ローマ、イスラム、キリスト教の各時代が遺る2023/09/05 07:07

 「聖なる巡礼路を行く」II「巡礼の道 スペイン縦断1500キロ」、アンダルシア地方を歩き、最初に辿りつくのはグラナダである。 スペイン最後のイスラム王朝であるグラナダ王国(1238~1492)の首都。 城塞・宮殿のアルハンブラ、離宮ヘネラリフェ、アルバイシン地区は世界遺産。 アルハンブラは、中世イスラム建築の遺構。 小高い船形の丘サビーカの上にあり、砦、王宮、浴場、モスクなどを城壁で囲んだ城塞都市だった。 アルハンブラの名は、赤を意味するアル・ハムラ、城壁に塗られた赤い漆喰に由来する。 三つの中庭(パティオ)を中心に、噴水、林立する細身の大理石の円柱、天井、壁、床は漆喰と彩色タイルによるアラベスク模様で埋め尽くされ、イスラム建築の粋を集めた精緻な人工美を誇る。

 丘の上にイスラム時代の城があるモクリンという村の祭では、村の人口の何十倍の人がつめかけ、布のキリストの絵が練り歩く。 その絵の額に触れると、その後に行った古都オビエドのスダリオ(聖骸布)と同じような効果が信じられていた。

 アンダルシア地方では、オリーブ畑の道が100㎞も続く。 古代ローマ時代に、イスラム教徒が灌漑栽培を持ち込んだという。 コルドバは、古代ローマ時代から栄え、ローマ橋が残る、中世にはムーア人(アフリカ北西部から出たイスラム教徒でアラビア語を話す)の後、イスラムの後ウマイヤ朝(756~1031)の首都となった。 1236年にカスティリア王国のフェルナンド3世がこの町をキリスト教徒の手に奪回した。(カスティリアは、カステラという日本語の起源だそうだ。) ローマ時代の建物、ムーア人時代の宮殿、中世の修道院、礼拝堂、学校など現存する旧市街は、1984年世界遺産の文化遺産に登録された。 番組では、キリスト教の大聖堂になっているメスキータ(コルドバの大モスク)やユダヤ人街を訪れた。

ユーロヴェロEV7、1150キロ自転車旅2023/09/03 06:52

 植物学者の牧野富太郎を、槙野万太郎として描いている朝ドラ『らんまん』を7時30分から先行のBSプレミアムで見ている。 去年、朝井まかてさんの長編小説『ボタニカ』(祥伝社)を読んで、この日記の2月4日~17日までいろいろと書いていたので、それと比較しながら、ドラマは槙野万太郎をどう美しく脚色するのかと、ちょいと斜めから見ている。

 この時間の朝ドラの後は普段、火野正平が自転車で日本全国を走る「こころ旅」を見ているのだが、秋の旅が始まる前、15分単位のいろいろなシリーズ番組をやっている。 先日までは、「自転車でなければできない旅がある」というキャッチフレーズで、ヨーロッパでサイクリングロードが整備されている、ユーロヴェロ90000キロの内、EV7、1150キロ、イタリアのフィレンツェから、オーストリアを経て、チェコのプラハまで、ドイツ在住のアキラという若いユーチューバーが14日間で走る自転車旅を、20回でやっていた。

 1150キロを14日間というと、一日平均82キロ強、なにしろアルプスを越えていくのだから、登り坂も多い。 一部は自転車も積める車両のある電車旅もあった。 「人生下り坂、最高」の火野正平「こころ旅」だったら、ブーブー言うどころか、便乗する軽トラを探し、タクシーに頼るところだろう。 2022年夏の旅、アキラ青年、若いといっても、プラハが近づいたところで、体調を崩し一日休養、スタッフの電動自転車と交換してもらっていた。

 ユーロヴェロ7、何といっても、景色が素晴しい。 アルプスの山々を背景に、牧場のむこうの丘の上には教会の塔があり、いろいろの色の洒落た建物が並んでいる。 家々には、薪が積んである。 川や湖に沿って、キャンプ場のような所もある。 標識などはそれほどないようで、スマホのGPSのコース地図を頼りに進む。 舗装されていない道もあり、細い草の生えた道に入って進むと、一軒の民家に突き当たる行き止まりだったりする。 コースの整備は、地元の自治体に任せられているらしく、倒木がそのままになっていて、自転車を担いで乗り越えたところもあった。

