鶴岡のこまやかな人情が気に入る、老いらくの恋2026/07/10 08:04

6月25日の「等々力短信」第1204号に「佐々木邦(くに)をご存知ですか?」を書き、7月1日からのこのブログに、佐々木邦と父・林蔵の物語を書いてきたのは、実はこの佐々木邦と山形県鶴岡の話を書きたいためだった。 「等々力短信」の前号、前々号に、佐藤賢一さんの『釣り侍』から、鶴岡の話を書いて来た流れになる。

日本海に面した漁村で、一冬を過ごした邦は、終戦の翌年の4月、三女うめを東京に帰し、妻の小雪、四女のとも子とともに、鶴岡市紙漉(かみすき)町の本鏡寺という寺の離れに移った。 市内といっても、雨蛙が蚊帳の中に入ってくるぐらい自然が近い環境だった。 気がかりは、かねてから胃を患っていた小雪の病状がよくないことだった。 それでも、昭和22年に入るとすぐ、病床に就く小雪の面倒を見ながら、長編「心の歴史」の執筆に取り組んでいる。 その連載が終った22年12月10日、小雪が亡くなった、62歳だった。

邦の戦後を支えたのは鶴岡だった。 疎開のための移住先であり、辛い思いもした地だったが、邦は鶴岡が気に入っていたのである。 東北特有の鶴岡の人々のこまやかな人情味は、いつまでも忘れられず永住してもよいと思ったほどだった。 人づきあいに不器用な邦は、控えめで篤実な東北人と波長が合ったのだろう、地元の文化人と親しく交流し、小雪の親戚だった市長の依頼に応え、県立農林専門学校で英語の講師も引き受けている。

小雪の死の翌年、邦と庄内女性の間にロマンスが生まれる。 二人が出会ったのは、俳句の仲間で、小雪の親戚にあたる山形大学農学部の教授の家に、手伝いに来ていた三十代の未亡人で、進藤信子といった。 ある日、邦が帰ったあと、教授が火鉢を見ると、灰の上に火箸で「信子、信子、信子」と書いてあった。 実は、夫人を亡くしていた教授も、ひそかに信子に恋していたのだが、それを見て自分の恋をあきらめたという。 時に、邦は65歳、信子は35歳、30歳の年齢差があった。

新婚当時、邦が挨拶状に添えた句。 <老いらくの恋といわれて夏暑し>。

佐々木邦、明治学院、釜山就職、鶴岡の娘と結婚2026/07/06 08:25

 佐々木邦少年である。 6月25日の「等々力短信」第1204号「佐々木邦(くに)を、ご存知ですか?」に、こう書いていた。

 「早稲田中学を病気で中退した邦は、16歳の明治32(1899)年に青山学院に入り、35年に慶應義塾理財科予科に進むが、周りは「俗物」ばかりだったので、英語だけを熱心にやり、36年明治学院高等学部に移る。 朝日新聞に原抱一庵がマーク・トウェーンの短篇「シーザー暗殺」を訳し、山県五十雄が「トウェーンは好い加減な英語の力では読みこなせない」と批判したのを読み、邦はトウェーンを読んでみようと発奮する。 慶應で他者に出会い、自分探しに彷徨(さまよ)い込んだ邦は、トウェーンに出会って、明治学院で世界と和解し、自分の思想を鍛え、書くことを始めたのである。」

 邦が青山学院に入った頃、父・林蔵は大阪の心斎橋通りに建てられる日本貯蓄銀行本店の現場監督の職を得る。 邦以外の一家は大阪暮らしで、弟の二郎と順三は、邦の影響もあったか、ミッションスクールの桃山学院に入った。 邦は、慶應義塾に入ってからも三田の聖坂にあったフレンド教会(クエーカー派)に出席し、ボールズ先生という宣教師に可愛がれていたという。 邦の明治学院への転校は、実学重視の慶應に比べ、文学に関しては名門だったかららしい。 島崎藤村、馬場孤蝶、戸川秋骨が出ていて、文学的な空気がみなぎっていた。 3年生の12月には、校内誌『白金学報』に佐々木春川というペンネームで「翁の仮面(めん)(お伽噺)」という習作を発表している。 夏目漱石の弟子で明治学院の教授だった皆川正禱の斡旋で、翻訳のアルバイトに精を出した。

 明治38(1905)年3月、「明治学院、メシガクエン」という学校を卒業した邦は、就職では苦戦していた。 ミッションスクールの卒業生は、英語教師になる者が多かったが、当時、中学の教師になるには、帝国大学か高等師範を出るか、検定試験を受けるしかなかった。 内地の学校に就職できない邦は、学院の推薦で韓国釜山居留民団立商業学校の英語教師になり、明治40(1907)年4月に赴任する。 日露戦争後、日本は韓国併合への道を歩き始めており、釜山には日本人社会が形成されていたのである。

