等々力短信 第1167号は…2023/05/25 07:11

<等々力短信 第1167号 2023(令和5).5.25.>世界の人が行きたい盛岡 は、5月18日にアップしました。 5月18日をご覧ください。

万延元年遣米使節団の通訳2023/05/22 07:08

 中浜万次郎が咸臨丸で遣米使節に通弁主任として随行し、福沢諭吉と一緒だったことから、福沢の三度の洋行に通訳として同行した顔ぶれのことを考えた。 三度目、つまり二度目のアメリカ行き、慶応3(1867)年、小野友五郎の軍艦引取り交渉の遣米使節の時の通訳として、津田梅子の父、津田仙が、福沢、尺振八と三人で随行した。 それを、津田梅子の父、仙<等々力短信 第1153号 2022(令和4).3.25.>に、書いていたからである。

 万延元(1860)年遣米使節団は、日米修好条約の批准書交換のため、外国奉行新見(しんみ)豊前守正興を正使とした本体は米艦ポーハタン号で渡米し、別に軍艦奉行木村摂津守喜毅、勝海舟らは咸臨丸で随行した。

 服部逸郎さんの『77人の侍アメリカへ行く 万延元年遣米使節の記録』(講談社文庫・1974年)の77人は、使節団本体の方で、その構成に「通弁方(Interpreters)」として3人の名前が挙がっている。 名村五八郎元度(もとのり)(箱館奉行支配定役格通詞)34歳、立石得十郎長久(阿蘭陀通詞)32歳、立石斧次郎教之(のりゆき)(通詞見習、得十郎倅)17歳、である。 随行の咸臨丸の方は、「通訳方」として中浜万次郎が挙がっているだけで、福沢諭吉は、木村従者という資格である。 『福澤諭吉事典』には中浜万次郎は「通弁主任」とあるが、ほかの「通訳方」はいない。

 『福澤諭吉事典』を見たついでに、索引で名村(五八郎元度)を探したら、「名村八右衛門」があり、「福地源一郎」の項に「安政3(1856)年(2年説もある)オランダ大通詞名村八右衛門に蘭学を学び、一時その養子となる。」とあった。 ネットを検索すると、名村五八郎元度は、その名村八右衛門(名村元義、貞四郎、貞五郎とも名乗る)の長男であること、一般社団法人・万延元年遣米使節子孫の会という会のあることがわかった。

 遣米使節団副使の村垣淡路守与三郎範正は、外国奉行兼神奈川奉行兼箱館奉行、安政3年北方警衛・ロシア船対策のため蝦夷・樺太に派遣されたが、名村五八郎はその通訳・翻訳の任にあたった。 安政期、箱館には英国領事ホジソン、米国貿易事務官ライス、露国領事ゴスケヴィッチが駐在していて、通訳が必要で、名村五八郎は在勤を命じられた。 村垣淡路守範正は、遣米使節団副使として派遣されることになり、名村を首席通詞として随行させたのである。

世界の人が行きたい盛岡<等々力短信 第1167号 2023(令和5).5.25.>2023/05/18 06:53

   世界の人が行きたい盛岡<等々力短信 第1167号 2023(令和5).5.25.>

 ニューヨーク・タイムズ(NYT)が発表した「2023年に行くべき52カ所」で、ロンドンに次いで、盛岡市が2番目に紹介されたという。 NYTは選考理由に、美しい川や山に囲まれた街で、徒歩で楽しめるコンパクトさ、伝統的な建物があることなどを挙げたそうだ。 盛岡市の中心部には北上川、中津川、雫石川が流れ、秋はサケが遡上し、冬は白鳥も飛来する。 街中のどこからでも、どかんと岩手山が見える。

 末盛千枝子さんの『出会いの痕跡』(現代企画室)が、市原湖畔美術館「末盛千枝子と舟越家の人々」展の記念出版として刊行された。 中心になっているのは、2018年から4年間、岩手銀行の月刊誌『岩手経済研究』に連載された≪松尾だより≫というエッセイだ。 その随所に、盛岡が登場する。 末盛さんは、父舟越保武さんが戦争末期に疎開した故郷の盛岡で、1945年から1951年まで、4歳から10歳、岩手大学付属小学校5年生の夏までを過ごし、わずか6年だが「人生にとってかけがえのない時間でした」という。 父は大理石を彫り、粘土を使ってブロンズ彫刻を作り、盛岡城址近く、今の教育会館のあたりにあった米進駐軍のキャンプに似顔絵を描きに行っていた。

