1900年、梅子・捨松・アリス永年の夢、女子英学塾開校 ― 2026/06/30 07:52
捨松は、ニューヘイヴン時代から、アリス・ベーコンの教育者としての能力を100%信頼していた。 華族女学校の教師として来日したものの、一年契約だったことを不満に思っていて、何としてももう一度日本に呼び戻して、落ち着ける仕事をして欲しいと考えた。 アリスの話を、女子高等師範学校の高嶺秀夫に持っていった。 高嶺は、会津藩出身で、兄健次郎と同い年、慶應義塾に学んで、文部省に入り、師範学校の調査にアメリカに三年間留学していた。 この明治32年は、女子にも高等教育をという動きが、政府内にようやく見え始めた年だった。 高等女学校が急速に増えることになる、その教員を養成する女子高等師範にぜひともアリスを呼びたいと願ったのだ。 捨松の手紙に、当時、ハンプトン師範学校の校長だったアリスは、すぐに来日は出来ないと、言ってきた。
その前年6月、津田梅子はアメリカのコロラド州デンヴァーで開かれた「万国婦人連合会」の日本代表に選ばれ、女子高等師範学校と華族女学校の教授の仕事を休職して、三回目の渡米をした。 大会後、イギリスに渡り、オックスフォード大学では聴講生として英文学を学び、パリではプリンマーカレッジ時代の友人に会って旧交を暖めたりした。 翌年4月、再びアメリカに戻った梅子は、アリスの家で一夏を過ごし、東京で英語の教師を養成するための女子専門学校を開く構想を話し、日本に帰ったら長い間胸に暖めていた夢をいよいよ実行に移すので、ぜひもう一度日本に来て協力して欲しいと頼んだ。
明治33(1900)年4月、アリス・ベーコンは再び日本の土を踏んだ。 1900年、捨松41歳、梅子37歳、アリス42歳の三人が、日本の女子教育の向上という大きな夢の実現に向かって第一歩を踏み出すのに、ふさわしい年だった。 9月14日、東京麹町一番町に女子英学塾はうぶ声をあげた。 塾長に津田梅子、顧問には大山捨松、教師としてアリス・ベーコン、梅子の父仙の知り合いでアメリカで女子教育を視察してきた桜井彦一郎、アリスが前回の来日で養女としてアメリカに連れ帰った渡辺光子ほか数人だった。
明治37(1904)年6月、大山巌は天皇より満州軍総司令官の勅命を受けた。 参謀総長に決まっていた陸軍大将児玉源太郎は、大山巌の絶大な信奉者の一人で、なにがなんでも大山をかついで戦場に行くと言い張って、この人事に奔走した。 捨松がよく冗談に、「主人の一番好きなものは児玉源太郎さん、次が私で三番目はステーキです」と、親しい人に言っていた。 大山巌は、生涯で七度目の出征に新橋駅から出発した。
夫を送り出してからの捨松の活躍は目覚ましかった。 日赤篤志看護婦人会や明治34年に結成された愛国婦人会等の組織を利用して積極的に救護活動を始めた。 募金や慰問袋作成の委員会の編成、日赤での包帯作り等ボランティア活動をてきぱき処理できる女性は、上流社会の中では捨松以外にはいなかったのである。
奉天会戦の勝利後、捨松は自らペンを執ってアメリカの全国週刊誌「コリアーズ・ウィークリー」に「戦時下における日本婦人の働き」を投稿している。 「たくさんのアメリカ人が、日本に同情的であると聞いています。私達は日本の生存のために戦っているのです。私達の主張は間違っていないと信じています。アジアに永久平和をもたらすために、どんなに長い間でも戦う心の準備は出来ています。」
久野明子さんは講演で、「大山捨松のチャレンジ」として、次の五つを挙げた。 (1)卒業論文のアメリカ、(2)大山巌との結婚、(3)ボランティア活動と社会的貢献の必要性、(4)アメリカから人材を招聘、(5)国として海外広報の必要性。
アリス・ベーコン、華族女学校の招聘で来日、津田梅子は再度渡米 ― 2026/06/29 07:23
捨松のホストファミリー、ベーコン家の末娘、親友アリスは、家庭の事情で大学まで進めなかったが、独学でハーバード大学の検定試験に合格し、捨松が結婚した1883年には、ハンプトン師範学校の正規の教師になっていた。 牧師の父の影響で、12歳になった時、奴隷解放の後にも差別に苦しむ黒人達の教育に一生を捧げる決意をした。 アリスは、自分の教え子が黒人であるがために看護婦養成学校への入学を拒否されたことを知ると、東部の人達から寄付を集め、ハンプトンに病院を建てて、その中に看護婦養成所まで作ってしまうほどの行動力のある女性だった。
