佐伯啓思さん「自由貿易の機能不全 米の戦略的介入招く」2025/05/03 07:14

 「インタビュー」の載る朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」面に、随時佐伯啓思さんの「異論のススメ スペシャル」が出る。 3月29日は「市場経済 剥がされる擬装」で、見出しは「グローバリズム下で自由貿易の機能不全 米の戦略的介入招く」「科学と称する米の価値観 関心ないトランプ流」だった。 佐伯啓思さんは1949年生れ、京都大学名誉教授。

 トランプ氏にとっては、自由貿易体制は理想でも正義でも何でもない。 問題は米国経済の立て直しとその強化だけであり、手段も関税政策だけではない。 通常、自国経済の強化を目的とした、政府による介入は、戦略的産業主義や保護主義と呼ばれるもので、自由貿易や市場競争への脅威とみなされてきた。 経済学は基本的に自由貿易主義を擁護する。 戦略的介入主義は、政治権力による市場の歪みを引き起こすとして批判される。

 100%の自由貿易などありえないにしても、政治による経済への介入を可能な限り排除し、民間の自由競争に委ねるのが経済学の説く正解であり、自由社会の原則であった。 今日のグローバル経済が自由貿易主義を支柱にしていることはいうまでもない。 となれば、グローバリズムを主導してきた米国こそが自由貿易主義の守護神だと考えたくもなるのだが、ことはそれほど簡単ではない。 ざっと振り返っても、1960年代の冷戦下の産軍複合型経済、80年代の日米貿易摩擦、90年代の日本への構造調整(構造改革)要求、また、情報・金融への産業転換、近年の先端技術への支援など、米国政府は、しばしば経済への戦略的介入を行い、他国に様々な要求を突き付けてきた。

 冷戦以来のグローバリズムとは、自由な市場競争の世界への拡張であった。 その市場競争論を唱えたのは米国の経済学であり、自由貿易論もその一部である。 今日のグローバリズムの下では、資本も技術も人も情報も容易に移動する。 企業も生産拠点を海外に移せる。 そうなると、各国がそれぞれの得意分野を政策的に創出することが可能になる。 特に大国たらんとする国では、大きな利益を生む先端技術や先端産業を政府が支援するだろう。 今日では、AI(人工知能)やロボット、宇宙技術、半導体などのハイテク開発や産業戦略がじっさいに国力を決しかねない。 これでは、とても自由な市場競争や自由貿易の教義は成り立たない。 これこそが、今日のグローバル経済の姿なのである。

 米国は、冷戦後、世界の覇権を意図して、情報・金融中心の産業構造に転換した。 それが、逆に、製造業のいっそうの衰退を招き、また大きな所得格差を生んだのである。 これは、米国流の経済学が生み出した皮肉な帰結である。 冷戦後のグローバリズムが、米国へのバックラッシュを引き起こし、トランプ氏の戦略的介入主義へと帰結したのだ。 問題は、グローバリズムの支柱である「市場競争体制による世界秩序形成」が機能しない点にある。

 「市場経済は、個人の競争を通じて効率性を達成して社会の調和をもたらす」という経済学の基本命題は、一見、価値中立的な真理のように装われている。 だが実際には、それは、個人主義、合理主義、能力主義、効率主義、競争主義といった価値観を前提として組み立てられていると、佐伯さんには思われる。 しかも、その価値観がそれなりに妥当するのは米国にほかならないだろう。 だが、米国の経済学者は、それを「普遍的な科学理論」だと主張した。 市場競争がうまくゆくのは「科学的真理」だという。 言い換えれば、社会主義は科学的に間違っている、と。

 こうして、70年代の末には、「経済学はあくまで米国流の思想である」という佐伯さんのような信念はきわめて少数派になっていた。 80年代ともなると、「正義としての自由主義」と「科学としての経済学」が結合して「新自由主義」を名乗る市場万能主義者が幅を利かせることになる。 かくて90年代の冷戦後には、米国の経済学が説く「自由な市場競争こそ普遍的正義である」というグローバリズムが誕生した。

