TOCビルの喫茶店、五反田の写真館 ― 2023/06/09 07:03
「東京 池上線の旅」、大崎広小路駅。 周辺は品川区の再開発の真っ最中だ。2023年春の予定より遅れているが、半年か一年先には解体されるというTOCビル、東京卸売センタービル、TOCのTは、夢グループの社長のCMのように、「テー」と言うらしい。 私などは、このビルの場所が、星製薬の工場だった頃から知っている。 高度経済成長期の昭和45(1970)年に、通産省の肝いりの国家プロジェクトとして建てられた。
建築当時300社の一つとして入居し、解体にともなう引っ越し準備中の、書道用具店の店主も81歳だった。 ビルの地下1階に、ビルに働く人々に親しまれ憩いの場になっている喫茶店がある。 営んでいるのは、吉田理子さん(95)古沢正雄さん(91)夫妻、60年前に出会い、理子さんが始めた喫茶店を正雄さんが手伝うようになった。 池上線の長原から通ってきて、夫婦別姓なのは自由人だからと言う。 常連客が、電球の取り換えなどしてくれる。 ビルの解体後、どこかで喫茶店をやるつもりはないと、さばさばしている。
終点、五反田。 かつては花街があり、町工場が目黒川沿いに密集し、一大歓楽街だったが、今やIT企業の集積地になって、タワーマンションが何棟も建っている。 ここに100年近く続く岡崎写真館がある。 三代目伊與田彰さん(55)、初代の祖父の撮った近所の洋服店店主の出征記念のモノクロ写真を見せ、その一家の80年後の千歳飴を下げた子供のいる家族写真を撮ったと言う。 タワーマンションに住む若い夫婦が、子供の幼稚園卒園記念写真を撮りに来る。 アンパンマンとミッキーマウスを載せたカメラで、声をかけ、最後にウンチの形のおもちゃをパッと出し、三人笑顔の写真となった。
彰さんに子供の頃から「思い出を形にして残す仕事」だと教えた二代目、正志さん(89)、テレビに出るからと昨日床屋へ行って4千円払ってきた、髪の毛があってもなくても4千円だ、と。 近所を案内し、前の映画館はタダで入れてくれた、サービスが有名なキャバレーの聖地で、どこもかしこもキャバレー、ここは「ある日の夢」という名前の店だった、という。 私が明治学院中学に通っていた頃、五反田駅から旧白木屋の階段を下りて都電に乗るのだが、階段の途中に「カサブランカ」というキャバレーがあった。 「サカサブランコ」などと、言葉遊びしていた。
三代目が写真館94年間初の、珍しい写真を撮っていた。 一時間前に成功したプロポーズ記念の写真、50%50%だったという男性が予約、赤いバラの花束を抱えた女性との、50年、100年残る幸せな感じを捉えていた。
「ショウ・ワイセン」、洗濯屋、銭湯、釣り堀 ― 2023/06/08 07:06
「東京 池上線の旅」、旗の台。 銭湯「荏の花温泉」が、子供に人気の「旗の台つりぼり店」になっていた。 元銭湯のオーナー田村徳治郎さんは、池上本門寺掃除の細野さんの一つ上、82歳と言ったから、私と同い年だ。 わが家は男三人の兄弟で、五つ上の兄と七つ下の弟は旗の台の立正幼稚園に通ったが、私だけは戦争直後の時期で幼稚園がなかった。 2019年に家内は、旗の台の昭和大学病院で二つの手術を受け、どちらも大成功で元気になった。 かかりつけのクリニック、内科と歯科のご夫妻も、ここのご出身である。 その昭和大学、私の子供の頃は「ショウ・ワイセン」と呼んでいた。 昭和医専、と書くのだと判ったのは、大きくなってからだった。
