「ぷろふぃる 三人三様」と道元「愛語」の世界2025/05/08 06:55

 私が隠岐の島の先生、横田武さんと知り合った事情は、「等々力短信」に書いたことがあるので、いずれ引くけれど、『花蓮陀の本 慈』の巻末に「ぷろふぃる 三人三様」というのを、発行所の手鞠舎主人が書いている。 「横田先生は隠岐布施村生れ。1910年のこと。だから歳は勘定しやすい。島根師範を出てからずっと島の先生だった。横田先生の先生は哲学者森信三先生。森先生は横田先生の前著『隠岐の四季』の序文に「天は隠岐という日本海に孤絶する一小島に著者如き偉材を配した」と記す。横田先生の純真さは間違いなく隠岐の風土が生み育てたものだ。」

 画の佐藤勝彦さんは、「勝彦さんは無茶苦茶である。その無茶苦茶が風穴を開ける。だから勝彦さんの周囲はいつも涼風が吹き抜けている。この風通しのよさの由来をたどると、大連1940年生れにゆきあたる。鳥取大学を終えて奈良帝塚山学園小学部の絵の先生である。一人一光、生命全開と叫ぶ勝彦さんはやはり型破りな先生らしい。」

序文の渡辺誠弥さんを、「ジャンボさん、と皆がそうよぶ。185センチ、85キロ。あるときジャンボには英語でノロマの意があるというとスワヒリ語でコンニチワの意もあるとの返事。これはいゝ。縁こそ財(たから)がジャンボさんの口癖だからだ。挨拶は縁の始まり。房州育ち1941年生。NHKの現役アナウンサーである。」

今回、改めて『花蓮陀の本 慈』を再読して、その渡辺誠弥さんの序に、驚いたのだった。 私の寝室の頭の上に架けてある良寛書の道元禅師の「愛語」が出てきたからである。(永青文庫の「心のふるさと良寛」展<小人閑居日記 2018.5.17.>参照)

 「私は横田先生の詩と佐藤先生の画を拝見したとき、これは道元さん云う処の愛語の世界だなと思いました。愛語というのは道元さんの正法眼蔵に出てくる言葉です。

道元さんは愛語について次のような言葉を添えております。

「慈念することなほ赤子のごとしおもひをたくはへて言語するは愛語なり」と。

さらに言葉をくわえて

「愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり」とも。

 相手を慈しむ心から生まれた言葉というものは聞く人の人生を変えるぐらいの大きな力があるものですよと道元さんはおしえてくれています。

 その意味で詩画一体となったこの『花蓮陀の本 慈』は文字通り愛語の世界、慈しみの本です。」

酒井抱一、風雅に遊ぶ自由を得る方法<等々力短信 第1190号 2025(令和7).4.25.>2025/04/25 07:20

   酒井抱一、風雅に遊ぶ自由を得る方法<等々力短信 第1190号 2025(令和7).4.25.>

 大岡信編『日本の色』朝日選書139(1979・朝日新聞社)に、丸谷才一さんの「花野」という酒井抱一を書いた一文があった。 丸谷さんの生家に、抱一という落款の枕屏風があった。 銀地に秋草を描いた、というと豪勢なものに聞こえるが、これがニセモノだということは、幼い丸谷さんにも判ったし、父上も同意見で値段の割には楽しめるじゃないかと言っていたという。 丸谷さんは、抱一が好きなのはもちろん、その絵と発句が気に入っているためだが、もう一つ伝記的興味もあるという。

 酒井抱一は、姫路の殿様の第二子として生まれながら、武士であることを見事に避けてしまった男なのである。 その逃げ方はすこぶる念が入っていて、というよりもむしろ仰々しくて、何もこんなに凝らなくたっていいのにという気がするくらいだ。 彼は寛政5(1793)年、37歳の年、病気のため西本願寺の徒弟となって京都に住みたいと願い出た。 酒井家ではこれを許し、千石五十人扶持を給することになる。 10月18日、折から江戸に下っていた西本願寺文如上人によって得度、権大僧都に任ぜられる。 そのときの句。 <遯(のが)れ入る山ありのみの天窓(あたま)かな> 季語は、ありの実、まるめた頭(つむり)を梨に見立てたわけだ。

 11月3日、京へ向けて出発、抱一自筆の日記に「霜月三日、其爪、古櫟、紫霓、雁々、晩器などうちつれて花洛の旅におもむく」とあるから、京に住まう気は最初からなく、要するに俳諧仲間を引き連れての京見物だったにちがいない。 <布団着て寝て見る山や東山>、<島原のさらばさらばや霜の声>は、このときに成ったもの。

 京にあることわずか12日。 12月14日、江戸に帰って、<鯛の名もとし白河の旅寝哉>などと呑気に吟じるあたり、すべては自由の身になる計略だったと断じて差し支えないようだ。 以後、「前権大僧都」は文晁、鵬斎と並んで江戸の文人を牛耳り、勝手気儘な晩年を送ったのである。 句集『屠龍之技』の序は亀田鵬斎、跋は大田南畝である。 ここはやはり、もって文界における抱一の勢威と名望を知るべきであろう。

