18世紀後半、日本文化の大変化2024/03/23 07:09

 池大雅(1723~1776・享保8~安永5)と与謝蕪村(1716~1783・享保元~天明3)が《十便十宜図》を描いたのは、明和8(1771)年だという。 芳賀徹さんは『絵画の領分』で、江戸時代の18世紀後半に、日本文化の多くの分野で、大きな変化があったと指摘している。 ごく大づかみにいうと、自然と人間社会と世界とに対する、より合理主義的な、そして内面に向かっても外界に向かっても、よりリアリスティックな態度を志向していた。 いずれも海外世界からの影響や衝撃による変化というよりは、むしろ18世紀初頭以来の徐々の内発的醸成が、「田沼期」独特の自由主義的雰囲気のなかで開花したと見るべきだという。

 「田沼期」、「田沼時代」とは、田沼意次が側用人・老中として幕政の実権を握った宝暦(1751~1764)年間から(明和8年間、安永9年間をはさみ)天明(1781~1789)年間にかけての時期をいう。 貿易振興・蝦夷地開発・新田開発など経済政策による幕政の積極的打開を意図したが、賄賂政治と批判され、天明飢饉や江戸うちこわしにより失敗に終わった、といわれる。

 日本文化の多くの分野での、大きな変化とは、深浅の差こそあれ、共通の反伝統的姿勢をもった新しい知的好奇心と一種の啓蒙思想が発動し、また旧来の規範からいっそう自由になった感性と感情の表現がひろまったことだった。  平賀源内、前野蘭化(良沢)、杉田玄白、あるいは志筑忠雄、本多利明というような洋学派の自然科学や世界地理の分野における活動ばかりではない。 本居宣長の文献学による古典再評価と、それによる日本人のアイデンティティ探究の試みにおいて、三浦梅園の認識論上の方法的考察において、さらに上田秋成、大田南畝、与謝蕪村、加舎白雄(かやしらお)、小林一茶らの散文や俳諧、あるいは川柳において、大坂の混沌社グループや菅茶山らの漢詩において、また池大雅、伊藤若冲、与謝蕪村、丸山応挙、小田野直武、佐竹曙山から鈴木春信や喜多川歌麿や司馬江漢にいたる絵画において、日本文化は「田沼時代」を中心に、たしかにさまざまの新しい、はなやかな相貌を見せはじめた、と芳賀徹さんはいうのだ。

 私が名前も知らなかった、志筑忠雄(しづきただお、1760~1806)は、蘭学者、オランダ語法を本格的に研究した最初の日本人で、『暦象新書』を編み、ニュートンの天文・物理学を紹介した。『鎖国論』『助字考』。 本多利明(1743~1820)は、経世家、江戸に算学・天文の塾を開き、かたわら蘭学を修め、天文・地理・航海術を学ぶ。ヨーロッパの事情に明るく、『西域物語』『経世秘策』『経済放言』を著し、開国・貿易と北防の急務を説き、北夷先生と称した。

『池大雅―陽光の山水』展<等々力短信 第1177号 2024(令和6).3.25.>3/21発信2024/03/21 07:09

   『池大雅―陽光の山水』展<等々力短信 第1177号 2024(令和6).3.25.>

 生誕300年記念『池大雅―陽光の山水』展を出光美術館で観てきた。 美学美術史卒の方から招待券を頂いた時、そばにいた人が「素晴らしい」とおっしゃった通りの展覧会だった。 国宝《楼閣山水図屏風》は展示期間を過ぎていたが、国宝《十便十宜図》は「樵便・宜晴」を見ることができた。 17.9×17.9cmの小さなものだ。 池大雅が数えで49歳、与謝蕪村が56歳の年に、尾張の素封家の求めに応じて競作した画帖である。 清初の文人で『芥子園画伝』の編者李笠翁が、自分の別荘伊園の暮らしとたたずまいを自讃した詩「十便十二宜詩」のうち、十便を大雅が、十宜を蕪村が受けもって、その詩を絵画化した。 大雅の「樵便」、右上から左下へ渓流にかかる橋を、背中に薪を背負った男が渡っている絵だ。 詩は、秋以降女中が来てくれないので、書物をなげうって、自分で薪拾いに樵の仕事へ、柴の扉を出れば、前は山である、の意。

