「英一蝶―風流才子、浮き世を写す―」展を見て ― 2024/10/22 06:59
18日、東京ミッドタウン六本木のサントリー美術館で「没後300年記念 英一蝶―風流才子、浮き世を写す―」展を見てきた。 偶然だが、16日からの展示替え後の後期で、数多くの作品を見ることができた。 朝一番の10時に入ったのに、日曜美術館でやったせいか結構混んでいたので驚いた。 多賀朝湖時代、島一蝶時代、英一蝶時代の三部構成。
英一蝶、はじめは狩野探幽の弟・安信のもとでアカデミックな教育を受けるが、菱川師宣や岩佐又兵衛らに触発され、市井の人々を活写した独自の風俗画を生み出した。 たとえば《雨宿り図屏風》(メトロポリタン美術館蔵)に描かれたいろいろな人々の様子や表情などは、実に生き生きと描かれている。 門の横木にぶら下がって、逆上がりのような恰好をしている子供(「F難度?」と添え書き)、それを見上げている人々、背中に曲線になった長い物を背負っているのは何かと思ったら、貸本屋で、馬場文耕の話に出てくる連中は、こういう恰好で売り歩いていたのだろう。 侍もいれば、身分の高そうな御女中もいて、赤んぼに乳を与えている女もいる。 一座の芸人らしい連中も、犬も雨宿りしている。 《浅草歳市図》では、大黒や恵比須の像が売られていたことがわかり、雪の中を大黒を背負って帰る男が描かれている。
朝ぼらけ、子供が馬を曳いて八つ橋を渡る《朝瞰曳馬図》の手前の水の中と、《吉原風俗図巻》客が遊廓の奥の部屋にしけこんだ障子には、独特の影が何げなく映り込んでいる。
英一蝶の絵には、ユーモアがあり、余裕がある。 そのかなりのものが、島流しという過酷な環境で描かれたとは、とても思えない。 《不動図》だったか、不動明王が滝に打たれているのだが、傍らに羂索(けんさく)や火炎が置かれている、濡れてはまずいからだ。 温顔ふくよかなはずの布袋様が、くしゃみをしてしまっている《くしゃみ布袋図》や、《一休和尚酔臥図》というのもある。 《茶挽坊主悪戯図》、目の不自由な茶坊主が座敷で茶を挽いており、後ろの襖の間から、釣竿を伸ばした男が、茶坊主の頭の上に何か垂らして、いたずらをしている、茶坊主は何が起こっているのか、さっぱりわからないのだろう。
《狙公・盃廻図》は、猿回しと、皿回しの二幅の縦長の掛軸なのだが、一幅の署名に「老眼逆印」とある。 片方の印を、上下逆さまに捺してしまったままにしてあるのだ。
そうそう、絵を見て、元禄時代に「薔薇」があるのを、知った。 そうしたら、明石市に400万年前の薔薇の化石があるそうなのだが…。
多賀朝湖時代に、松尾芭蕉に俳諧を学び、宝井其角と親しかった。 宝井其角編『虚栗』(天和3(1683)年6月刊)、宝井其角編『花摘』(元禄3(1690)年7月奥書)の挿絵も描いていて、朝湖が暁雲の俳号で載っている俳諧の本とともに、その本が展示されていた。 朝湖が11年間の遠島から許されて江戸に帰った時、悲しいことに、すでに芭蕉も其角も亡くなっていたという。
写真は、撮影可だった六曲一双《舞楽図・唐獅子図屏風》(メトロポリタン美術館蔵)の表面「舞楽図」の部分。
英一蝶はなぜ、幕府の怒りに触れたのか ― 2024/10/20 08:10
一昨日「1698(元禄11)年幕府の怒りに触れ三宅島に流されたが、1709(宝永6)年将軍代替りの大赦により江戸へ帰り、画名を多賀朝湖から英一蝶と改名した」と書いた。 多賀朝湖時代の英一蝶は、なぜ幕府の怒りに触れたのか。 多賀朝湖は、「狩野派風の町絵師」として活躍する一方、暁雲の名で俳諧に親しみ、俳人の宝井其角や松尾芭蕉とも交遊している。 「日曜美術館」でも、其角と芭蕉の間に暁雲の句がある連句の本や、島流しになる朝湖を其角が鉄砲洲へ送りに行ったことを紹介していた。 名を江戸中に知られるようになり、町人から旗本、諸大名、豪商まで、幅広く親交を持つようになる。 それは吉原遊廓通いを好み、客として楽しむ一方で自ら幇間としても「和応(わおう)」という通名で活動していたからだ。 その話術や芸風は、豪商や大大名でもついつい財布のひもをゆるめ、パッと散在してしまうような、見事に愉快な芸であったと伝わっている。 豪商では、有名な紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門らに重宝されたという。
当時、幕府は元禄文化の過剰な華やかさ、風俗が乱れること、特に武士や大名たちの綱紀を粛清しようとしていたようだ。 元禄6(1693)年には、「大名および旗本が吉原遊廓に出入りし、遊ぶこと」を禁じている。 この年、朝湖は罪を得て一時入牢し、2か月後に釈放されている。 理由はわからないが、一説に、町人の分際で釣りを行なったからだという。 綱吉政権が発令した「生類憐みの令」違反で、武士は修練目的としての釣りは黙認されていたが、町人には禁止され、同年、追加条例として「釣り具の販売禁止令」も出ている。
