「花に 雲に 海に 風に」2025/05/10 06:58

             「花に 雲に 海に 風に」

        等々力短信 第496号 平成元(1989)年5月15日

 隠岐島からの「飯美便り」は、’89・2・16・付の№316を最後に、永久に頂けないことになってしまった(この号は11月下旬からのご闘病中、唯一の「飯美便り」で、おそらく渾身の力をふりしぼって、お書きになられたものであろう)。 横田武さんが4月28日に亡くなられたことを知らせる奥様からのお葉書は、宛名が横田武さんそっくりの筆跡だった。 ただ宛名の下が、空白になっている。 その空白が、悲しい。 そこはいつも横田さんが、題字と詩を書かれていたスペースだった。

 ’88・9・9・№313「光に風に緑に水に」 静かな心 静かな心は/照らされている心/静かな心は/仰ぎみている心//静かな心は/待ちわびている心〈信州にて〉

 ’88・5・26・№309「お寒いことで」 日常 いま/せんならんことを/一生懸命でする/ただ それだけで/そんなつね日ごろ/いまの重味/いま三昧/いま

 ’87・12・20・№304「暖冬」 書く 字も/文も/いまの/自分を/書いて/いるんですね

 昨年の夏、布施村が朝日森林文化賞の優秀賞を受けたことをきっかけとして、等々力短信に「森を守る村」「ノリノス・メノハノス」「神在る里」の隠岐シリーズを書いた。 横田さんはたいへん喜ばれ、「この冬にでも、この里の習俗を書き留めてみようかなどと」思っているというお手紙を下さったのだが、残念ながらその時間はなかったのではなかろうか。 ’88・11・10・№315には、もうご不調だったろう10月下旬。 兵庫県柏原町で開かれた「巨木を語るフォーラム」に出張された記事が見え、添え書きに「巨木フォーラムで「森を守る村」が六百の全員にコピーして配られました おゆるしを」とあった。

 横田武さんは、ふるさと隠岐の教育に生涯を捧げられた方で、小学校長を定年退職後も、隠岐に住んで、地域の発展のためにつくし、隠岐を愛し、隠岐を書きつづけてこられた。 その著『隠岐の四季 わたしの心象風景』の序文で、横田さんの先生である森信三さんに「『天』はあの隠岐という日本海上に孤絶する一小島にも、著者のごとき一偉材を配して、遠く民族の心ある人々のために、その断面の概要を残さしめられたとしか、この書の感慨は表白の仕様がないのである」と言わしめた。 その本に、独特の温かい書体で、サインして下さっている。 「花に 雲に 海に 風に」。 ご冥福をいのる。

「森を守る村」2025/05/09 06:59

                   森を守る村

         等々力短信 第468号 昭和63(1988)年7月25日

 隠岐島の布施村が、朝日森林文化賞の優秀賞を受けるという6月27日付け朝日新聞朝刊を読んで、うれしくなり、すぐ布施村飯美の横田武さんに、お祝いのハガキを出した。 横田さんは、隠岐の自然と風土、その四季の移りかわりを、手書き謄写版刷りのハガキ通信「いいび便り」に綴って(ほぼ月一回)送り続けていらっしゃる。 私が『五の日の手紙』の本を出した時、息子の同級生のお祖父様である横田さんが、この道の大先輩であることが、わかった。 以来、「いいび便り」と「等々力短信」の交換をさせていただいている。 だから「隠岐」や「布施村」という字を見ると、とても親しい感じがする。

 私のハガキに対して、横田さんは、さっそく「’88・7・1・天然林が森林文化賞に輝いた日に」という、ご署名入りの『造林始祖二百年祭記念誌』を送って下さった。 布施村は、昨、昭和62年11月3日、造林始祖二百年祭を挙行して、江戸時代の享保年間に、貧しかったこの村で、杉の植林の事業を始めた五人の人物に感謝状を贈ったのだ。 杉を植えることを教えた老医と、その教えを実践した当時の若者四人に、である。 その人々の先見と努力が、布施村林業の、ひいては隠岐島林業の礎になったためだそうだ。

 「故 藤野孫一殿 あなたは 享保の昔 旧元屋村 原玄琢翁に教を受け 郷党相計り相扶け 荒地を開墾し杉の植林に 刻苦精励されました このことが 本村林業の先駆となり 経済基盤の確立ともなりました」。 布施村長の感謝状の「あなたは 享保の昔」という書き出しの文句には、感動した。 五人の始祖の子孫の人々が、島内はもとより松江や茨木、西宮から駆けつけ、揃って式典に参列しているのも、とてもよい。