 池大雅は、中国の文化に深い憧れを抱き、遠い中国の名勝へ叶わぬ渡唐を夢見つつ、四季が彩る日本の自然に遊び、未見の中国のモデルとした。 吉野の桜を始め、日本各地の名所をめぐり、白山・立山・富士山の三霊山も踏破、優しく明るい筆づかいで、美しい日本の風光を描き出した。 富士白糸瀧図、浅間山真景図、那智滝濺瀑図、箕山瀑布図、墨や色の点描だけで、樹の葉のさざめきや水面のきらめきが表されている。

芳賀徹さんは、『絵画の領分―近代日本比較文化史研究』(朝日選書)を、「徽宗(きそう)皇帝や池大雅やセザンヌの絵を見て楽しむには、彼らが使っていたはずの中国語や日本語やフランス語についてはもちろんのこと、彼らの伝記やその背景の歴史についてさえ、何も特別のことを知らなくともよい。彼らの作品は国籍をこえ、時代をこえて、いつどこでも見る者の眼と心に語りかけてくる――こちらがじっと耳を澄ます術(すべ)さえ心得ているならば。」と、始めた。 夏目漱石は、橋口貢宛の手紙(大正2年7月3日)に、「此間ゴッホの画集を見候、珍なこと夥しく候。西洋にも今に大雅堂が出る事と存居候。」と書いた。 芳賀さんは、色彩や墨をときには点描風にも用いて、たっぷりと光と空気と潤いを含んで奥行き深い別天地を画面に打ち開いた池大雅は、まさに18世紀日本の印象派に違いなく、南仏の野で日本に憧れたゴッホの先駆け足り得る天才であった、とする。 漱石は、子供の頃から南画の山水を見ているのが好きだったという(『思ひ出す事など』)。 晩年には、自分でも南画風の絵を描いた。 津田青楓が「ワハハ」と笑ったという《樹下釣魚図》を、芳賀さんは、「漱石が前から憧れていた風流洒脱の境涯、<見るからに涼しき島に住むからに>と詠んだ閑適の理想郷を画にした、胸中山水の一点、ハイカラな文人画にほかならない」と優しい。

川内由美子さん蒐集の極小雛道具2024/02/21 07:05

川内由美子コレクション 極小のギャマン

 ホテル雅叙園のキンキラキンのエレベーターで3階に上がったところから始まる、唯一の木造建築(昭和10(1935)年)の東京都指定有形文化財「百段階段」に沿った七つの部屋に、お雛様が展示してある。 だから、入口で靴を脱いで上がる。 そういえば昔、ここの便所の便器が独特の陶器で、杉の葉が敷き詰めてあったような記憶がある。 現在のトイレは、角張ったTOTOではあったが、当然今風になっていた。

 座敷全体を埋め尽くしている、座敷雛(福岡・飯塚 旧伊藤伝右衛門邸)に驚く。 炭鉱王の伊藤伝右衛門は、朝ドラ『花子とアン』で吉田鋼太郎がブレークした嘉納伝助のモデル、その二番目の妻は柳原白蓮で、後に宮崎龍介と白蓮事件を起こす。 この座敷雛は、白蓮のものなのだろうか。

 そして、お目当ての極小雛道具研究家の川内由美子さんが長年にわたり蒐集されたコレクションである。 優美な極小のギャマンと染付や、象牙製芥子雛。 江戸の名店「七澤屋」製など、もともと小さく作られた雛道具をさらに小さくしたもの、何とも可愛らしい。 私は元はガラス食器を作っていたので、薩摩切子など江戸時代のギャマンを見てきているが、それをそっくり小さくしている見事な技に驚く。 わが家でも季節になったので、独楽の形につくった雛を玄関の下駄箱の上に飾るのだが、川内由美子さんの極小雛道具の展示と保管、どんなに手間のかかる仕事だろうかと、あらためて感じた。 川内由美子コレクションは、この時期、引っ張りだこで、この雅叙園の「千年雛めぐり~平安から現代へ受け継ぐ想い~百段雛めぐり2024」(3月10日まで)のほか、山形県鶴岡市の致道博物館の「鶴岡雛物語」展(3月1日~4月3日)、港区南青山の紅(べに)ミュージアムの「ミニチュア愛(らぶ)!」展(4月7日まで)でも見ることが出来る。

