松本烝治博士、小泉信三さんの義兄 ― 2026/08/19 07:04
最初に憲法草案を作り、却下された国務大臣の松本烝治博士について、まず『日本歴史大事典』を見てみたい。 まつもとじょうじ(1877(明治10)~1954(昭和29))政治家。商法学者。岐阜県出身。東京帝国大学法学部卒業後、東京帝大教授となるが、大正8(1919)年南満州鉄道(満鉄)副社長となり、1923(大正12)年第2次山本内閣法制局長官。その後、貴族院議員、弁護士として政・財・官・学にわたって幅広く活躍。
敗戦直後に幣原内閣無任所大臣となるが、憲法問題調査委員会の設置に伴い、委員長として明治憲法改正作業にあたり、改正案(松本案)を作成。しかし、あまりにも保守的で、マッカーサーに拒否された。その後GHQ(連合国最高司令官総司令部)との交渉等にも立ち会ったが、つねに対立した。この間の事情は当時秘密とされたが、昭和29(1954)年自由党憲法調査会が発足すると、証人としてこの間の事情を証言。「押しつけ憲法論」の有力な根拠の一つを提供した。<古関彰一>
慶應義塾の関係者は、松本烝治というと、小泉信三の姉・千の夫として承知している。 小泉信吉(のぶきち)、千賀には、千、信三、勝子、信子の子があり、勝子は横山長次郎、信子は佐々木修二郎に嫁した。 小泉妙著『父小泉信三を語る』(慶應義塾大学出版会)の、「御殿場」を見ると、松本、小泉、横山、佐々木の4家族は、別荘村のはずれの一画に、それぞれ家を持ち、夏休み中を一緒に過ごしていたとある。 西に富士、東に箱根、村の名は対山荘。 命名は高根義人氏、ここを避暑地とし、理想的な山荘村建設の計画をたてた。 高根氏と弁護士同士で親しかった松本烝治伯父がその計画に賛成。 高根氏は日本郵船と満鉄の法律顧問だったので、二つの会社関係の人の別荘が次々と建てられた。 満鉄の松本家は大正8(1919)年に、間もなく佐々木家、横山家の別荘が建ち、小泉家は松本、横山のどちらかに泊めてもらっていたのが、昭和11(1936)年に別荘ができた。 「母が父の姉妹と大変仲が良かったから幸せなことでした。松本の伯父が弁護士、父が先生、横山の叔父は会社の社長。従姉の夫の田中耕太郎と松本正夫は先生。三邊謙はお医者様ですからずっといるわけにはいかないのですが、とにかく大半が夏中ほとんどべったり、御殿場の中だけで暮らしていました。佐々木の叔父だけが銀行員なので、家族は皆御殿場にいて、叔父だけが土曜日に来るのね。随分変わった人だなぁと思っていました。」とある。 小泉家の信吉(しんきち)、加代、妙兄妹を始め、4家族の子供たちは、御殿場で楽しい時を過ごしていた。
「日本国憲法」が、出来るまで ― 2026/08/18 07:23
本棚に、今 日出海著『吉田 茂』(中公文庫、1983(昭和58)年)があった。 もう清水崑・絵のカバーがある時代のものだが、本体は少し黄色くなっている。 元は、昭和42年6月号~12月号の『現代』連載、昭和42年11月10日講談社刊。 今 日出海さんは、第1次吉田内閣の頃、文部省の芸術課長だったと、書き出している。
第3章は「息づまるマックとの対決」、マックは無論マクドナルドではなく、GHQ(連合国最高司令官総司令部)のマッカーサー総司令官である。
憲法改正問題は、ワシントン政府も早晩日本に民主憲法を制定する必要を感じ、「日本の政府組織の改革」に関する政策書を1946年1月11日に司令部に送り届けてきていた。 幣原喜重郎内閣になり、幣原が司令部に就任の挨拶に出向くと、マッカーサー元帥は憲法改正の必要を示唆した。 それをきっかけに、政府は国務大臣の松本烝治博士を主任として憲法問題の調査に本腰を入れて乗り出した。 明治憲法はそもそも民主主義の原則を明らかにした五箇条の御誓文を土台にしたもので、それを根本的に改める必要はないという風にも考えていた。 ただ改めるとしたら、明治憲法の第三条にある「天皇は神聖にして侵すべからず」というのでは誤解を招く恐れがあるから、「天皇は尊至にして侵すべからず」という風に改めて、なるべく大きな変改はしないという建て前で草案は起草されることになった。 勿論、軍の統帥と編成の項では、総理大臣の下に置かれ、軍備を廃止するという考えはなかった。