 長女の千枝子さんに二人の妹が続き、初めて盛岡で生まれた男の子が、急性肺炎のため8か月で亡くなる。 両親は、父の姉一家が属していた四ツ家のカトリック教会で葬式をしてもらい、北山の教会墓地に葬った。 仁王新町の家から、日影門外小路の小流れにかかった一枚板の石橋を渡り、一家でその教会に通うようになる。 忘れられないのは、教会の鐘の音で、最近知ったのだが、今も残るその鐘は1900年にフランスから贈られたもので、その音は石川啄木や宮沢賢治の作品にも登場するらしい。

 父の作品《原の城》《ダミアン神父》やヘンリー・アーノルドの肖像などは、岩手県立美術館に収蔵されている。 宮沢賢治の『注文の多い料理店』を最初に出版した材木町の光原社は、世界中の手仕事を集めているが、庭の喫茶店には父のデッサンが飾ってある。 中ノ橋のテレビ岩手の一階にあった(2020年11月まで)第一画廊と喫茶店舷(父の命名)の上田浩司さんは、父や弟直木さんの仕事を認めて応援してくれた。

 ブリューゲルの《雪中の狩人》の絵のような景色、岩手山を正面にみる八幡平の松尾に、千枝子さんの親友が住んでいた縁で、父保武さんが1991年に松本竣介のご子息莞さんの設計で別荘を建てた。 その家に千枝子さんは2010年5月に移住し、翌年3月11日東日本大震災に遭う。 4月から盛岡のNHK文化センターで月一回「絵本の楽しみ」講座を始めた。 被災地の子供たちに絵本を届けようと「3・11絵本プロジェクトいわて」を立ち上げると、1か月ほどで全国から23万冊の絵本が集まった。

目標を立て、そのために何をするか、を書く2023/05/09 06:53

 3月8日の朝日新聞朝刊「名将メソッド」が、花巻東高校野球部の佐々木洋監督だった。 見出しは、「「何をするか」具体的に、期限設定。自ら奮い立たせる言葉を」だった。 佐々木洋さん(47)は、1975(昭和50)年というから「等々力短信」(の前身「広尾短信」)と同じ年の岩手県北上市出身、黒沢尻北高から国士館大学へ進み、捕手で、プロ野球選手になりたい、高校野球の指導者もいいな、そんな夢を思い描いていた。 しかし芽が出ず、2年生のとき、野球部の寮を退寮させられた。 自分は一体、何をしているんだ、何をしたかったんだ。 自分の進むべき道に迷って悩んでいて、ふと入った書店で手にした一冊の本に、人生を開くヒントがあったという。

 「思考は現実化する」とあり、「夢と目標は違う」「目標には数字と期限がある」ともあった。 「目標は書け」とあったので、人生で初めて手帳を買って、書いた。 「28歳で甲子園に出る」と。 自分のやるべきことがはっきりとした。 そして、逃げ場もなくなった。

 目標を立て、そのためにすべきことを考え、自分の進むべき道を明確にする。 この方法に行き着いたのは、自分の20歳の苦い体験からだった。

 花巻東高校野球部では、部員全員が必ずすることがある。 目標を立てるのだ。 81マスの設定シートに記入する。 3×3=9マスの真ん中に最終目標、その周囲の8マスに「そのために何をするか」を書く。 これは中間目標、その周りもマスで囲い、「何をするか」を書いていく。 ポイントは、具体的な内容であることと、期限を設けることだ。

 菊池雄星(ブルージエィズ)の最終目標は「高卒でドジャース入団」だった。 中間目標には、「甲子園で優勝」「MAX155(キロ)」などとあり、155キロを出すためには「フルスクワットで140キロ」と記していた。

 設定シート以外にも、自分を奮い立たせる言葉で埋めた自作のポスターを作らせた。 大谷翔平(エンゼルス)は「世界最高のプレーヤーになる」と書いたことがあったが、2021年にアメリカン・リーグの最優秀選手に選ばれたのは、偶然ではないと思っている、という。

 生徒によく伝える、好きな言葉がある。 米国の教育者、ベンジャミン・メイズの、「人生の悲劇は目標を達成しないことではなく、目標を持たないことである」。 佐々木洋監督が、生徒や部長、コーチたちとともに、初めて甲子園に出たのは、2005年の夏、30歳のときだった。

等々力短信 第1166号は…2023/04/25 07:07

<等々力短信 第1166号 2023(令和5).4.25.>絵本が生まれたとき は、4月18日にアップしました。 4月18日をご覧ください。