最初の入牢の裏の理由とも言われていることだが、1698(元禄11)年の、三宅島遠島の理由についても、諸説ある。 「為政者の風刺」…時の権力者である柳沢吉保が出世する過程で、実の娘を側室に差し出した、という当時からあったゴシップ的な噂を、朝湖が風刺作品にしたから。 代表作《朝妻舟図》が、吉保の妻を遊女に、綱吉を客に見立てたとするもの。 「禁句の罪」…「馬がもの言う(予言する)」という歌を広め、綱吉の「生類憐みの令」を批判したから。 「そそのかしの罪」…綱吉の生母・桂昌院の甥である本庄貴俊らを吉原に誘い、遊女を身請けさせた。
その他、『当世百人一首』で、綱吉の側室・お伝の方を遊女に見立てた舟遊び風景を描いて、揶揄したとするもの。 当時大名や金持の間で、石灯籠を集めることが流行った際、それを集めて儲けようとした、などともいう。
英一蝶の元禄綱吉の時代から、馬場文耕の家重の時代へ ― 2024/10/19 06:58
その英一蝶だが、サントリー美術館が「没後300年記念 英一蝶―風流才子、浮き世を写す―」展を開催中(11月10日まで)で、「日曜美術館」でも取り上げられていた。 このところ、沢木耕太郎さんの『暦のしずく』で、ただ一人その芸で死刑になった芸人(講釈師)<小人閑居日記 2022.10.10.>、馬場文耕を書いていたので、英一蝶が幕府の怒りに触れ三宅島に流されたことがどういう理由だったのかに興味を持った。
英一蝶が三宅島に流されたのは1698(元禄11)年、文耕が獄門になったのは1758(宝暦8年)、60年ほどの差がある。 江戸時代、17世紀半ばの三代将軍徳川家光の後半から18世紀前半の八代将軍吉宗までに政治支配のあり方が「文治(ぶんち)政治」に移行したとされる、武断政治に対して、法律・制度の整備や教化の充実に基づく政治である。 英一蝶の元禄時代は五代将軍徳川綱吉の時代、文治政治が展開し、町人の勢力が台頭して社会は活況を呈し、上方を中心に独特の文化が生まれた。 馬場文耕の九代将軍徳川家重の時代は、八代将軍吉宗の享保の改革の延長で、表面上幕府財政は安定していたが、全国各地で百姓一揆が頻発、その一つが郡上一揆ということになる。
三宅島に遠島された英一蝶 ― 2024/10/18 06:48
2月3日は福沢諭吉先生の命日だが、三田あるこう会は、麻布の善福寺でなく上大崎の常光寺へ行くのが、恒例になっている。 第563回例会は、「「御田」から常光寺参拝」。 港区の三田は1丁目から5丁目まであるが、「御田(みた)」にこだわっている地域があり、そこから丘の上の道を高輪方面に進んで、高輪台から上大崎の常光寺へ行ったのだった。
高輪消防署二本榎出張所と高輪警察署の少し手前で、私は明治学院中学に通ったという話をしていたら、岡部健二さんが、左手の承教寺にハナブサイッチョウの墓があると言う。 当時、高輪警察の前は、明学の隣の意だろう明隣堂という本屋さんだったが、今はビルの名に残っているだけだ。 ハナブサイッチョウ、聞いたことはあるが、どんな人だったか、その時は浮かんでこなかった。
雑誌『サライ』3月号の第409回「難航 十字語判断」クロスワード・パズルに、「綱吉の頃の画家。幕府の怒りに触れ三宅島に流罪となり、赦免後に――(9文字)と改名。俳諧をよくし芭蕉や其角とも交友があった。『布晒(ぬのさらし)舞図』『四季日待図巻』」という問題があった。 答を入れていくと、これが「ハナブサイツチヨウ」となった。
そこでハナブサイッチョウ、英一蝶だが、1652~1724、江戸前期の画家。 英派の祖。 医師多賀伯庵の子として京都に生まれる。 幼名猪三郎、諱(いみな)は信香(のぶか)、字(あざな)は君受(くんじゅ)、剃髪して朝湖(ちょうこ)と称した。 翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)、北窓翁などと号し、俳号に暁雲(ぎょううん)、夕寥(せきりょう)があった。 1659(万治2)年ごろ江戸へ下り、絵を狩野安信に学んだが、いたずらに粉本制作を繰り返し創造性を失った当時の狩野派に飽き足らず、岩佐又兵衛や菱川師宣によって開かれた新興の都市風俗画の世界に新生面を切り開いた。 機知的な主題解釈と構図、洒脱な描写を特色とする異色の風俗画家として成功。 かたわら芭蕉に師事して俳諧もよくした。 1698(元禄11)年幕府の怒りに触れ三宅島に流されたが、1709(宝永6)年将軍代替りの大赦により江戸へ帰り、画名を多賀朝湖から英一蝶と改名した。 晩年はしだいに風俗画を離れ、狩野派風の花鳥画や山水画も描いたが、終生俳諧に培われた軽妙洒脱な機知性を失うことはなかった。 代表作に、いわゆる「島(しま)一蝶」として珍重される三宅島配流時代の作品《四季日待図巻》(出光美術館)や《吉原風俗図鑑》(サントリー美術館)、《布晒舞図(ぬのざらし)まいず》(埼玉・遠山記念館)などがある。(『日本百科全書』榊原悟) 遠山記念館は、昨年3月に三田あるこう会で行った。(遠山記念館で「雛の世界」展を見る<小人閑居日記 2023.3.17.>)
