高階秀爾さんの『本の遠近法』、「メタ情報」の宝庫2024/12/31 06:50

 美術評論家・高階秀爾さんが、10月17日に92歳で亡くなった。 28日朝日新聞夕刊「惜別」は、「美と知の泉 みんなの先生」という見出しだった。 私も2006(平成18)年「等々力短信」に、その著書『本の遠近法』(新書館)について、こんなことを書いていた。

      等々力短信 第969号 2006(平成18)年11月25日                   「メタ情報」の力

 閑居していて珍奇な体験をすることもないし、世の中のことを論評する力もない。 どうしても読んだ本から、あれこれ紹介することになる。 このところの「等々力短信」への評言で嬉しかったのは、「まとめ力」というのと、「私にとっての『リーダース・ダイジェスト』」というのだった。 ほかに褒めようがなかったのだろうが…。 昔、読んだ加藤秀俊さんの『整理学』に、「メタ情報」というキーワードがあった。 洪水のように出版される本の中から読むに足る本を見つけ出すのに、ダイジェストやアブストラクト、書評といったさまざまな「メタ情報」を活用すべきだ、と説いていた。 「等々力短信」が、その「メタ情報」になっていたというのは、書き手の喜びである。

 美術評論家・高階秀爾さんの『本の遠近法』(新書館)は、「メタ情報」の宝庫だ。 目利きがどんな本(複数)を選択し、組み合わせ、どう読んで、達意の文章に綴るか。 本物(プロ)の「まとめ力」というものを、実感することができる。 二つ例を挙げる。

網野善彦著『「日本」とは何か』の、「日本」という国号が7世紀末ごろに初めて登場し、それ以前には「日本」も「日本人」も存在しなかったという所から始めて、もし聖徳太子が「日本人」でないというのなら、ドイツやイタリアが統一されてその国号が登場したのは19世紀のことだから、レオナルドもゲーテも「イタリア人」や「ドイツ人」でないことになる。 そういわないのは文化的なつながりがあるからで、文化的一体感の故にゲーテは「ドイツ人」になった、と高階さんは説く。 さらに7世紀以来の「日本」が曲がりなりにも統一国家として存続し得たのは、何らかの求心力の作用があった。 その重要な要因の一つとして、勅撰集に象徴的に見られるような文化の役割が大きかったと考え、丸谷才一著『日本文学史早わかり』『新々百人一首』に話を進める。

 20年ごとに式年造替される伊勢神宮は世界遺産に認定されないけれど、日本人は「物」よりも「型」による継承に信頼を寄せたのだ。 日本文化にとって「型」は、きわめて重要だ。 和歌や俳句、歌枕や霊場巡礼、能や歌舞伎、茶の湯や生け花、日常の年中行事。 千年以上も前にできあがった短詩形文学の形式が、21世紀において広く国民の間で愛好され、活用されているという事態は、おそらく日本以外にはどこにもないだろう。

そのように説く『本の遠近法』は、「知」を湧かす「メタ情報」の力で、俳句をかじり、大相撲を見る私を、日本文化の本質に接近した気分にさせてくれた。

昭和天皇と母皇太后節子の確執2024/12/30 07:26

 原武史さんの『拝謁記』「読みどころ」(6)(8)、皇太后節子(さだこ)、他の皇族との関係の問題である。 まず昭和天皇の母である皇太后節子。 1921(大正10)年皇太子裕仁が訪欧し、大正天皇の体調悪化に伴い、11月に摂政になったが、裕仁が英国の王室に影響され、祭祀をおろそかにすることに不安をいだき、女官制度の改革や宮中祭祀をめぐって皇后と裕仁の間に確執が生じるようになる。 1926年12月の大正天皇死去で、皇太后となり、現在赤坂御用地内の仙洞御所が建っているところにあった大宮御所に住み、「大宮様」と呼ばれた。 皇太后と天皇との確執は敗戦までずっと続き、皇太后は空襲が激しくなってもなお「かちいくさ」を祈り続けるなど、戦勝に固執した。 戦地から帰還した軍人をしばしば大宮御所に呼び寄せ、激励の言葉をかけていた。 皇太后を恐れていた天皇は、その意向に逆らうことができなかった。 「おたゝ様(お母様)はそんなこといつては悪いが、所謂虫の居所で同じことについて違った意見を仰せになることがある。其点は困るが」(1950(昭和25)年1月6日)