GHQでは、この日本の新憲法試案を見て、てんで頭の切り換えが出来ておらぬものの書いた草案で、これでは単なる字句の訂正にすぎぬではないかと憤懣をぶちまけ、ついに松本案は却下になってしまった。 マッカーサーは、日本側に任せていたら、米側の望む民主憲法は到底出来上がりそうにないから、こっちで起案するより道がないとして、ホイットニー民政局長に起草するよう命令した。 草案は僅か一週間で完成された。
外務大臣官邸で、吉田茂と終戦連絡中央事務局次長白洲次郎と松本烝治博士の三人がいるところへ、ホイットニー民政局長、ケーディス大佐その他が入って来て、タイプで打った草案を机の上にぽんと置き、「これが憲法だ」と言ったという。 この場の情景を白洲はまさに押し付け憲法以外の何ものでもなかったと言っている。 が、「これを日本政府に命じるのではなく、モデルなのだから、日本政府は総司令部案と、基本原則と根本形態を同じくする改正案を速やかに作って出すように」と付け加えたと吉田は言っている。
憲法第九条の戦争放棄の考えは、進駐直後の懲罰政策の当初からの不可欠の要求で、日本の自発的な考えでなかったことは事実である。 この条項は、トルーマン大統領も夙(つと)に抱いていたことで、マッカーサーにも命令した根本条件の一つである。 従ってこれに抵抗できるわけのものではなかった。 その上マッカーサーに対して、憲法問題は常に心して日本の発意のように仕向け、決して米当局の押し付けのような形で指令を出さぬように命じていたから、まことにこの間に微妙なかけ引きがあったことと思う。
進駐の初めには米軍は日本に軍政を布く計画だったのを、当時の終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男が夜陰にニュー・グランド・ホテルに駆け付け、総司令部の幕僚を訪ねて、軍政計画の撤回を懇請した。 こんな大問題をマッカーサーはいとも簡単に即座に解決し、軍政の布告を撤回した。 マッカーサーは来日以前には軍政の構想を抱いていたものの、進駐して来て、国民が抵抗する力を失い、敗戦の傷をさらけ出し、表情を失っている姿を見て、間接統治に踏み切ったというのが、実情である。 それ以前に、ワシントンからは間接統治策(天皇をふくむ日本政府機関および諸機関を通してその権力を行使せよ)を指令してあった。 ワシントンの指示では「象徴」という言葉は使われず、「天皇は日本国の元首」となっていたから、「象徴」とは総司令部の発想であることは明らかだ。 シンボルというのは言葉として解っても、外来語の不安定さがあって、憲法草案について審議した当時の議員ばかりでなく、一般にも納得しにくいものがあったに違いない。
憲法は手続きとしては遺漏なく、両院を通過し、昭和21(1946)年10月3日に公布され、翌昭和22(1947)年5月3日に実施ということになった。
高橋誠一郎さん〔昔、書いた福沢12〕 ― 2026/08/17 07:14
等々力短信 第243号 1982(昭和57)年2月25日
福沢の身近で三年
高橋誠一郎さんがなくなった。 明治17(1884)年生れ、97歳、数年前まで、福沢諭吉協会の土曜セミナーに出て来られた。 当日のスピーカーの講演を聴いたあとで、感想を述べられる。 話し出すと止まらず、周囲の心配をよそに20分も続くといった調子であった。
バリバリの福沢研究者の名講演も、高橋さんの「福沢家の広くて静かな書庫に一人入りこんで、手当り次第雑多な本を書架からぬき出して読んだものだ。 福沢先生が時折顔を出して『何か面白いものが見つかったか』と声をかける。 実は先生に見せられない草双紙なども読んでいた」といった体験談の前には、すっかり色あせてしまったものだ。
高橋さんが慶應に入ったのは明治31(1898)年、13歳の時だから、3年ほどを福沢の身近で過したことになる。 われわれは長生きそれ自体が価値であることを示した記憶力抜群の生き証人を失った。
等々力短信 第244号 1982(昭和57)年3月5日
高橋誠一郎さんのユーモア
高橋誠一郎さんのスピーチには独特のユーモアがあった。
若い時、留学中の英国で結核をやっている。 「私は毎日病人のような気持で生活しておりまするが、間もなく八十になろうといたしております」
