白洲正子さんの住まいを撮った写真に、憧憬する松田正平さんの短冊「犬馬難鬼魅易」が写り込んでいるのを見つけて、嬉しくなったという。 1937年から39年までフランスへ絵画研鑽のための留学もし、当然アカデミックなデッサンを基にした写実絵画はお手のものだが、一見、あんなに「ヘタクソ」風に子供の絵のような表現ができるのはタダ者でない証(あかし)である。 川端知嘉子さん(肩書は川端道喜代表、画家)は、つい力いっぱい描いて、そこから余分なものを引いていく余裕がまだない、という。 掲載されている、歯の抜けた口を大きく開けて、たぶんガハハと笑っている丸眼鏡の、松田正平さんの鉛筆描き《自画像》(1996年)に出合って以来、今はもう天国にいる、この天衣無縫な老人に「ぞっこん」なのである、と書く。
自画像の横には、「流行を追うな、有名になるな、よい職人のようにこつこつと腕を磨け。 もっとしっかりした絵を、私は描きたいんだ。」という言葉が、『風の吹くまま 松田正平画文集』(2004年、求龍堂)では掲げられている。 川端さんは、この言葉には、AIとか現代もて囃されている技術革新の中で置き去りにされがちな、しかし人間にとってとても大切で高潔なる精神が裏打ちされていると感じている、という。 さしずめ今なら、いち早く流行をキャッチし、あるいは流行するように企(くわだ)て、上手くあらゆる手段を使って有名になり、てっとり早くお金を儲け……、といった現代社会に蔓延(はや)る風潮と真逆なベクトルなのだ、と。
川端さんは、「これは何かに似ている!」と気付く。 店の包装紙にも使い、毎日のように目にしている川端道喜の起請文の内容と同じ方向を向いていることに。
一、正直なるべきは無論のこと、表には稼業大切に内心には慾張らず品を吟味し乱造せざる事
一、声なくして人を呼ぶという意 味(うじわ)う事
右祖先伝来の遺訓確(しか)と稼業相続(あいつづけ)可仕(つかまつるべし)依而如件(よってくだんのごとし)
乱れた作り方をしてはいけない。 あくまで味、品質を大切にすること。 宣伝で人を呼んではいけない、といった内容である。
東京遷都の折、長年御所に奉仕したこともあって、東京について来るように再三お誘いを受けたらしいが、十二代道喜は「水が合わん」とか言って京都に残った。 明治4年と6年に、御所で日々の儀式に使われるお餅などの作り方、盛り方、餝(かざ)り方などを記した「御定式御用品雛形」を携えて東京に出向き、当地の絵師に図柄を写し取らせ、方法を伝授して京都に戻った。 御所蛤御門の西に住まって様々な奉仕をしていた六丁衆のまとめ役として、町衆を置いてきぼりにしたまま、道喜が天皇さんやお公家さんに従って東京に行くわけにはいかなかったであろう、という。
道喜のように宣伝をしないという家訓があっても、今の情報社会は中国や台湾などからもお客様を呼び寄せてくれるという恩恵はあるが、時流から抜け落ちたような手作りの仕事ではそうたいした(最近の「京都風、和風」イメージの)経済効果がある訳ではない。 そんな小さいままの店ではあっても、作る喜びと共に細々と続けていられるのは、京都という質と大きさの町の奥深くに、松田正平さんのことばのような精神が根付いて、まだふんばっていると信じている、信じたいからだと思う、と川端知嘉子さんは結んでいる。
祇園祭の厄除けお粽、和菓子屋三種、おけら詣り ― 2024/07/26 07:03
通崎睦美著『天使突破一丁目―着物と自転車と』(淡交社・2002年初版刊行)から、京都のことを、もう少し書く。 京都の方、といっても市内でなく、府内の方だが、祇園祭の厄除けお粽「鶏鉾厄除御粽」をいただいたことがあった。(「蘇民将来之子孫也」<小人閑居日記 2008.7.21.>) 通崎睦美さんの本に、浴衣を着たお札(ふだ)売りの子供達が声を合わせて繰り返す、歌声が出ている。 各鉾町によって歌詞や微妙な節回しの違いがあるそうだが…。
