トランプ大統領と主要閣僚の出身大学2025/05/06 07:07

 トランプ大統領は、ハーバード大学がお嫌いのようだ。 ハーバード大学を「反ユダヤ主義の極左機関」「わが国を引き裂こうとする世界中の学生を受け入れている」などと非難している。 4月1日には1兆3500億円に及ぶ同大学への助成金や契約を見直すと表明した。 ハーバード大学は、教育省の一連の要求を拒否し、学問の研究、創出や普及に専念する当大学の価値を強調、助成金凍結の差し止めを求め、連邦地裁に提訴した。 トランプ大統領は、5月2日にも、同大学への非課税措置を取り消すと、SNSで再表明した。

 それで野次馬は、ドナルド・トランプ氏と主要閣僚などが、どこの大学を出たのか、と思って、調べてみた。 そこからは、特に反知性主義は、感じられなかった。

ドナルド・トランプ大統領…ペンシルバニア大学ウォートン・スクール(BS)経済学士
J・D・ヴァンス副大統領…オハイオ州立大学、イェール・ロー・スクール
マルコ・ルビオ国務長官…マイアミ大学
スコット・ベッセント財務長官…イェール大学(BA)
ピート・ヘグセス国防長官…プリンストン大学(BA)、ハーバード大学(MPP)
パメラ(パム)・ボンディ司法長官…フロリダ大学(BA)、ステットン大学(法学博士)

マイケル・ウォルツ補佐官→国連大使…バージニア軍事学院(学士)
キャロライン・レビット報道官…セント・アンセム大学(BA)

佐伯啓思さん「自由貿易の機能不全 米の戦略的介入招く」2025/05/03 07:14

 「インタビュー」の載る朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」面に、随時佐伯啓思さんの「異論のススメ スペシャル」が出る。 3月29日は「市場経済 剥がされる擬装」で、見出しは「グローバリズム下で自由貿易の機能不全 米の戦略的介入招く」「科学と称する米の価値観 関心ないトランプ流」だった。 佐伯啓思さんは1949年生れ、京都大学名誉教授。

 トランプ氏にとっては、自由貿易体制は理想でも正義でも何でもない。 問題は米国経済の立て直しとその強化だけであり、手段も関税政策だけではない。 通常、自国経済の強化を目的とした、政府による介入は、戦略的産業主義や保護主義と呼ばれるもので、自由貿易や市場競争への脅威とみなされてきた。 経済学は基本的に自由貿易主義を擁護する。 戦略的介入主義は、政治権力による市場の歪みを引き起こすとして批判される。

 100%の自由貿易などありえないにしても、政治による経済への介入を可能な限り排除し、民間の自由競争に委ねるのが経済学の説く正解であり、自由社会の原則であった。 今日のグローバル経済が自由貿易主義を支柱にしていることはいうまでもない。 となれば、グローバリズムを主導してきた米国こそが自由貿易主義の守護神だと考えたくもなるのだが、ことはそれほど簡単ではない。 ざっと振り返っても、1960年代の冷戦下の産軍複合型経済、80年代の日米貿易摩擦、90年代の日本への構造調整(構造改革)要求、また、情報・金融への産業転換、近年の先端技術への支援など、米国政府は、しばしば経済への戦略的介入を行い、他国に様々な要求を突き付けてきた。

 冷戦以来のグローバリズムとは、自由な市場競争の世界への拡張であった。 その市場競争論を唱えたのは米国の経済学であり、自由貿易論もその一部である。 今日のグローバリズムの下では、資本も技術も人も情報も容易に移動する。 企業も生産拠点を海外に移せる。 そうなると、各国がそれぞれの得意分野を政策的に創出することが可能になる。 特に大国たらんとする国では、大きな利益を生む先端技術や先端産業を政府が支援するだろう。 今日では、AI(人工知能)やロボット、宇宙技術、半導体などのハイテク開発や産業戦略がじっさいに国力を決しかねない。 これでは、とても自由な市場競争や自由貿易の教義は成り立たない。 これこそが、今日のグローバル経済の姿なのである。