記録はないが、華族女学校創立の準備委員をした捨松と、英語教授補をしていた津田梅子が、宮内省と交渉したのであろう、明治21年6月、華族女学校に一年契約で招聘されたアリス・ベーコンが、英語教師のロールモデルとして来日した。 独身だった梅子と、紀尾井町に家を借りて住み、この一年の体験を『日本の内側』(A Japanese Interior)、『日本の女性』(Japanese Girls and Women)という二冊の本にして出版している。 アリスが日本で迎えた新しい年、明治22年は、大日本帝国憲法が発布された日本にとってエポックメーキングな年だった。
自分の仕事や生き方に疑問を持ち始めていた津田梅子は、この時期にアリスと二人で女性のため英学塾をつくる決意を固めており、高校卒業の資格しかなかったので、アメリカ東部の名門女子大学ブリンマーカレッジに入学するため、アリスより一足先に再び太平洋を渡っていった。
鹿鳴館に咲いた花、慈善バザーと華族女学校 ― 2026/06/28 07:23
結婚式の約1か月後、新装なった「鹿鳴館」で大山巌は結婚披露の晩餐会を開いた。 この席で捨松は集まった千人近い招待客を相手に、アメリカじこみの見事なホステス振りを発揮し、早くも社交界の花形として注目を浴びた。 「鹿鳴館」は、条約改正を悲願とする明治政府の数年来の夢であった外国人接待所だった。
年が明けて明治17(1884)年2月、大山巌陸軍卿は約一年間のヨーロッパ視察旅行を命じられた。 目的は、ドイツ陸軍に習って兵制改革と陸軍の基礎作りをすることだった。 明治政府は共和制のフランスより立憲君主制のドイツから憲法制度や兵制を学ぶほうが、天皇を君主と仰ぐ日本にとって何かと都合が良いと判断したのだ。 捨松が同行しなかったのは、妊娠していたからだった。
捨松は、大山巌が留守の一年間に、二つの大きな仕事を手掛けている。 一つは、近い将来設立される華族女学校の創立準備委員。 宮内庁御用掛りの下田歌子とともにブレーンとなり、約一年を費やして、明治18(1885)年10月に華族女学校は開校した。
もう一つは、「慈善バザー」の開催。 ある時、捨松は政府高官の夫人たちと有志共立東京病院(現在の東京慈恵会病院)を参観した。 2年前、ニューヘイヴンの看護婦養成学校で学んだばかりの捨松は、日本の病院や看護婦がどういう状況に置かれているか、とても関心があった。 病室を訪れると、驚いたことに病人の世話をしているのは、男性ばかりだった。 捨松は、高木兼寛院長に、外国では看護人には女性を採用しているのをご存知のはずなのに、と聞くと、何分経費が足りず看護婦養成所を作りたくてもとても手が回らない、と言う。 捨松は、アメリカで体験した「慈善事業」を思い出し、東京でもバザーを開いて、資金集めをしようと思い立ったのだ。 明治17(1884)年6月12日から3日間、「鹿鳴館慈善バザー」が開かれた。 日本初のバザーは、約1万2千人が入場する大盛況、8千円にもなった収益は、約束通り全額有志共立東京病院に寄付されたのである。
久野明子さん、現地調査でアリス・ベーコン宛の書簡と出会う ― 2026/06/26 07:51
1882(明治15)年11月、足掛け12年間のアメリカ留学を終えた捨松と津田梅子が、アメリカの蒸気船アラビック号で日本へと木の葉のように揺られた太平洋上を、百年後の1982年7月、久野明子さんは日航機でサンフランシスコに向かって飛んでいた。 祖母や父の昔話の中に登場する「ひいおばあ様」、詳しいことは何も知らない大山捨松の青春時代を調べるためだった。
それより前、ヴァッサーカレッジの同窓会事務局と手紙のやりとりをした久野さんは、大山捨松の情報を探していることを同窓会誌に寄せた。 それに対しケース夫人とハインツ氏からの反応があり、アルフレッド・ベーコン氏の娘さんジル・ブライアン夫人からも手紙が届いた。 その手紙には、捨松が日本へ帰ってから約40年間にわたってベーコン牧師の末娘アリス・ベーコンに書き続けた数十通の手紙が、今でもベーコン家に保管されていると、小躍りさせるようなことが書いてあった。
久野明子さんの現地調査は、手紙で知り合った親切なアメリカ人達の協力で、大成功を収めた。 佐伯彰一さんの巻末解説に、こうある。 「まず驚かされるのは、アメリカ側の何とも見事な書類整理ぶりである。対象の大山捨松が、「日本からの最初の留学生」という格別話題性のつよい存在であったせいもあろうけれど、その行きとどいた一件書類の整備ぶりには、我が国の実情を思い合わせて、感嘆せざるを得ない。」「最大の収穫は、大山捨松のアメリカの友人アリス・ベーコン宛の書簡との出会いであったが、これは純粋に私的な書簡の、私人による見事な保存の実例に他ならない。」
