近所を歩き、暮らしと自然が一体の自分の『地図』を育む2022/05/28 07:11

 昨日紹介した朝日新聞夕刊の記事で、岸由二さんが、身近な地形や生態系などの自然から発想する「流域思考」は、災害の危険から命を守るために大地から積み上げた知恵だとして、こう語っていた。

 「豪雨による災害は雨量と地形によって起きる。短時間に強い雨が降ればどんな土地でも土砂災害の危険が高まり、上流で激しい雨が降れば雨が降っていない下流でも川の水位が増す。気象情報は自宅周辺の具体的な危険までは教えてくれない。行政の地域区分や既成の地図に頼るだけでは生き残れない」

 「求められているのは文明も自然の一部として自然と共生するような持続可能な都市づくりで、それを支えるのが流域思考です」

 「気候変動の危機に適応するためにも近所を歩き、自分なりの『地図』を育んで、一人一人の暮らしと自然が一体になった新しい哲学に高めていってほしい」

 この哲学、どこか、俳句作法に近いような感じがした。

地形知り、豪雨から身を守る「流域思考」2022/05/27 07:02

 5月16日に、5月8日の三田あるこう会で、町田薬師池公園周辺を散策したことを書いて、「鶴見川に沿って歩き、最後の坂を上がって農家料理「高宮」にたどり着いた時には、相当へろへろになっていた。」と書き、(鶴見川については、流域を研究している岸由二慶應義塾大学教授の話を聴いて、「流域」からの豪雨水害防災・減災<小人閑居日記 2012. 11. 22.>を書いていた。)と付記した。

 その岸由二(ゆうじ)さんが現在、われわれが歩いた東京都町田市の鶴見川「源流域」にお住まいだということがわかった。 2021年9月29日の朝日新聞夕刊の、「地形知り、豪雨から身を守る「流域思考」 岸由二・慶応大名誉教授が新刊」という記事を切り抜いて、持っていたからだった。

 気候変動で豪雨が増える時代を見据え、災害から身を守るために自分が暮らす「流域」をよく知る必要があると説く岸由二さんは、2021年夏、『生きのびるための流域思考』(ちくまプリマー新書)を出版した。 2013年の『「流域地図の作り方」』、2016年の『「奇跡の自然」の守りかた』(柳瀬博一さんとの共著)に続く「三部作」だ。

 1冊目では近所の川を源流から河口まで歩き、水が集まる大地の連なりを体感しながら自分なりの地図をつくろうと子どもたちに呼びかけた。 2冊目の共著は、そうした流域の豊かな生態系を丸ごと保全した小網代の森を紹介した。 3冊目は、すべての活動の原点である故郷・鶴見川の水防災の話を書いた。 岸由二さんは、横浜市の鶴見川河口の町で子ども時代を過ごし、ひたすら川で遊び、戦後の鶴見川の氾濫はすべて自宅で体験したという。

 東日本大震災の翌年の2012年秋に日吉キャンパス公開講座「日本ってなんだろう―東北の魅力再発見」で、岸由二経済学部教授の「流域で考える・東日本大震災からの復興」を聴いた。 そして、こう書いていた。

「全ての土地は、雨水を集める小さな川、それが集まって出来る大きな川の「流域」にある。 「流域」とは、降った雨が川に集まる大地の広がり=洪水や自然生態系の単位だ。 日本は「流域」の国だ。 暮しも、防災も、環境保全も、「流域」で工夫する必要がある。 小網代の森は浦の川の「流域」だし、ここ日吉は鶴見川の「流域」だ。 NPO法人鶴見川流域ネットワーキングという活動を続けてきた。 かつて鶴見川下流は水害の常襲地帯だった。 1980年から国を中心とした総合的な治水対策が実施された。 丘陵地を開発しない、源流に保水の森を保全、下流は川幅を広げる河川改修、4,300の調節池に300万トンを貯留(慶應日吉も200トンの水、ビオトープに)、新横浜に巨大な多目的遊水地(スポーツ公園、港北ニュータウン開発)。 それによって、1982年以降、水害はない。 行政と市民団体のつながりが大事だ。 「流域」思考が、川を、都市を、地球を再生する。」

色川大吉さんの二冊の本2022/05/18 06:52

 色川大吉さんは、昨年9月7日、96歳で老衰のために亡くなった。 歴史学者の成田龍一さん(日本女子大名誉教授)が「色川大吉さんを悼む」を、9月20日の朝日新聞朝刊に寄稿している。 私が知らなかった石阪昌孝の息子公歴(まさつぐ)のことが出てきた(石坂公歴とあるが、事典によっては昌孝にも「石坂」の表記がある)。 色川さんの「主著『明治精神史』(1964年)では、東京・多摩の民権家の体験を追い、「自由民権の地下水を汲むもの」という認識が示され、華麗な文体とあいまって鮮烈な歴史の光景が提供される。「思想」として整序される以前の「精神」に着目し、自由民権運動を描き出しており、歴史書としては稀有の著作であった。なによりも、「人民」などと抽象的に語られていた人びとが、石坂公歴、平野友輔と固有名詞をもち、悩み、ためらいながら歴史の現場に登場する姿が印象的であった。」と。

 「さらに色川さんは、民衆憲法草案(五日市憲法)を発掘し、人びとの営為の結晶として、紹介してもいく。民衆史という領域が切りひらかれ、歴史が具体的な人びとによる、生活に根ざした地域での活動――主体的な営みとして書き直されたのである。」

