「パンマ」って何? なぜ「純喫茶」というのか?2026/08/30 07:34

 吉行淳之介については、25日の「等々力短信」第1206号「おしゃべりな銀座」で、昭和39(1964)年「砂の上の植物群」を読んだかと、集金に行った新橋見番の事務の人に聞かれた話と、銀座百点編『おしゃべりな銀座』の、小説家の金井美恵子の「奇妙な思い出」(2011年4月号)から、吉行に会うと、女たちが心底うれしそうな晴れ晴れとした表情を浮かべて彼を見つめる、そのモテぶりについて書いた。

 紙幅の関係で書けなかったのだが、そのモテ方は、ジャン・ルノワールが自伝の中で書いていたサン=テクジュペリの魅力と同質のモテ方だろう、とあった。 金井美恵子さんが、姉さんと一緒に映画を見に銀座に出て、たまたま喘息の発作が起きかけたので映画館を出てきたという吉行さんに、ばったり会ったりしたことが二度ほどあった。 そのどちらのときも銀座のバーのホステスなのだろうかと見える女性と一緒だったのだけれど、二言三言その女性に小声でなにかを言ってごく自然に、自分たちに気をつかわせずに別れて、お茶でも飲むかい? と誘ってくれるのだった。 別のとき、銀座の小さなバーで夕方待ち合わせてそれから別のところで食事をご馳走してくださるというので行くと、お客の来ていない店内に銀座のホステスには見えない、ホット・パンツの若い女性が二人いて、自分たちはホステスではなくアンマだと言うのである。 マッサージを? と眼を丸くして訊くと、二人は、首を振ってパンマ、パンマと明るく答えるのだった。 少しして現れた吉行さんは、あれ、いたの? と彼女たちに声をかけ、彼女たちは、うん、もう行くところ、と答えて店を出た。

 「パンマ」を知らなかったので、検索すると、AIは、「戦後日本の隠語・俗語で、進駐軍などを相手にした街娼である「パンパン」と「按摩・マッサージ」を合わせた言葉(「パンパン的なあんま」の略称)です」と答えた。

 これはNHKの『チコちゃんに叱られる!』には出ないだろうが、「何で「純喫茶」というのか?」という問題は、あった。 文春文庫の『おしゃべりな銀座』の、詩人・仏文学者・翻訳家の宗左近さん(1919-2006)の「思い出の街は銀座」(2005年11月号)に、その答があった。 北九州戸畑に育ち、旧制小倉中学を出て、旧制高校への浪人をしている頃、父が死に上京する。 東京での生活費のほとんどは自分で稼がなければならない。 「求人」の貼り紙を見て、直接当たったのが、「まず、国鉄新橋駅のすぐ前の、新興喫茶『処女林』。 普通の喫茶店と違っての〝新興〟とは、女給さんがお客さんの好きなところを触らせてくれる革新性をもつ、ということでした。わたしの仕事は、入れ込みのボーイ。「イラッシャイ、マセ!」と抑揚をつけて、怒鳴ってから、席まで案内すること。一晩でサヨナラしました。わたしだけが、「処女」ならぬ処男だったからです。」

 銀座百点編『おしゃべりな銀座』(文春文庫)、小人閑居老人も、いろいろと勉強になる。

隈研吾「ブルーノ・タウトの小箱」2026/08/29 07:37

 <白服の街頭写真父銀座>という句をつくったことがあった。 銀座といえば、「街頭写真」だったが、今の人は知らないだろう。 その父は、『文藝春秋』とか『オール読物』とか以外、あまり本を読む人ではなかったが、中延の家の二階の廊下にあった開きの中に、若い頃に読んだのであろう本が何冊かあったのを覚えている。 『道徳科学講義録』の揃い、『法隆寺』、ブルーノ・タウトの『日本美の再発見』。 それを思い出したのは、文春文庫の『おしゃべりな銀座』に、建築家の隈研吾さんが「ブルーノ・タウトの小箱」(2005年5月号)があったからだ。

 隈研吾さんが小学生のころ、父親が応接間の棚の上の方から、小さな木製の箱を下ろしてきた。 直径20センチ、高さ10センチほどの、上品な光沢のある、円形の蓋付きの箱だった。 ブルーノ・タウトという有名な建築家がデザインしたもので、銀座七丁目の店で買ったと自慢話をした。 父は明治42(1909)年生まれで(馬場の父より2年上)、日本橋に育ち、二十代の遊びざかりは銀座を庭にしていたらしい。