 友人の加藤隆康さんが今年の正月に、『日本画で描く 中世の町並み』というコンパクトだが、とても美しい私家本の画文集を送ってくれた。 加藤さんは現役を退職後、俳誌『夏潮』表紙の画家、清水操画伯のNHK文化センターの教室「小品からはじめる日本画入門」に入り、以来、日本画で主にヨーロッパの中世の町並みを描いている。 ユーロヴェロEV7の自転車旅では、その画文集に収録されていた《ザルツブルクの眺望》《モーツァルト生誕の家》《ゲテライド通り》も、出て来たのであった。 番組は景色を見せながら走るだけで、その場所の解説はほとんどない。 加藤さんの本によると、ゲテライド通りはザルツブルク旧市街のメインストリートで東西320メートル、ザルツブルクが司教区になった700年ごろから整備され、中世の趣を残す世界遺産の小さな街路で、手の込んだ美しい鉄細工の装飾看板が各店ごとに表に吊り下げられている。 この通りにあるモーツァルトが1756年に生まれ、7歳まで過ごしたイエローに塗られた家は博物館として開放されているが、イエローはハプスブルク家が好んだ色で、横に吊り下げられた幟の赤白赤の「ウィーン国旗」との相性がいい、とある。

耶馬渓競秀峰<等々力短信 第1169号 2023(令和5).7.25.>2023/07/18 07:00

     耶馬渓競秀峰<等々力短信 第1169号 2023(令和5).7.25.>

 7月10日九州北部の大雨のため、大量の流木がひっかかり、中津市本耶馬渓町の山国川に架かる国の重要文化財「耶馬渓橋」の欄干の約半分が流失したことが判明した。 「耶馬渓橋」は、全長116メートル、8連のアーチ橋で、現存する石造りのアーチ橋では国内で最も長い。 大正12(1923)年に旧東城井村が競秀峰(青の洞門)近隣の周遊のため敷設した観光道路の一部として架橋した。 令和4(2022)年5月10日に国の重要文化財に指定されたばかりだった。 「青の洞門」は、山国川右岸の競秀峰下の通行の難所に穿たれたトンネルで、18世紀中ごろ僧禅海が30年余を費やし鑿と槌だけで開削した。 菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で知られる。 中学の国語で読んだ。

 「日曜美術館」の「アートシーン」で、木島櫻谷という日本画家の、物凄い描写力に驚いて、泉屋博古館東京の「木島櫻谷―山水夢中」展を見に行った。 コノシマと読むことも知らなかった。 木島櫻谷(1877-1938)は、近代の京都画壇を代表する存在として、近年再評価が進んでいるそうで、山海の景勝の写生を重ね、それを西洋画の空間感覚も取り入れた近代的で明澄な山水画として描いている。 中に明治42年5月の写生帖の11枚を張り合わせた《渓山奇趣》耶馬渓と、それを紙本墨画金泥で描いた《万壑烟霧(ばんがくえんむ)》6曲1双の屏風があった。 「壑」は、手前の奥深い谷。

 長年福沢をかじりながら、中津に行ったことがなかったが、2009年11月に福澤諭吉協会の第44回福澤史蹟見学会で、念願の中津に行き、耶馬溪へも行った。 全国の羅漢寺の本になったという羅漢寺門前に、つい3日前建てられた「福澤諭吉羅漢寺参詣記念之碑」も見てきた。 耶馬渓競秀峰は約1kmにわたり美しい峰が連なる景勝地で、福沢諭吉はその景観保全に尽力した。 競秀峰の名は宝暦13(1763)年に訪れた江戸浅草寺の金竜和尚、耶馬渓の名は文政元(1818)年に訪れた頼山陽による。

 福沢は明治7年11月17日には日田-耶馬溪-中津を結ぶ「豊前豊後道普請の説」を発表した。 今回の水害のニュースで、よく名が出た場所である。 明治27年3月墓参のため長男一太郎と次男捨次郎を伴い帰郷した折、一日耶馬渓に遊び、競秀峰が売りに出されていることを知った。 心ない者が購入して樹木を伐採すれば景観が損われてしまうことを憂えた福沢は、曾木円治に仲介を依頼して、同年4月30日から30年5月31日までの7回にわたり、目立たぬように少しずつ売りに出されている土地を買い、その名義はかつて山林の事業に関係した義兄小田部武にした。 武の子菊市、福沢捨次郎、時太郎と引き継がれ、風致保存を条件に譲渡された。 この風景保全の為の約1万平米の土地買収は、ナショナル・トラスト運動の先駆けともいわれている。

世界の人が行きたい盛岡<等々力短信 第1167号 2023(令和5).5.25.>2023/05/18 06:53

   世界の人が行きたい盛岡<等々力短信 第1167号 2023(令和5).5.25.>

 ニューヨーク・タイムズ(NYT)が発表した「2023年に行くべき52カ所」で、ロンドンに次いで、盛岡市が2番目に紹介されたという。 NYTは選考理由に、美しい川や山に囲まれた街で、徒歩で楽しめるコンパクトさ、伝統的な建物があることなどを挙げたそうだ。 盛岡市の中心部には北上川、中津川、雫石川が流れ、秋はサケが遡上し、冬は白鳥も飛来する。 街中のどこからでも、どかんと岩手山が見える。

