六代目三遊亭円生が亡くなった時の「等々力短信」 ― 2026/04/06 07:12
昨日、三遊亭円朝は、初代円生の墓前で衰退した三遊派の再興を誓って円朝を襲名し、師二代目円生が亡くなると墓を立て、遺児二人を養育した、と書いた。 私が落語研究会で聴いていた三遊亭円生は、六代目。 新宿に住んでいたところから柏木の師匠と呼ばれていた。1979(昭和54)年9月3日、79歳で亡くなった。
その直後の9月15日に、私はまだハガキ通信だった「等々力短信」第158号に、こう書いていた。
「この十一年間、毎月一度三、四十分の話を聞き続けてきた人が突然なくなって、がっかりした。 オヤジが死んでも、あんな顔をしないだろうと、当の父がいった。 話の内容は江戸、明治の庶民生活や人情の機微、歌舞伎や音曲、遊びの心とユーモア、そして人生論一般と広範にわたる。 その人の名は山崎松尾、六代目三遊亭円生である。
死の報に接し、早速「浮世風呂」のテープを聞く。 そしてあらためて失ったものの大きさを感じた。 芸は人についているもので、人が死ねば、その芸もまたあの世に行ってしまう。 五歳の頃から義太夫を語り、寄席で育って、十歳で噺家となって七十年、この人でなければ出来ない噺も多かった。 『円生全集』(全十巻別巻三巻)その他の著書、近年心して自分の継承したものを伝えたいと信念を燃やした『円生百席』等のレコードが残されたこと、話し終って倒れた噺家らしい最期、それがせめてもの慰めだ。」
『この国のかたち』の福沢諭吉<等々力短信 第1201号 2026(令和8).3.25.> ― 2026/03/25 07:01
司馬遼太郎さんの『この国のかたち』が、2000年に文春文庫の6冊本になった時に読んで、一冊のノートに自分なりの「索引」をつくった。 そのノート、ずっと頭の片隅にはあったが、行方不明になっていた。 最近、それが出て来たのである。
たとえば、「福沢諭吉」。 ①70・120・160 ②108・161 ③134→⑥211にも ④51・193 ⑥132・219。
第1巻70頁は5「正成と諭吉」。 『学問ノスヽメ』第7編、西洋の〝マルチルドム〟(martyrdom)にくらべると、日本のは「旦那への申訳にて命を棄たる者」にすぎないと論じて物議をかもした「楠公権助論」。 昭和7,8年前後から尊王論が国民教育の上で凝縮され、「楠木正成」は固有名詞を超えて思想語に近くなった。 明治憲法はりっぱに三権分立の憲法で、三権に統帥権は入らない。
第3巻134頁61「脱亜論」。 「福沢諭吉には、瑕瑾(かきん)がある。人によっては玉に疵(きず)どころじゃない、とみる。」 明治18(1885)年3月、主宰する時事新報に書いた「脱亜論」、第二次大戦後、多くの人々に槍玉にあげられた。「福沢はアジアをバカにしている、自国独善主義である、〝入欧〟一辺倒主義である、すなわち明治後の〝日本悪〟を象徴している、などといわれた。/私などのような福沢ファンにとって手痛いのは、論文の末尾に、列強のアジア侵略を是認しているところである。しかも日本もそれに加われという。まことにけしからぬ。……丹念に読んでみることにする。」
第6巻132頁は「言語についての感想(五)」。 「近代社会は、商品経済の密度の高さと比例している。商品経済の基礎は、物の質と量を明晰にすることを基礎としているが、文章もまたその埒(らち)外ではない。」「福沢諭吉の文章もまた、漱石以前において、新しい文章日本語の成熟のための影響力を持った存在だった。かれは、自分の文章は猿にさえ読めるように書くといった人物である。」「(福沢)でさえ、自分の文章から脱皮したのは、六十すぎに刊行した『福翁自伝』(明治31年)においてである。明晰さにユーモアが加わり、さらには精神のいきいきした働きが文章の随処に光っている。