等々力短信 第1185号は… ― 2024/11/25 06:59
<等々力短信 第1185号 2024(令和6).11.25.>『おきざりにした悲しみは』 は、11月22日にアップしました。 11月22日をご覧ください。
『おきざりにした悲しみは』<等々力短信 第1185号 2024(令和6).11.25.>11/22発信 ― 2024/11/22 07:03
『おきざりにした悲しみは』<等々力短信 第1185号 2024(令和6).11.25.>
岩波書店の『図書』11月号に、作家の原田宗典さんが電気アンカで足に低温火傷をした93歳のお母さんを、車椅子に乗せて病院に連れて行く話を書いている。 ある日は好天の車椅子日和、ある詩句が、ふと頭に浮かんだ。 <母よ 私の乳母車を押せ> 誰の詩だったか、病院でスマホを検索したら、三好達治の「乳母車」だった。 時はたそがれ/母よ 私の乳母車を押せ/泣きぬれる夕陽にむかつて/轔々(りんりん)と私の乳母車を押せ 原田さんは帰り道、「私よ 母の車椅子を押せ」と何度も繰り返し呟いた。 そのお母さんは、原田さんが6年ぶりに書いた長編小説『おきざりにした悲しみは』(岩波書店)を、三日かけて読み、号泣し、「あんた、やったねえ! 本を読んで、こんなに感動したのは初めてだよ。いいもの書いたねえ」と褒めてくれたという。
私は、この一文にやられて、すぐに入手し、たちまち読了した。 主人公の長坂誠は65歳、物流倉庫のフォークリフト作業員だが、大谷翔平を見ることで習慣になった5時起きからの出勤前の二時間弱が、自分が自分でいられる貴重な時間となっている。 ギターを爪弾きながら歌う、時には自分で書いた詩も…。 本を読み、小説を書き、渋谷のデザイン専門学校に行ったので、絵も描く。 「おきざりにした悲しみは」は、吉田拓郎の曲だ。 おきざりにした/あの悲しみは/葬るところどこにもないさ ああ おきざりにした/あの生きざまは/夜の寝床に抱いてゆくさ 私は年代が違うこともあり、他に歌詞の出てくる、泉谷しげる「春夏秋冬」、ブランキー・ジェット・シティ「ガソリンの揺れかた」も知らないが、藤圭子の「夢は夜ひらく」は知っていた。 先月「終の棲家」に書いた広尾の東京建物のマンションの上階に、売出し中の藤圭子が住んでいて、よく前川清が緑色のスポーツカーを前の道に停めていたからだ。
長坂誠は同じアパートの、母親が失踪した少女真子と弟の面倒をみることになる。 その真子は長坂の歌った歌を、すぐに、そっくり歌うことができる。 その歌声には何とも言えない艶があって、低音域ではドスが効いている。 藤圭子にそっくり、いや、それ以上かもしれない。 長坂の父が死んだ報せが来て、真子は人はどうして死んじゃうの? 長坂は、人がもし死ななかったら、どうなる、生き続けたら、それは地獄だ、神様は終わりを与えてくれたんだ、それまで精一杯生きるしかないんだ、と。
三好達治で、私が口ずさむのは、「冬の日」―慶州佛國寺畔―だ。 ああ智慧は かかる靜かな冬の日に/それはふと思ひがけない時に來る/人影の絶えた境に/山林に/たとへばかかる精舎の庭に/前觸れもなくそれが汝の前に來て/かかる時 ささやく言葉に信をおけ/「靜かな眼 平和な心 その外に何の寶が世にあらう」
2008(平成20)年、慶應義塾創立150年に思う ― 2024/11/07 07:10
2008(平成20)年は、慶應義塾創立150年の年で、11月8日には日吉で記念式典が挙行され、『慶應義塾史事典』が刊行された。 2009(平成21)年1月からは、「慶應義塾創立150年記念 未来をひらく 福澤諭吉」展が、東京国立博物館、福岡市美術館、大阪市立美術館で開催され、2010(平成22)年には、『福澤諭吉事典』が刊行された。