 不本意な赴任ながら、彼の地で徹底的に勉強してやろうと13円で中古のウェブスター大辞典を携えて行くと、主任はおらず、英語教師は一人で、主任兼部下だった。 大きなポプラの木のある未亡人の屋敷に下宿すると、しばらくして、その家の親戚にあたる若い女性が山形県の鶴岡からやってきた。 服部小雪といい、教師の口を求めてのことだった。 同じ屋根の下に暮らす二人は、いつしか親しく会話を交わすようになった。 やがて、彼女に縁談が持ち上がると、邦は行動に出る。 ある朝、学校へ出かける前に、「小雪さん、ウェブスターの中を見て下さい」と言った。 求婚の手紙を入れて置いたのだった。

 釜山にいて直接父に会えない邦は、明治学院時代の親友、日高善一を父・林蔵のもとに送り、結婚の許可を求めた。 若い牧師の来訪に林蔵は驚いたが、「思い立つと、決断が早い」人間で、結婚を承諾すると、早速鶴岡に行って話をまとめている。 仲人も立てず、父親が直接出向くのは極めて異例で、そのうえ小雪の服部家は庄内藩の藩士、佐々木家は平民だった。 何と言っても、林蔵の人柄である。 林蔵は、邦の真面目な人柄や将来性を説き、二人の気持が真摯で固いことを訴え、小雪の両親を説得したのだろう。 邦は、「親の恩、けっして忘れるべからず」と、明治41年6月15日の日記に書いている。 その6月、二人は釜山で結婚し、夏休みに上京、初めて父母と弟たちに小雪を紹介した。 いたってカジュアルで、林蔵も邦も小雪も、世間体や体裁にこだわらない合理主義者だったようだ。

鶴見俊輔さんの「普通人(コモン・マン)」と佐々木邦「凡人伝」2026/07/01 08:17

 25日の<等々力短信 第1204号>佐々木邦(くに)を、ご存知ですか?に、松井和男著『朗らかに笑え ユーモア小説のパイオニア佐々木邦とその時代』で、松井さん自身は佐々木邦のユーモア小説を、「サザエさん」の長谷川町子に近しいものと感じていると書いた。 それは実は、鶴見俊輔さんの指摘によるものだと、あった。

 「哲学者の鶴見俊輔は大衆文学や漫画に日本人の生活に密着した哲学を探ったことでも知られるが、『長谷川町子の作品は、昭和前期の佐々木邦のユーモア小説をつぐもの』と指摘し、『普通の人間として生きてゆけばいい』という観点に立てば、『戦前のタイプの立身出世を信じている人がおかしく見える』し、『政府の命令一つで私生活を犠牲にして何でもするという気にならないことはたしかだ』という。鶴見は「普通の人間」を「普通人(コモン・マン)」と呼んでいるが、それは、肩書や地位を問題にせず、自分の頭でモノを判断する、自立したバランス感覚の持ち主であり、一つの「思想」なのである。(『サザエさん』の〈昭和〉(鶴見俊輔・斎藤愼爾編 柏書房 2006年)による)」

 松井和男さんは、それを「凡人伝」という小説を使って、以下のように説明する。

 佐々木邦に、自伝的な色彩の濃い「凡人伝」という小説がある。 主人公は旧制中学の英語教師で、十人の子供を抱え、その養育費を稼ぐため、夜学校を含め三つの学校で週四十九時間の授業をこなしたうえ、家庭教師を引き受け、受験参考書を執筆するという奮闘の日々を送っている。

 あるとき、英語の教材として集めた文章のなかに「ナポレオン伝は何百冊とあるが、それを読んでナポレオンになったものは未だ嘗(かつ)て一人もいない。今日の社会でナポレオン伝よりも読んで参考になるのは凡人伝である」という言葉を見つけ、自伝の執筆を思いつく。

 邦の母校をモデルにした「世間的に振るわない」ミッション・スクールを卒業。 「ロマンスぬきの結婚」をし、次々と子宝に恵まれ、今日に至った半生を振り返った末、「お互は子供を立派に育て上げる外に何も能がないようだ」「凡人の非凡事はせめて己を凡人と悟ることだ。そこに聊(いささ)かながら安心と立命がある」と得心する。

 「ナポレオン伝」より「凡人伝」。 それは、明治以来の「立身出世主義」からの脱却であり、「普通の人間として生きてゆけばいいという安心」に通じる。 その普通の暮らしの肯定が「サザエさん」に受け継がれたのである。