 なお、当時の文人の常として吉原通いにせっせと励んだし、それに千石五十人扶持は相変わらずついてまわった上に、画料も入ったろうから、「隠君」の遊びはすこぶる景気のいいものだったらしい。 得度以前の、<湯豆腐のあわただしさよ今朝の霜>、<寝やと言ふ禿まだねずけふの月>も、得度以後の、<ほととぎす猪牙の布団の朝じめり>、<市分けてもの言ふ花やをみなへし>、<傾城のふくさ捌きや大晦日>も、すべてこういう粋な研鑽の賜物にほかならない。 彼は逃避を一個の芸術品と化した、旦那芸の最上のものと言って差支えないであろう、と丸谷才一さんは締めている。

杏の里の染織家と志村ふくみさん2025/04/18 07:24

 15日、銀座和光のセイコーハウスホールへ「工芸・Kogeiの創造―人間国宝展―」を観に行って、特別出品の志村ふくみさんの紬織の着物を見てきた。 少し前に、NHKの放送100年記念番組の一つ、『小さな旅』の回顧「つないでつむぐ」を見た。 その最初に、長野県千曲市森地区の杏(あんず)の里で、杏の木から草木染めをしている父と娘をやっていた。 昔、番組に登場した父親は、私と同じ歳になっていて、まだ杏の染物をつくっており、娘さんがそれを引き継いでいるのだった。 森地区の杏の里の見事なのは、その花盛りに毎年、父が油絵を描きに通っていたので知っていた。

 3月25日の朝日新聞「天声人語」は、「この季節になると、中学の教科書で読んだ逸話を思い出す。春を告げる桜は、花だけでなく幹の中までピンクに染まっている。そんな話だった。あれは誰が書いたのだろう。40年ぶりに調べ、詩人の大岡信さんの文章にたどりついた」と書き出した。

 「京都を訪ねた大岡さんは、上気したような美しい色の着物を目にする。桜で染めたものだと染織家の志村ふくみさんに教えられ、可憐な花びらを煮詰めたのだろうと思い込む。実際は、ごつごつした樹皮から取り出した色だった。そして開花の直前でないと、この色は出せないと聞く。」

「大岡さんは不思議な感じに襲われた。桜が「木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである」(「言葉の力」)。」

森地区の杏の木を割って、染織をしている人も、志村ふくみさんとまったく同じことを言っていた。

「南桂子展 小さな雲」の銅版詩2025/04/11 07:01

 そこで、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションの「南桂子展 小さな雲」。 南桂子は浜口陽三夫人、パートナーと聞いていたが、夫婦別姓で活躍したのだろう。 1911(明治44)年、私の父と同じ年に、富山県に生れ、高等女学校時代から油彩画や詩をたしなみ、戦後は上京して佐多稲子の紹介で壷井栄に童話を、油彩絵を洋画家の森芳雄に学び、自由美術家協会などに油彩画を発表していた。 森芳雄のアトリエで、のちに世界的な銅版画家となる浜口陽三と出会い、銅版画の面白さを知る。 1953(昭和28)年、浜口陽三とフランスに渡り、パリのフリードランデル版画研究所で学んだあと、ドライポイントやカラー・メゾチントの技法で銅版画をつくり続けた。 フランスからブラジル、またフランスからアメリカのサンフランシスコへと拠点を移したあと、1996(平成8)年には日本に戻り、1998(平成10)年浜口陽三の作品を常設展示するミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションが開館、2000(平成12)年に浜口陽三が91歳で亡くなった後、2004(平成16)年に93歳で亡くなった。

 一階の展示を見てから、らせん階段で地下の会場に下りる。 思わず「深いね」と言ったら、受付係の女性が「醤油の倉庫でしたので」と。 近くには、ヤマサ醤油の東京支社もある。 南桂子の繊細な銅版画は、少女・鳥・お城・雲・舟・羊などをモチーフにしている。 やさしい色合いの、メランコリックな世界に、たちまち誘い込まれてしまうのだ。 帝国ホテルに泊まったことはないけれど、南桂子の版画が全室に飾られていたという。

 谷川俊太郎に、南桂子装幀・装画、和田誠手描き楽譜の『うつむく青年』(1971年・サンリオ出版)という詩集がある。
 また谷川俊太郎は、「そして日々が ―南桂子さんに―」という詩を残していた。

舟はたしかに
未知の岬をめざしている
魚はたしかに
産卵の日を待っている
鳥はたしかに
散弾におびえている
少女はたしかに
運命を知っている

水天宮のミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションと福沢諭吉2025/04/10 07:12