 末盛千枝子さんの『出会いの痕跡』(現代企画室)が、市原湖畔美術館「末盛千枝子と舟越家の人々」展の記念出版として刊行された。 中心になっているのは、2018年から4年間、岩手銀行の月刊誌『岩手経済研究』に連載された≪松尾だより≫というエッセイだ。 その随所に、盛岡が登場する。 末盛さんは、父舟越保武さんが戦争末期に疎開した故郷の盛岡で、1945年から1951年まで、4歳から10歳、岩手大学付属小学校5年生の夏までを過ごし、わずか6年だが「人生にとってかけがえのない時間でした」という。 父は大理石を彫り、粘土を使ってブロンズ彫刻を作り、盛岡城址近く、今の教育会館のあたりにあった米進駐軍のキャンプに似顔絵を描きに行っていた。

 長女の千枝子さんに二人の妹が続き、初めて盛岡で生まれた男の子が、急性肺炎のため8か月で亡くなる。 両親は、父の姉一家が属していた四ツ家のカトリック教会で葬式をしてもらい、北山の教会墓地に葬った。 仁王新町の家から、日影門外小路の小流れにかかった一枚板の石橋を渡り、一家でその教会に通うようになる。 忘れられないのは、教会の鐘の音で、最近知ったのだが、今も残るその鐘は1900年にフランスから贈られたもので、その音は石川啄木や宮沢賢治の作品にも登場するらしい。

 父の作品《原の城》《ダミアン神父》やヘンリー・アーノルドの肖像などは、岩手県立美術館に収蔵されている。 宮沢賢治の『注文の多い料理店』を最初に出版した材木町の光原社は、世界中の手仕事を集めているが、庭の喫茶店には父のデッサンが飾ってある。 中ノ橋のテレビ岩手の一階にあった(2020年11月まで)第一画廊と喫茶店舷(父の命名)の上田浩司さんは、父や弟直木さんの仕事を認めて応援してくれた。

 ブリューゲルの《雪中の狩人》の絵のような景色、岩手山を正面にみる八幡平の松尾に、千枝子さんの親友が住んでいた縁で、父保武さんが1991年に松本竣介のご子息莞さんの設計で別荘を建てた。 その家に千枝子さんは2010年5月に移住し、翌年3月11日東日本大震災に遭う。 4月から盛岡のNHK文化センターで月一回「絵本の楽しみ」講座を始めた。 被災地の子供たちに絵本を届けようと「3・11絵本プロジェクトいわて」を立ち上げると、1か月ほどで全国から23万冊の絵本が集まった。

長崎の二十六聖人像と舟越保武さん2023/04/25 07:00

 昨日のリストの中から、市原湖畔美術館の「末盛千枝子と舟越家の人々」展のオープニング&トーク「舟越家の芸術」で、北川フラム館長が最高の作品と語った舟越保武さんの≪長崎二十六殉教者記念像≫のことを書いた「等々力短信」と、舟越保武さんが亡くなられた頃の「小人閑居日記」(ブログでは読めない)を引いておきたい。

      長崎の二十六聖人像 <等々力短信 第844号 1999.6.5.>

 連休中の5月4日、ASAHIネットの「絵本と童話の部屋」の「すえもりブックス本を見る」オフを、友人経営の等々力の寿司屋の2階で開いた。 メンバーの一人が、「すえもりブックスの本はいいと思うのだけれど、手持ちは一冊しかない、どうしても、子供に読み聞かせるのに定番の絵本を選んでしまうので、自分のためや大人の友人に贈りたいような本は後回しになる」と書き込んだのに、私が手元に沢山すえもりブックスがあるので見ますか、と応えたのが発端となった。 この会の計画を末盛千枝子さんにお知らせしたところ、幸運にも、ご本人が来て下さることになり、当日は皇后さまの『橋をかける』が出来るまでの秘話など、末盛さんの貴重なお話が伺えて、素晴しい会になった。

 その会で校正刷りを拝見した高橋睦郎さんの『日本二十六聖人殉教者への連祷』が、本になった。 「連祷(れんとう)」は、祈祷の形式のひとつで、選ばれた言葉を連ねイエズス・キリストや聖人をほめ讃える、一人が先導し、会衆が折り返しをもって応えるものだそうだ。 本では、右のページに高橋さんの連祷が、左のページには長崎二十六聖人記念碑を彫刻した舟越保武さん(末盛さんの父上)が、制作にあたって描いたデッサンが配置されている。 連祷は総ルビなので、声に出して読むと、感動が喉から頭の後ろの方へと響いてくる。 色はといえば、右ページ上の26のローマ数字の赤だけで、これが美しい。 このセンスは、末盛千枝子さんならではのものである。