 米国は、冷戦後、世界の覇権を意図して、情報・金融中心の産業構造に転換した。 それが、逆に、製造業のいっそうの衰退を招き、また大きな所得格差を生んだのである。 これは、米国流の経済学が生み出した皮肉な帰結である。 冷戦後のグローバリズムが、米国へのバックラッシュを引き起こし、トランプ氏の戦略的介入主義へと帰結したのだ。 問題は、グローバリズムの支柱である「市場競争体制による世界秩序形成」が機能しない点にある。

 「市場経済は、個人の競争を通じて効率性を達成して社会の調和をもたらす」という経済学の基本命題は、一見、価値中立的な真理のように装われている。 だが実際には、それは、個人主義、合理主義、能力主義、効率主義、競争主義といった価値観を前提として組み立てられていると、佐伯さんには思われる。 しかも、その価値観がそれなりに妥当するのは米国にほかならないだろう。 だが、米国の経済学者は、それを「普遍的な科学理論」だと主張した。 市場競争がうまくゆくのは「科学的真理」だという。 言い換えれば、社会主義は科学的に間違っている、と。

 こうして、70年代の末には、「経済学はあくまで米国流の思想である」という佐伯さんのような信念はきわめて少数派になっていた。 80年代ともなると、「正義としての自由主義」と「科学としての経済学」が結合して「新自由主義」を名乗る市場万能主義者が幅を利かせることになる。 かくて90年代の冷戦後には、米国の経済学が説く「自由な市場競争こそ普遍的正義である」というグローバリズムが誕生した。

 佐伯さんは、別に経済学のすべてが間違っているなどといっているわけではない。 今日、経済学は細分化され、様々な個別分野での研究が展開されている。 だが、「市場経済とは何か」という大きな問いが忘れ去られてしまった。

 経済学には「自由な市場競争こそが世界を調和させる」という信念が隠されている。 しかし、この米国流の価値観は、科学と称することでオブラートに包まれた。 そして、科学を装ったひとつの価値観・思想がグローバリズムを覆い、今日、その擬装が剥がれつつある。

 科学的真理にも科学者エリートにもリベラリズムにも関心を持たないトランプ氏が、この擬装を剥がしてしまった。 トランプ氏にとっては米国の「強さ」が、そして彼の支持者にとっては、彼らの生活の方が大事なのだ。 しかし、だからといって、「トランプ流」によって次の段階への道が見えているわけでもないのである。

福沢諭吉の『学問のすゝめ』2025/04/27 07:53

 江渕崇さんの「アナザーノート」「働く尊厳軽んじたツケ 世界の危機」は、今日84歳になった、私にドスンと響いた。 私は『学問のすゝめ』の福沢諭吉の、慶應義塾大学経済学部を卒業した。 大手の銀行員生活を少々経験した後、家業の零細なガラス工場で長年働いた。 「世界の危機」を考える上で、私が経験したことと関係することが、あれこれ指摘されていたからである。 これをお読みの、友人・知人の皆様は、共通の体験をされた方もいらっしゃるので、ご意見をお寄せ頂きたい。

 まず、社会の分断の問題だ。 「エリートが自分たちを見下し、日々の仕事に敬意を払っていないという労働者の不満や憤りが、トランプの成功の根本にあります」、お金だけでなく、名誉や承認、敬意の欠如、つまりは「尊厳」をめぐる問題があるというマイケル・サンデル教授の指摘だ。 一方、困難に打ち勝つには、大学で学位を取り、高給の仕事にありつくこと――。 民主党主流派やリベラル派が発したのは、個人の上昇志向と社会の流動性に解決を求めるメッセージだった。

 福沢諭吉の『学問のすゝめ』。 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」、されど人間世界を見渡すと、「賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり。」 「人は生れながらにして貴賤貧富の別なし。唯学問を勤て物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。」 「学問とは、唯むずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽み、詩を作るなど、世上に実のなき文学を云うにあらず。」 「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、イロハ四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱等を心得、尚又進て学ぶべき箇条は甚多し。」 地理学、究理学、歴史、経済学、修身学。 「右は人間普通の実学にて、人たるものは貴賤上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に士農工商各その分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。」(初編)