明治15(1882)年11月21日、捨松と梅子は横浜港に帰ってきた。 帰国10日後のアリス・ベーコン宛の手紙。 日本に帰ったらさぞ恥をかくだろうと心配していた日本語が、「思いのほか、祖国の土を踏むと私の舌はほぐれ、正しい日本語ではありませんが自分の意志を家族に伝えることが出来」、「私は日本の着物がとても気に入り、帰国してからは家の中ではいつも着物です。外出する時は洋服を着てでかけます。東京には、洋服を着る日本婦人は6、7人位しかいないので、私は何時も好奇の目で見られてしまいます。」
北海道開拓使はすでになく、捨松は帰朝報告と仕事の相談のため、文部省に出向いた。 国を離れる時、皇后陛下から「成業帰朝の上は婦女の模範とも相成様心掛け日夜勉学可致事」との御沙汰を頂いたからには、帰国後は当然、国が何らかの仕事を準備しているものと期待していたのである。 男子留学生の場合、三年ほどの留学で、大学や官庁に相応な仕事が与えられた。 だが、女性である捨松と梅子の将来については、国は具体的な計画を何一つ持っていなかったのだ。
ヴァッサーカレッジの学士号を持った捨松だが、女性だったために大学で教えることに文部省は難色を示した。 前例がないのである。 文部省をせめたてた二人の側にも問題があった。 二人とも日本語の読み書きがまったくできなかったのである。 当時の日本の社会では、日本人でしかも女性で、日本語の使えない人間の出来る仕事は皆無だったのだ。 捨松、繁子、梅子の三人は、生涯日本語には苦労したようだ。 手紙を書いたり、新聞を読むのはほとんど英語であった。
捨松、ベーコン家で成長し、名門女子大を卒業 ― 2026/06/24 06:31
ホストファミリーのベーコン牧師の家では、捨松と永井繁子が一緒だと英語の勉強が進まないことがわかり、一週間ほどで、繁子はフェアーヘイヴンのアボット牧師の家に預けられることになった。 捨松は、ベーコン家の人々の暖かい愛情に包まれて、ニューヘイヴンでの生活に見事に順応していった。 二歳年上の末娘のアリスとはすぐに打ち解け、姉妹のように仲良くなった。 近所に同じ年頃の遊び友達もたくさん出来、とくに向かいのエール大学のホイットニー教授の娘マリアンとは毎日のように誘い合っては一緒に勉強したり遊んだりした。 捨松にとって幸運だったのは、生来の素質に加えて、あの広いアメリカの中で、最も教育文化の高いニューヘイヴンという小さい町の、しかも質素で信仰心の篤いベーコン家に預けられたことである。 この恵まれた環境がなかったならば、捨松は知性に富んだソフィスティケートな娘には成長していかなかったであろう、と久野明子さんは書いている。
1875年9月、16歳の捨松は、無事近くの男女共学の公立高校ヒルハウス・ハイスクールに入学し、自由な高校生活を送る。 19歳になった捨松は、1878年9月ニューヨーク州ポープシキーの名門女子大学ヴァッサーカレッジに、永井繁子とともに入学する。 1865年の開校以来13年、初の東洋からの留学生だった。
捨松は、ヴァッサーで過ごした四年間の寮生活をこよなく愛した。 成績は、常にトップクラスで、二年生の時にはクラス委員長に選ばれている。 捨松の同級生たちは、捨松の死後、そのゆかりの品を集めて、同窓会館の中に「大山公爵夫人メモリアム・ルーム」をつくった。 1881年の春、捨松、梅子、繁子のもとに、日本政府から帰国命令が届いた。 捨松は、あと一年で学士号が、梅子もあと一年で高校卒業の資格が得られる、二人は留学期間延長を願い出て、認められる。 繁子は、ヴァッサーの芸術学部を8月に卒業したので、帰国した。
1882年6月、捨松は十人の卒業生代表の一人に選ばれ、見事な刺繍の着物姿で「イギリスの日本に対する外交政策」という演説をした。 列強によって取り決められた治外法権の内容を説明し、貿易取引でも有利な立場にあるが、日本はイギリスやヨーロッパ諸国に抵抗し、けして植民地にはならないと述べて、英国から独立したアメリカ国民の愛国心をくすぐり、日本の国への同情を集めた。
捨松は、その後2か月間、ニューヘイヴン病院付属のコネティカット看護婦養成学校に入学した。 1882(明治15)年10月、足掛け12年間のアメリカ留学を終えた捨松と津田梅子は、ニューヨークを発っていよいよ帰国の途についた。 すでに捨松は23歳、梅子は19歳になっていた。
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