MAGA MAGAしいアメリカ<等々力短信 第1199号 2026(令和8).1.25.> ― 2026/01/25 07:26
「まがまがしい」は「禍禍しい」と書く。 2026年はアメリカによるベネズエラ攻撃という衝撃的なニュースで始まった。 Make America Great Again 2期目のトランプ大統領の登場で、民主主義が試練にさらされている。 7日には66の国際機関(内31は国連機関)からの脱退または資金拠出の停止を表明、「国際法は必要ない」、米軍最高司令官としての判断は「自らの道徳観」にのみ制約されると言い、17日にはグリーンランド領有まで欧州8カ国に追加関税を課すことを発表した(21日に撤回)。 9月、国連総会での演説で「気候変動は世界が犯した史上最大の詐欺だ」、「国連には、生み出した移民による侵略をやめることが求められる。(移民は)国境を踏みにじり、主権を侵害し、止めどない犯罪を重ね、社会保障の安全網を使い果たす」と述べた。
米NGO「フリーダムハウス」は報告書で、民主国家がどう権威主義に傾斜していくのか、四つの指標を示している。 (1)権力者が司法の独立を弱めるなど「法の支配の弱体化」。(2)不透明な資金調達や選挙規則の操作など、公正・中立な選挙への疑念。(3)ジャーナリストへの攻撃や情報へのアクセス制限など、「報道の自由への攻撃」。(4)社会的弱者が直面する「移民への差別・不当な扱い」。 大学や言論機関への攻撃が忌まわしい。 14日には、FBIがワシントンポストの記者の家宅捜索をした。
私は昭和16(1941)年に生まれ、4歳の時、小泉信三さんも被災した東京城南の空襲で、9月に洪水のあった立会川の橋の下で一晩を過ごして、助かった。 それが戦後、六三制の初期に民主主義教育を受け、物心がつくと、映画や音楽でアメリカ文化をもろに浴びて、アメリカは理想の国となって、空襲の恨みなどは感じたことがない。 大学時代は、ちょうどJ・F・ケネディ大統領の時世に重なり、その著『勇気ある人々』では自分の信念を貫いた議員たちの物語を読み、子供たちが身近な疑問や要望を直接大統領に手紙を書いて送った本では、その大統領職に対する尊敬に彼我の差を感じた。
福沢諭吉は、『文明論之概略』で「権力の偏重」を言った。 西洋の文明では相互に拮抗する諸勢力の対立の中に自由を生じたが、日本では強者と弱者が不均衡に固定化してしまったことが文明を阻害した、と。 今日のアメリカにおける「権力の偏重」は、11月の中間選挙でチェックされるのか。 『学問のすゝめ』に、「理のためにはアフリカの黒奴にも恐入り、道のためには英吉利亜米利加の軍艦をも恐れず」、「人智愈(いよいよ)開(ひらけ)れば交際愈広く、交際愈広ければ人情愈和らぎ、万国公法の説に権を得て、戦争を起すこと軽率ならず」とあり、だが『通俗国権論』では「百巻の万国公法は数門の大砲に幾冊の和親条約は一筐の弾薬に若かず」とも言っていた。
伊藤公平塾長の年頭挨拶、前半 ― 2026/01/15 08:29
1月10日は、第191回の福澤先生誕生記念会で、三田へ行った。 私の唯一の自慢、1960(昭和35)年に第125回の福澤先生誕生記念会が大阪で開催されたのに、志木高から行かせてもらったのは3年生の18歳、66年前のことだった。 1901(明治34)年2月3日に福沢先生が66歳で亡くなってから、今年は没後125年になる。 先生より18年も余計に生きて、小人閑居、何もできずにいるのが、どうにも恥ずかしい思いがする。
伊藤公平塾長は、年頭挨拶の冒頭、「慶應義塾の年末年始はコレだった」として、花園で活躍した志木高蹴球部のタイガージャージー色の応援タオルを掲げ、拍手を受けた。 12月27日の青森山田との一回戦を、塾長が花園で応援したと聞いている。(全国高校ラグビー一回戦、慶應志木48対12で青森山田に快勝<小人閑居日記 2025.12.29.>、全国高校ラグビー慶應志木高、東福岡高校に善戦健闘<小人閑居日記 2026.1.2.>)