 隠岐布施村の、この話には、都会にあって、めまぐるしい変化にさらされながら、毎日を送っている私たちが、忘れてしまった大切なものが、あるような気がした。 なつかしい、あたたかい心がある。 なによりも「物指し」の長いところが、いい。 輸入材の方が安いからといって、日本中の森林を荒廃するにまかせておいて、いいはずがない。 森林の生育には、五十年、六十年という歳月を必要とすることを考える時、この「物指し」の長さは、とても大切なことに思われるのだ。

 「伐採すれば、村はその利子だけで食っていけるが、山はもうおしまいだ」。 優秀賞の天然林について、大田正春村長はそう語ったそうだ。 村は超過疎で、財政もひっぱくしている。 それでもなお、天然林を守ろうという心意気が、すばらしい。

「ぷろふぃる 三人三様」と道元「愛語」の世界2025/05/08 06:55

 私が隠岐の島の先生、横田武さんと知り合った事情は、「等々力短信」に書いたことがあるので、いずれ引くけれど、『花蓮陀の本 慈』の巻末に「ぷろふぃる 三人三様」というのを、発行所の手鞠舎主人が書いている。 「横田先生は隠岐布施村生れ。1910年のこと。だから歳は勘定しやすい。島根師範を出てからずっと島の先生だった。横田先生の先生は哲学者森信三先生。森先生は横田先生の前著『隠岐の四季』の序文に「天は隠岐という日本海に孤絶する一小島に著者如き偉材を配した」と記す。横田先生の純真さは間違いなく隠岐の風土が生み育てたものだ。」

 画の佐藤勝彦さんは、「勝彦さんは無茶苦茶である。その無茶苦茶が風穴を開ける。だから勝彦さんの周囲はいつも涼風が吹き抜けている。この風通しのよさの由来をたどると、大連1940年生れにゆきあたる。鳥取大学を終えて奈良帝塚山学園小学部の絵の先生である。一人一光、生命全開と叫ぶ勝彦さんはやはり型破りな先生らしい。」

序文の渡辺誠弥さんを、「ジャンボさん、と皆がそうよぶ。185センチ、85キロ。あるときジャンボには英語でノロマの意があるというとスワヒリ語でコンニチワの意もあるとの返事。これはいゝ。縁こそ財(たから)がジャンボさんの口癖だからだ。挨拶は縁の始まり。房州育ち1941年生。NHKの現役アナウンサーである。」

今回、改めて『花蓮陀の本 慈』を再読して、その渡辺誠弥さんの序に、驚いたのだった。 私の寝室の頭の上に架けてある良寛書の道元禅師の「愛語」が出てきたからである。(永青文庫の「心のふるさと良寛」展<小人閑居日記 2018.5.17.>参照)

 「私は横田先生の詩と佐藤先生の画を拝見したとき、これは道元さん云う処の愛語の世界だなと思いました。愛語というのは道元さんの正法眼蔵に出てくる言葉です。

道元さんは愛語について次のような言葉を添えております。

「慈念することなほ赤子のごとしおもひをたくはへて言語するは愛語なり」と。

さらに言葉をくわえて

「愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり」とも。

 相手を慈しむ心から生まれた言葉というものは聞く人の人生を変えるぐらいの大きな力があるものですよと道元さんはおしえてくれています。

 その意味で詩画一体となったこの『花蓮陀の本 慈』は文字通り愛語の世界、慈しみの本です。」

酒井抱一、風雅に遊ぶ自由を得る方法<等々力短信 第1190号 2025(令和7).4.25.>2025/04/25 07:20

   酒井抱一、風雅に遊ぶ自由を得る方法<等々力短信 第1190号 2025(令和7).4.25.>

 大岡信編『日本の色』朝日選書139(1979・朝日新聞社)に、丸谷才一さんの「花野」という酒井抱一を書いた一文があった。 丸谷さんの生家に、抱一という落款の枕屏風があった。 銀地に秋草を描いた、というと豪勢なものに聞こえるが、これがニセモノだということは、幼い丸谷さんにも判ったし、父上も同意見で値段の割には楽しめるじゃないかと言っていたという。 丸谷さんは、抱一が好きなのはもちろん、その絵と発句が気に入っているためだが、もう一つ伝記的興味もあるという。

