学際と雑学『ブラタモリ』<等々力短信 第1178号 2024(令和6).4.25.>4/19発信2024/04/19 06:59

   学際と雑学『ブラタモリ』<等々力短信 第1178号 2024(令和6).4.25.>

 3月でレギュラー放送が終了したNHK総合テレビの『ブラタモリ』、好きでずっと見ていた。 2016(平成28)年2月25日の「等々力短信」第1080号には「全国版『ブラタモリ』賛」を書いた。 「高低差を見逃すな」「下を向け!」の『ブラタモリ』で、都市や観光地の発展に、地形や地質との密接な関係があることを学んだ。 「チャート」「水冷破砕溶岩」「溶結凝灰岩」「柱状節理」などの言葉を知った。 制作チームは、「国民的人気番組によって、古くから日本の文化や産業には地盤とそれを形成する地盤構造物が深くかかわっていることを一般市民に広く発信し、地盤工学の社会的イメージの向上に多大な貢献をした」と、地盤工学会の平成29年度地盤工学貢献賞を受賞した。 先月発行の『最新 地学事典』では、「ブラタモリ」が新しい項目になったそうだ。

 2018年3月10日・17日放送「#98鹿児島」「#99鹿児島の奇跡」、共にお題は「なぜ鹿児島(薩摩)は明治維新の主役となれたか?」だった。 九州南部には、巨大噴火による「姶良(あいら)カルデラ」があり、火山から噴き出た火砕流が固まってできた、2万9千年前の「シラス」台地と、その崖下に50万年前の「たんたど石」と呼ぶ「溶結凝灰岩」がある。 「シラス」台地は、「城山」の曲輪や武器弾薬庫に好都合で、「溶結凝灰岩」は「柱状節理」という割れ目が加工しやすく石材に最適、江戸の台場よりも早く天保11(1840)年に築かれた台場や、さまざまな近代的事業に使われた。

 朝日新聞は、4月7日の社説に「緊張高まる中東 ガザの戦闘 止める時だ」とともに、「ブラタモリ 独自の探究を楽しもう」を掲げた。 地質や地理が、歴史学、農学、工学、文学とも、学問分野が融合している。 専門家が自身の啓発活動を見直す機会にもなった。 いまやブラタモリという言葉は、野外調査が必要な学問を社会に広げる活動の代名詞でさえある。 専門家が自らの取り組みを「ブラ○○○」と称すると、訴求力が高まる。 金沢大学の地理学者・青木賢人准教授は公開講座を「ブラアオキ」と名付け、地域を歩いて自然条件と街の発達を解説、土地の履歴から恵みと恐ろしさが表裏一体だと説いているそうだ。 能登半島には、地震の被害を受けた千枚田のように、昔の地滑りでできた緩斜面を利用した農地が散在する。 土地の特徴の探究は、その背景にあるリスクを知り、防災にもつながる。 地元や旅先で、興味のおもむくまま自分なりの「ブラ」を深めるのは、きっと楽しいことだろう、と朝日社説は勧めている。

 学問の分野はますます専門化して、タコツボのようになっている。 世の中の役に立つためには、学際的で多様な交流が必要だろう。 一神教でなく、八百万の神の日本に存在価値がある。 雑学「等々力短信」「ブラこうじ」に我田引水lol。

18世紀後半、日本文化の大変化2024/03/23 07:09

 池大雅(1723~1776・享保8~安永5)と与謝蕪村(1716~1783・享保元~天明3)が《十便十宜図》を描いたのは、明和8(1771)年だという。 芳賀徹さんは『絵画の領分』で、江戸時代の18世紀後半に、日本文化の多くの分野で、大きな変化があったと指摘している。 ごく大づかみにいうと、自然と人間社会と世界とに対する、より合理主義的な、そして内面に向かっても外界に向かっても、よりリアリスティックな態度を志向していた。 いずれも海外世界からの影響や衝撃による変化というよりは、むしろ18世紀初頭以来の徐々の内発的醸成が、「田沼期」独特の自由主義的雰囲気のなかで開花したと見るべきだという。

 「田沼期」、「田沼時代」とは、田沼意次が側用人・老中として幕政の実権を握った宝暦(1751~1764)年間から(明和8年間、安永9年間をはさみ)天明(1781~1789)年間にかけての時期をいう。 貿易振興・蝦夷地開発・新田開発など経済政策による幕政の積極的打開を意図したが、賄賂政治と批判され、天明飢饉や江戸うちこわしにより失敗に終わった、といわれる。