豆大福の「松島屋」、英一蝶の墓2024/02/13 07:01

 三田あるこう会の「「御田」から常光寺参拝」、伊皿子から豆大福の松島屋の前を通った。 宮川幸雄さんによると、「東京三大豆大福」は高輪「松島屋」、原宿「瑞穂」、護国寺「群林堂」だそうで、「松島屋」は予約しておかないと買えないと聞いていた、受け取っている人もいたが、直前に電話した人は駄目だったようだ。 我が家で豆大福といえば、虎ノ門の岡埜榮泉だけれど…。 旧高松宮邸の界隈に、かつて虎屋という和菓子屋があって、赤坂や銀座の「とらや黒川」と関係ないので、地元の人は「にせ虎」と呼んでいると、ご近所生れの銀行の支店長に聞いたことがあった。 今は、閉店したようだ。

 高輪消防署二本榎出張所と高輪警察署の少し手前で、私は明治学院中学に通ったという話をしていたら、岡部健二さんが、左手の承教寺にハナブサイッチョウの墓があると言う。 当時、高輪警察の前は、明学の隣の意だろう明隣堂という本屋さんだったが、今はビルの名に残っているだけだ。 ハナブサイッチョウ、聞いたことはあるが、どんな人だったか、その時は浮かんでこなかった。

 雑誌『サライ』3月号の第409回「難航 十字語判断」クロスワード・パズルに、「綱吉の頃の画家。幕府の怒りに触れ三宅島に流罪となり、赦免後に――(9文字)と改名。俳諧をよくし芭蕉や其角とも交友があった。『布晒(ぬのさらし)舞図』『四季日待図巻』」という問題があった。 答を入れていくと、これが「ハナブサイツチヨウ」となった。 『サライ』の「難航 十字語判断」だが、それにはまって「等々力短信」第864号(平成11年12月25日)に「1999年末クロスワード・パズル」というのを書き、自作の問題まで作っているのが、私家本『五の日の手紙 4』370~373頁にある。 以来23年も、ずっとやっていることになる。

 そこでハナブサイッチョウ、英一蝶だが、1652~1724、江戸前期の画家。 英派の祖。 医師多賀伯庵の子として京都に生まれる。 幼名猪三郎、諱(いみな)は信香(のぶか)、字(あざな)は君受(くんじゅ)、剃髪して朝湖(ちょうこ)と称した。 翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)、北窓翁などと号し、俳号に暁雲(ぎょううん)、夕寥(せきりょう)があった。 1659(万治2)年ごろ江戸へ下り、絵を狩野安信に学んだが、いたずらに粉本制作を繰り返し創造性を失った当時の狩野派に飽き足らず、岩佐又兵衛や菱川師宣によって開かれた新興の都市風俗画の世界に新生面を切り開いた。 機知的な主題解釈と構図、洒脱な描写を特色とする異色の風俗画家として成功。 かたわら芭蕉に師事して俳諧もよくした。 1698(元禄11)年幕府の怒りに触れ三宅島に流されたが、1709(宝永6)年将軍代替りの大赦により江戸へ帰り、画名を多賀朝湖から英一蝶と改名した。 晩年はしだいに風俗画を離れ、狩野派風の花鳥画や山水画も描いたが、終生俳諧に培われた軽妙洒脱な機知性を失うことはなかった。 代表作に、いわゆる「島(しま)一蝶」として珍重される三宅島配流時代の作品《四季日待図巻》(出光美術館)や《吉原風俗図鑑》(サントリー美術館)、《布晒舞図(ぬのざらし)まいず》(埼玉・遠山記念館)などがある。(『日本百科全書』榊原悟) 遠山記念館は、昨年3月に三田あるこう会で行った。(遠山記念館で「雛の世界」展を見る<小人閑居日記 2023.3.17.>)