「厄よけ火よけのお粽は これよりでます つねはでません今晩かぎり ご信心のおん方さまは うけてお帰りなされましょう おろうそく一ちょう 献じられましょう」
京都の町の中には千件を超える和菓子を扱う店があるが、一般的に、扱う品物の違いによって、三つの分類が人々の間に浸透している、という。 お餅、赤飯をメインとしながらお饅頭も売る「おもちやさん」、多種類の饅頭や餅菓子を並べる「おまんやさん」、そしてお茶席で使う上菓子を扱う「菓子司(かしつかさ)」。 この「菓子司」が普段は「お菓子やさん」と呼ばれている。 睦美さんの家から一番近い「おもちやさん」は、「小島餅本店」、一番近い「菓子司」は、お茶人さんの間での評判も高い「末富(すえとみ)」。 それぞれのおじさんを呼ぶときは、「小島のおっちゃん」、「末富さんのご主人」となる。 三種の店には、そういうニュアンスの違いがある。
大晦日から元旦にかけて、祇園の八坂神社にお詣りする。 境内で買った縄に、本殿前のおけら灯籠からおけら火をいただき、火が消えないように縄をくるくる回しながら、家に持ち帰る。 そして、その火を神棚の灯明に灯したり、雑煮を炊く時に用いるなどして無病息災を願い、新年を祝う。 これが、京都で古くから行われているお正月を迎える行事、おけら詣りである。
おけら火のもとの火は、一年中絶やすことのない御神火として本殿に灯される浄火。 毎年十二月二十八日の寅の刻、午前四時に鑽火式(ひきりしき)を行い、身を清めた権宮司が、古式に従い檜の火鑽り杵(ひきりきね)と火鑽り臼をこすり合わせて、鑽りだす。 この日が大晦日の除夜祭で、削り掛けの木片(檜の削りくず)に移され、参拝者が願い事を書いて奉納したおけら木とおけらの根をまぜ、鉄灯籠で炊かれる。 ちなみに、おけらとはキク科の植物で、健胃の薬草として知られ、邪気を祓う力があるとされている。
燃え残った縄は、台所に祀っておくと、火伏のお守りになる。 浄火を移す檜の削りくずは、老舗の箸店、市原平兵衛商店で檜箸を作る時に出る削り屑で、毎年、事始めの日に納められるのだそうだ。
ヒルサイドテラスを文化発信の拠点に ― 2024/07/19 07:12
『代官山ヒルサイドテラス通信』4号(2015秋・冬)に、槇文彦さんは「ヒルサイドテラスと代官山―槇総合計画事務所五〇周年に寄せて」を書いている。 昨日のヒルサイドテラスの第一期に関わった事情のあと、槇さんは旧山手通り沿いに30年かけて、結局十棟を設計することになる。 1998(平成10)年にヒルサイドウエストが出来た時には、日本橋にあった事務所をここに移した。 ヒルサイドテラスは槇さんの生活の中で、切っても切れない関係にあるという。
第一期(A・B棟)のヒルサイドテラスが出来て十年程経った頃、朝倉さんご兄弟と、ショップやレストランだけでは面白くない、ヒルサイドテラスを美術や建築の発信地にしようと話し合った。 1982年、鹿島出版会の主催でSDレビューがスタートする。 それは今に続き、若手建築家の登竜門になっている。 1984年、A棟のギャラリーの企画運営を、北川フラムさんが主宰するアートフロントギャラリーにお願いした。 1987年には、音楽会ができるヒルサイドプラザが竣工、1992年には大きな展覧会もできるヒルサイドフォーラムが完成し、徐々にパブリックスペースが増えていった。 そこがさまざまなアクティビティの舞台となった。 1999年からは代官山インスタレーションが始まった。