 日本文化の多くの分野での、大きな変化とは、深浅の差こそあれ、共通の反伝統的姿勢をもった新しい知的好奇心と一種の啓蒙思想が発動し、また旧来の規範からいっそう自由になった感性と感情の表現がひろまったことだった。  平賀源内、前野蘭化(良沢)、杉田玄白、あるいは志筑忠雄、本多利明というような洋学派の自然科学や世界地理の分野における活動ばかりではない。 本居宣長の文献学による古典再評価と、それによる日本人のアイデンティティ探究の試みにおいて、三浦梅園の認識論上の方法的考察において、さらに上田秋成、大田南畝、与謝蕪村、加舎白雄(かやしらお)、小林一茶らの散文や俳諧、あるいは川柳において、大坂の混沌社グループや菅茶山らの漢詩において、また池大雅、伊藤若冲、与謝蕪村、丸山応挙、小田野直武、佐竹曙山から鈴木春信や喜多川歌麿や司馬江漢にいたる絵画において、日本文化は「田沼時代」を中心に、たしかにさまざまの新しい、はなやかな相貌を見せはじめた、と芳賀徹さんはいうのだ。

 私が名前も知らなかった、志筑忠雄(しづきただお、1760~1806)は、蘭学者、オランダ語法を本格的に研究した最初の日本人で、『暦象新書』を編み、ニュートンの天文・物理学を紹介した。『鎖国論』『助字考』。 本多利明(1743~1820)は、経世家、江戸に算学・天文の塾を開き、かたわら蘭学を修め、天文・地理・航海術を学ぶ。ヨーロッパの事情に明るく、『西域物語』『経世秘策』『経済放言』を著し、開国・貿易と北防の急務を説き、北夷先生と称した。

荻生徂徠、その評価も二分される2024/02/22 06:57

 12日に発信した、元禄地震 房総沖巨大地震と大津波<等々力短信 第1176号 2024(令和6).2.25.>に、柳沢吉保が「異例の昇進により悪辣な策謀家とされるが、善政で領民に慕われ、綱吉の好学に添い学問・教養の面でも優れていた」と評価が二分されていることを書いたが、柳沢吉保に仕え『楽只堂年録』をまとめたという荻生徂徠もまた、その評価が二分される人物だった。 2015年のこの日記に、入船亭扇辰の「徂徠豆腐」という珍しい落語を聴いたり、磯田道史さんの『無私の日本人』(文春文庫)「中根東里(なかね とうり)」を読んで、下記を書いていた。

扇辰の「徂徠豆腐」前半<小人閑居日記 2015.3.16.>
扇辰の「徂徠豆腐」後半<小人閑居日記 2015.3.17.>
天才儒者・中根東里、知られざる大詩人<小人閑居日記 2015.7.2.>
磯田道史さんの荻生徂徠像<小人閑居日記 2015.7.3.>
天下一、名高い浪人・細井広沢のことなど<小人閑居日記 2015.7.4.>

 落語「徂徠豆腐」は、浪人して尾羽打ち枯らしていた頃の徂徠が、芝増上寺の門前の豆腐屋、上総屋七兵衛に借りていた豆腐おから代を、のちに豆腐屋が火事で焼けた折に、出世していて、店普請して返すというおめでたい噺だ。 磯田道史さんは、天才儒者で知られざる大詩人である「無私の日本人」中根東里から見た荻生徂徠を、生まれつき政才を持った政治臭のある学者で、肝心の学問のなかに、はったりがあった、という。

 私はその時、荻生徂徠について、何も知らないがとして、こんなことを書いていた。
「2014年12月『福澤手帖』第163号の「青木功一著『福澤諭吉のアジア』読書会に参加して」に、講師の平石直昭東京大学名誉教授が質疑応答の中で儒学についての質問に、こんな興味深い見解を述べられたと、こう書いた。 「勝海舟は本物の儒学者ではない、福沢は本物の洋学者。日本に近代を樹立したのは荻生徂徠で、人類史、文明史全体を括弧に入れ、人類の文化の外に出た。儒教的枠組みをとっぱらって、事物そのものを見た。陰陽五行説は、聖人が作り出したもの。蘭学(福沢のやった)も、国学も、学問の方法としては、徂徠学から出ている。最近の中国でも戦略家は『春秋左史伝』を参考にしているのではないか。福沢は『春秋左史伝』が得意で全部通読し、十一度も読み返して面白いところは暗記していたと『自伝』にある。」」