 佐伯さんは、別に経済学のすべてが間違っているなどといっているわけではない。 今日、経済学は細分化され、様々な個別分野での研究が展開されている。 だが、「市場経済とは何か」という大きな問いが忘れ去られてしまった。

 経済学には「自由な市場競争こそが世界を調和させる」という信念が隠されている。 しかし、この米国流の価値観は、科学と称することでオブラートに包まれた。 そして、科学を装ったひとつの価値観・思想がグローバリズムを覆い、今日、その擬装が剥がれつつある。

 科学的真理にも科学者エリートにもリベラリズムにも関心を持たないトランプ氏が、この擬装を剥がしてしまった。 トランプ氏にとっては米国の「強さ」が、そして彼の支持者にとっては、彼らの生活の方が大事なのだ。 しかし、だからといって、「トランプ流」によって次の段階への道が見えているわけでもないのである。

エマニュエル・トッドさん「敗北する米国 日本は静観して」2025/05/02 07:03

 朝日新聞の「インタビュー」は2月26日、昨年『西洋の敗北』を出版した仏人類学者・歴史学者エマニュエル・トッドさんの話を聞いていた。 見出しは「敗北する米国」「ウクライナで失敗 社会は退廃的に 産業再建は手遅れ」、さらに「世界史の転換点 地政学的な対立も 日本は静観して」だった。

 『西洋の敗北』は22カ国で出版されているが、英国でも米国でも英語圏での翻訳の話すらないのは、英米にとって不愉快で核心を突いた内容を含んでいることを物語っていると感じている。 ロシアによるウクライナ侵攻は、事実上ロシアと米国の戦争で、米国はロシアに対して屈辱的な敗北を経験しつつある。 米国が主導した経済制裁が失敗し、ロシアは持ちこたえ、同盟国であるドイツなど欧州の方が(ロシアの天然ガス供給カットなどで)より深く傷ついた。 そして2023年のウクライナによる反転攻勢など、米国が支援した軍事作戦が失敗したことが、今日の結果を招いた。

 トッドさんが、米国の敗北を見てとった大きな理由は、米国の産業システムがウクライナに十分な武器を提供できなくなっていたことだ。 日本やドイツと異なり、米国はエンジニアになる若者の割合が非常に低い。 一方、皮肉なことにロシアは経済制裁によって自国の産業を復活させ、(クリミア半島を一方的に併合した)2014年以来、制裁に供えて金融システムなども独自の体制をつくっていた。

 トッドさんは、乳幼児死亡率などのデータを基に、1976年に15年後のソ連崩壊を予測したことで知られている。 乳幼児はどこでも、社会の最も弱い存在なので、それだけに、それぞれの社会の状態を理解し、評価するのにとても重要な指標なのだ。 その乳幼児死亡率は、ロシアでは00年から急速に改善し、20年にはロシアよりも米国の方が死亡率が高くなった。 米国国内の地域的な分析も、非常に興味深い。 日本は相変わらず、世界でも最も低い死亡率を誇っていることに変わりはない。

 現代の米国は、かつてのようなプロテスタンティズムの国ではない。 「プロテスタンティズム・ゼロ」「宗教ゼロ」に向っていると思う。 それは社会、経済、教育など多方面に大きな影響を与えている。 それによって、米国社会は虚無的で退廃的になっている。 トランプ氏も、イーロン・マスク氏も、退廃的なデカダンスだろう。

 保護主義そのものには反対しないけれど、トランプ氏の保護主義政策は成功しないだろう。 関税をかけて外国から製品が入らないようにするだけでなく、国内でその製品をつくれる産業を育てなければ、国民は幸福にはならない。 米国がウクライナに必要な武器を生産・供給できなかったことと同じ現象だが、米国は国内産業を再建できない状態だ。 当面は手遅れだ、なぜなら、技術者や熟練した労働者がいないからだ。 米国は繁栄し、株価も高く、一部の米国人はとても裕福だ。 しかし、ものをつくっているからではなく、ドルという世界的通貨を発行しているからだ。 ドルの力が強いので、逆に中国を始めとした他国の産業に依存してしまうし、優秀な若者は(製造業以外の)より多くの収入を得られる分野に流れてしまう。 米国の繁栄は、国外の産業や労働力に頼っているのだ。

