宇野千代の知恵、「行動力で人を幸せにせよ!」 ― 2026/10/12 07:23
67歳で一人になった宇野千代、85歳の時の映像がある。 「恋愛しなくなって淋しいでしょうと言う人がいますが、私にとって一人になって、恋愛というそのものはしませんけれど、毎日の行動が恋愛と同じみたい。退屈が嫌い、何もないよりは、博奕でもしていたほうがいい。何もしないというのが、一番いけない。何もしないと、ろくでもないことを考えます」
何度でも花開く桜を愛した晩年。 美しく咲き、いさぎよく散る、桜を自分の人生に重ね合わせて。 昭和43(1968)年71歳の時、1200年生き延びている、岐阜根尾村の桜の老木が衰えている話を聞く。 先頭に立って保護活動を始め、知事にも直談判して、様々な人を巻き込んでいく。 昭和50(1975)年『薄墨の桜』刊行。 「根尾谷薄墨ザクラ」(現、岐阜県本巣市)は全国的な観光名所になった。 88歳の昭和60(1985)年にも訪れている。
85歳の自伝『生きて行く私』「花咲婆さんになりたい」に、こう書いている。 「幸福も不幸も、ひょっとしたら、その人自身が作るものではないのか。そして、その上に、人の心に、忽ち伝染するものではないのか。とすると、自分にも、他人にも、幸福だけを伝染させて、生きて行こう。」 宇野千代の知恵、「行動力で人を幸せにせよ!」。
晩年、幸福を伝染させるためのテレビ出演が増えた。 「この人 宇野千代ショー」では、得意の人形浄瑠璃を演じた。 講演では、「みなさんの中に、私は運がとても悪いって思う人はありますか? そんな人はダメです。私は運がとてもいいと思ってお暮らしになって下さい。私はこんなに運がいい女があるだろうかと思っているんです。」
90歳の初挑戦。 昭和62(1987)年、「これがシルバーパワーだ」という番組で、着物姿でCTスキャンを受けた。 医者は、「ものを書いたりする前頭葉はよく詰まっています、血の流れもよい」と。 それを聞いて、千代は「あと10年で100歳になる。100歳で、こんなものを書いたと、後世の人を驚かせるような仕事がしたい」と。
「陽気は美徳、陰気は悪徳」 みなさんから見れば、でたらめなことばかりしてきたと見えるだろうけれど、好きだと思うことしかしなかった。 恋も、仕事も、桜も…、ぶれずに行動し続けた98年の生涯だった。
金井景子さん、「長生きする人は、周りの人が亡くなっていく、その人たちが宇野さんを押し上げて行ったのではないか。」 綿矢りささん、「行動しまくって、いろんな人の思い出の中にいる。意識的に「みんなに笑顔の花を咲かせよう」という感じで、行動していた。達観していた。」
「カニカマ」が好きで、周囲の人に「カニカマ」をプレゼントしていたエピソードがある。 「これは偽物です」と教えた人に、「いいじゃないの、美味しければ」と言った。 明るい文章は、人柄につながっていた。 自分らしい人生を、突き進んでいいんだ、と示した宇野千代、タダ者じゃない。
宇野千代の知恵、「愛を与えて、新しい自分を生み出せ!」 ― 2026/10/11 07:43
宇野千代、32歳で東郷青児と出会う。 東郷はフランスから帰国し、心中未遂事件を起こしたばかりだった。 その事件を取材に行って、東郷の絵画、建築、ファッションの話に魅了されてしまう。 出会ったその日に、「夜も更けた、さあ、寝よう、ということになって、『こんな蒲団しかないが』と言って、血痕でがりがりになっていたのを出したが、気味が悪いとも思わなかった。私と東郷青児とは、その夜一緒になった」(『生きて行く私』)
昭和5(1930)年、同棲開始。 世田谷に大使館のような洋館を建てた。 家の借金返済のために、東郷が描く沢山の絵を、千代が売り歩いた。 東郷をモデルに『色ざんげ』を書く。 男の立場になって、一人称で書いた。 それからモダンで、ハイカラな作品を書くようになった。 作家としての、一つの脱皮、新機軸を得た。 東郷は、心中未遂の相手のもとに戻った。 この時も、千代は追いかけなかった。