戦争が終わると、「時流に阿ねる御性質」が一転して、合法化された日本共産党に対する同情となって表れていると天皇は考えていた。 田島は天皇に対して、「大宮様は(中略)進歩的に考へらるることを仰せになることがおすきと存じます」(1949(昭和24)年11月8日)と私見を述べ、対策としてマルクス主義を批判する経済学者の小泉信三に依頼し、「共産党の駄目のことを御進講願ふことも考へられます」(同)と進言している。

(25日の<小人閑居日記に「昭和23(1948)年5月1日に、芦田均首相が小泉信三さんの家に来て、宮内庁長官になってほしいと言った」と書いていた。田島道治が芦田均首相に任命されて宮内府長官になったのは昭和23(1948)年6月。翌昭和24(1949)年6月宮内府は宮内庁と改称され、田島は宮内庁長官となる。同年10月15日芦田均内閣は昭和電工事件で総辞職し、第二次吉田茂内閣となる。なお、高橋誠一郎さんが文部大臣だったのは第一次吉田茂内閣の昭和22(1947)年1月11日~5月24日。高橋誠一郎さん〔昔、書いた福沢12〕<小人閑居日記 2013.11.27.> 吉田茂と『帝室論』〔昔、書いた福沢13〕<小人閑居日記 2013.11.28.>参照)

1951(昭和26)年5月17日に急逝し、「貞明皇后」と追号されるが、『拝謁記』では皇太后に対する言及が非常に多くなっていて、天皇が敗戦後もなお皇太后を恐れていたことが分かる。

 亡くなったあとも、「私はおたゝ様とは意見が時々違ひ、親孝行せぬといふやうな事にもあるかと思ふが、同居が長ければもつと意見が一致するのかも知れぬが……」(1953(昭和28)年4月10日)

 原武史さんは、皇太后遺書の謎を二つ挙げている。 皇太后が死去して約一カ月後、大宮御所から遺書が発見された。 大正天皇が亡くなる約二カ月前の1926(大正15)年10月22日に皇后として記したものだった。 高松宮が日記に概要を記しているだけで、公表はされていない。 『拝謁記』の二人のやりとりから、一つは、秩父宮や澄宮(後の三笠宮)に「何か由緒ある家宝となるやうなもの」を渡したい、というもの。 もし「家宝」が「三種の神器」を指していれば、草薙剣の分身と八尺瓊勾玉(いわゆる剣璽)で、明治の皇室典範では新天皇が継承することになっていたので、皇太子裕仁が天皇になれないことを意味していた。 もう一つ、皇后は1924(大正13)年筧克彦が提唱していた「神ながらの道」に関する講義を八回にわたって聴き、大きな影響を受けた。 その時書いたものを秩父宮に渡すように遺書に書いてあった。 原武史さんは、秩父宮に天皇になってもらいたいという皇太后の希望のあらわれのように見える、とする。

憲法改正による再軍備の必要を説く昭和天皇2024/12/29 07:04

 原武史さんの『拝謁記』「読みどころ」のつづき。 原さんによれば、日本国憲法の第九条は、天皇制を維持するために作られたものだった。 1946(昭和21)年2月にマッカーサーと首相の幣原喜重郎が会談した際、戦争放棄を世界に声明する代わりに天皇をシンボルとすることを明記すれば、天皇制の廃止を求める列国の批判をかわすことができるとして意見が一致し、その「旨」が昭和天皇にも伝えられた(豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本―〈憲法・安保体制〉にいたる道』、岩波書店、2015年)。 しかし『拝謁記』では、天皇は憲法第九条に不満で、田島に対して再三にわたり再軍備の必要性を説いている。 とりわけ独立を回復した1952(昭和27)年4月前後に発言が多くなっている。

