槇文彦さんの2012年7月6日三田演説会2024/07/07 07:40

 6日から8日まで入谷朝顔市だが、2012年7月6日、午前中は朝顔市へ行き、午後は三田の第694回三田演説会で、槇文彦さんの「言語、風景、集い。日本の都市・建築の近代化の中であらわれた特性」を聴いた。 まことに興味深い濃密な講演をなさっていた。 槇文彦さんは今の私の83歳、私は71歳だった。 そのためか詳しく書いていたので、5日間にわたって再録したい。

   入谷朝顔市と槇文彦さんの三田演説会<小人閑居日記 2012.7. 10.>

 6日(金)は朝、入谷の朝顔市に出かけた。 去年は東日本大震災があって開催されず、やむを得ないことだが、寂しい夏になった。 例によって、鬼子母神境内で行灯が竹のものを求める。 佐川急便の伝票を用意して行ったら、今年は佐川の取り扱いがなく、クロネコの若いお兄さん、おネエさんの手をわずらわせる。 下手な字だった。 他人のことは言えないけれど…。

 午後からは、三田の第694回三田演説会へ。 今年は北館ホールで、槇文彦さんの「言語、風景、集い。日本の都市・建築の近代化の中であらわれた特性」。 建築家、槇総合計画事務所代表。 いらっしゃるだろうと思っていたヒルサイドテラスの朝倉健吾さん(同級生)ご夫妻とお会いしたので、一緒に聴く。 槇文彦さんの建築作品は、代官山のヒルサイドテラスを1969年(41歳)第1期から1999年の第6期まで(集合住宅、店舗・オフィス、プラザ、ウエスト)手がけられたのを始め、慶應義塾では図書館新館(1982年)・日吉図書館(1985年)・湘南藤沢キャンパス(SFC)(1990年)、大分県中津では中津市立小幡記念図書館(1993年)・風の丘葬斎場(1997年、村野藤吾賞・BCS賞)、その他、よく目にするものでも幕張メッセ、磯野不動産広尾ビル・三菱東京UFJ銀行広尾支店、青山5丁目の「スパイラル」(「生活とアートの融合」をテーマに活動する複合文化施設)、六本木のテレビ朝日本社ビルなどなど、枚挙にいとまが無いほどある。 一口にくくれば「モダニズム」の建築家といえるだろう。 1928(昭和3年)生れ、83歳、昔の銀行の重役=バンカーのような典型的「上品な老紳士」という方であった。

 槇文彦さんは昭和16(1941)年の慶應義塾幼稚舎卒、2年生まで三田に通い、塾監局のところから東京湾が見えたという。 (6月27日「谷口吉郎設計の幼稚舎本館」に書いたように、幼稚舎は1937(昭和12)年三田から天現寺に移転、新進気鋭谷口吉郎設計の新校舎が槇文彦さんのその後にどんな影響を与えたか、まことに興味深い。) 予科まで慶應にいて、建築学科のある東京大学工学部に入り1952年卒業、1954年ハーバード大学大学院建築修士課程修了。

隈研吾さんの、槇文彦さん追悼文2024/07/06 07:11

 建築家の槇文彦さんが先月6日、95歳で亡くなった。 隈研吾さんが、14日の朝日新聞に追悼文を寄せているのを読んで、あらためてすごい建築家だったことと、代官山ヒルサイドテラスについて、再認識することになった。 以下に、絶賛のほとんど全文を引きたい。

 隈さんは、大学で建築を学び始めた70年代初頭、建築界を風靡(ふうび)していたのは、ギラギラした超高層建築や、これみよがしの派手な公共建築群で、どれも成り金風で品がなく、共感できるものはひとつもなかったという。 そこへ、槇文彦が設計した代官山ヒルサイドテラス(1969年第1期竣工)に出あった時の衝撃は今でも忘れられない。 槇の建築だけは、まったく別の、さわやかで控えめで、しかも周囲の街と融けあう、開放的な空気感をたたえていた。 今から思い返せば、槇の建築はひとつの大きな転換の予兆であった。

 人口の急増した戦後日本は、大きく派手な建築を大量に造り続けることで、都市化を進め、経済を成長させるという、ひどく粗っぽいモデルで走り続けていた。 そのモデルのフロントランナーであり、リーダーであった建築家、丹下健三の門下生であったにもかかわらず、槇はそのモデルの限界に最も早く気づいた。 槇は丹下研を飛び出し、日本を飛び出して、当時、モダニズム建築運動の中心であったアメリカ東海岸で学び、そしてハーバード大学で教鞭をとった。 その意味で槙は日本建築界きっての国際派であった。

 世界から俊英が集まる東海岸で、槇は群造形と呼ばれるアーバンデザインの理論を発表して注目を浴びた。 西欧流の「上からの」アーバンデザイン、「大きな」都市計画にかわって、槇は「下からの」アーバンデザイン、「小さな」都市計画を志向し、それを群造形と呼んだのである。