定評どおり自伝文学の白眉といっていいが、ただ重要なのはこれが文章意識をもって書かれた文章ではなく、口述による速記であるということである。」 当時、長しゃべりすると七五調になる伝統があったが、「『福翁自伝』にもその気配がにおう。このため内容の重さにくらべて、文体がやや軽忽(きょうこつ)になっている。」「しかし『福翁自伝』によって知的軽忽さを楽しんだあと、すぐ漱石の『坊つちやん』を読むと、響きとして同じ独奏を聴いている感じがしないでもない。偶然なのか、影響があったのか。私は論証もなしに、あったと思いたい。」
『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』 ― 2026/03/21 07:17
昨日「業界では〝お化け〟と呼ぶが、こつぜんと現われた大人気者には三遊亭歌笑がいた。 『歌笑純情詩集』と名付けたナンセンス創作落語が売り物だった。 この人は進駐軍のジープにひかれて死ぬ。」と引用した三遊亭歌笑だが、3月14日に東京スタジアムの話を書いた三田あるこう会で、初めに三ノ輪の浄閑寺(投げ込み寺)へ行った。 すると浄閑寺に、歌笑(本名高水治男)の墓があり、武者小路実篤筆の「三遊亭歌笑塚」があった。 歌笑夫人、高水二二子(ふじこ)の実家(松上家)が浄閑寺の檀家で墓もあったことから、ここの松上家の墓の隣に葬られたのだという。
三遊亭歌笑のことと、歌笑夫人が美人だったことを以前「等々力短信」に書いていたので、それを引く。
等々力短信 第1017号 2010(平成22)年11月25日
『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』
三遊亭歌笑の高座を見たことがある。 小学校に上がった昭和23(1948)年前後のことだ。 武蔵小山の映画館・大映は、歌笑が来るというので超満員だった。 入場にも時間がかかったのだろう、父母や兄と立見をしていて、小便がしたくなった。 我慢していたのだが、身動きが取れない上に、歌笑があんまり可笑しいので、温かいものが足を伝って流れて行った。 「電気の球の切れたのは、停電用にお使い下さい」とか、「我、若くしてトーダイを出たり、本郷にあらずして三浦三崎なり。歌笑純情詩集より」なんてぇのを憶えて、得意になってしゃべっていた。 昭和25(1950)年5月30日、その歌笑が銀座でジープに轢かれて死んだ。 三遊亭歌笑、強烈な思い出として残った。
『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』(新潮社)を書いた岡本和明さんは昭和28(1953)年生れ、“ナマの歌笑”を見ることができなかったのが、残念でならないという。 歌笑(三代目)、高水治男は大正5(1916)年に五日市で生れた。 大正6年と書く本が多いそうで、亡くなったのは33歳、新聞の死亡記事は31歳になっている。 家は女工員が50人もいる製糸工場を経営する裕福な家だったが、視力が極度に弱く、斜視で、出っ歯で、エラが張った奇妙な顔の治男は、疎外され、いじめられて育つ。 母の乳の出が悪く、預けられた家に兄照政の同級生ヒサがいて、母代わり姉代わりになり優しくしてくれたのだけは例外だった。 高等小学校を出て、家業の手伝いをしながら鬱々としていた。 ヒサや女工達の前で、歌ったり落語をやったりして、味をしめた治男は、隣町秋川出身の金語楼に入門しようと家出する。 二度目の家出で、金語楼に会えた治男は、死んだ父を知っていた金語楼に、今は芝居をやっているからと柳橋を紹介されるが、ここでも断わられる。 それを知った兄照政が、金語楼に会い、金馬を紹介してもらって、入門を許される。 この兄が、いい。 治男は厳しい金馬に度々破門されるのだが、その度に魚や酒を持って行ったり、金馬の好きな釣りに誘ったり、謝りに行く。