 「私は憲法改正に便乗して外のいろいろの事が出ると思って否定的に考へてたが、今となつては、他の改正は一切ふれずに、軍備の点だけは公明正大に堂々と改正してやつた方がいゝ」(1952(昭和27)年2月11日) 「軍備といつても、国として独立する以上必要である。軍閥がわるいのだ。」(同年2月26日) 「私は再軍備によつて旧軍閥式の再台頭は絶対にいやだが、去りとて侵略を受ける脅威がある以上、防衛的の新軍備なしといふ訳にはいかぬと思ふ」 「現に中共のやうな侵略の現実に接する以上、軍備はなしには出来ぬものと思ふがネー」(1953(昭和28)年5月5日)

 「李承晩(イ スンマン、韓国大統領)の挑日的傾向や、又北朝(鮮)が万一にも統一でもあるといふ事があれば、日本の国防といふものを本当に考へてどういふ事が起きぬとも限らぬ。それを本当に祖国防衛といふやうな気持が若いものに全然なく、只ボンヤリ戦争に行くやうになる事を何でもいやといふ様な事はどういふものかと思ふ。」(1952(昭和27)年11月27日)

 原武史さんは、朝日新聞の「側近が記した「昭和」II(5)」(2024年12月6日夕刊)で、昭和天皇が内々の席で改憲再軍備を求める発言を繰り返していたことがほとんど知られていないのは、田島や、田島を信任した芦田均、吉田茂の両首相が口外しなかったからとみている。 憲法にのっとり、天皇を政治から遠ざけることで天皇を守った側面もある。 「軽武装・経済重視」路線をとった吉田にとって、天皇の本音が公になれば自分の政治的立場が不利になりかねなかった、と言う。 そして原武史さんは、今後を危惧して、こう述べている。 「平成の明仁天皇は過去の戦争の反省を強調し、護憲のシンボルとなった。これに対して改憲と再軍備を唱えた昭和天皇は、保守派から戦前からの『大元帥』の面影をとどめる理想の君主と映り、都合よく利用されるのではないか」。

阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』〔昔、書いた福沢144〕2024/12/06 07:10

阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』〔昔、書いた福沢144〕                 <小人閑居日記 2019.11.1.>

      自分で考えるということ<小人閑居日記 2002.7.22.>

 6月のワールドカップ・サッカーの熱狂ぶりをみていて、そういう私もかなりテレビを見てはいたのだが、日本人が集団で一方向に走りだす傾向が、気になった。 日本が負けた瞬間、もう一つ上に行けたのにという声が、瞬時に圧殺され、よくやったに世論が統一されたのには、何となく不安を感じた。 そういえば昨年の4月頃は、小泉人気というものがあったと、思ったのである。

 このところ、そんなことを考えているものだから、阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』(都市出版)を読んでも、アメリカ人の個別主義についての記述が気になる。 たとえば、後にジャパンタイムズのジャーナリストになる村田聖明(きよあき)さんの章。 村田さんは、日米開戦の6か月前にアメリカへ留学し、戦争が始まると一時アリゾナの収容所に入れられたが、10か月で出所、普通に大学生活を送る。 戦争相手である日本人の村田さんを、当り前に遇する普通の市民が、思いがけなく大勢いる。

 「目の前に敵国人が現れたとき、その人物を個人として評価する。 政府が何と言おうと新聞が何と書こうと、自分で考え、それを遠慮なく口にする。」 「おそらく日本にも、戦争中アメリカ人の捕虜を人道的に扱い、占領地の住民と個人として親交を深めた人はたくさんいたに違いない。 しかしどちらの国民が、戦争という極限状況下における集団ヒステリーから比較的自由であったかと言えば、どうもアメリカに軍配を上げざるをえないだろう。」