 それはまさに、自然発生的で、多様性を許容し、きめ細かなヒューマンスケールを基本とする、昔からの街並みのデザインの現代版であった。 そのなつかしい街並みを、槇はノスタルジックな湿った形で表現するのではなく、モダニズムのリーダーたちをうならせる知的で客観的な言葉で説明してみせたのである。

 その槇が打ち出した方向性は、日本の建築界の潮流を変えただけではなく、世界のモダニズム建築の流れも変えていった。 槇のロジカルで先鋭的な理論は、世界の建築家の目を開かせたし、ヒルサイドテラスを始めとするヒューマンな街づくりの実践と作品群は、その理論を裏付けるだけの、圧倒的な説得力を有していたのである。

 そして槇が造った街や建築は、専門家をうならせるだけではなく、実際に明るく、軽やかで楽しかった。 独善的建築家と社会との分断というモダニズムの課題も、槇は見事に乗り越えてみせてくれたのである。

谷中をさらに「碑文探訪」する2024/06/24 07:13

 金文京さんの「東京碑文探訪」、谷中本行寺から御殿坂をさらに進み、経王寺前で左に曲がって朝倉彫塑館の前を過ぎると、間もなく右側の長安寺「狩野芳崖翁碑」(『図書』3月号)。 芳崖は長府藩(山口県)御用絵師の家に生れ、維新後にフェノロサの指導により西洋画を取り入れた日本画を描き、また東京美術学校(現東京芸大美術学部)創設にも尽力、近代日本画の父とよばれる。 絶筆の「悲母観音像」は重要文化財に指定されている。

 長安寺の手前を左に(朝倉彫塑館の方からは右に)曲がり、築地塀のある道を赤塗門の加納院前で左折すると、右側に安立寺(あんりゅうじ)がある。 安立寺には、日本画の下村観山の墓があるけれど、金文京さんが『図書』4月号で扱うのは、「良工市原君墓碣銘」。 明治時代、はじめて西洋式消防ポンプを作った市原求(もとむ)の墓碑である。 市原求は、黒船来航の時期に砲術で功名を立てようと土佐藩に仕官したが、廃藩で伯父を頼って江戸に出、鉄砲師の徒弟となって鉄砲製法を学んだ。 明治6年、川路利良大警視(今の警視総監)がフランスから持ち帰ったハンドポンプを民間に普及させようとしたが、誰も応じる者がいない。 市原はそれを研究し、鉄砲製造の技術を活かして、翌7年に見事おなじものを製造した。 その威力は江戸時代から使われていた木製の簡単な手動ポンプである龍吐水(りゅうどすい)とは雲泥の差で、江戸の華といわれた火事の撲滅に大きく貢献した。 日本橋蛎殻町の市原喞筒(ポンプ)諸機械製作所の製品は、警視庁に採用され、東京から地方にまで急速に普及し、市原は財を成した。

 その安立寺から道なりに進むと三崎坂(さんさきざか)の上に出る。 道を渡ったところにある永久寺は、『安愚楽鍋』、『西洋道中膝栗毛』などで知られる明治時代の作家、仮名垣魯文の菩提寺である。(『図書』5月号) 寺門を入ると、向かって右から猫塚供養碑、猫猫道人紀念碑、山猫めを登(と)塚が並ぶ。 魯文は大の愛猫家、ただし本物の猫だけでなく人間の猫も好きだったらしい。

 「猫塚供養碑」、上部の題額の場所に猫の顔が彫ってあり、文字はない。 題がないが、魯文が「猫塚供養碑」と呼んでいるので、それにしたがう、というのだ。 撰者は成島柳北、もと幕府の奥儒者で、幕末明治期に江戸、東京随一の花街として栄えた柳橋の繁盛とその内幕を描いた『柳橋(りゅうきょう)新誌』の著者として知られる。 「余友(わがとも)仮名垣魯文翁独り猫を愛するを以て称せらる。」「翁遂に自ら号して猫猫(ミョウミョウ(猫の鳴き声))道人と曰う。然れども翁は実は猫を愛する者に非ず。其の刊する所の新聞紙、日々に猫の説話を録する者は何ぞや。蓋(けだ)し猫は獣の至って柔媚(物腰柔らかく人に媚びる)なる者なり。而して世の清声(せいせい)と便体(べんたい・歌声としなやかな肢態)、猫の皮を鼓して(三味線を弾いて)客に侍る者、其の柔媚は或いは焉(これ・猫のこと)より甚だしき者有り。」

幕末の大村藩、大村騒動と長与専斎2024/06/20 07:04

 斎藤歓之助が剣術師範兼者頭を務めていた幕末の大村藩では、佐幕派と倒幕派の争いがあり、慶応3年正月、家老の針尾九左衛門が襲撃され重傷を負い、藩随一の俊才で、江戸の昌平黌に学び、松本奎堂(のち天誅組総裁)、岡鹿門(仙台藩士)らと共に勤皇思想を鼓吹した松林飯山(碑文の松林伯鴻)が斬殺され、それを機に佐幕派が粛清され、多くの処刑者を出した。 いわゆる大村騒動である。