銭湯のオーナーの話に戻る。 池上線が竹林が多かった旗の台まで開通した翌年の昭和3(1928)年5月15日、上條秀介が、この地に昭和医学専門学校を創立、附属医院を開設した。 病院には洗濯物の需要があり、周りには何もないために、銭湯オーナーの父親がクリーニング店を開業した。 自動車の写真を見ると、三共のクリーニングという名だったようだ。 繁盛していたが、戦争で病院周辺は強制疎開で建物が壊され、一家は群馬に疎開した。 戦後、戻って廃業していた銭湯を借り受け、そこをクリーニング工場にした。 主力となった進駐軍の絨毯クリーニングの仕事に、銭湯の洗い場がぴったりだった。 別にクリーニング店の建物を建て、二足の草鞋で銭湯も開業して50年近く営業、銭湯に来る人が減り、平成3(1991)年に閉めた。 5年前、そのままになっていた銭湯を釣り堀にしたいという話が舞い込んだ。 男湯は、子供向けの釣り堀、女湯は、大人が大きな鯉を狙う釣り堀になって、風呂屋の時代と同じように、子供たちの明るく楽しい声が響くのであった。
『新日本風土記』「東京 池上線の旅」町工場 ― 2023/06/06 07:04
「風の中に、土のにおいに、もういちど日本を見つける。私を見つける。」と、松たか子がナレーションする『新日本風土記』「東京 池上線の旅」を見た。 「蒲田から五反田へ3両編成の池上線に乗って全15駅。10.9キロの旅に出れば、活気あふれる商店街、歴史や信仰の地が次々と。戦前・戦後を生き抜いた家族の物語をつづる」というテーマだ。
池上線は、荏原中延駅と、大井町線の中延駅の間、中延駅寄りで生まれ育った。 とても、懐かしい。 地元の延山小学校(えんざん、中延の「延」と、小山の「山」と聞いた)を卒業して、白金今里町の明治学院中学校に入った。 池上線で荏原中延から五反田まで行き、都電で二本榎に通った。 池上線の満員電車で通学する様子を面白おかしく書いた作文を、国語の久保山昌弘先生が褒めてくれた。 先生が学校新聞を作るのにも、声をかけて下さって、当時の新聞(一般日刊紙)で流行っていたクロスワードパズルを作って載せたりしたことが、後の高校新聞につながった。 考えてみれば、「等々力短信」や「小人閑居日記」は、池上線の満員電車に一つの起源を持つと言えるのかもしれない。
そこで、「東京 池上線の旅」である。 蒲田の町工場から始まった。 かつては日本有数の町工場地帯だったここで、金属を「曲げ」る専門工場の三代目、川端さんといったか、いい顔をした優しい人だ。 初代の祖父は、金沢から出て来て、起業した。 海外に出た大量生産の工場など、ほかでは出来ない、さまざまな単品の特殊な仕事が舞い込む。 何回か機械で曲げた品を、最終的にきちんと目標の寸法に合わせる技術を持っている。 もう一軒残る「曲げ」工場、バイクのハンドルを「曲げ」る特殊技術を持つ社長が、相談に来る。 小学校の先輩は、納期の厳しい円形のカーテンレールを頼みに来る。 祖父が一つ一つ手作りした治具を当てていくと、曲げの角度がピタリと判る。 納期、もちろんクリアーした。
よその工場で人間関係に疲れた前歯のない新入社員、45歳、きちんと準備してもらった機械で、初めて「曲げ」に挑戦する。 合格と言ってもらって、ホッと息をつく。 それを見守る親方、「つぶらな瞳がいい」と、笑うのだ。
町工場の話、ガラス工場をやっていたので、いろいろなことが思い出されて、身につまされる。
誤解の原因と、大久保利謙論文 ― 2023/05/04 06:58
誤解の原因は、何だったのか、朝日新聞の記事をさらに読む。 五代が設立に関わった「大阪商業講習所」が源流となっている大阪市立大学(現・大阪公立大学)の関係者らで作る「五代友厚官有物払い下げ説見直しを求める会」などによると、誤解のもとは1881(明治14)年7月26日付の東京横浜毎日新聞の社説。 「五代らが関わる関西貿易商会が開拓使と結託し、北海道物産のすべてを入手しようとしているという情報を得た」と記したが、その事実はなかった。
五代は沈黙していたが、当時の本人の手紙によれば、政府の重要な地位の人物から「決して気にかけるな」などと諭され、きっと深い意味があるのだろうと、弁明を断念したらしい。
1952(昭和27)年に歴史学の大家、大久保利謙(としあき)がこの社説などをもとに、実際に五代が払い下げを求めたかのように論文を書き、学界に定着してしまったという。