       自分の意見、相手の意見<小人閑居日記 2002.7.23.>

 阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』の山本七平さんの章に、天皇訪米に合せアメリカへ行ってみないかといわれた山本七平さんが、キリスト教指導者植村環(たまき)女史の戦争直後のアメリカ講演旅行のことを思い出す話がある。 昭和21年5月渡米した植村環女史は、「石もて追われる」ような、きわめて厳しい旅を経験する。

 「しかし、植村女史の記録を仔細に読むと、アメリカ人の反応は同じ状態に陥ったときの日本人の反応と違うと、山本は感じる。いかに非難すべき相手でも、その発言自体は決して非難・妨害しないのである。」

 「面と向かって日本人は悪魔だと言いながら、納得すると照れずに意見も態度も変える。植村女史は『トルーマン大統領その他知名な人々も、高圧的な態度で自分の意見を他に圧しつけることがないかわりに、自分に納得のいかない不審な点は、あくまでも、きく』と記した。どうも日本人とは異なる反応の仕方だ。多数は流動的で固定しないから、『これが天下の世論だ』などと高圧的に言ってもききめがない。『一夜にして全国民が一定“世論”のもとに一変するといった事態は逆に起こらない』。」

トクヴィルと福沢諭吉(2)〔昔、書いた福沢143-2〕2024/12/05 07:05

         トクヴィルと福沢諭吉(2)〔昔、書いた福沢143-2〕

                <小人閑居日記 2019.10.31.>

    自治のアメリカ、群れるアメリカ<小人閑居日記 2002.5.28.>

 トクヴィルとボーモンは、とくにボストンやフィラデルフィアで、アメリカ民主主義の実態と根幹に触れた。 州は、小さな共和政体である町(タウン)の連合だ。 それぞれ首長を選び、自分たちのことは自分で行なっている。 彼らを結びつけるのが州議会。 町の権限は法律で定められ、その範囲を越えることがらだけが、州議会の管轄になっている。 さらに、州が集まって、国をつくっている。 政府が口出ししない結果、個人が自分自身で何でもやる習慣がつく。 他から助けを求めず、自分で考え、自分で対処する。 大学、病院、道路などを建てよう、改良しようとするとき、政府に陳情することなど考えもしない。 教育も政府に任せては駄目だ、フランスで教育助成のための公的基金を設けることなど、絶対やめろと言われている。(阿川さんは金をかけた「本郷の大学」にふれた)

 裁判もまた自分たちの手で行なう。 トクヴィルは、陪審制度が人々に、自分達の問題を自分自身で解決することを教え、社会問題解決を自分自身の仕事とみなすようにさせることの重要性を見た。

 アメリカ人はまた、何かというと集まってアソシエーション、すなわち各種の団体を、変幻自在に結成する傾向がある。(阿川さんは福沢諭吉協会はアソシエーションそのものと言った) 商業上の連合、政治、文学、宗教上の団体をつくる。 決してお上へ陳情して成功をめざすのではなく、個人の才覚に訴えて調和ある行動を組織し、成功へと進む。 その最も極端な例が禁酒協会で、ニューヨークに727、マサチューセッツに209、全国で2千以上ある、とトクヴィルは報告している。 民主政体のもとでは、すべての人は独立しており力がない。 自分一人では何もできない。 互いに協力し、共同歩調を取る習慣を身につけないかぎり、文明は危殆に瀕するからだろうと、トクヴィルは考える。(つづく)