 ただしこの事件は、外山幹夫『もう一つの維新史―長崎大村藩の場合』(新潮選書)によると、倒幕佐幕の争いではなく、実は渡辺昇(のぼり)一派が藩の功臣旧族を一掃するための陰謀で、松林伯鴻を斬ったのは渡辺昇であったという。 歓之助もその巻き添えをくって排除されたらしい。 事件の真相は、渡辺らが維新後、貴顕となったため、旧大村藩関係者の間では長く秘せられた。 渡辺昇はのち山岡鉄舟と明治の剣道界を二分する重鎮となったが、歓之助はそれに与っていない。 専斎が碑文で大村騒動に一切触れないのは、おそらくそのためであろう。 ただ騒動の犠牲となった松林伯鴻と歓之助を藩主の信認する文武の代表として挙げ、渡辺ら「維新の勲業に翼賛せし者」と対比しているところに、わずかに彼の感慨が示されている。 専斎自身は長崎にいたため騒動には関与しておらず、維新後も渡辺ら勲臣とは交際がない。 ただ専斎と渡辺昇、楠本正隆は同年で、藩校五教館の同門であった。 外山氏は、専斎の明治政府任官には、渡辺兄弟や楠本の了解があったとする。

 専斎に碑文を依頼した甥の斎藤満平は、明治31年すなわち父歓之助の没年、麹町(おそらく練兵館の跡地)に薬局を開いた。 34年版『日本東京医事通覧』の麹町区薬剤師にその名があり、21年医術開業試験合格者として登録とある。 医術開業試験や薬剤師の制度を整備したのは、むろん衛生局長の長与専斎であった。 専斎の五男で白樺派の作家長与善郎は、「自分の父方の親戚に斎藤満平氏といふあの有名な薬局の先代がゐる」、また専斎夫人は「その人のことをよく満平さん満平さんと呼んで」いたと述べており、両家は明治以降も親戚付き合いをしていたことがわかる。 斎藤満平薬局はその後、有楽町、丸の内に出店、帝国ホテルにもマンペイドラッグを開き、薬品だけではなく化粧品やワインも扱い、大正8年には日本ではじめてコカ・コーラを輸入販売、東京では有名な薬局であった。

 一方、専斎の長男、長与称吉は、内幸町で長与胃腸病院を経営、胃潰瘍で吐血した夏目漱石が入院したことは、漱石の「思ひ出す事など」に詳しい。 従兄弟同士の医院と薬局にも、さだめし交流があったであろう。

 金文京さんの『図書』連載「東京碑文探訪」、「其の一」「谷中本行寺「斎藤歓之助先生碑」」だけでも、このように興味深い情報満載である。

「アメリカ ハンバーガー事情探訪」2024/06/14 07:07

 火野正平の『にっぽん縦断こころ旅』の代わりに放送している番組で、「駅ピアノ・街角ピアノ」も好きだが、「アメリカ ハンバーガー事情探訪」のドキュメンタリーがよかった。 2023年12月29日に放送された『マイ ハンバーガーストーリー』という番組らしい。

 アメリカ人のソウルフードであるハンバーガー、ニューヨークからサンフランシスコまで、各地のいろいろなハンバーガー、バンズとパテの内、特にパテにはそれぞれの特色があって、その背景にある事情を探訪していた。 ニューヨークではウォール街で活躍するエリート女性が短時間で活力を得る豪華なハンバーガーと、CDデビューを夢見るラッパーが仲間と頬張る庶民のハンバーガー。 値段の差、その違いに驚く。

 その町の名前を知らなかった東部ニュージャージー州のハドソンフィールド、医師、弁護士など高所得者の住む町には、ヴィーガンバーガーがあった。 ヴィーガンは、ベジタリアン(菜食主義者)のうち、牛肉、豚肉、鶏肉、魚介類などの肉類に加え、卵や乳、チーズ、ラードなど動物由来の食品を一切とらない人達だ。

 Vietnam veteranベトナム戦争の退役軍人達、私などから少し上の年代の人たちが集まって、ハンバーガーを食べ、酒を飲みながら、思い出話を楽しそうに語り合っていた。 ミシガン州デトロイトでは、自動車産業が中国や日本の影響を受けて、沢山の下請け工場がなくなったという。 そこに働いていたという人が、アメリカ製に取って代わったこの品物はチャイナ製かなどと言い、哀愁を挟んだ揚げバーガーにかぶりついていた。

 テキサスだったか、カウボーイの本場では、さすがにパテはアメリカ一と自慢の牛肉だった。 サンフランシスコ、カストロ地区には、ソフトボールのゲイのリーグがあることを紹介していた。 多様性だ、と。