 「信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し。」 「文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、その働(はたらき)の趣を詮索して真実を発明するに在り。」 「事物の軽々信ずべからざること果して是ならば、亦これを軽々疑うべからず。この信疑の際に就き、必ず取捨の明(めい)なかるべからず。蓋し学問の要はこの明智を明(あきらか)にするに在るものならん。」 「異説争論の際に事物の真理を求るは、猶(なお)逆風に向て舟を行(や)るが如し。その舟路を右にし、又これを左にし、浪に激し風に逆い、数十百里の海を経過するも、その直達の路を計れば、進むこと僅に三、五里に過ぎず。航海には屢(しばしば)順風の便ありと雖ども、人事に於ては決して是れなし。人事の進歩して真理に達するの路は、唯異説争論の際にまぎるの一法あるのみ。而してその説論の生ずる源は、疑の一点に在て存するものなり。疑の世界に真理多しとは蓋し是の謂(いい)なり。」(十五編)

平賀源内を戯作にみちびいた狂歌連2025/04/01 07:06

 平賀源内『火浣布略説』巻末の「嗣出書目」(近刊予定書)広告に、『物類品隲』の「嗣出書目」にあった『物類品隲後編』がなかっただけでなく、そこにあげられた「嗣出書目」のどれ一つとして実現されないで終わってしまう。 それは源内が、戯作者風来山人として忽然として出現するからだ。 『物類品隲』の刊行からわずか4か月後、同じ1763(宝暦13)年11月、源内は江戸神田白壁町岡本利(理)兵衛方から一挙に二つの戯作小説を出版した。 天竺浪人の戯号による自序をもつ『根南志具佐』五巻五冊と、同じく紙鳶(しえん)堂風来山人・一名天竺浪人の自序をもつ『風流志道軒伝』五巻五冊とであった。 源内の、この神出鬼没ぶりを、芳賀徹さんは、「いまで言えば、昨日までの農学部助教授が今日井上ひさしとなって数冊の小説をひっさげて登場したようなものでもあろうか」と、譬えている。

 天下いよいよ泰平、文化はいよいよ甘く熟していく時代に、知識人たちの間にもゆとりと寛容と好奇心が生れつつあった。 江戸に群れはじめていた、物産家仲間とは少しばかりずれる別なインテリ逸民のグループが、この宝暦末年のころまでに源内のまわりに出来上がっていたようである。 そしてもともと文学好きの源内を、戯作という文芸の道に誘い込み、たちまちこの方面での華麗なパイオニアたらしめる、きっかけとなった。

 『風流志道軒伝』の叙「独鈷山人」は南条山人川名林助(りんすけ)、跋に「滑稽堂」の印のあるのは平秩東作(へづつとうさく)のことだと、大田南畝旧蔵の同書に註記されていることを森銑三氏が三村竹清の『本の話』で知ったという。 大田南畝(四方赤良(よものあから)、蜀山人(しょくさんじん))は、戯作者平賀源内の門人で、平秩東作のもっとも親密な若い友人だった。 「独鈷山人」川名林助は、享保17(1733)年江戸の内藤新宿、享保11年生れで6歳年長の平秩東作と、同じ場所に生れた。 享保13年生れの源内より4歳年少になるが、みな同世代と見なしてよいだろう。 平秩東作の父は、尾張の出で尾州家の一門の小役人を精勤した後、内藤新宿の馬宿稲毛屋の株を買い、同業を営んでいた。 東作は父の没後、商売を変えて煙草屋を営み、商人ながら儒学を学び、牛込加賀屋敷の内山賀邸のもとに出入りして和歌を修め、狂歌も作った。 その狂歌趣味から、同じ賀邸門に入ってきた23歳年下の才子大田南畝と親交を結ぶようになり、朱楽菅江(あけらかんこう)、唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)などの同門の同志も加わる。 その狂歌・狂文・狂詩の仲間には、本木網(もとのもくあみ)・智恵内子(ちえのないし)のような風呂屋の主人夫婦も常連だった。