 その小箱の裏には、カタカナと漢字で「タウト/井上」という焼き印が押してあった。 隈さんは、大学で建築を勉強しはじめ、ブルーノ・タウトについて調べているうちに、「タウト/井上」が、建築史のエピソードとして知られる、価値のあるアイテムであることを知った。

 ブルーノ・タウトは、ナチス・ドイツから共産主義者という嫌疑をかけられ、1933年シベリア鉄道でドイツを脱出し、日本海を渡って日本にたどり着いた。 身寄りも知人もない極東の異国日本で、この建築家を助けたのが、高崎の建築会社、井上工業のオーナー井上房一郎だったのである。

 井上は高崎の達磨寺という寺の一室をタウトに提供しただけでなく、タウトに家具や小物を自由にデザインさせ、それらを販売する店「ミラテス」を銀座七丁目の角に開いた。 そこで売られていた物にはすべて、「タウト/井上」の焼き印が押してあった。

 井上房一郎は、戦後も映画『ここに泉あり』で知られる群馬交響楽団の設立の中心人物として活動したり、自分のアートコレクションを寄付して、群馬県立近代美術館をたちあげ、設計を若き磯崎新にまかせるなど、目利きの文化のパトロンとして活躍する。

 1989(平成元)年、バブルの真最中、隈さんはタイのプーケットの沖、マイトンという小島に、リゾートホテルをつくるプロジェクトの設計を依頼される。 その中心人物が、井上房一郎の孫、健太郎さんだった。 どうしても話が聞きたくて、90歳を超す房一郎さんを高崎に訪ねると、「タウトは、図面を書くのが早い男で、もぞもぞひとり言をいいながら、あっという間に図面を仕上げちゃうんです」と、記憶は鮮明だった。

 1993(平成5)年、バンダイの山科誠社長から熱海のゲストハウスの設計を頼まれた。 敷地を調査していると、隣の婦人が挨拶に見え、興味をもたれるだろうと、その家を案内してくれた。 それがブルーノ・タウトが設計したまぼろしの住宅といわれる日向邸だったのである。 日向邸はすばらしかった。 タウトの人生の蓄積が、そのディティールの隅々に込められていた。

 隈研吾さんは、振り返ってみれば、父が棚の上の方から大事そうに下ろしてきたあの小箱が、自分の人生をリードしてくれたような気がする。 タウトが導くままに図面をひいてきたといってもいい。 とすればある日の夕方、会社帰りの父が、銀座七丁目の角のショーウインドウをのぞいていた一瞬から、すべてがはじまったのかもしれない、と書いている。

蔦に覆われた高級洋食店、「みかわや」2026/08/28 07:18

 銀座の食べ物屋の思い出は、いろいろある。 母親の買い物に、付いて行った幼少の頃、銀座へは第二京浜国道の中延から東京駅行の東急バスで行った。 当初は横浜駅が出発点で、途中から多摩川大橋からになった。 大型のトレーラーバスだった時期もあった記憶がある。 五反田から、猿町(今の高輪台)に出て右折、高輪台上の道を伊皿子から聖坂を降りて、日比谷通りに出て、増上寺の山門を右折、第一京浜に出て、新橋、銀座に至るコースだった。 当時、白牡丹の隣あたりに(今のコアビルか)、月ヶ瀬とコックドールが並んでいて、路地の奥にあんみつの若松があった。 洋食というとコックドールで、中華は五十番か大三元(?)、甘味屋は小倉アイスの立田野だった。 大好きな「スマックアイス」という棒状のチョコレートでコーティングしたアイスクリームが懐かしい。 売っていたのは、オリンピックか、不二アイスという店だったか。 五丁目近辺の店が多いのは、松坂屋の前の小松ストアが、当時は新しく洒落た感じだったので、母がよく行ったのだろう。

 後年、家族で誕生日などの食事となると、みかわやと、八丁目の千疋屋だった。 八丁目の千疋屋がなくなったのは、今でも残念だ。 みかわやでは、岡田三郎助の油絵の掛かった、隣のテーブルで、棟方志功がお仲間と身振り手振りを加え、大声でしゃべっていたことがあった。

