松平定信意見書、通商不可、外国徹底排除2023/03/15 07:00

 ロシア船による攻撃という事態に、幕府は弘前、盛岡、秋田、庄内の各藩に蝦夷地に兵を出すように命令、3千人の兵が箱館、宗谷、斜里など海岸線の要所に配置された。 老中首座は松平信明(のぶあきら)に代わっており、松平定信の腹心だったので、定信に意見を求めた。

 定信は、三つの意見書を書いている。 第一は文化4(1807)年6月15日、エトロフ攻撃直後で、エトロフまで打ち払えというもの。 第二は、シャナ攻撃後の7月2日、ロシア領迄踏み込んで「武威」を示さないと、他の国からも日本の武力を軽蔑されるというものだった。

 蝦夷地での敗戦が世間に露見、江戸でも評判となった。 箱館奉行所の田中伴四郎の書状には、エトロフの大敗、日本国の大恥と。 船を捨てて逃げたというので、こんな狂歌も出た。 「蝦夷の浦に打出てみればうろたへの武士のたわけのわけもしれつつ」

 定信の第三の8月3日の意見書は、通商不可、外国徹底排除だった。

同じ文化4(1807)年12月には、ロシア船打ち払い令が出て、秋田、庄内、仙台、会津の各藩に出兵命令が出、クナシリ、エトロフ、宗谷、カラフトに配置された。

 4年後の文化8(1811)年クナシリ島にロシア軍人ゴローニンが上陸して捕えられ松前に送られた。 それで先年のロシア側の襲撃には、皇帝の許可がなく行われたこと、レザノフは命令を撤回したが、部下が暴走したことが判明した。 ロシアから謝罪文が届けられ、ゴローニンは釈放された。 ここに露寇事件は、一応決着したのである。

 松平定信は、文化14(1817)年、この経験を踏まえ、「ロシアのみ蛮国にあらず、トルコ、イタリア、ポルトガル、イギリスなどの大国もまだ多し、されば不慮に備えるのが防禦の肝要なり」と『函底秘説』に記している。 こうして「鎖国」が強く意識されるようになった。

 幕府は、天文台に、蛮書和解(わげ)御用(翻訳機関)、地図御用所(世界地理研究部署)を設置して、世界情勢研究、近代に向けた、明治維新に向けた準備を始めていた。

 アヘン戦争の情報を受けて、天保13(1842)年外国船に対する薪水給与令を出す。 嘉永6(1853)年、ペリーが来航する。

 磯田道史さんは、露寇事件の「前触れ」性に注目し、西洋の科学と強さへの憧れ、日本の国を意識し大和魂で西洋と戦う(攘夷)の、二つの対応を指摘し、「前触れ」を意識することは現在に通じると結んだ。

ラクスマンからレザノフまでの12年、何があったか2023/03/14 07:11

 ラクスマンの時と、レザノフの攻撃の時との、12年の間に、幕府のヨーロッパに対する認識が、格段に高まっていた、と岩崎奈緒子さんは指摘した。 ラクスマンの後、イギリス船が室蘭沖に現れ、津軽海峡を横断して日本海に出ることがあり、幕府は大騒ぎになった。 その他にも太平洋岸でいろいろな国の船がチョロチョロ出て来るようになって、幕府なりに情勢を研究し、ヨーロッパがアフリカ、アメリカ大陸に進出し、そこで植民地を獲得しており、今度はアジアに向かっていることがわかってきた。 ロシアだけでなく、ヨーロッパの動きも勘定に入れなければならなくなって、選択肢が狭まったのだ。

 磯田道史さんは、このあたりのことは研究の最先端で、平成の終りにわかってきた、と言う。 幕府は、ヨーロッパが何をしようとしているか、正確に認識するようになった。

12年間の空白、ロシアはどうしていたか。 大島幹雄さんは、エカチェリーナ2世の後を継いだ息子のパーヴェルが、母の政策を全否定して反対のことをやったからだという。 また、松平定信が老中をやっていれば、通商を開くといった、また別の展開があったかもしれないとして、日露関係はその原点で大きな入れ違いがあった、と指摘した。