 色川さんの歴史学の背後には、学徒出陣をした戦争体験と、敗戦後の社会運動への参画がある。 1925年生まれの色川さんは、戦争に翻弄され、さらに社会運動で挫折した「原体験」をテコに、主体的に歴史に向き合い、現在を照らし出す営みを自らの歴史学の課題にしていったという。

 「自分史の試み」という副題の『ある昭和史』(1975年)は、「自分の肉体に刻まれた歴史の痛覚」を手がかりに、「ふだん記」運動を展開した橋本義夫や、昭和天皇の伝記とを重ね合わせ、国民的経験としての「昭和史」を構成した。 戦中と戦後、敗戦と安保を包括する「昭和史」との格闘が、民衆史家・色川大吉の、いまひとつの営みとなった。 これは色川さんが、天皇制との対峙を生涯の研究課題とすることでもあったのだそうだ。

 そう聞くと、皇后さま(現、上皇后さま)が2013年の誕生日会見で「五日市憲法草案」について下記のように言及されたことの、深い認識と強い勇気にあらためて驚かされるのである。 「かつてあきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由」の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。」

フィリピンの平均年齢 25・7歳、日本は?2022/05/12 07:08

 フィリピンの大統領選挙の前、テレビ朝日のニュース番組で、マルコス元大統領の長男フェルディナンド・マルコス氏が優勢なのは、国民の平均年齢が25・7歳だからだ、というのをやっていた。 独裁者マルコスの記憶がなく、SNSを多用する世代にキャンペーンが有効だというのだ。 フィリピンの平均年齢が25・7歳というのに、びっくりした。

それで、日本国民の平均年齢はと検索すると2020年のデータで、48・4歳。 1955年から2020年のグラフで、どんどん右肩上がりになっている。 45~59歳、75~79歳の層が突出して多い。(worldometers)

2018年のランキングがCIA(アメリカ中央情報局)のデータにあり、1位がモナコで53・8歳、2位日本47・7歳、3位ドイツ47・4歳、5位イタリー45・8歳だった。

語らなかった父、日系二世の苦悩2022/04/17 08:07

 森山良子の父・久は、日本国籍を回復した3日後、昭和17(1942)年6月27日、南方慰問団に徴用され出発する。 アメリカ軍では日系人部隊が編制され、ヨーロッパ戦線に出ていた。 南方から帰った久は、対米謀略放送「ゼロアワー」、ラジオトウキョウの演奏責任者になった。 米軍兵士に「東京ローズ」と呼ばれて人気のあった女性アナが、「みなしごアニー、バラの花を集めて戻って来なさい、広い太平洋に散らばる、大切な親しい人に」などと、呼びかけていた。

 久は、良子たちに戦争が始まってからのことは、一切話さなかったという。 昭和20(1945)年8月15日、終戦。 実は9月3日、原爆投下直後の広島へ行っていた。 従軍記者団のカメラマンに、ウェイン・ミラー(海軍)とアイアマン(『ライフ』)がいたが、アイアマンが「東京で通訳にラジオトウキョウで演奏していた、いかしたトランペット奏者を見つけた」と語っている。 久が通訳したであろう救護所の写真など、悲惨な言葉に言い尽くせない記録が残った。

 その後は、進駐軍の将校クラブで、ニュー・パシフィック・オーケストラという大半が「ゼロアワー」のメンバーで演奏した。 昭和21(1946)年、長男・晋誕生。 ところが、久はBC級戦犯裁判に関連して、巣鴨プリズンに収容されることになる。 南方慰問団から帰国する船で、イギリス人捕虜が多数死亡し、その責任を問われたのだ。 昭和22(1947)年1月23日、37歳で収監され、久直筆英文の嘆願書「犯罪容疑をかけられる根拠はない」が残っている。 裁判にかけられず、まもなく釈放された。

 昭和23(1948)年1月、良子誕生。 しかし、また、対米謀略放送にかかわった日系二世の追求が始まる。 「東京ローズ」、アイバ・戸栗の国家反逆罪の裁判で、国籍の選択が明暗を分ける。 東京ローズ裁判の証人として、「ゼロアワー」関係者19名が召喚され、久も15年ぶりの帰郷をした。 昭和24(1949)年8月10日午前10時、サンフランシスコ裁判所の証言台に立ち、64ページの記録が残っている。 「覚えがない」「聞いたことがない」という、精一杯の答弁で、同じく証人台に立ったトム・忍足(おしたり)は気の毒で何も言えなかったと語っている。 アイバ・戸栗は、アメリカ国籍を替えてなかったから捕まった、みんな同じ二世なのに…。 10月5日、アイバ・戸栗に有罪、禁錮10年、アメリカ市民権剥奪の判決、反逆者の烙印が押された。

 森山良子の父・久は、抱えているものがいっぱいあった。 娘の良子がシンガーとして活躍し始める頃、引退した。 昭和46(1971)年、24歳の長男・晋が突然、心不全で亡くなる(後に昭和63(1988)年になって、森山良子は「涙そうそう」に歌った)。 嘆く家族に父・久は、「そのことを言うのはやめよう、帰って来ないんだから、そのことで悲しむのは、もうお終い」といい、家で英語はほとんど話さない人だったが、「WE MUST LIVE」と言った。 生きていかなくちゃあならない、前を向いて、と。 日米、二つの祖国を持ったゆえの試練、そのすべてを受け入れて、懸命に生きた人の言葉だ。 森山良子は、いつも生き抜いて行く、家族を守っていく、強いものを持っていた人だが、大変だったと思う、と述懐した。 父・森山久は、平成2(1990)年、80歳で亡くなった。