 みかわやについては、文春文庫の『おしゃべりな銀座』に、グラフィックデザイナーの寄藤(よりふじ)文平(1973年、長野生れ)が「ステーキとノコギリ女」(2014年5月号)を書いている。 20年前、銀座四丁目の王子製紙前の王子サーモンの店になっているところが画廊で、美術大学でつくった作品を展示することになり、初めて銀座に来た。 準備が終わった後、あまりに腹が減っていたので、三越の裏手を歩いて、蔦に覆われたボロい定食屋に入った。 ほかのお客さんがジロジロ見ていて、「お食事、召しあがりますか?」と聞く店員の眼が微妙に困惑している気がした。 膝の抜けたジーンズにヨレヨレのパーカー、しかも風呂に入っていなかったから顔は黒く髪はフケだらけだった。 あとで知ったが、そこは「みかわや」という高級洋食店であった。 しかし、ここで帰るのはなんだか悔しいような気がした。 このまま帰ってたまるか、食ってやる。 断固、食ってやる! そんな意味不明の憤りがこみ上げてきたのである。 「この、フィレステーキのやつ、ください」

 自分の意地と今月の生活費の全額をそのステーキに張ったのである。 だが、小さい。 腹ぺこの学生にとって、あまりに小さい肉だった。 なるほど、これが銀座のステーキか、わかった、これで腹はふくれまい。 そのかわり完璧に食ってやる。 俺が銀座に負けてないところを見せてやる。 父に教わった丁寧なナイフの使い方をするために、背筋を伸ばした。 おそらく、人生で最も丁寧に味わったステーキであろう。 正直、味はわからなかったが、その所作は完璧だったと思う。

 その七年後、寄藤文平さんは、銀座にデザイン事務所を構えることになって、それから十三年、銀座にいたという。 あれっきり一度も行っていないけれど、次に行くときは、きちんとした格好で行こうと思っているそうだ。

「銀座の老舗のうなぎ屋」2026/08/27 07:12

 3月に家内と東銀座の画廊に友人の写真展を見に行き、どこかで昼飯をということになって、五丁目の竹葉亭に行った。 私は鯛茶、家内は幕の内弁当にして、味はもちろん、落ち着いた老舗らしい雰囲気とサービスに、満足した。 脱線するが、先日幕の内弁当について、崎陽軒がシウマイ弁当の値段を維持するために、鶏肉をエビチリに変更したとかいうテレビの話題で、「幕の内弁当」は大相撲観戦で食べることと関係していて、小さなおむすび(小結)が中に入っているとか、言っていた。 これはどうも俗説で、「(芝居の幕間に食べたことから)胡麻をかけた小さな握り飯とおかずを詰め合わせた弁当。幕の内弁当。」と、『広辞苑』にある。

 実はこの時、竹葉亭で『銀座百点』をもらって来たことが、今回の掲載のきっかけになったのだが…(『銀座百点』8月号に「わたしの銀座」を書きました<小人閑居日記 2026.7.31.>。 竹葉亭では、私はいつも鰻重を食べる。 「銀座の老舗のうなぎ屋」が、竹葉亭とは書いていないが、文春文庫の銀座百点編『おしゃべりな銀座』に、小説家の乾ルカ(1970年、北海道生まれ)が「田舎者、銀座を歩く」(2015年10月号)に、面白い話を書いている。

 7、8年前、老両親と中年女(自分)の三人で、珍しく夕食に焼き肉をすることになった。 二種類の焼き肉のたれを用意し、なんとなくラベルを見た。 賞味期限が切れていた、それも派手に年単位で。 ぎょっとして、もう一つを見ると、2000年と印字されていた。 とにかく世紀をまたいでいる、前世紀の遺物だった。

 しかし、父は動じなかった。 「そんなもん、銀座の老舗のうなぎ屋なら、三百年も前から秘伝のたれを使っている」。 父の一言で、あっけないほどあっさりと事は収まった。 「ああ、なるほどな」と納得してしまったのだ。 三人で美味しくいただき、お腹もこわさなかった。

 ここで言いたいのは、『銀座』という言葉が持つ説得力には、並々ならぬものがある、『老舗』がつけばなおさら、田舎者をねじ伏せる一層の力を発揮する、ということだ。 生半可なことでは物事は続かない。 お店ともなれば、必ずや顧客からの信用、信頼がなくてはならない。 高級感あふれる立地で、信用、信頼を得ているところは、安心できる。 利用して間違いないと思える。