2008(平成20)年9月、私は「等々力短信」に、こんなことを書いていた。
等々力短信 第991号 2008(平成20)年9月25日
慶應義塾150年に思う
安政5(1858)年の10月中旬、福沢諭吉によって築地鉄砲洲の中津藩中屋敷で創立された慶應義塾は、今年150年を迎え、11月8日には記念式典が挙行される。 いま日本は、福沢たちが直面した幕末維新、そして第二次大戦の敗戦後に続く、第三の転機にあるといわれている。 日本の将来を、どのように構想していくのか。
今年5月30日福澤研究センター開設25年記念講演会で、寺崎修さん(武蔵野大学学長、3月まで慶應法学部教授・福澤研究センター副所長)の「福沢諭吉の近代化構想」を聴いた。 福沢の思い描いたイギリスモデルの議院内閣制は、戦後の日本国憲法まで待たねばならなかったし、政権交代を伴う二大政党制はようやく可能性が出て来たところ、財政的裏づけのある地方分権に至っては未だに入口の議論が続いている。 100年前の福沢の提言で、まだ実現していないものが沢山ある、と寺崎さんは指摘した。
昨年10月の「等々力短信」第980号「爆笑問題×慶應義塾」に、最先端の研究を進めている8人の教授陣、各分野の専門家が知恵を出して、未来を開く可能性を見た、そうだ、慶應義塾は総合大学だった、と書いた。 4月のこれも「爆問学問」の番組で、編集工学研究所長・松岡正剛さんの「編集」の意味を知った。 それぞれの知には、独自の物の見方や考え方がある。 20世紀までに、ほぼ出尽くした、それらの知を縦横に組み合わせた時、新たなアプローチが生まれるはずだ。 それを「編集」と呼ぶ。
8月、高校時代からの友人で、科学技術・生存システム研究所を主宰している神出瑞穂君と話をしていて、「全体とは部分の総和以上のものである」という「全体システム思考」の考え方を教わった。 人口、環境、資源・エネルギーなどの複雑な問題に、専門特化した学問分野の個々では対処できない。 諸科学を動員して総合的に対応する、システム化、知の構造化によって、問題解決にあたる必要性が叫ばれているという。
「未来への先導」を記念事業のテーマに、創立150年を迎えた慶應義塾は、総合大学として、各学部の総力を結集し、衆知を集めて、当面する日本の課題について、具体的な提言をしていったらどうだろうか。 「福沢諭吉の近代化構想」の実現されていない部分、「独立心」を持った国民が自発的内発的な主権者となる民主主義、官尊民卑の打破、国民精神の高尚化と民心の安定などを、現代に合わせて、どう実現させていくのか。 20年後、30年後の「この国のかたち」を、どんなものにしていくのか、を。
福沢諭吉先生原作の落語「鋳掛久平冥土の審判」 ― 2024/11/01 06:55
TBS落語研究会、国立劇場小劇場で出来なくなってから、定連席でなく、一回ごとのネットでの申し込みになった。 だから、以前から一緒に通っている仲間と、ばらばらの席になる。 それが10月22日の第676回、まったく偶然に仲間の一人と隣の席になった。 その彼が、慶應の落語研究会、オチケンのOBが、毎年開いている「慶應 落楽名人会」に行ってきたと、プログラムなどをくれた。 10月11日に深川江戸資料館小劇場で、第32回が開催された。 以前は、国立劇場小劇場の仲間の一人、同級生の雷門牛六(もうろく)が出ていた頃は、私も聴きに行っていたのだが、彼が亡くなってから、行かなくなっている。