塾長は、昨年、世界のリーダーたちが慶應義塾を訪れたが、それは塾に会いたくなる教授、研究者がいるからだ、と言う。 歴史の厚みがあり、これからにも期待している。 7月、1875(明治8)年の開館から150年になる三田演説館で、ウルズラ・フォン・デア・ライエン欧州連合(EU)委員長がスピーチした。 福沢の説いた「自由と独立」は、19世紀と今日をつないでおり、現在の課題の大切な答だというのだった。(慶應義塾が名誉博士号を授与したEU委員長<小人閑居日記 2025.11.14.>、福沢の「自由」と「独立」の追求は、現在の課題の答<小人閑居日記 2025.11.15.>、欧州と日本のパートナーシップ、学生へのメッセージ<小人閑居日記 2025.11.16.>)
11月、ICC国際刑事裁判所(赤根智子所長)のアジア太平洋学術フォーラムを慶應義塾で開催、アジア太平洋地域の10の大学が集い、国際刑事司法の地域連携、学術的立場から「自由と独立」を協議した。 ICCはプーチン氏やネタニヤフ氏など、戦争犯罪者に逮捕状を出している。 この問題は、19世紀末に重なる。 福沢は『文明論之概略』で、愚かな者に権力を与えると、どんなことも出来るといい、目的を定めて文明に進むの一事、内外の、明らかな独立を説いた。 智徳の進歩に、四章を割いている。 智恵では西洋に立ち遅れている、五官で感じ、好奇心を持って研究、探究するのが大事。 役立つものは受け入れ、害するものは外す。 学問、文学は心を和らげる。 歴史は、今後を明らかにする。
当時の日本は、外国交際病、貿易の搾取、「利を争うことは古人の禁句なれども、利を争うは即ち理を争うことなり」、外国人は利益を求めて、理屈を出してくる。 一人、一人の能力を高める必要がある、「一国の人民として地方の利害を論ずるの気象なく、一人の人として独一個の栄辱を重んずるの勇力あらざれば、何事も論ずるも無益なるのみ」。 昨今の国際情勢、利と理を考えないと、弱肉強食の世界になってしまう、現在進行形の問題である。(この部分は、安西敏三甲南大学名誉教授が、あとの記念講演「福澤諭吉の智徳論―J・S・ミルとの関連を中心に」で、述べたことと一致していたので、それで補った。)
「旧尾崎テオドラ邸」尾崎行雄・テオドラ夫妻と福沢諭吉 ― 2026/01/13 07:17
1月11日、第584回の三田あるこう会の例会「豪徳寺から馬事公苑散策」があった。 小田急線豪徳寺駅集合、最初に行ったのが「旧尾崎テオドラ邸」だった。 当番の日下部共代さんの案内に、「明治21年、かっての東京市長で憲政の神様と言われた尾崎行雄の妻、尾崎テオドラ英子の父である男爵が建築し、昭和8年に港区から豪徳寺の地に移築され現在に至っています。」とあった。
この水色の洋館は、尾崎テオドラ英子がイギリスから日本に渡って来る際に、テオドラの父である尾崎三良男爵が建てたもので、建築様式は19世紀後半に日本に流入した下見板コロニアルと呼ばれるコロニアル様式が基盤になっている。 この洋館を愛していた漫画家の山下和美さんが発起人となり、笹生那実さんとそれぞれほぼ全財産をつぎ込んで土地建物を取得、二人が共同代表になって保存プロジェクトを設立、沢山の人の支援を受けて、2024年3月に喫茶・ギャラリーを擁する施設に生まれ変わったのだそうだ。
咢堂、尾崎行雄(安政5(1858)年~昭和29(1954)年)は、相州津久井、現在の神奈川県相模原市の生まれ、後の選挙区となる三重県の宇治山田へ越す、明治7(1874)年5月慶應義塾に入学、童子局に入って福沢諭吉に認められ、飛び級して中年寮の最上級に進む。 英語教師で福沢家の家庭教師のカナダ人聖公会宣教師ショーから、洗礼を受けた。 やがて義塾に反抗的態度をとるようになり、9年初め退学。 次いで大学予備門を経て工学寮に学ぶが、これもまもなく退学。 10年「討薩論」を『曙新聞』に投書して文才を認められ、『民間雑誌』の編集、英書の翻訳に従事。 