「墓場から銀座まで」高野秀行2026/08/26 07:18

 文春文庫の銀座百点編『おしゃべりな銀座』だが、47人の作家・俳優・映画監督・アーティストらが、銀座のとっておきの思い出を『銀座百点』に書いたエッセイをまとめている。 昭和16(1941)年生まれの私から見ると、『銀座百点』に書く人もずいぶん若くなった、知らない人が多いな、というのが第一印象だった。(以下、敬称略) 戦前生まれは5人だけで、宗左近(1919-2006)、堀威夫(1932)、岡田茉莉子(1933)、中川李枝子(1935-2024)、金子國義(1936-2015)、しかもご健在なのは2人だけである。

 1940年代は、等々力短信に引いた金井美恵子(1947)のみで、私より若い。 50年代は15人、井上夢人(1950)、森村泰昌(51)、岩松了(52)、田中芳樹(52)、隈研吾(54)、佐藤雅彦(54)、保坂和志(56)、都築響一(56)、白井晃(57)、菅啓次郎(58)、南條竹則(58)、有栖川有栖(59)、植松伸夫(59)、小池昌代(59)、湯本香樹実(59)。

 1960年代は、15人。 1970年代は、8人。 1980年代は3人、似鳥鶏(81)、藤野可織(80)、朝吹真理子(84)。

 『おしゃべりな銀座』を読んで、まず感じるのは、小説家が文学賞や新人賞を受賞して、最初に編集者に連れて行かれるのが「銀座」だということだ。 かつて文藝春秋社があったり、文士の通う文壇バーがあったり(今もあるのか)、朝吹真理子が吉田健一のお化けがカウンターに座っていそうだと書いている小料理屋があるからなのだろう。

 ノンフィクション作家の高野秀行(1966年生まれ)は、2013年夏『謎の独立国家ソマリランド』で講談社ノンフィクション賞を受賞した。 ちょっと無頼派をきどっていて、それより前、同業の妻が、小学館ノンフィクション大賞を受けた東京會舘での授賞式には、ジーンズにTシャツ、ビーサン(ビーチサンダル)で、ミャンマーの反政府ゲリラ「カチン独立軍」にもらった迷彩ジャケットを羽織って出かけた。 それを妻に、あの時は「ファッションの墓場」、今は「墓場の門の前」と言われる。 本人の授賞式は、どうしたものか。 妻は、「いい年して公共の場で斜に構えるほど格好悪いものはない」という。 たしかに、もう四十代後半だ。 かといって、スーツの一着も持っていない。

 困り果てて友人で、作家の内澤旬子さんに相談した。 すると、男気があり、出版界のお洒落番長とも呼ばれている内澤さんは、「あたしに任せなさい!」と力強く言い放ち、銀座へ連れて行った。 腕を引っ張るようにして、有楽町の阪急メンズ館に行き、まずダンヒルでスーツを試着。 ダンヒルってライターメーカーなのにスーツもつくっているのかと、これは冗談でなく驚いた。 「これは修行だ」と自分に言い聞かせ、心頭滅却すればメンズ館もまた涼し。 メンズ館の店をはしごしながら、まるで着せ替え人形のように、ただただ渡された服を着たり脱いだりして、時が過ぎるのを待っていた。

 二時間後、魔窟のようなメンズ館を脱出したと思ったら、今度は入口に仁王像みたいに背の高い男二人が立ちふさがっている店に入っていく。 バーニーズ・ニューヨーク、内澤さんと親しい、雑誌「クロワッサン」の編集者の方が、「コンシェルジュ」を予約してくれているという。 現れたカモダさんというコンシェルジュの人は、スゴ腕だった。 ネットで前もって調べ、身長・体重などのデータをいっさい知らせていないのに、画像などからサイズを推測、また講談社ノンフィクション賞の歴代の受賞者や授賞式の雰囲気まで調べて、私たちが到着したときには、もう候補のスーツ数着を用意していた。

 着てみると、これがどれも体にピッタリ。 「うわっ高野さんが急にかっこよくなった!」と内澤さんやクロワッサンの人も驚くほど。 さすがファッションの中心地・銀座のプロである。 墓場近辺の住人ですら、あっという間に高級マンションに移住させてしまう。