師匠の金馬は厳しいが、実は優しい人だった。 寄席でもいじめられ、親友の小きん(小さん)、笑枝(痴楽)、弟弟子の金太郎(小南)、名人桂文楽だけが味方で、あとは敵だった。 戦後の食糧難の世相に、妙な顔を逆手に、歌や、大学ノート40冊に書き溜めた小噺や詩を、リズム感のある七五調で演ずる三遊亭歌笑の芸は、底抜けの明るさとほのぼのとした温かさで、大ブレークした。 美人の奥さんももらった。
ラジオは「娯楽の殿堂」、演芸、『話の泉』『二十の扉』他 ― 2026/03/20 07:14
鴨下信一さんの『誰も「戦後」を覚えていない』の、「ラジオ.デイズ それは〈ごった煮〉の文化だった」だが、昨日見た多種類の報道.情報系番組よりも、ずっと分量が多く、生活に占めた位置が大きかったのが、娯楽番組だった。 ラジオは「娯楽の殿堂」だったのだ。 演芸は、昭和30年過ぎまで黄金期で、数多くの名人.人気者がラジオの電波に乗った。 落語の文楽.金馬.柳好がいて、志ん生も円生も苦労して満州から引き揚げてきた。 業界では〝お化け〟と呼ぶが、こつぜんと現われた大人気者には三遊亭歌笑がいた。 『歌笑純情詩集』と名付けたナンセンス創作落語が売り物だった。 この人は進駐軍のジープにひかれて死ぬ。 (『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』「等々力短信」第1017号2010(平成22)年11月25日参照) 漫談の牧野周一、大辻司郎、声帯模写の木下華声、音曲の三亀松、演歌師の石田一松など、ジャンルも人材も多彩で盛んだった。
クイズないし、その変形、いまの言い方なら知的エンターテインメント、『話の泉』『二十の扉』は、子供の私も聴いていた。 『話の泉』(昭21.12.3~39.3.31)、雑学の博識を競う番組、もとはアメリカの『Information Please』。 レギュラー回答者は、堀内敬三(音楽評論家、数々の名訳詞がある)、山本嘉次郎(映画監督、『海軍』等が代表作、黒澤明の師)、渡辺紳一郎(新聞記者、コラムニストの〝はしり〟のような人)、サトウ.ハチロー(詩人.作詞家、ややトンチンカンで、しかしユーモアあふれる答をする役割)。 司会は、最初は徳川夢声で、和田信賢アナに替わり、以後高橋圭三、鈴木健二と、NHK名物アナの指定席になる。
ほぼ一年遅れで『二十の扉』(昭22.11.1~35.4.2)が始まる。 これももとはアメリカの『20 Question』、この〝て〟の番組はもちろんCIE(民間情報教育局)の指示でできたものだが、これは良いことをしてもらったと感謝していい、と鴨下信一さん。 万物を動物.植物.鉱物にわけて、20の質問の間に当てるもの。 司会は藤倉修一、回答者は作詞家の藤浦洸、医師で随筆家の宮田重雄、推理作家の大下宇陀児(うだる)、新聞記者の塙(はなわ)長一郎、女優の竹下千恵子(後に柴田早苗)だった。
昭和24年には、新しい二本が始まる。 『私は誰でしょう』(昭24.1.2~44.3.23)は司会高橋圭三。 聴取者が登場するのがユニークで新しかった。 純粋に日本産なのが『とんち教室』(昭24.1.2~43.3.28)、言葉遊び、洒落.地口.物は付け.見立てなどの趣向に富んだもので、司会は先生、回答者は生徒で、青木一雄アナが先生、生徒は石黒敬七(柔道家、長くフランスで教えていた、本業はユーモリストと称し、ガラクタを蒐集)、長崎抜天(漫画家)、春風亭柳橋(落語家)、三味線豊吉(俗曲の名手)。
「日曜美術館50」和田信賢アナの娘 ― 2026/03/17 07:07