作家の宇野千代が、編集長になった。 昭和11(1936)年9月、『スタイル』を創刊、おしゃれを仕事にした。 都新聞の記者、北原武夫が取材に来て、千代はまたも一目惚れ。 雑誌の仕事をさせるのに新聞社を辞めさせて、結婚、千代42歳、北原武夫32歳だった。 『スタイル』は「スナップショット」というグラビアに女学生から華族令嬢までの「読者モデル」を使ったり、洋服の生地で着物を作るなど、独自の企画の新しい誌面で、大ヒットとなった。 戦争が始まり、誌名を『スタイル』から『女性生活』に変え、決死國防十月号では袖の短い着物を紹介した。 終戦で、昭和21(1946)年3月、タイトルを『スタイル』に戻して復刊、飛ぶような売れ行きとなり、銀座に社屋も建てた。 好事魔多し、巨額の税金の未納が発覚し、放漫経営もあって、8千数百万円の負債で倒産。 だが、くじけないのが宇野千代で、着物デザイナーとして活躍を始める。 10年かけて、代表作、最高傑作『おはん』を書く。 妻のおはんと別れ、芸者のおかよと暮らす男の前に、7年ぶりにおはんが現れる。 男はおはんとおかよの間で揺れ動く。 宇野千代は、おはんとおかよの両方に、恋に生きた自らの人生を投影した。
昭和39(1964)年、67歳で20年以上連れ添った北原武夫と離婚した。 北原は、別の女のもとに去った。 「だいたい私は別れた人を「あの人は憎らしい」とか「あの人は私にこんなことをした」とか、そういう感情は皆無なんです。ぜんぜんない。未練もあるし、もっと追いかけたくてもね、私は追いかけるのをやめるの。それが恋愛の武士道だな」
篠原ともえさん、「いさぎよい、チャーミング、抜群のセンス、全部振られるのを、全部書いた。傷ついているのだろう、プライドとかないのか、と思うが、自分のことを俯瞰して見られている」。 金井景子さん、「修羅場で、語り手の視点、上から眺める作家魂」。 綿矢りささん、「すったもんだのあと、新しい自分に出会っている。サバイバル精神みたいなものがある。正直な人。目の前に現れたこの人から学ぶ。見たいものだけでなく、全部見る。全身全霊で吸収する。はっと我に帰ると、また、やっちゃったか、と」。 篠原ともえさんは、「デザインをしていて、人や産地との出会いが、人を変えていくのを感じる」と。 綿矢さん、「日本の文化としての着物、かっこいい着物。」
宇野千代、『知恵泉』「恋して咲かせた幸せの花」 ― 2026/10/10 07:06
宇野千代をモデルにした朝ドラ『ブラッサム』が始まった。 「トレインド・ナース」とは何ぞや? という『風、薫る』より面白そうだ。 NHKの宣伝番組の一つ、『知恵泉』「宇野千代 『ブラッサム』のモデル 恋して咲かせた幸せの花」を見た。 居酒屋の店主を金曜日だかのラジオニュースで艶のある声を聴く藤井彩子アナ、あの橋下徹さんと北野高校の同級生が務めている。 客は、宇野千代の着物、眼鏡と髪型を「完コピ」した作家の綿矢りさ、歌手・俳優・タレントから今はデザイナーになったという篠原ともえ、『ブラッサム』の文学考証担当の日本近代文学研究者の金井景子の三氏だった。
宇野千代(明治30(1897)年~平成7(1995)年)は、23歳で作家デビューしてから98歳で亡くなるまで、生涯現役だった。 愛に生きる人間の業を描き続けた。 85歳の時、こう語っていた。 「人間、一つすがりつくものがあると、生きていけるものですね。私が小説を書いていなかったらね、ただの不良少女でしかありません。」
型破りで、四人と結婚(東郷青児とは同棲)、離婚をくりかえした。 恋の極意を、「私はあなたが好きです、と言うと、百発百中、嬉しそうな顔をします。」
綿矢りささんは、「成長し続けていて、年を取るほど明るくなっていく。そうした精神的な成長が作品にも表れている」と。 金井景子さんは、「長く生きた人。明治を15年、大正を15年、そして昭和を。日本の近代の転換点を全て現役で生き抜いた人。この人を追いかけていくと、日本の近代が見える。スケールがある人」。
好きにまっすぐ、文学と恋に生きた日々。 「没後30年 宇野千代展 わたしと生きていく私」(2027年3月28日まで)を担当した世田谷文学館の学芸員・川本瑞貴さんは、「とても面食い。目の前の人に心を奪われてしまったら、全力で駆け出して行ってしまう」。 三人の男、尾崎士郎、東郷青児、北原武夫が、キーポイント。 最初の結婚をして北海道で銀行員の妻だった千代が、『時事新報』の懸賞小説で「脂粉の顔」が一等になり、つぎに書いた「墓を暴く」を中央公論社の滝田樗陰に送り、返事がないので上京すると既に掲載されていて多額の原稿料も得る。
その中央公論社で、『時事新報』の懸賞小説で二等だった尾崎士郎と会い、一目惚れ。 そのまま札幌に戻らず、尾崎士郎と馬込で暮らす。 親分肌の尾崎の所には、作家や文化人が集まり、千代はその暮らしを支え、「とことん尽くす、尽くすのがおもしろい、自分にとって愉快でおもしろい」と語っている。 川端康成、梶井基次郎、萩原朔太郎などと知り合い、千代と梶井基次郎ができているという噂が立って、尾崎士郎と別れることになる。 だがプロの作家として立つ力をつけていた。 出会いも別れも、自分の原動力に変える。 宇野千代の知恵、「愛を与えて、新しい自分を生み出せ!」。