 屈辱的な経験をする米国は、本来はより大切な存在になるはずの弱いパートナー国に対して、まるでいじめっ子のような態度に出ることが予想される。 日本は、当面は、静かに目立たないようにすべきだ。 欧州も、ウクライナの経験から、米国やロシアとの関係を見直すことになるだろう。 また米国は、中国との対立を激化させるかもしれない。 日本にとっても大変難しい状況だが、それでもできるだけ対立には関与しないようにして、自国の産業システムを守ることだ。

 日本は、地政学的な対立に積極的にかかわるのではなく、米国が衰退する世界のこれからを慎重に見守ることが大切だ。 奥ゆかしく、謙譲の精神にあふれたみなさんにとっては、むずかしいことではないと思う。

関税「改革保守」の狙い、旧モデルを変え産業や地域再生へ2025/05/01 07:08

 関税強化に突き進む米トランプ政権。 朝日新聞の「インタビュー」は4月3日、それを進言した政権ブレーンの一人、保守派論客のオレン・キャスさんに話を聞いた。 2017~21年の第一次政権の時期から関税政策が米国にとって唯一の解決策だとして、それを練り、進言してきたが、自身は第二次政権には入っていない。 01年の中国のWTO(世界貿易機関)加盟で、米国の産業基盤は(中国の輸出増などにより)加速度的に弱体化し、限界に達していた。 それに伴い、社会も弱体化し、その典型的現象が「絶望死」だ。 特に中年の低学歴の白人の間で、薬物やアルコール依存、自殺が増えた。 グローバル化の下、米国は若者をイラクとアフガニスタンの戦争に送り、失業と絶望を輸入し、大切な仕事を海外に送ってしまったのだ。 経済の金融化と金融危機もあった。 1980年代の保守の発想は「市場経済と自由貿易」だったが、こうした状況を解決するには有効ではなかった。 だから関税なのだ。

 関税は、短期的には物価の上昇など様々な痛みを伴うかもしれないが、長期的には大きな利益をもたらすと思う。 関税には、二つの側面がある。 一つは交渉のツール、もう一つは経済政策の側面だ。 日本経済が輸出入に深く依存していることは理解できる。 これから日米間で、通貨や貿易、産業政策などをめぐる交渉が必要だろう。 貿易の不均衡を解決するには、内需が不足しているといった、日本が解決しなければならない問題もあるが、米国と日本はバランスの取れたパートナーになりうると思っている。

 ここで注意したいのは、日米を含む自由貿易が成立する領域に、中国は加わっていないだろうということだ。 中国と自由貿易を行うということは、共産主義の優先順位や政策を、私たちの社会に受け入れるということである。 私たちは、生産より消費に偏った米国を変えていこうとしている。

 オレン・キャスさん(41)は、20年にルビオ上院議員(現、国務長官(53))と連携して、保守系シンクタンク「アメリカン・コンパス」を創設した。 バンス副大統領(40)とも同世代で、深いつながりがある。 私たちのグループは、ポピュリズム的な「MAGA(米国を再び偉大に)」運動の一員でも、イーロン・マスク氏に代表されるような規制緩和や技術革新に関心が高い「テクノ・リバタリアン」でもない。 妊娠中絶反対派や宗教右派でもない。 あえて言えば、いずれとも異なる「真正の保守派」だ。 普通の家族が自立して生活を営む能力、子供を育てる能力が低下し、地域コミュニティーが弱くなっていることを何よりも問題視する保守派である。

 80年代に確立された(市場経済と自由貿易が善の)保守運動は、冷戦期に共産主義と対抗することが最大の課題だった。 私たちは、現代の課題に保守がどう対応するかを考えている。 格差拡大、労働者と家族、コミュニティーに焦点をあてることが課題だ。 市場は手段であり目的ではない、という認識も必要だ。 まだ保守派は雑多な寄り合いで混乱が続いているが、大きな連合となる可能性があると思う。