先週8日と、今週15日のNHK「日曜美術館」が「日美50」特別アンコールということで、50年半世紀の番組アーカイブスの中から選りすぐりを放送していた。 1980(昭和55)年9月「私とベイコン 大江健三郎」、1980年2月「私とピカソ 岡本太郎」。 20世紀イギリスを代表する画家というフランシス・ベーコンは、知らなくて、絵を見たこともなかった。 大江健三郎さんが、(ロンドンで?)展覧会を見る機会があったのに、見るのを止めたことがあったと話していたが、とても気持の悪い絵で、それで私も見る機会がなかったのだろうと思った。 番組が終わっても、気持の悪さが残った。 岡本太郎さんは、若い時ピカソの静物画に感激して、抽象へ向かったが、ピカソを越える、感激したものを越えなければならないと話していた。 子供のような絵も、一律にピカソだからと有難がるのも、批判していた。
その両方の番組の、司会者とアシスタントが、西橋正泰アナと藤堂かほるさんだった。 藤堂かほるさん、当時一年ほどアシスタントを務めているが、あの和田信賢さんの没後に生まれた娘だという。
和田信賢さんのことは、2023年8月14日に放送されたNHKのドラマ『アナウンサーたちの戦争』を見て、いろいろ書いていた。 日本のラジオ放送は二年後の2025年に百周年、そして「等々力短信」は五十周年を迎える、「思えば長く続けてきたものだ、何とかそれまで元気で続けていたいと、思う。」とあった。 それを二回に分けて再録する。
『アナウンサーたちの戦争』のアナを知っていた<小人閑居日記 2023.10.12.>10/11発信
敗戦記念日の前日、8月14日に放送されたNHKのドラマ『アナウンサーたちの戦争』(脚本・倉光泰子、演出・一木正恵)を録画しておいたのを、ようやく見た。 日本のラジオ放送は1925(大正14)年に始まったから、二年後には百周年を迎える。 実は「等々力短信」の前身「広尾短信」は1975(昭和50)年に創刊したから、それで二年後には五十周年を迎えることになる。 ラジオ放送の半分、思えば長く続けてきたものだ、何とかそれまで元気で続けていたいと、思う。
私は長く生きているので、『アナウンサーたちの戦争』に登場するアナウンサーたちの内、知っている名前が何人もあった。 戦後、物心ついた頃は、ラジオ放送の時代だったからだ。 主人公の和田信賢(森田剛…宮沢りえの夫と聞いていたが、顔は馴染がなかった)、妻になる大島(和田)実枝子(橋本愛(語りも)…大河ドラマ『青天を衝け』で渋沢栄一の妻)、館野守男(高良健吾)、今福祝(浜野謙太)、志村正順(大東駿介)、松内則三(古館寛治)だ。 和田信賢は「話の泉」の司会で、志村正順、今福祝(はじめ)はスポーツ中継で、和田実枝子は子供番組などで、館野守男は解説委員として記憶している。 これは当然聴いていなかったが、ワダチン和田信賢は、「双葉破る!双葉破る!双葉破る! 時、昭和14(1939)年1月15日! 旭日昇天、まさに69連勝。70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭・安藝ノ海に屈す! 双葉70連勝ならず!」と叫んで実況、松内則三は、戦前の六大学野球で「夕闇迫る神宮球場、ねぐらに急ぐカラスが一羽、二羽、三羽」の決まり文句で有名だったという。(なお、「前畑ガンバレ」は河西三省アナウンサー)。
和田信賢アナは、酒豪で知られ腎盂炎を患っていたが、1952(昭和27)年ヘルシンキのオリンピック中継に派遣され、実況を終えて帰国する途中、五輪期間中に白夜で睡眠不足となっていた疲労の治療で入院したパリ郊外の病院で8月14日に客死した(享年40歳)。 診察した日本人医師は加藤周一で、容態はかなり重篤、和田はその直後に亡くなったと、加藤周一の『続 羊の歌』にあるそうだ。
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