「長野 上高地」『GEO JAPAN』と『ブラタモリ』 ― 2026/10/05 07:17
『GEO JAPAN ジオ・ジャパン 絶景100の旅』、他にも「長野 上高地」も、見た。 周囲に3千メートル級の峰々や活火山がそびえる中、上高地だけは平地が10キロも続き、清流の梓川や大正池の絶景や、湿原や森が広がり、帝国ホテルや旅館・山荘なども建っている。 険しい山中でなぜ上高地だけが平らな地形なのか。
実は、焼岳周辺の火山活動で、かつてここに巨大な湖が作られた。 その巨大湖は数千年間存在したのち、突然消滅したという。 数々の大変動の末に、上高地ができた様子を、番組では、絶景に秘められた痕跡から探った。
『GEO JAPAN』で見る地形の秘密、火山活動や地殻変動などは、『ブラタモリ』でずっと見てきたことだった。 そういえば、『ブラタモリ』でも、2025年の10月に「上高地」を2回にわたって放送した。 「山岳リゾート・上高地の絶景はどう生まれた?」「なぜ人気観光地に? 神秘の池と謎の風穴」。 急峻な山々は、約120万年前の断層の激しい隆起と、世界でも珍しい若い「花崗岩」の露出によって穂高連峰などの険しい山々が形成された。 平坦な盆地は、約1万2千年前の焼岳火山群の噴火による山体崩壊で梓川がせき止められて巨大な湖ができ、そこに土砂がたまった後、湖が決壊して現在の平らな地形が現れた。
江戸時代から神域とされた穂高神社奥宮があり、周辺には木材を切り出す杣人が暮らしている程度の、手つかずの土地だった。 風穴が養蚕の卵や繭の保管に、天然の冷蔵庫の役割を果たすことが発見され、養蚕業に活用された。 発電所建設に伴う旧釜トンネルの整備などが観光ルートの基礎となった。 英国人宣教師ウォルター・ウェストンが紹介したことで山岳リゾートとして知られるようになり、上高地帝国ホテルの建設などにより国際的なリゾート地、一大観光地となった。
『GEO JAPAN(ジオ・ジャパン)』「大分 阿蘇の火砕流台地」 ― 2026/10/03 07:19
NHK BSで朝ドラを見た後、田中美佐子さんの『にっぽん縦断こころ旅』秋の旅が始まるまでの15分の隙間番組で、『空旅中国』の他に、『GEO JAPAN(ジオ・ジャパン)』が興味深かった。 元はBSP4Kで『ジオ・ジャパン 絶景100の旅』「日本の風景はこうしてできた!大地のドラマを読み解く旅」という1時間番組で放送しているらしい。
たまたま見たのは、「大分 阿蘇の火砕流台地」で、豊後大野市にある「東洋のナイヤガラ」という「原尻の滝」の名前を聞いたこともなかった。 九州の阿蘇は27万年前から4度の超巨大噴火「カルデラ噴火」を起こし、膨大な量の噴出物を飛散させた。 大分県南西部の「火砕流台地」は、高温の噴出物が野山を焼きながら広がり、厚いところでは数百メートルも堆積した場所である。 噴火直後は一面の荒野だったが、今は「原尻の滝」など絶景の宝庫、そして「大分の野菜畑」と呼ばれるほど豊かな土地だ。 水路や石橋、摩崖仏など独特の文化もある。
その大変貌の秘密。 10万年前の火砕流で平らで部厚な台地になった。 夏足(なたせ)地区は、原(はる)=台地、川幅いっぱいの滝、「原尻の滝」ができた。 陽当たりが良く、農業に適し、野菜畑が広がっている。 9万年前の火砕流でできた溶結凝灰岩の柱状節理が、滞迫峡(たいざこきょう)70メートルの深さの絶壁と奥岳川の谷を作った。 谷底には、1500万年前の火山活動で出来た岩石が露出しており、その上流には火砕流に巻き込まれた炭化木が埋もれている洞窟もある。
ただ、台地と台地の間の移動が大変で、そのためアーチ型の石橋がつくられた。 大分県には、虹澗橋(こうかんきょう)、森橋など、500以上の石橋がある。 豊後大野市、普光寺の高さ11.4メートルの摩崖仏は、国東半島の熊野摩崖仏とともに大分県最大、日本でも最大級の摩崖仏だ。 豊後大野の多くの摩崖仏が9万年前の阿蘇火山4回目の火砕流に彫られているのに対し、普光寺の摩崖仏は12万年前の3回目の火砕流に彫られているという。
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