磯田道史さんは、そこで出てきたのが、「鎖国」という二字の熟語だった、とする。 (ケンペルの『日本誌』付録で、日本の国際的孤立の可否を論じた原文を、ロシアの南下など対外的緊張の高まるなか、長崎の通詞から天文・物理学者になった志筑忠雄(しづきただお)が訳出し『鎖国論』と題した(享和元(1801)年)。「鎖国」という日本語の初出で、写本で読み継がれ、幕末の攘夷論の思想的根拠とされた。) 徳川家康は、鎖国などと言っていなかったのに、「祖法」ということにして、「鎖国」という言葉が生まれたがゆえに、言葉に引きずられた外交が始まった。 岩崎さんは、植民地化されるかもしれないという幕府の危機感を補足した。

徳川幕府の正当性が揺らぐ衝撃2023/03/13 07:03

 『英雄たちの選択』「200年前のロシア危機 露寇事件」は、題の後半に「松平定信3つの意見書」というのが付いていた。 コメンテーターの一人、岩崎奈緒子京都大学総合博物館教授(近世史)は、近世の日露関係やアイヌ社会を研究、露寇事件の松平定信意見書について新たな学説を発表しており、著書『近世後期の世界認識と鎖国』があるそうだ。

 岩崎奈緒子さんは、江戸時代は武士が支配する軍事政権であり、徳川将軍家は武力で他を圧倒することで支配を確実なものにする「武威」が、日本を支配する正当性の根拠だった、と言う。 それが露寇事件で、外国に敗けてしまう。 「武威」が揺らぐ。 つまり支配の正当性が揺らぐ、幕府は大変なショックだった、とする。

 萱野稔人津田塾大学教授(哲学)は、事件が海からの攻撃であったこと、海の秩序の安定を脅かすものだった、と付け加えた。

 大島幹雄さん(ノンフィクション作家)は、ロシア使節ニコライ・レザノフの日本滞在日記を翻訳し、『魯西亜から来た日本人』という著者もある、この時代のロシアに詳しい方だそうで、アレキサンドル1世当時のロシアは、毛皮目的で北へ行き、売り先としてアジア、中国や日本に交易を求めて行く、と言う。 軍事力としては、レザノフが20万人の騎兵隊を含む70万人の正規軍がいると書いているそうだ。 萱野稔人さんは、ロシアは戦争ばかりしていた国だ、と。

ラクスマンは、寛政5(1793)年6月松前で通商と江戸行きを要求、幕府はその両方を拒否したが、譲歩として交渉のためロシア船が長崎に入港することを許す信牌(特許状)を渡した。 それを決定したのは、老中首座松平定信だった。

11年後の文化元(1804)年9月、長崎にロシア軍艦ナジェージダ号で信牌を持ったレザノフが来航、通商を要求した。 侍従長で、露米会社の総支配人でもあったレザノフは、ラッコの毛皮を獲る入植地が寒冷で悲惨、日本で食料と市場を手に入れたい思惑があった。 半年にわたって、軟禁同様の酷い扱いを受けた後、文化2(1805)年3月ようやく幕府目付と奉行所で対面したが、通商要求など全て拒絶され、携行したアレクサンドル1世の親書も受取を拒否され、侮辱されたと怒り心頭に発していた。 この時、松平定信は既に(寛政5(1793)年)老中を辞職していて対ロシア外交に関与しておらず、老中首座戸田氏教、レザノフ担当は土井利厚だった。 文化2(1805)年4月レザノフはカムチャツカに帰国、その怒りは収まらず、日本船の焼き打ち、武力で威嚇して通商を開かせることを計画する。

露寇事件、ロシア船からの攻撃2023/03/12 07:33

 露寇事件の経過、攻撃の詳細を振り返る。

 まず文化3年9月11日(1806年10月22日)、カラフト(樺太)のクシュンコタン(久春古丹)の松前藩居留地を短艇で上陸したロシア兵20数名で襲撃、13日にも30数名で再び上陸し、運上屋の番人4名を捕えた後、米600俵と雑貨を略奪、11箇所の家屋や船、漁網を焼いた。ロシア船は17日に去ったが、船を焼失したため連絡手段が絶たれ、翌年4月になって事件が松前藩と幕府に報告された。