 このところ、ときたま人形町界隈に出没している。 昔、会社の帰りに立ち寄ることがあったので、多少は土地勘があった。 TBS落語研究会が、三宅坂の国立劇場小劇場を建て替えで使えなくなり、2023年11月から2024年5月まで、水天宮に近い日本橋劇場(中央区立日本橋公会堂)を使っていたので、毎月人形町へ行っていたからである。 その日本橋劇場も建て替えで、落語研究会はその後、よみうり大手町ホールでやっている。

 先日は、前から行ってみたいと思っていて、なかなか行けなかったミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションへ、「南桂子展 小さな雲」(3月30日まで)を観に行った。 浜口陽三が精密な銅版画家で、ヤマサ醤油の創業家の出身であることは、知っていた。 創業者の浜口梧陵(儀兵衛)と福沢諭吉の関係があったからだ。 浜口陽三は、十代目浜口儀兵衛の浜口梧洞の三男として、1909(明治42)年4月5日、和歌山県有田郡広村(現、有田郡広川町)に生れ、幼少時に一家で千葉県銚子市に転居したという。

 「南桂子展 小さな雲」を後回しにして、南海トラフ巨大地震とも関連するので、浜口梧陵(儀兵衛)と大津波、和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係について、書いたものをまず引いておきたい。

   大津波と浜口梧陵、和歌山と福沢・慶應義塾<小人閑居日記 2019.1.19.>

 浜口梧陵については、まだブログに配信する前の「等々力短信」に、「大津波と浜口梧陵」<等々力短信 第947号 2005.1.25.>を書いていたので、あとで引く。 和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係、福沢諭吉と浜口梧陵、その和歌山教育史との関係については、下記を書いていた。
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その1<小人閑居日記 2012.9.22.>
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その2<小人閑居日記 2012.9.23.>
「紀州塾」、福沢が方向づけた和歌山の教育<小人閑居日記 2012.9.24.>
〈明治前期〉教育史と紀州の中学の個性<小人閑居日記 2012.9.25.>
県立和歌山中学と、自由民権運動の中学<小人閑居日記 2012.9.26.>

      等々力短信 第947号 2005(平成17)年1月25日
                 大津波と浜口梧陵

 番組表に「浜口梧陵」の名前があったので、13日NHK放送の“その時、歴史が動いた”「百世の安堵をはかれ―安政大地震・奇跡の復興劇」を見た。 黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、三つの巨大地震が日本を襲った。 嘉永7(1854、改元されて安政元)年11月4日、下田でプチャーチンのディアナ号を大破した安政東海地震が発生、その30時間後の5日の夕方には、紀伊半島南部と四国南部が震度6以上の安政南海地震に見舞われ、紀伊半島南西岸から土佐湾沿岸を大津波が襲って、多数の死者が出た。 銚子と江戸で醤油醸造業(ヤマサ)を営み、半年は故郷の紀州広村(現、広川(ひろがわ)町)で暮していた浜口梧陵は、地震直後、海の様子を見に行き、真っ暗で、閃光が走り、雷のような物凄い音を聞いた。 津波の襲来を予感した梧陵は、村民に高台の八幡神社への避難を呼びかけて回り、暗闇で道がわからないと見ると、たいまつで稲むらに火を放ち、避難路を照らした。 地震発生から40分で津波の第一波が到着、5回にわたり最大5mの津波が押し寄せた。 浜から神社まで1.7km、避難には20分かかる。 津波を予感した梧陵の早い判断と的確な避難指示によって、全村民の97%の生命が救われた。

しかし地震と津波による被害は甚大で、梧陵が私財で仮小屋50軒を建て、農具などを提供しても、離村者が出るようになった。 梧陵は村人に希望と気力を取り戻させるため藩に願い出て、私財を投じ、村人の働きには給金を出し、津波を防ぐ大堤防の建設に着手する。 翌安政2(1855)年の安政江戸地震で江戸の醤油店が罹災、閉鎖に追い込まれたものの、銚子で最高の生産高を上げて堤防建設に送金し、安政5(1858)年12月、これだけの規模の盛り土堤防は世界最初、村民の自助努力で防災と生活支援を同時に実現した復興事業も画期的という「広村堤防」が完成する。 下って昭和21(1946)年、M8.0の昭和南海地震では、高さ4mの津波が襲ったが、村の大部分は被害を免れた。

『福澤諭吉書簡集』に、浜口儀兵衛(梧陵)あて書簡が3通、浜口の名の出てくる書簡が10通ある。 梧陵は慶応4(1868)年、和歌山藩の藩政改革で抜擢されて勘定奉行となり、翌明治2年藩校の学習館知事に転じ、明治3年松山棟庵の協力を得て洋学校・共立学舎を設立した。 この時、旧知の福沢を招聘しようとしたが、福沢は受けなかった。 だが二人の交際は続き、晩年の梧陵が計画し明治18(1885)年ニューヨークで客死することになる世界一周視察旅行には、福沢が格段の配慮をしている。