12年9月福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』の主筆となる。 この頃処女著作『尚武論』執筆に際し、福沢から「猿に見せる積りで書け」とアドバイスを受けた。 14年大隈重信に招かれ統計院書記官となるが、明治14年の政変で退官。 立憲改進党創立に参加、保安条例により東京から退去を命じられ、アメリカ、イギリスに外遊、23年第1回総選挙に三重県から立候補して当選、以後昭和27年の総選挙まで25回連続して63年間衆議院に議席を占め、その間、第一次護憲運動に活躍、「憲政の神様」と称される。 36年東京市長(東京市電の経営、桜の苗木3千本をワシントンDCに贈る)、大熊内閣の法相。 第一次世界大戦後には国際協調主義の立場から軍縮論を唱え、治安維持法の全廃を主張、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にし、太平洋戦争期、翼賛選挙を批判し告発される。 昭和35(1960)年国会前に尾崎記念館(衆議院憲政記念館)が建てられた。
尾崎三良(天保13(1842)年~大正7(1918)年)は、幕末・明治期の政治家。 三条実美(さねとみ)に仕え、七卿落で大宰府へ行った後、実美の世子公恭に従ってイギリスに留学、帰国後太政官に出仕し、勅選議員、松方内閣の法制局長官などを務めた。 明治29(1896)年、維新と法制の功で、男爵に叙された。
尾崎三良は、ロンドン留学中、英語教師のウィリアム・モリソンの家に同居し、その一人娘のバサイア・キャサリン・モリソンと明治2(1869)年に明治初の国際結婚をし、三女をもうけた(1881年に離婚)が、妻子を置いて帰国した。 離婚同意書に母バサイアが子供の養育に困った際は子供を日本に送ることができるという条項があり、明治3(1870)年生まれの英子テオドラ尾崎が、明治20(1887)年に16歳で来日した。 頌栄女学校のアメリカ人女性宣教師や式部権頭の桜井能監に半年ほど預けられたのち、聖アンデレ教会のショー牧師夫妻(上記、福沢家の家庭教師と同一人物。軽井沢の開拓者)に引き取られ、香蘭女学校の助教師となった。 20歳で父親三良から独立して教師で身を立て、明治24(1891)年に駐日英国公使のヒュー・フレイザーの妻メアリーの個人秘書となり、英国大使館に住み込んだ。 フレイザー公使の急死によりイタリアに転居したメアリーを追って明治28(1895)年に渡欧し、2年間メアリーとともにイタリアに滞在したのち、ロンドンの母のもとに戻った。 ロンドンでの母子の生活は楽でなく、明治31(1898)年に母子宅に下宿していた門野幾之進(後の千代田生命社長)から窮状を聞いた福沢諭吉が同情し、慶應義塾幼稚舎の英語教師の職を紹介し、明治32(1899)年に再来日。 幼稚舎の英語教師と頌栄女学校の英会話講師を務めた後、明治36(1903)年に教師を辞め、巌谷小波のお伽噺をもとに、日本の有名な昔話22編を収録した『Japan Fairy Tales』を出版した。
テオドラは、同姓のために郵便が間違って配達されたのをきっかけにして尾崎行雄と親しくなり、明治38(1905)年に結婚した。 夫婦の間の会話は英語で、洋式の生活をし、品江、雪香の二人の娘が生まれた。 幸せな結婚生活を送っていたが、肉腫を患い、アメリカで手術をしたが、昭和7(1905)年に行雄らと滞在中のロンドンで死去した。
公民権運動の拡大、キング牧師の「私には夢がある」 ― 2026/01/12 07:23
モントゴメリー市での勝利を受け、1960年には、ノースカロライナ州のグリーンズボロで、白人専用のランチ・カウンター席に地元の黒人学生が「座り込む」という抗議行動を開始した。 この「座り込み」という新たな戦術による抗議行動は、南部各地に急速に広まっていった。 1961年には、州と州の間を結ぶ長距離バスで続いていた人種隔離に対して、白人を含む活動家が抗議行動としてのバス旅を宣言し、南部各地の停車駅で隔離法を無視した施設利用を実行する「フリーダム・ライド(自由のための乗車運動)」が始まり、アラバマ州では参加者に対する暴力事件も発生した。