 俵元昭さんの『港区史蹟散歩』(学生社)には、流罪の原因を元禄11(1698)年『当世百人一首』『浅妻船』の図などが将軍幕府を風刺したからとある。 三宅在島11年、58歳で許され、赦免の報に蝶が飛ぶのを見て一蝶と号し、宝永6(1709)年江戸に帰った。 土佐派を折衷した技法で人気に投じた。 享保9(1724)年73歳で死去。 承教寺(高輪二-8-2)は、本堂前の墓碑(都旧跡)に画家らしい辞世「まぎらはす浮き世のわざの色どりもありとや月の薄墨の空」があり、数少ない一蝶の仏画、細密謹厳な筆法の《釈迦如来画像》一幅(区指定文化財)を所蔵する。

江戸っ子の月見の名所「月の岬」2024/02/10 07:14

 そこで御田小学校「岬門」の「岬」の件であるが、亀塚や済海寺が面した丘の上の道は、御田小学校の入口から、この後行った旧高松宮邸前、高野山東京別院を経て、高輪台方面へと続く。 この台地の稜線は江戸時代、「月の岬」という名で、月見の名所として知られていた。 「ウィキペディア」の「月の岬」は、月の見崎ともいい、「東京都港区三田四丁目付近である台地の一角を指した地名。名称としての用法は明治中後期には廃れている。」としている。 御田小学校は、まさしく東京都港区三田四丁目にある。

 「ウィキペディア」は、「月の岬」の名前の由来として、4つの説を挙げている。 (1)慶長年間、徳川家康が名付けた。(2)三田台町一丁目の高札場付近を名付けた。(3)元は伊皿子大円寺境内の名であったが、転じてそのあたりの名称とされた。(4)三田済海寺の総名(総称)であった。 (伊皿子大円寺は曹洞宗寺院、慶長8(1603)年赤坂溜池のあたりに徳川家康が開基となって創建し、寛永18(1841)年伊皿子に移転、寺号を大渕寺から大円寺に改号、島津家の江戸菩提寺などとして栄え、維新後の明治41(1908)年杉並区和泉に移転した。)

 浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」というブログの第96回に、『月の岬』というのがある。 歌川広重『名所江戸百景』第八十二景「月の岬」、広重著『絵本江戸土産十編』のうち第二編(1851(嘉永4)年頃刊、国会図書館蔵)より「同所(高輪)月の岬」の、二つの絵を見ることができる。 https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu004096/

 『名所江戸百景』第八十二景「月の岬」は、品川宿の廓の座敷から、江戸湾に浮かぶ満月を望んでいる。 「月の岬」は、江戸湾に月が浮かぶと、海岸線と高台の稜線が岬のように望める場所で、江戸っ子には月見の名所として知られていた。 正確な場所には諸説あるが、大まかには現在の港区高輪から三田にかけての台地の一角を指すようだ、とある。

 『絵本江戸土産十編』の第二編「同所(高輪)月の岬」は、品川駅の南にあった高台「八ツ山」(後に、海辺の石垣整備、目黒川洪水の復旧など土木工事のために崩したが、地名は残る)の南から、高輪、芝浦の海岸線を望んでいる。

 前者の浮世絵は、広々とした妓楼の座敷の外に、満月が高輪沖を照らし、雁が鉤の手の編隊で飛び、停泊している無数の船がシルエットで浮かぶ。 座敷の中は閑散としているが、奥には手を付けていないマグロの刺身と、扇子や手拭、煙管入れと煙草盆が見え、廊下には食器や酒器が雑然と置かれている。 左端には、障子に遊女の陰が映っていて、その着物の裾だけが見えている。

 品川宿の廓のことは、落語「品川心中」「居残り佐平次」などで、おなじみだ。 当日記でも、五街道雲助の「品川心中(通し)」上中下を2016.11.29.~12.1.で、古今亭志ん輔の「居残り佐平次」前・後半を、2013. 2. 18.~19.と、2018.7.3.~4.の二回で読んでもらえる。

 浮世写真家 喜千也さんは、品川宿の廓の大見世といえば、「土蔵相模」と呼ばれた「相模屋」であり、安政7(1860)年3月3日、「桜田門外の変」を起こした水戸浪士たちも、その3年後の文久3(1863)年12月12日には、長州藩の高杉晋作、伊藤博文(俊輔)らが、「英国公使館焼き討ち事件」の現場へと、この「土蔵相模」から出発したという、歴史を記している。