 (この本では「祷」の字が、ネ扁でなく、示扁になっています。 私のワープロの辞書にないので「祷」を使いました。)                

 26人は豊臣秀吉の治下、慶長元年(1597)、西暦で1月9日からの厳冬の28日間、堺から長崎までの苛酷な連行の後、2月5日に西坂の丘で十字架にかけられた。 第一の十字架、聖フランシスコは大工、高橋さんの連祷に「酒徳利を持って牢番を訪ね 入牢を願って 断わられたが ひるまず長崎への受難の道行を追い ついに殉教者の列に加えられ」た。 第二の聖コスメ竹屋は刀研ぎ師、第七の聖パウロ茨木は樽職人。 第九の聖ルドビコ茨木は、殉教者中で最も若い12歳、その隣の聖アントニオは13歳、第二十の聖トマス小崎は16歳、26聖人像の中で、この三人だけが背が低い。

 舟越保武さんは、この像の制作に作家生命を賭け、全力を尽くしたと『巨岩と花びら』(筑摩書房)に書いている。 没頭した4年半の間、アトリエに寝たという。 「貧苦に耐えて」ともある。 お子さん方にも、深い思いのある像なのだろう。

      美しく光っているもの<小人閑居日記 2002.2.7.>

 舟越保武さんがなくなったと聞いて、『巨岩と花びら』を、ぱらぱらとめくる。  1982年5月に書かれた「あとがき」に、もう「いま私は、生涯の終点近くを歩いていることがわかっているだけに、やがて現世からストーンと墜落することがわかっているだけに、過去のさまざまの出来事を懐かしむ気持が強くなっているのでしょう」とある。 そして「過ぎ去った「時」の中に、美しく光っているものを、繰りかえして思い出します」として、「私の歩いて来た一本の道をふりかえると、遥か遠くから、いま私のいるところまで、電柱の灯りが、並んで点滅しているように見えます。 青く光るものもあり、暗くて鈍い光りもあります。 小さくまばたくその灯りを書こうとするのですが、それがなかなか文字にはなってくれないのです」

 世田谷のお住居のご近所を、犬をつれて散歩される。 そのコースに中野重治さんが住んでいて、ひいらぎの生垣などを手入れしていたり、道ですれ違ったりする。 一度声をかけたいと思うのだが、なかなか切り出せないという随筆「ひいらぎの生垣」が、いかにも舟越さんらしくて、いい。

 「あの……失礼ですが、中野先生ですか」

 「私は、松本竣介の友人で、舟越というものです。 この近くに住んでいます。 彫刻をやっています」

 「私は彫刻家で、だいぶ前に長崎に、二十六聖人の彫刻を作った者です」

 「私は、先生のお書きになったものを、読んで、尊敬いたして居ります」  「先生の詩を少し覚えています。……千早町三十番地、という詩です。 千早町三十番地はどこなりや……という書き出しの詩です」

 等々、こんど会ったら、きっとそうしようと、犬に話しかけながら、くりかえし、くりかえし、口の中で練習していたけれど、急に声をかけては、中野さんの心を乱すのではないか、中野さんの思考の静かな池に、さざ波をたてることになりはしないか、と小学生のように、尻込みする。 そして、ある日、中野さんが亡くなってしまう。

 天国の門では、松本竣介さんと中野重治さんが、きっと舟越保武さんを待っていただろうと思う。

      長崎26聖人の殉教日<小人閑居日記 2002.2.12.>

 舟越保武さんのご長女、すえもりブックスの末盛千枝子さんに、お悔みの言葉とともに「美しく光っているもの<小人閑居日記 2002.2.7.>」をお送りしてあった。 昨日、メールが来て、「父が亡くなったのは、26聖人が殉教したその日でした。 最高のご褒美を頂いたようでした」とあった。 長崎26聖人の殉教は、慶長元年(1597)の2月5日だった。(「等々力短信」第844号、『五の日の手紙4』330頁参照)

 6、7年前に、舟越保武さんと佐藤忠良さんの60年に渡る友情(とライヴァル関係)を描いたNHKテレビの番組があった。 録画してあったので、たまたまそのビデオを見たら、忠良さんが、長崎へ行って初めて26聖人像を見るところがあった。 「負けたね」と言って、46歳から50歳までの一番脂ののりきった時期の仕事だというコメントに、「そうでしょう、僕もその頃は…」と言った。

 舟越さんの、忠良さん宛の手紙が素晴らしい。 舟越さんが脳硬塞で倒れ、退院した直後に左手で書いた一生懸命の手紙を、忠良さんは大切に表装していた。 それは、良寛の書のようだった。