1963年には、これらの多様な戦略による南部各地での大規模な大衆抗議行動が世界にも報じられるようになり、ジム・クロウ社会(黒人差別体制)を根底から揺さぶっていった。 ジョン・F・ケネディ大統領は、運動の高まりだけでなく、公民権運動活動家に対する暴力行為の頻発を受けて、何らかの具体的な対応をせざるを得なくなった。 同年6月、ケネディは公共施設における人種隔離の撤廃、公正な雇用機会の確保、投票権の保障など、幅広い内容を含む公民権法案を議会に提出した。
その二か月後の8月28日、公民権運動の指導者たちはこの法案の早期の法制化を求めて、首都ワシントンでの行進と集会を開催し、猛暑のなか全国から集まった参加者は20万人を超えた。 集会の最後に参加者の前に立ったマーティン・ルーサー・キング・Jr牧師は、「私には夢がある」という一節を繰り返す演説を行い、モントゴメリー以後の公民権運動を象徴するメッセージとなった。
1964年、前年の11月に暗殺されたケネディを引き継いだリンドン・B・ジョンソン大統領の下で公民権法が成立した。
米南部、市バスの席を白人に譲らず、逮捕された黒人女性 ― 2026/01/11 08:12
12月1日の朝日新聞「天声人語」は、「70年前のきょう、1955(昭和30)年12月1日、ひとりの黒人の女性が米南部モンゴメリーの町で、逮捕された。彼女の名はローザ・パークス。当時42歳だった。黒人の権利を訴える運動が高まる契機となった重要な事件である」と始まる。
「その日の夕方、彼女は仕事を終え、いつものように市バスに乗った。席に座りしばらくして、白人の客が乗ってきた。空席はなかった。運転手は白人で、席を譲れと言った。彼女は拒み、警察に拘束された。」
「そのとき、ほかの白人たちはどう思っていたのだろうと想像する。黒人が席を譲るのは当然だと考え、憤ったか。それとも、差別の意識さえなく、無関心だったか。実際に、だれも何もせず、静かだったという。問題の根を、そこに感じる。」
「同じ50年代、米国を旅した作家の小田実(まこと)は著書『何でも見てやろう』に書いている。バスの待合室は、広く清潔な白人用と、狭く汚い黒人用があった。日本人は白人に差別されていたが、白人用を使えた。」
「不快さを感じながら、ホッとし、でも、彼はそこで、白人の眼で黒人を見始めている自分に気づく。「ひょっとしたら、私はユカイであったのかもしれない」。ひとは容易に差別する側に立ち、ときに驚くほど、差別される側の痛みに鈍感になる。」
「パークスは「公民権運動の母」と敬われ、2005年、92歳で逝った。バス運転手の名前が語られることはあっても、乗客の名はそもそも歴史に残っていない。言うまでもなく世界はいまも、至るところに、差別がある。」
中條献著『アメリカ史とレイシズム』(岩波新書)は、「大衆運動の高まり」の小見出しで、この事件を取り上げている。 南部アラバマ州モントゴメリー市には、人種隔離条例があり、黒人女性ローザ・パークスは逮捕された。 これをきっかけに同市の黒人たちはバスの乗車拒否運動を始める。 指導者となった若き牧師マーティン・ルーサー・キング・Jrは非暴力主義を説きながら運動をまとめ、黒人たちはバスに替わる移動手段を自ら調達してボイコットを粘り強く続けた。 州都のモントゴメリー市では黒人が市営バスの主たる利用客でもあり、乗車ボイコットは戦略的にも効果があった。
市営バス・ボイコット運動の主導者たちは、パークスとは別の女性たちを原告として、バスの席を人種隔離する市条例は違憲だと訴えた。 これに対し、連邦最高裁は1956年、市条例が合衆国憲法に違反するとの判断を下した。 これによってモントゴメリーの運動は勝利を収めた。

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