 なだいなださんの『江戸狂歌』から、狂歌をいくつかみてみたい。 3月2日の「出版が商売として成り立つようになる江戸時代」では、四方赤良・蜀山人、つまり大田南畝が藤原俊成の歌のパロディーで詠んだ<ひとつとりふたつとりては焼いて食ふ 鶉なくなる深草の里>を引いていた。 平秩東作が蜀山人、大田南畝を詠んだ歌がある、<おうた子を声にてよめばだいたこよ いづれにしてもなつかしき人>。 大田姓を負うた子に、大田は「だいた」とも読める。 父親ぐらいの年の東作が蜀山人と初めて会った頃、あんた初々しかったねえ、若かったねえ、抱いてやりたいような、かわいい坊やだったよ、というのだ。

 蜀山人が『東海道中膝栗毛』の十返舎一九に語ったという逸話がある。 蜀山人がある日、多摩の河原の治水小屋で、<朝もよし昼もなほよし晩もよし その合ひ合ひにチョイチョイとよし>と、自作の狂歌を口ずさみながら酒をチビリチビリ飲んでいた。 すると、のみが一匹ピョンと盃に飛び込んだ。 そこで、<盃に飛び込むのみものみ仲間 酒のみなれば殺されもせず>と詠んだ。 ところが、盃の中ののみの奴、生意気な野郎で、<飲みに来たおれをひねりて殺すなよ のみ逃げはせぬ晩に来てさす>と、こしゃくな口のききようだ。 蜀山人は怒って、盃から奴を引っ張り出して、敷居の上でひねりつぶそうとした。 すると、のみはつぶされながらも歌よみの意地は忘れぬとみえて、ぜひ辞世の歌を残させてくれというので、もっともな願いだから、かなえてやった。 <口ゆゑに引き出されてひねられて 敷居まくらにのみつぶれけり>。

「本の末尾にある、これから刊行される本の広告」2025/03/31 06:59

芳賀徹さんに『平賀源内』(朝日評伝選23)(朝日新聞社・1981(昭和56)年)という本がある。 おそらく芳賀徹さんからいただいて、本棚にあった。 これまで平賀源内を書く間に、その末尾の年譜や、杉田玄白が撰んだ「処士鳩渓墓碑銘」の「噫(ああ) 非常ノ人」で、参照させてもらっていた。 ところが、「一〇 戯作者の顔」の「1 風来山人の出発」をパラパラやっていて、とんでもないものを見つけてしまった。 昨日、終りに書いた、田中優子さんの「本の末尾にある、これから刊行される本の広告」の件である。

平賀源内は数え年36歳の1763(宝暦13)年7月、全六巻の『物類品隲』を江戸須原屋市兵衛から刊行した。(「非常ノ人」マルチクリエーター平賀源内<小人閑居日記 2025.3.26.>参照) その『物類品隲』巻末奥付に、源内は「鳩渓平賀先生嗣出書」(近刊予定書)として、『物類品隲後編』『神農本草経図註』『浄貞五百介図』『日本介譜』『日本魚譜』『四季名物正字考』の六書をあげていた、というのである。 しかし、先人の書の写本の覆刻である『浄貞五百介図』(1764(明和元)年刊)以外は、残念ながら日の目を見ることがなかった。 さらに2年後の1765(明和2)年、『火浣布略説』というごく薄いパンフレットを同じ江戸須原屋市兵衛から刊行した時は、巻末の「嗣出書目」はさらに充実して、源内の本草・物産・博物の学者としてのいよいよ広く熱烈な野心を誇示していた。 『神農本草経図註』『日本介譜』『日本魚譜』『四季名物正字考』に加えて、『神農本草経倭名考』『本草比肩』『食物本草』とかが、いちいち内容説明つきでつけ加えられ、『穀譜』『草譜』『石譜』『獣譜』『菜譜』『木譜』『禽譜』『虫譜』と日本博物図譜のシリーズを大成するつもりだったと思われる。

蔦谷重三郎『一目千本』の安永3(1774)年より、『物類品隲』は11年前、『火浣布略説』は9年前の刊行なのである。 そして蔦重は当然、平賀源内の浄瑠璃本『神霊矢口渡』を出版した須原屋市兵衛を知っていただろう(大河ドラマ『べらぼう』では、須原屋市兵衛のアドバイスを受けていた)。 「本の末尾にある、これから刊行される本の広告」は、平賀源内、須原屋市兵衛から学んでいたのかも知れない。