第32回「慶應 落楽名人会」は、14時半開演の昼の部に、廿一代目道楽、五代目つばき、三代目恋歌、二代目美団治、十一代目恋生、四代目道楽の6人、18時開演の夜の部に、トモロヲ、二代目三十助゛(みそづけ)、三代目恋生、七代目美団治、ノサック(マジック)、六代目恋生、五代目空巣の8人の出演である。 演目も、昼は「松山鏡」「火事息子」「紙入れ」「宮戸川」「禁酒番屋」「文七元結」、夜は「茗荷宿」「化け物つかい」「大工調べ」「七段目」「いかけ屋」「風呂敷」と、堂々たる大ネタが並んでいる。
その中に混じって、私の仲間の友人、三代目恋生が夜の部の四番目、中ドリで演じたのが、「鋳掛久平冥土の審判」、原作福澤諭吉「鋳掛久平地獄極楽廻り」だった。 福沢諭吉先生が、『時事新報』のコラム「漫言」に掲載した「鋳掛久平地獄極楽廻り(散憂亭變調口演)」を、現代版に落語翻訳し復刻したものだという。 これはちょっと聴いてみたかった。
私は23年前に「福沢さんの落語」と題して、「等々力短信」に、この落語のことを書いていた。
福沢さんの落語
<等々力短信 第901号 2001(平成13)年3月25日>
電力の鬼、松永安左ェ門さんが、人間をダンゴにまるめる話をして、人物が大きすぎて、とても、まるめることなど出来ないのが福沢先生だと書いている。(『人間・福沢諭吉』1964年・実業之日本社) 福沢諭吉が、汲めども尽きぬ泉だということは、しばしば実感してきたが、このたびもまた、その新しい面に目を開かせられる論文を読んだ。 『福沢諭吉年鑑27』(2000年・福沢諭吉協会)所収、谷口巖岐阜女子大学教授の「「漫言」のすすめ -福沢の文章一面-」である。 福沢は明治15(1882)年に『時事新報』を創刊し、それから死ぬまでの20年近くの間、ずっと今日の「社説」のような文章を書き続けた。 その量は膨大で、『福沢諭吉全集』21巻中、9巻を占めている。 その新聞論集の中に、「社説」と平行して収められている「漫言」307編に、谷口さんは注目する。 福沢は、奔放で多彩で茶目気タップリな「笑い」の文章を創造し、その戯文を楽しみながら、明るく、強靭な「笑い」の精神で、時事性の濃い社会や人事全般の問題について、論じているというのである。
「漫言」の一例を挙げる。 創刊4日目の「妾の効能」(明15.3.4)英国の碩学ダーウヰン先生ひとたび世に出てより、人生の遺伝相続相似の理もますます深奥を究めるに至った。 徳川の大名家、初代は国中第一流の英雄豪傑で猪の獅子を手捕りにしたものを、四代は酒色に耽り、五代は一室に閉じ篭り、七代は疳症、八代は早世、九代目の若様は芋虫をご覧になって御目を舞わさせられるに至る。 それが十代、十五代の末世の大名にも、中々の人物が出る由縁は何ぞや。 妾の勢力、是なり。 妾なるものは、寒貧の家より出て、大家の奥に乗り込み、尋常一様ならざる馬鹿殿様の御意にかない、尋常一様ならざる周りの官女の機嫌をとり、ついに玉の輿に乗りて玉のような若様を生むものなれば、その才知けっして尋常一様の人物ではないのは明らかだ、と。
福沢は新作落語も作っていた。 「鋳掛(いかけ)久平(きうへい)地獄極楽廻り」(明21.6.17) 散憂亭変調 口演 としてある。 鋳掛屋の久平が死んで冥土へ行くと、かつて懇意だった遊び友達の吉蔵が、シャバのお店での帳付の特技を生かし、無給金食扶持だけながら閻魔様の帳面をつけていた。 吉蔵に話を聞き、極楽を覗かせてもらうと、大入り満員で、蓮の葉の長屋にギュウ詰めになって、みんな退屈している。 近頃、シャバで教育が始まり、人に正直の道を教えたからだという。
等々力短信 第1184号は… ― 2024/10/25 06:58
<等々力短信 第1184号 2024(令和6).10.25.>終の棲家 は、10月21日にアップしました。 10月21日をご覧ください。
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