「私はたった一度福沢先生が外国人と話しておられるのを聞いた。 相手のマコーリというユニテリアンの宣教師は英語でしゃべっておる。 福沢先生も英語をしゃべっているつもりかもしれないが、日本語の中に変な発音の英語が二つ、三つ入っておるだけだ。 それでちゃんと相手にわかるのだから、福沢先生ほどの人になると偉いものだと思って感心しておった」
天皇在位五十年のお祝いに芸術院長、最年長者として「陛下なんかこの高橋から見ればまだ春秋に富んでいらっしゃる。 五十年なんてケチなことをお祝いになってちゃダメだ。 祝うなら百年をお祝いになって、ただし、その時は必ず高橋を招んでいただきたい。」
等々力短信 第245号 1982(昭和57)年3月15日
高橋誠一郎文部大臣
高橋誠一郎文部大臣によって教育基本法と学校教育法が公布されたのは昭和22(1947)年3月31日で、翌日には六三新学制による小学校、中学校があわただしくスタートした。 それにはスタッダード博士を団長とするアメリカ教育使節団の人権尊重と機会均等を求める報告書にもとづいて、GHQが六三制の早期実施を強く迫っていたという事情がある。
私が小学校に入ったのは、それから一年後の昭和23年で、学校は過渡期の試行錯誤の中にあった。 フラッシュ・バックすれば土盛りした奉安殿跡、新制中学の同居と二部授業、ガリオアのミルク、ひらがな先習カタカナ無視、自由研究、グループ学習、子供議会、という時代である。
高橋さんがなくなって、初めて教育基本法を読んだ。 そして、教育基本法の精神や制定前後の事情がもっと研究されてもよいと思った。 それは私たちの受けた、そして現在の、教育の枠組を決めたものだから。
吉田茂と『帝室論』〔昔、書いた福沢13〕 ― 2026/08/16 07:43
等々力短信 第255号 1982(昭和57)年6月25日
武見太郎さん
武見太郎さんといえば、ケンカ太郎、ゴリ押しの印象だった。 先日、ある会で武見さんの講演を聴いて、著書も読み、考えを改めた。 牧野伸顕伯の長女が吉田茂夫人で、孫が武見夫人である。 吉田、武見両氏とも、マスコミにさんざん叩かれたのも因縁かもしれぬ。 最近、吉田さんはだいぶ名誉を回復したが、武見さんはどうなるだろう。
武見さんは医師会以前の四十代前半に、大きな仕事を残している。 それは吉田茂の政治に重要なかかわりを持ったことだ。 優秀な開業医として、学界、政、財、官界に豊富な患者人脈を持っていた武見さんは、その人脈をフルに活用して吉田さんに協力したのである。
主な一つは銀座(教文館)の武見診療所開設から支援した岩波茂雄につらなる岩波文化人達であり、もう一つは理研を中心とする科学者集団である。 吉田内閣の政策決定、ひいては現在に至る日本の方向づけに、このブレーンの果した役割は、まことに大きい。
等々力短信 第256号 1982(昭和57)年7月5日
国の存亡をかけた修羅場で
武見太郎さんの話や、『戦前戦中戦後』(講談社)、『武見太郎回想録』(日経)といった本の面白さは、国の存亡をかけた修羅場で吉田茂、牧野伸顕といった人物が、どういうやりとりをしたか、そこに立会った臨場感にある。
総理大臣になることが決った時、「自信がおありですか」とたずねる武見さんに、吉田さんは「戦争で負けて、外交で勝った歴史はある」とキッパリいったそうだ。
日本を何から復興すべきかということを、武見人脈のブレーン連中が議論して、まず鉄鋼の自主生産からということになった。 しかし、GHQは日本の鉄鋼生産の再開を絶対に許可しない。 行きづまって、次善の策を考えようということになった時、吉田さんは「いちばんむずかしい問題は、私がやります」といって、トルーマン大統領に長電話で談判し、許可を取ってしまった。 これが、後の経済発展の基礎になったのである。
等々力短信 第257号 1982(昭和57)年7月15日
『帝室論』と高橋誠一郎文相
吉田内閣の時、天皇陛下から、民主主義の時代に国民と皇室の関係はどうなければならないかというご下問があった。 即答できずに、「本来なら切腹だ」と、真青な顔で官邸に帰ってきた吉田さんに、福沢諭吉の『帝室論』のことを話したのが、武見太郎さんだった。