       握手、対等なアメリカ<小人閑居日記 2002.5.29.>

 阿川尚之さんは『トクヴィルとアメリカへ』で、イギリス人や日本人が初対面の人にたいして回りくどい態度をとるのに対して、アメリカ人は簡単に握手する、と書いている。(講演では、瀋陽の副領事は握手しますけどと言った(5月8日北朝鮮人5名が瀋陽の領事館に亡命のため駆け込む事件があった)) トクヴィルの時代も同じだったようで、「アメリカには少なくとも表面上、信じられないほどの平等が行き渡っている。 すべての階層の者が、常に互いに交流している。 社会的地位の差ゆえの傲慢は、露ほども見かけられない。 みんな握手を交わす。 カナンダイグアの刑務所では(トクヴィルとボーモンはアメリカの刑務所制度視察の名目で渡米した)、検察官が囚人と握手しているのを見た」

 トクヴィルとボーモンは、ホワイトハウスでアンドリュー・ジャクソン大統領に面会している。 19世紀には大統領が面会日を定めていて、その日訪れればだれでも大統領に会えたらしい。 それから35年後にワシントンを訪れた福沢諭吉は、日記帳にホワイトハウスの見取り図を描いて、その片隅に「冬の間一週一度大統領国民え面会」と記した。 福沢が会ったのは、リンカーン暗殺のあとを継いだアンドリュー・ジョンソン大統領だ。 漂流民ジョセフ・ヒコにいたっては、ホワイトハウスでビアス、ブキャナン、リンカーンの三人の大統領に面会している。 ヒコはビアス大統領を訪れた時、護衛も家来もなく、大して豪華でない家に住み、普通の服を着て気さくに対等に客と話す紳士が国家元首だとは、どうしても信じられなかったと、自伝に記しているという。

     『トクヴィルとアメリカへ』の雑学<小人閑居日記 2002.5.30.>

 初期の植民地では、ヴァージニアあたりでも当然、インディアンとの確執があった。 ディズニーのアニメにもなった「ポカホンタス」は、12歳のインディアンの少女で、ヴァージニアの初期植民地ジェームズタウンの長、キャプテン・ジョン・スミスがインディアンのラパハノック族に捕らわれた時、スミスと仲良くなって、父親である部族の長ポーハタンが処刑を命じると身を投げ出して、彼の命を救った。 万延元(1860)年に遣米使節を乗せ、咸臨丸とともに太平洋を渡ったアメリカの軍艦ポーハタン号は、「ポカホンタス」の父親の名に由来していたのであった。

 トクヴィルはメンフィス滞在中、二年前にこの地区から選出された、変り者の下院議員の話を聞く。 学校へ行ったことがなく、ほとんど字が読めない。 財産がなく、住所不定。 森の中に住み、狩りをして獲物を売って生計を立てている。 トクヴィルは日記に「普通選挙が実施されると、これほどひどい人を選ぶことになる」と記し、民主主義の弊害を心配した。 その議員の名は、デーヴィッド・クロケット。 5年後、テキサスの独立をめざすアメリカ人の一群が、サンアントニオの町にあるアラモの砦で玉砕したなかに、この冒険家がいて、アメリカ史に名を残すことになるとは、さすがのトクヴィルにも想像がつかなかった。

 ミシシッピー川をニューオーリンズへ向う船上で、サム・ヒューストンという面白い男に会った。 テネシー州の知事まで務めたが、家庭がうまくいかず、妻を捨てて奥地に逃げ込み、チェロキー族インディアンの社会に入り、族長の養子となって、その娘をめとって、何年間かを暮した。 トクヴィル達が会った時は、再び白人社会に戻る決心をして、同じルイヴィル号の船客となっていたのだった。 5年後、サム・ヒューストンはテキサスに姿を現わす。 馬にまたがり、テキサス独立軍の指揮官として、「アラモの屈辱を忘れるな」と叫びながら、メキシコ軍を散々に打ち破った。 彼はメキシコから独立したテキサス共和国の初代大統領になり、その名は、テキサスの大都会の名として、今でも残っている。