槇文彦さんは、面白いのは設計したわれわれが想像もしないような使われ方をされるのを見る時だという。 特にパブリックスペースでは、印象深いシーンを目の当りにする幸運にしばしば恵まれてきた。 ヒルサイドフォーラム前の広場(ヒルサイドスクエア)で、クリスマスイブの日、近所の教会の人たちが聖歌を歌っているのを見たことがある。 それは、楽しい光景だった。 ヒルサイドカフェでよく見かけた中老の男性も忘れがたい。 その人はいつも同じ場所に座り、四分の一のボトルの赤ワインとサンドウィッチを頼み、ボトルが半分になったところでサンドウィッチに手をつける。 そしてコーヒーを注文する。 毎朝一時間ほど、旧山手通りを行き来する人たちをぼんやりと見ていた。 それはひとりの儀式(リチュアル)のようだった。 槇さんは、ニーチェの「孤独は私の故郷である」という言葉を思い出す。 朝倉さんはギャラリーに併設したカフェをつくるとき、あまり混まないほうがいいと考えておられた。 自分の好きな場所に座り、そこからおなじような風景を見、自分の好きな順序で時間を過ごす―それはひとりひとりにとって大事な生活の一コマになる。 もしカフェが混んでいたら、その人は来なかっただろう。 ヒルサイドテラスだからこそ可能となる「都会の孤独空間」なのだ。
『下山の時代を生きる』 ― 2024/07/17 06:53
小林奎二さんの『百代随想 自耕自食への下山 日本が生きるために』で、すぐ思い出したのは、以前「等々力短信」に『下山の時代を生きる』(平凡社新書)を書いたことだった。 著者は鈴木孝夫先生と平田オリザさん。 鈴木孝夫先生は、2021年2月に亡くなられた。 混迷を続ける国会で今、真に議論しなければならないのは何か、小林奎二さんといい、鈴木孝夫先生といい、老碩学の主張には傾聴すべきものがあると思われるので、再録したい。
等々力短信 第1108号 2018(平成30)6月25日 『下山の時代を生きる』
劇作家で演出家の平田オリザさんと、言語社会学の鈴木孝夫慶應義塾大学名誉教授の、『下山の時代を生きる』(平凡社新書)を読んだ。 オリザさんという珍しいお名前だが、父上が日本は米が大事な国だからと、ラテン語の米オリザと名づけたのだそうだ。 戦後、オリザニンというビタミンB1の薬があった。 明治43(1910)年、鈴木梅太郎が脚気に効くとして米ぬかから抽出・命名した。 注射のアンプルを製造していた父は、オリザニンレッドというビタミン注射の流行で、景気の良い時期があった。
平田さんは、その現代口語演劇と呼ばれる理論を構築するのに、最も影響を受けた言語学者が鈴木孝夫先生だという。 西洋の近代演劇を翻訳劇として輸入した日本では、セリフ一つとっても非常に言いにくかった。 その鈴木先生の著作が、世の中にはびこる「日本礼賛本」と並べられ「トンデモ本」として揶揄されているのを、ネットで目撃して、この対談を切望したという。 一方、鈴木先生も、平田さんの『下り坂をそろそろと下る』(講談社現代新書)を読み、若き同憂の士を得た思いがしたそうだ。
司馬遼太郎『坂の上の雲』の冒頭をもじって、「まことに小さな国が、衰退期をむかえようとしている」で始まり、そこには、鈴木先生年来の主張、「日本はさらなる経済成長なんてとんでもない。いや日本だけでなく人類全体が、あらゆる生物の複雑さを極めた連携的共存共栄をも視野に入れた、全生態系の持続的安定こそを目標とする下山の時代を迎えている」と、ほとんど違わない考えに基づく、日本人の生き方についての処方箋があった。 今の生活の便利さを二割諦めるのなら、納得してもらえそうだ。
鈴木先生は、以前から全世界規模の「鎖国のすすめ」を主張し、江戸260年の戦争のない省エネシステムの壮大な実績や、日本の古代性と近代を併せ持つ二刀流を、世界に発信して東西文化の懸け橋になれる、と。 平田さんは、隠岐島や小豆島での具体的体験から、長野県一国だったら鎖国できるという。 一つ一つの地域がまずある種の自立をする、食料的にも経済的にもエネルギー的にも。 地方の自治体が実践している施策を、国全体の政策にできるかが課題。 国だけが、まだ経済成長を前提としている。