早速『帝室論』を読んだ吉田首相が、小泉信三さんに文部大臣を頼もうといい出す。 使いの武見さんに、小泉さんは戦災のけががまだ治っていないからと断わる。 それでは高橋誠一郎さんだということになり、武見さんは「先生、福沢の弟子として、こういう時に福沢の遺志が政府に伝わるのは非常にいいことなので、それをする義務は先生にだってあるでしょう」という殺し文句を使って、高橋さんを官邸に連れ込む。
「帝室は政治社外のものなり」「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり」「帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し」。 今年は『帝室論』百年である。
牧野伸顕・吉田茂・武見太郎、太平洋戦争の遠因「統帥権の独立」 ― 2026/08/15 07:46
2007年というと、もう20年近く前になるが、「牧野伸顕・吉田茂・武見太郎」「太平洋戦争の遠因「統帥権の独立」」を書いていたので、再録する。 ここにある「今度の短信」というのは、2007(平成19)年9月25日の「等々力短信」第979号「保阪正康さんの皇室論」で、「そこで保阪さんが展開するのが、雅子妃が理想とすべきは大正天皇妃の貞明皇后だという論である。 貞明皇后は社会の動きや人情の機微にふれ、きわめて鋭敏な歴史感覚を持ち、自らの意思を通す強い性格を持っていた。 大正天皇のご病気がはっきりした大正10年代、その重い責任を自覚して、政治家・原敬、宮廷官僚・牧野伸顕、元老・西園寺公望、東宮大夫・珍田捨己という人物達を、自らの股肱の臣として信頼を寄せ、彼等とともに「大正天皇から摂政宮」という天皇像を確立していった。 実際には「女性天皇」の時代ともいうべき社会空間が出来上がっていた、というのだ。」
牧野伸顕・吉田茂・武見太郎<小人閑居日記 2007.9.27.>
ほとんど麻生太郎さんで決まりといわれていたのを、二日前から知っていたと、ポロッとしゃべったために(クーデター説も影響したか)、福田康夫さんにさらわれてしまった。 政治の世界、一寸先は闇だ。 今度の短信に牧野伸顕が出てきたので、その麻生さんの姻戚関係を整理してみた。(以下、敬称略)
牧野伸顕(1861~1949・のぶあき、しんけんの方が通りがいい)は、大久保利通の次男(ウィキペディアだと三男)。 官界に入り、文相、農相、外相、宮内大臣、内大臣を歴任。 伯爵。 政界に隠然たる勢力を持つが、2・26事件では親英米派として襲われる。 吉田茂(1878~1967)は娘(雪子)婿。 吉田茂の娘、和子は麻生太賀吉と結婚、太郎、泰(ゆたか)、雪子、旦子、信子が生まれた。 その太郎が麻生太郎であり、信子は三笠宮寛仁親王に嫁して、彬子女王、瑶子女王がある。
牧野伸顕と妻・峰子(三島通庸の娘)の間には、雪子のほかに利武子があり、秋月種英に嫁し、その娘・英子が武見太郎(日本医師会会長)と結婚した。 武見太郎の息子が武見敬三議員、娘の和子が麻生泰(株式会社麻生(セメント)社長)に嫁している。
牧野伸顕、吉田茂、武見太郎の姻戚関係は、戦後、高橋誠一郎教授が「帝室論」を媒介として文部大臣に就任する際に、働くことになる。
太平洋戦争の遠因「統帥権の独立」<小人閑居日記 2007.9.28.>
武見太郎さんの『戦前 戦中 戦後』(1982年・講談社)を再読していたら、牧野伸顕が、軍部をのさばらせた原因は、帝国憲法の「統帥権の独立」にあったと常に述懐していた、と書いてあった。 のちに司馬遼太郎さんが太平洋戦争の原因として考えた「統帥権」である。 武見太郎さんは、妻の祖父にあたる牧野伸顕が、日本の勃興から敗戦に至る90年の波瀾の生涯に、とにかく問題の本質をつかまえた元老として、大きな存在であったと思う、という。
その牧野の述懐というのは、つぎのようなものである。 大久保利通は、最初の日本憲法の草案者であるけれども、彼は統帥権の独立を認めなかった。 陸軍の総帥山県有朋元帥が執拗に統帥権の独立を要求したけれど、大久保利通はこれを拒否して譲らなかった。 そのうちに大久保が凶刃に斃れて、伊藤博文が憲法草案を担当することになり、伊藤が山県に負けてしまって統帥権の独立を許した。 これが後に、軍閥をのさばらせ、第二次世界大戦につながる大きな原因になったのである。
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