昨日引用した私の「五代友厚がきっかけ、「明治14年の政変」」は、『福澤諭吉事典』のI生涯・5建置経営・②民権と国権の、「北海道官有物払い下げ事件」「明治一四年の政変」の項を参考にしていた。 ともに、「参考」(文献)に、大久保利謙「明治十四年の政変」『大久保利謙歴史著作集』2、吉川弘文館、1986年、が挙げられている。 両項目の執筆は、寺崎修さん、福沢研究でいろいろなことを教えていただいたが、12月3日に76歳で亡くなられたそうで、『三田評論』4月号に長谷山彰前塾長が「追想」「大仏心の人 寺崎修さん」を書かれている。 そういえば、福澤諭吉協会の一日史蹟見学会で多磨霊園などへ行った時、寺崎さんのお寺に寄ったことがあった。
五代友厚、官有物払い下げと「無関係」 ― 2023/05/03 08:03
4月5日の朝ドラ『らんまん』に、ディーン・フジオカが坂本龍馬になって登場したので、私はこうツィートした(@goteikb1)。 「五代から龍馬になりて春らんまん。朝ドラ『らんまん』。朝井まかてさんが牧野富太郎を描いた『ボタニカ』を読んで、昨年2月4日~18日ブログ<轟亭の小人閑居日記>に書きました。龍馬は出て来ませんでした。」 ディーン・フジオカは、2015年12月21日からの朝ドラ『あさが来た』で五代友厚を演じて、大ブレークし、物語から消えた時は「五代ロス」と騒がれたのだった。 なおディーン・フジオカは、2021年の大河ドラマ『青天を衝け』でも、五代友厚を演じていた。
「五代友厚 濡れ衣だった「汚点」/官有物払い下げ「無関係」教科書修正」という朝日新聞4月12日朝刊の見出しには、びっくりした。 私は、五代友厚がきっかけ、「明治14年の政変」<小人閑居日記 2015.12.28.>でこう書いていたからである。
「明治14年、北海道開拓使の官有物を五代の関西貿易商会に非常な廉価で払い下げる計画が発覚、五代と開拓使長官の黒田清隆が共に薩摩出身であったため問題化し、憲法制定と国会開設に関する路線選択と主導権をめぐる明治政府内部の対立[イギリス流の議院内閣制による国会を早期に開設すべしとする参議大隈重信と、プロイセン流の帝王大権優位の国会を漸進的に開設すべしとする伊藤博文らとの対立]とも結びついて、大隈重信や民間の諸新聞、民権派運動家らによる薩長藩閥政府批判、国会開設請願運動が沸き起こった。 追い詰められた政府の危機的状況の下で、伊藤博文・井上馨・岩倉具視・井上毅・黒田清隆ら薩長藩閥を中心とした勢力は、一種のクーデターを起こす。 明治14年10月12日、明治天皇の東北・北海道巡幸から帰還の日に、プロイセン流の欽定憲法路線の選択を意味する明治23年国会開設の勅諭の発布、ならびに筆頭参議大隈重信の罷免と官有物払い下げを中止の発表をするのだ。 これが「明治14年の政変」である。 同時に、大隈の与党と目された河野敏鎌・前島密・小野梓らに加え、福沢諭吉の慶應義塾系の少壮官僚、矢野文雄・中上川彦次郎・犬養毅・尾崎行雄・牛場卓蔵・森下岩楠らも、官界から追放された。 一方、五代もこの事件で「政商」として世論の非難を浴びた。」
そこで、朝日新聞の記事である。 長年、五代友厚は、北海道開拓使の官有物払い下げ事件に関わったとされ、歴史教科書にもそう記されてきたが、最近の研究で無関係だったという可能性が高まり、この春から教科書の記述が書き換えられたというのだ。 住友史料館(京都市)の末岡照啓(てるあき)さんや『新・五代友厚伝』を著した八木孝昌さんの研究で、五代の汚点とされるこの事件が濡れ衣だったことがわかってきたのだそうだ。 政府が官有物の払い下げを決めた書類や、太政大臣だった三条実美あての「伺(うかがい)」に五代の名前は一切なく、政治家・佐々木高行の日記には黒田から聞いた話として、五代に払い下げを打診したが「採算が合わない」と断られた、と書かれていたという。
最近のコメント