佐々木邦(くに)を、ご存知ですか?<等々力短信 第1204号 2026(令和8).6.25.>2026/06/25 07:12

 松井和男著『朗らかに笑え ユーモア小説のパイオニア佐々木邦とその時代』(講談社・2014年)という本がある。 松井和男さんはテレビディレクター、佐々木邦の孫にあたる。 丸谷才一は、亡くなる直前の最後の連載「男の小説」(『オール讀物』2011年1月号)第一回に「佐々木邦の戦前日本」を書いた。 邦を「ユーモア小説の第一人者、探偵小説における江戸川乱歩のやうな存在」とし、二人の少年の「末は博士か、大臣か」の成長物語である小説「地に爪痕を残すもの」を、「いくら秀才でも所詮は凡人で、凡人の生涯は成功し栄達を極めてもつまりはこんなものさといふ気持かもしれない」「寂しいけれど、一体に優しくいたはつてくれるので、切なくはならない。」と。

 「苦心の学友」「主権妻権」「愚弟賢兄」「ガラマサどん」など邦の作品は、小市民的な家庭に取材したものが多く、良識に支えられた健康で明るい世界観は、昭和初期の大衆読者に迎えられ、ユーモア文学における佐々木邦時代をつくったといわれている。 松井和男さんは、ユーモア小説の系譜でいえば、邦につづく作家は獅子文六や源氏鶏太になるのだろうが、自分はむしろ「サザエさん」の長谷川町子や向田邦子に近しいものを感じるという。 彼女たちの描く世界が、邦の開拓した「家庭風景ユーモア小説」と重なるからだ。 国家の掛け声やイデオロギーに振り回された男たちと異なり、戦前、戦後を一貫して、生活者としてのバランス感覚を失わなかったからだろう、と。

 実はこの本、邦と父・林蔵との二人の物語である。 林蔵は、安政4(1857)年三島と沼津の間の小さな村の大工の次男に生まれ、夫婦養子で佐々木家に入り、邦が3歳になった明治19(1886)年、村の大工が一念発起、ドイツ人ウィルヘルム・ベックマンの「明治の東京計画」特に帝国議会議事堂建設のために西洋建築を学ぶ技師・妻木頼黄(よりなか)以下20名の一行にもぐり込み、3年間のドイツ留学へ出発した。 「負けない男」林蔵は苦労して、語学、金箔、石膏細工、オーナメント(建築模様)を学んだ。 帝国憲法発布の明治22年に帰国、仮議事堂衆議院建設の現場監督になった。

 早稲田中学を病気で中退した邦は、16歳の明治32(1899)年に青山学院に入り、35年に慶應義塾理財科予科に進むが、周りは「俗物」ばかりだったので、英語だけを熱心にやり、36年明治学院高等学部に移る。 朝日新聞に原抱一庵がマーク・トウェーンの短篇「シーザー暗殺」を訳し、山県五十雄が「トウェーンは好い加減な英語の力では読みこなせない」と批判したのを読み、邦はトウェーンを読んでみようと発奮する。 慶應で他者に出会い、自分探しに彷徨(さまよ)い込んだ邦は、トウェーンに出会って、明治学院で世界と和解し、自分の思想を鍛え、書くことを始めたのである。

詩人・茨木のり子の墓が、なぜ山形県鶴岡市にあるのか2026/06/07 07:20

 岩波の『図書』6月号が、大阪で生まれ、東京で死んだ詩人の「茨木のり子生誕100年」特集だ。 目次の上の「“読む人”・書く人・作る人」に、文庫版『倚りかからず』のあとがきを書いたという山根基世アナウンサーが「「倚りかからず」再読」を書いている。 あとがきには、ラジオ番組に出演してもらった時の茨木のり子さんの言葉をそのまま、「少女時代に父親から聞いた『依頼心を捨て、親子兄弟といえども独立独歩でいくべきだ』という言葉が種になり、40年あまり経て生(な)った詩だ」と、書いた。 けれど、その後改めて茨木さんの文章を系統立てて読んで、それほど単純なものではないと反省した、とある。 あの短い詩に、どれほどの思考の厚みがあるのかと、いくつかの例を挙げている。 その一つ「天皇を崇拝していた祖母と一緒に、庄内のあぜ道で見た昭和天皇の巡幸」で、私が思い出したことがあった。

 5月2日に書いた「半蔵門ミュージアムの大日如来坐像」のことを思い出させてくれた家内の友人のブログである。 彼は茨木のり子の愛読者で、鶴岡市加茂の浄禅寺にある、その墓を訪れたことを書いていた。 加茂は、クラゲの展示で知られた水族館があり、佐藤賢一『釣り侍』で加地となっているところだと思われる(「加地(加茂か)」「等々力短信」1202号)。 そのブログを読んだ時、なぜ詩人・茨木のり子の墓が、山形県鶴岡市にあるのだろう、と疑問に思った。

「天皇を崇拝していた祖母と一緒に、庄内のあぜ道で見た昭和天皇の巡幸」と、鶴岡市加茂の浄禅寺にある茨木のり子の墓、茨木のり子と庄内、鶴岡は、どんな関係があるのだろうか。 それは、また明日。