 文化4年4月25日(23日とも)、ロシア船二隻が択捉島の西、ナイホ(内保)湾に入港した。 内保の盛岡藩の番所が襲撃され、番人5名を捕え、米、塩、什器、衣服を略奪して、火を放った。 4月29日、ロシア船が幕府会所のある紗那(シャナ)に入港してきたので、幕吏たちは対話の機会をさぐるため、白旗を振ったが、短艇で上陸したロシア兵は即座に銃撃してきた。 弘前、南部藩兵が応戦するも、圧倒的な火力の差に苦戦する。 夕刻、本船に帰船すると、艦砲射撃で日本側を威嚇、圧倒的な戦力差に戦意を失った指揮官の戸田又太夫、関谷茂八郎たちは、紗那を捨てて撤退することを決意する。 幕吏の間宮林蔵や久保田見達は、徹底抗戦を主張するも戸田らに退けられる。 敗戦の責任を痛感した戸田は撤退の途中で自害、弘前、南部藩兵は振別に駐屯する。 5月1日、日本側が引き揚げた紗那幕府会所にロシア兵が上陸。 2日、倉庫を破り、米、酒、雑貨、武器、金屏風その他を略奪した後、放火する。

 文化4年5月21日、カラフトのオフイトマリに来襲。  文化4年5月29日~6月2日、宗谷近海にロシア船が現われ、官船万春丸を攻撃し、利尻島にも来襲、万春丸の大砲一門と地図、米、酒を略奪、万春丸と番屋、倉庫、家屋が焼き払われ、領民が拉致される事件があった。 幕府は利尻島を天領とし、会津藩が藩士252名を送って警固に当たった。

200年前のロシア危機 露寇事件2023/03/11 07:22

 「元寇」は神風とも関連して知っていたけれど、「露寇」という言葉は知らなかった。 愛用の電子辞書を引いても、「露寇」は出て来ないが、わずかに『山川 日本史小辞典』に元号を冠せた「文化露寇事件」があった。 3月4日に再放送された『英雄たちの選択』「200年前のロシア危機 露寇事件」を見た。 冒頭、磯田道史さんは、教科書には出て来ないけれど、ペリー来航より重要かもしれない、と言った。 この事件で、幕府、そして日本は、対外的な危機意識に目覚めざるを得なくなる。 それで日本の近代化は動いていく、日本近代へのターニングポイントだというのだ。

 文化4(1807)年6月、幕府に蝦夷地から「元寇」以来の外国船による日本攻撃の報告がもたらされて、幕府を震撼させ、幕閣はその対応に苦慮する。

 歴史を少し振り返る。 まずラクスマン(1766-1803頃)。 寛政4(1792)年ラクスマンがエカチェリーナ2世に遣日使節に選任され、大黒屋光太夫ら3名の漂流民を伴い、シベリア総督ピールの修交要望の書簡を持参し、根室に来航した。 翌寛政5(1793)年松前城下で幕府目付で宣輸使となった石川忠房らと3回にわたって会見、通商を拒否されたが、交渉のためロシア船が長崎に入港することを許す信牌(特許状)を得て帰国した。 番組では、この妥協をしたのは、老中筆頭松平定信だとした。

 つぎにレザノフ(1764-1807)。 ロシア領アメリカ会社(米露会社)の総支配人として、千島、アラスカ、カリフォルニアに及ぶ植民事業を統轄するとともに、宮廷では侍従長の要職を務めた。 ロシア最初の世界周航隊に加わり、文化元(1804)年軍艦ナジェージダ号で来日、先年の信牌により長崎奉行と応接したが、半年も待たされた上、待遇も悪く、通商を開かせる要求など全て拒絶され、携行したアレクサンドル1世の親書も受取を拒否された。 これに怒ったレザノフは、文化3(1806)年、武力を背景に通商開始を迫ることを決意、部下の海軍士官フボストフらに命じてサハリン(樺太)やエトロフ(択捉)島の日本人集落を報復攻撃する計画を立て、文化3(1806)年、4(1807)年、攻撃させた(丁卯(ていぼう)の変)。 レザノフ自身は、オホーツクを経て陸路ペテルブルグへ向かったが途中で病没した。