 オレン・キャスさんは、トランプ氏を「過渡的な人物」と考えている。 重要なのは、トランプ後だ。 混乱の期間があり、物事が解決され始め、次のリーダーが明確なビジョンを持ち、それを前進させる、「これが新しい保守」の時期が来る。 正直に言えば、トランプ政権の「ショック療法が必要だ」という主張に、より同調している。 なぜなら、古いパラダイムや旧モデルへの強い固執を感じたからだ。 言葉や行動を駆使すれば、何とか旧モデルを維持できる、と信じている人が多いのだ。 米国の外では思考の変化があまりに少なく、米国の変化が理解されていない。 新しい方向に進むための第一歩が、もはや旧モデルは選択肢ではないと納得させることだとしたら、その方法を見つける必要がある。 その意味で、関税政策が実施されたことは、非常に重要だと考えている。

「自由貿易の平和乱す トランプ関税」「多国協調で「報復」可能」2025/04/30 07:06

 ロシアのウクライナ侵攻以降、トランプ大統領再選へと、テレビの解説やコメントに、慶應の先生の登場が目立つ。 新聞の時評にも、慶應の先生を見る。 17日の朝日新聞「経済季評」は、坂井豊貴慶應義塾大学教授、専攻はメカニズムデザイン、主著に『多数決を疑う』があるそうだ。

 見出しは、「自由貿易の平和乱す トランプ関税」「多国協調で「報復」一理あり」。 現代経済学の祖の一人であるレオン・ワルラスは晩年、自分がノーベル平和賞を得るべきだと考えたという(ノーベル経済学賞はまだなかった)。 彼が打ち立てた交換経済の理論が、平和に資する自由貿易の理論であること、そして関税の廃止による自由貿易の促進を論じていたからだ。 自由貿易を平和に結びつける考えは、ワルラスに端を発するわけではなく、18世紀の思想家モンテスキュー、ヒューム、スミスにまでさかのぼる。 貿易による相互依存の強化は、平和による利益を高めるからだ。 こうした考えは、実利を重視し、人間理性によって社会を構築していこうとする啓蒙思想のなかで育まれた。

 第2次世界大戦後の米国も、自由貿易を平和と結び付けて考えた。 1929年の世界恐慌後、関税同盟を通じて貿易相手を制限するブロック経済が、戦争の主因の一つであったからだ。 大戦で荒れた欧州を援助する米国のマーシャル・プランにも、自由貿易の促進は重要な項目として入っていた。

 坂井豊貴教授は、トランプ大統領の関税とディール(交渉)の背景にある、興味深い論考を紹介している。 大統領経済諮問委員会のミラン委員長は、就任前に「世界貿易システム再構築のユーザーズ・ガイド」という長い論考を発表した。 興味深いのは、そこにある最適関税理論の記述だ。 通常は関税をかけると輸入品の物価が消費税のように上がり、関税をかけた国の消費者は不利になる。 しかし購買力が強い大国の場合は、関税をかけても輸出国が関税の大半を値下げで吸収するので、関税をかけた国の消費者が不利にならない、というのが最適関税理論である。

 ミラン氏は論考で国際経済学のハンドブックを引用し、米国の最適関税率は20%ほどだと述べている。 また、同氏は関税50%のほうが、関税ゼロの自由貿易より望ましいとも述べている。 今回のトランプ関税と、ミラン氏の最適関税理論についての記述は重なっている。

 最適関税理論では通常、関税をかけた相手国が、報復関税を課してこないと仮定したうえで、自国の関税を最適に上げる。 随分図々しい仮定だが、トランプ氏が相手国に報復関税するなと警告するのは、この仮定と合致する。 また、ベッセント財務長官の「相手国が報復関税を課さないならば、現在の関税率が上限だ」という発言も、同理論と非常に親和的だ。