 酒井抱一は、姫路の殿様の第二子として生まれながら、武士であることを見事に避けてしまった男なのである。 その逃げ方はすこぶる念が入っていて、というよりもむしろ仰々しくて、何もこんなに凝らなくたっていいのにという気がするくらいだ。 彼は寛政5(1793)年、37歳の年、病気のため西本願寺の徒弟となって京都に住みたいと願い出た。 酒井家ではこれを許し、千石五十人扶持を給することになる。 10月18日、折から江戸に下っていた西本願寺文如上人によって得度、権大僧都に任ぜられる。 そのときの句。 <遯(のが)れ入る山ありのみの天窓(あたま)かな> 季語は、ありの実、まるめた頭(つむり)を梨に見立てたわけだ。

 11月3日、京へ向けて出発、抱一自筆の日記に「霜月三日、其爪、古櫟、紫霓、雁々、晩器などうちつれて花洛の旅におもむく」とあるから、京に住まう気は最初からなく、要するに俳諧仲間を引き連れての京見物だったにちがいない。 <布団着て寝て見る山や東山>、<島原のさらばさらばや霜の声>は、このときに成ったもの。

 京にあることわずか12日。 12月14日、江戸に帰って、<鯛の名もとし白河の旅寝哉>などと呑気に吟じるあたり、すべては自由の身になる計略だったと断じて差し支えないようだ。 以後、「前権大僧都」は文晁、鵬斎と並んで江戸の文人を牛耳り、勝手気儘な晩年を送ったのである。 句集『屠龍之技』の序は亀田鵬斎、跋は大田南畝である。 ここはやはり、もって文界における抱一の勢威と名望を知るべきであろう。

 なお、当時の文人の常として吉原通いにせっせと励んだし、それに千石五十人扶持は相変わらずついてまわった上に、画料も入ったろうから、「隠君」の遊びはすこぶる景気のいいものだったらしい。 得度以前の、<湯豆腐のあわただしさよ今朝の霜>、<寝やと言ふ禿まだねずけふの月>も、得度以後の、<ほととぎす猪牙の布団の朝じめり>、<市分けてもの言ふ花やをみなへし>、<傾城のふくさ捌きや大晦日>も、すべてこういう粋な研鑽の賜物にほかならない。 彼は逃避を一個の芸術品と化した、旦那芸の最上のものと言って差支えないであろう、と丸谷才一さんは締めている。

田沼意次の「牧之原市史料館」と、坂本竜馬暗殺犯人2025/04/13 07:47

 毎月「等々力短信」に返信して下さる静岡の方から、3月の第1189号「蔦屋重三郎のサロン」に関連して長文のお手紙を頂いた。 御前崎近くの牧之原市の相良城本丸跡に「牧之原市史料館」があって、大河ドラマ『べらぼう』に関連して「蔦屋重三郎と田沼意次」を特集しているので、近く行ってみようと思っている。 そこで一つ、学芸員に聞きたいことがある、という。

 田沼意次は、徳川家重の小姓組番頭・御側から出世して一万石の大名となり、つぎの徳川家治の信任も厚く側用人となり、遠江国相良(さがら)に築城して二万石の藩主となった。 老中、五万七千石にまで進んだが、その経済政策が賄賂政治だという批判があり、嫡男意知(おきとも)が江戸城で暗殺される事件があって権勢が衰え、家治が急病死すると、失脚した。 嫡孫意明(おきあき)が家督を継いだが、一万石に減封され、陸奥国下村に転封となった。

 田沼の賄賂政治と悪くいわれる一方で、意次は、遠江国相良の国元では、町方と村方の統治を明確化し、城下町の整備、東海道藤枝宿から相良までの分岐路の整備(田沼街道・相良街道)、相良港の整備を行い、殖産興業にも力を入れた。 また、郡上一揆の調査と裁定を行なった経歴から、年貢増徴政策だけでは経済が行き詰ることを知っていて、家訓で年貢増徴を戒めたので、領内の年貢が軽いことを百姓が喜んでいたという逸話が残っている。

 静岡の読者が、学芸員に尋ねたいのは、その田沼意次でなく、坂本竜馬を殺した犯人とされる今井信郎の件だという。 犯人には諸説あるが、一応京都見廻り組の今井信郎が自供している。 法政大学の田中優子さんも、今井信郎でいいと思います、と話していたという。 今井信郎は、戊辰戦争で生き残り、牧之原茶園の開拓をして、大井川の近く現在の島田市に住んでおり、亡くなったと、本で読んだことがあったので、それを学芸員に確かめたいのだそうだ。

 私も、坂本竜馬には興味があったので、これまでにも今井信郎について書いたことがあった。 それは、また明日。