面白い指摘がいくつもある。 鈴木先生は、SFC湘南藤沢で英語を必修から外したことがあった。 日本人は、英米人の目で世界を見ている。 いま地政学的に肝要なのは、アラビア語、ロシア語、朝鮮語、中国語だ。 リニアモーターカーの建設に反対、新幹線の安全保守対策をすべき、何年も前からシートベルト装備を言っている。
平田さんも、参議院では少なくとも党議拘束を外せ、日本に相応しい政治システムを獲得した上で、10年間「凍憲」し、地球市民の憲法をつくれと提案する。
「食料自給率」と、これまでの歴史 ― 2024/07/16 07:06
小林奎二さんは、この本での「食料自給率」の定義をはっきりさせる。 役所などの出す「食料自給率」という数字は、食料をカロリーで統一して扱うもの、最後の販売価格で扱うものなどが乱立している。 これらによると、今の日本(2021年)の食料総合自給率は、カロリーベースで38パーセント、生産額ベースで58パーセントである。 食料生産の専業世帯でも、自給率が100パーセントになることはまずありえない。 この現実を捉えて自給率を定義しようとすれば、「コスト(価格、原価、経費)」で考えるのが現実的であろう。 そこで、小林さんは、自給率とは、最終的に販売する食料の価格Aについて、何らかの形で外国に支払われる経費B、そうでない純国内で循環する経費Cに分けると、分子はC=A-B、分母はAと、定義する。 この定義に従うと、今の日本の自給率は、30パーセントくらいか、もっと少ないかもしれない、という。
大和朝廷を中心に国らしくまとまる以前から何千年以上もの間、日本は自給自足の国家であった。 徳川時代260年の政策は限りなく自給自足に近く、完全自立に近かった。 生活は良くなり、食生活も少しずつ改善され、人口は増加の一方だった。 庶民の間でも徐々にではあるが、主食が麦、稗、粟から米に変わっていき、そのため特に後期では食料増産の必要に迫られ、灌漑などの大事業も伴って新田の開発が行われた。 昭和一桁頃の東京で、市電の終点の新宿三丁目から牛込方面への一つ目か二つ目の停留場は「新田裏」だった。 一つの新田が江戸の中心のすぐ西にできたのだろう。 (馬場註・『日本鉄道旅行地図帳』5号「東京」(新潮社)によると、「新田裏」は「四谷三光町」についで二つ目、大正3(1914)年5月7日開業)
軍国時代とその後。 小作制度は依然として続き、都会に住む者との格差は歴然だった。 農家は増加した人口の行き場を失い、満蒙に向けられた。 食糧事情だけでいえば、こうでもしなければ全国民が食べていけなかった。 このときすでに、日本は食料自給自足が全くできていなかった。 敗戦後、GHQは日本の民主化を強要し、その一つに農地解放があった。 江戸期以前からの農業制度を芯から変える画期的なものだったが、農村を都市住民と同じに扱おうとした結果、今日にまで及ぶ混乱を残している。 国の自給可能な食料生産体制の構築を考慮すべきだったが、今になってみると国家百年の計は、結局アメリカ式の商業ベースに組み込まれてしまった。
高度経済成長期が始まると共に、食産業に対する国の本腰の助けはなくなり、やがて農村衰退の時代に入る。 都会の働き手の不足はもっぱら農村人口に頼られた。 農村は疲弊し、過疎化し、貴重な農地は放棄され続けている。 多くの食料生産家庭は、価格競争に負けて、収入を求めて都会に走り、農村の過疎化は耕作地の減少にもつながり、食料の生産量は減少の一途をひた走っている。
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