 とすると、「相互関税」が同理論に基づくという前提の上だが、報復関税には一定の理がある。 相手国が報復関税をすると、トランプ氏は高い関税率を課す根拠を失うからだ。 だから、もし今後「相互関税」が発動する事態が起こるならば、多国間で協調して報復関税を課すことが、強い対抗措置になりうる。 多国間でというのは、一国だと交渉力が弱いからだ。 無論そうした事態は起きないことが望ましいが、そもそも現在の事態も起きない方が望ましく、また想定外のものであった。

マーク・リラ教授の「米国の二つの「カースト」」2025/04/29 07:14

 実は、渡辺将人准教授の「米リベラル 失速のわけ」の翌日(1月9日)の朝日新聞「インタビュー」は、米コロンビア大学教授のマーク・リラさんの「米国の二つの「カースト」」だった。 マーク・リラ教授は、エリート主義に陥るリベラル派の自滅に警鐘を鳴らしてきた政治哲学者だそうだが、米国は左右というより上下に分断されている、と語っている。

 特に、身体的・経済的な健康管理のあり方は象徴的で、今日、米国には2種類の体つきの人がいる。 つまり、一般に太り気味でしばしば肥満の労働者階級と、健康で食にこだわりエクササイズと医者通いを欠かさぬエリート階級だ。 かつては労働者階級からエリート階級に上がるための「はしご」がたくさんあった。 高待遇の肉体労働の仕事があり、子供たちのための良い学校があり、賃金を守る労働組合があった。 しかし今では、「はしご」はたったひとつしかない。 大学に入るか、入らないかのどちらかで、20代になる前に一生が決まってしまうのだ。 今日、米国における文化的格差は、地理的な要因ではなく、教育によるものである。 今や労働者階級から抜け出すためには大学教育が必須だが、3分の1の人はその恩恵を受けられていない。

 この格差がもたらす結果は、経済的なものだけではない。 大学は、有利な職に就くための訓練を提供するだけでなく、学生を低学歴者とは大きく異なる新しい生活スタイルに社会化する。 人前での身の処し方、食事の内容、子供の人数と育て方、お金の管理…。 これらをめぐって両者はまったく別の考えを持つ、いわば二つの「米国人」に分岐するのだ。

 フランスの政治思想家トクヴィルはかつて、極端に異なる生活スタイルは政治的利害を共有する人々を隔て、相互の認識や友好も不可能にしてしまうと述べた。 米国での新しい文化的格差は、埋めるのが困難なほど深刻化しているのだ。

 米国のエリート層には道徳的な傲慢さがある。 伝統的家族を抑圧と見なし、いかなる「差別的」なユーモアに対しても極めて批判的で、重苦しく、とにかく陰気―。 民主政治とは「説得」であって、決して「自己表現」ではないのだ。 リベラルが本気で右派からこの国を奪い返したいと願うのであれば、今すぐに説教壇から降り、人々の話に虚心坦懐に耳を傾けるべきだ。 民主主義にとって第一の、そして最も必要な条件は「包摂感」である。 逆に、羞恥心や憤りといった感情と共に広く共有される排除意識は、民主国家にとって極めて有害だ。

 ラストベルト(中西部の工業地帯)では、白人労働者の苦境が表出している。 不信、軽蔑、憤り、反感、自閉、こうした感情はマイノリティー、特に黒人が抱えてきたものだが、白人の多くの層が初めて、はるかに大きな規模で経験しているのだ。 相互承認は解け去り、包摂の危機が広がっている。 そして、それをどうすれば止められるのか、答えを見失っている。

 アイデンティティー政治は、本来はリベラリズムとともにあった「私たち」という言葉を、政治の議論から追放してしまった。 そこでは、人々の共通項ではなく差異こそが模索されるべきものになる。 民主政治の中心概念である「市民」とは、個々人の属性とは無関係に、政治社会の構成員である他のすべての同胞と絶えず結びつき、社会における権利と義務を兼ね備えた存在である。 問われているのは、リベラルが市民の結びつきを強める方向に進めるかどうかだ。 属性を細分化し差異を強調することで人々を限りなく分断化していくのではなく、私たちがいかに多くのものを共有し、互いに恩恵を与えあっているかを、強く訴える必要がある。