秋野不矩先生との出会いは、川端知嘉子さんの宝 ― 2024/10/15 07:03
川端知嘉子さんの御粽司 川端道喜『手の時間、心のかたち』、『図書』9月号―五は「錆びの美」。 川端さんが在学した頃の京都市立芸術大学は、全科合わせても一学年わずか百十名ほどの学生に、今では口にするのもちょっと気恥ずかしい“芸術家”という冠を堂々と載せてしかるべき先生たちが沢山いる、贅沢な場だった、という。 雑誌フォーカスの表紙で大人気だった三尾(みお)公三先生と、たった一ヶ所のトイレの前で何故かよく鉢合わせして、「君は日本画だったねえ」と声をかけてもらった。
六人の子供を産み育てながら創作活動をされていた秋野不矩先生への憧れもあって、当時多くの女性が結婚し、子供を産み育てるように、できれば自分もそんな生活の実感を土台に、絵を描きたいと思っていた。 秋野不矩先生が、「通りかかった女性のサリーがとっても美しくてね。新しいサリーを買って交換してもらうことにしたの。さらさらとすぐに着替えてくれてね。」と、インドでの話をしてくれたことがあった。 仏画や曼荼羅も護摩の煙に何百年も燻(いぶ)されると別次元の美しさを湛えるようになる。
10月号―六は「婆々友」。 「友だち」とはいくらなんでもあつかましくて言えないけれど、たおやかでしなやかで心も体も強いお婆さんの代表として秋野不矩先生のことは伝えなくちゃと思っている。 六十五才で大学を退官されたから、今の私より若かったはずなのに、既に貫禄と深みのあるお婆さんだった。 退官される直前のたった半年間の受けもちだが、ほんの数回ではあっても“生身の” 秋野不矩と出会う機会を得たことは私の宝でもある。 文字として書かれた言葉でも、AIアキノフクに頼らなくても頭の中で先生の言葉として生き生きと甦るからだ。
退官と前後して、二度火事に遭われたのだが、誰が招集したのかその後始末が自然発生的に集まった卒業生・在校生の手で、三日ほどの内にきれいに整地までされたのだ。 先生が何度も身柄を引き受けに警察署まで出向いたという、学生運動をしていた息子さんの筋から、セクト名をマジックで書いたヘルメットが沢山あって、私もどこかのセクト名が書かれたヘルメットを被って淀のゴミ処理場までダンプの助手席に乗って行ったりした。 ご近所の炊き出しもあって、火事場の後始末なのにまるでお祭りのようだった。 そこで先生が、通りがかりに言われた言葉は、「神様がワルイ絵を焼いて下さったのね」。
その四年後、移られたアトリエがまた火事に遭い、いくらなんでも今回はまいっていられるだろうと思いつつ手伝いに行ったが、「ゼロからの出発ね」が先生の言葉だった。 原画を持っていられたのだろう、「火の神様だから焼けなかったのね」と言って縁が少し焦げたヒンドゥーの神様のポスターを一枚下さった。
「どなたかインドの大学で教えてくださる方はおられませんか」という仏教美術の佐和隆研(りゅうけん)氏の問いかけに、五男一女のいる家に帰って相談してから、ということもなく「行きます!」と即座に名乗りを上げたのが、通算四年半暮らすインドとの出会いである。 インドについては「自然、動物、人間……すべてが同じ次元で生きていて圧倒されます」とおっしゃっていた。
「絵描きは我流であるべきなんです。アマチュア精神を保つ必要があります。常に偉大なアマチュアであり続けること。売れようが、売れまいが、そうした態度で、自分の絵を描いていく」「作家というものは、自分自身が常に一番でないと。寄り掛かる精神は、作家の精神じゃないの」「自分の責任で描くことが、一番大切なんです」(八十七才の言葉)
九十三才で亡くなられた時は、まさにアフリカ旅行に出発される予定だったとも聞いている。(アフリカ旅行は馬場が書いていたように92歳の2000年で、最後の海外旅行だった。2001年、第28回創画会に出品した《アフリカの民家》が最後の出品となった。アフリカ旅行で、彫の深い精悍な顔立ちの一人のガイドを気に入って、描いた《砂漠のガイド》が秋野不矩美術館にある。亡くなる前に計画していたのは、インド旅行だったようだ。)
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