あらためて荻生徂徠を事典などで見ると、『ブリタニカ国際大百科事典』の説明が、私にもわかりやすかった。 「その学問は政治社会に対する有用性を眼目としており経世在民の儒学と概括することができる。初め伊藤仁斎に私淑するがやがて終生の対決者となる。それは徂徠の側での感情的な問題もあるが、根本的には考え方の相違による。徂徠にとって道は中国の古聖人の制作になる利用厚生の道、礼楽刑政の道であって、客観的な制度、技術つまり「物」である。それは仁斎や朱子におけるように主観的でとらえどころのないものとは異なる。道が客観的な物であるがゆえに統一的な政治社会が成立する。徂徠は朱子とともに仁斎の内面的な道徳性による社会の基礎づけを根拠のないものとして退ける。道徳的な優越者という一般的な聖人理解を排し、制作者として聖人をとらえるところにも、経世在民の学であることを目指した徂徠学の性格をみることができる。このような制度文物としての道になにゆえ従わなくてはならないかを明らかにする方法として、制度文物とおのおのの時代状況との連関を問う古文辞学が位置づけられる。そこに歴史的実証的な態度がうかがえるがその究極には聖人への帰依が控えていることを忘れてはならない。徂徠は政治社会の統一と安定を目指したが、それは大本を確固とすれば個々の事象についてはそれぞれの個別性を容認していた。したがって公的な側面に対する私的な側面、特に詩文の領域は尊重された。徂徠の学風のこの面もきわめて重要である。徂徠の学風は古文辞学の方法と相まって国学の成立に大きな影響を与えた。」

 (古文辞学(こぶんじがく)…荻生徂徠が唱えた学問。聖人の教えを理解するには古文辞(古代中国語)で読解すべきとして、朱子学や仁斎学を批判。)

元禄地震 房総沖巨大地震と大津波<等々力短信 第1176号 2024(令和6).2.25.>2/12発信2024/02/12 07:10

 能登半島地震が発生する前日発行の大冊、古山(こやま)豊編著『元禄地震 房総沖巨大地震と大津波』を、『雷鼓』を出しておられた岩本紀子さんから頂いた。 古山豊さんは、千葉県大網白里市在住の県立御宿高校や東金高校校長を務められた方で、40年以上前の昭和56(1981)年に勤務先に近い茂原市鷲巣の鷲山寺(しゅうさんじ)で「元禄津波供養塔」に出合って以来、元禄地震の研究を続けてきた。

 赤穂浪士の吉良邸討入の翌年、元禄16(1703)年12月31日に発生した元禄地震は、江戸初期から今日までの約400年間で、房総半島に最大の被害(死者6千人超、90%以上が津波による溺死)をもたらした。 にもかかわらず、この地震に関する新史料の発掘は少なく、霧に閉ざされた地震の一つとして研究する学者も限られていたという。 古山さんは、地の利があり、地域の「市町村史」に精通、県内各地の沿岸沿いを徹底的に調査し、新史料を多数発掘(石碑、古文書等100点以上)、私家本3冊にまとめ、東京大学地震研究所等にも送付した。 『理科年表』は大正14(1925)年初版以来、簡略だったこの地震の記載が、令和3年版では「元禄の関東地震」相模・武蔵・上総・安房で震度大、特に小田原城下は全滅、全体で死者約1万、潰家2万2千等と詳しくなった。

 元禄地震は、真冬の真夜中に発生、津波は3度襲来、九十九里浜南部5~6mの津波、鰯の豊漁期で沿岸滞在者多数が溺死、地曳網の被害甚大、沿岸の村々は約2/3が浸水、田畑の塩土を除くのに3~5年、それでも元に戻らず生活困窮、安房では山崩れ被害。

 この地震の第一級史料は、柳沢吉保の公用日記『楽只堂(らくしどう)年録』で、房総の被害が13頁にわたって、この本に紹介されている。 吉保の父、安忠は三代将軍家光に上総国市袋(いちのふくろ)に知行地を賜り、三歳の綱吉の守役となった。 吉保の母は、その市袋の名主の娘きの、行儀見習いで柳沢家に上がっていて安忠の手がついたという。 吉保を生むと、すぐ実家に戻り、佐瀬家に嫁ぎ、男児をもうける。 夫に先立たれ、さらに儒者の大沼林斎に再嫁して男児を生む。 林斎は、荻生徂徠の父方庵の弟子で、徂徠と机を並べて学んでいた。 吉保は、18歳から綱吉に近侍し、23歳で綱吉が五代将軍になると小納戸役となる。 母きの女を引き取り、異父弟二人は吉保に仕え、柳沢姓を許され、重臣となる。 元禄元年31歳で側用人、1万2千石余の大名となる。 元禄7年、7万2千石余の川越城主、元禄9年、荻生徂徠を召し抱える。 吉保は、異例の昇進により悪辣な策謀家とされるが、善政で領民に慕われ、綱吉の好学に添い学問・教養の面でも優れていた。 元禄地震の翌年、甲州15万石に封じられる。

 能登半島地震に際し、「温故知新」元禄地震は多くの教訓を残している。

無性に知りたい芋づる式<等々力短信 第1175号 2024(令和6).1.25.>1/19発信2024/01/19 07:04

   無性に知りたい芋づる式<等々力短信 第1175号 2024(令和6).1.25.>

 「羽林家(うりんけ)」という言葉を知らなかった。 今村翔吾さんが朝日新聞に連載している『人よ、花よ、』に出てきた。 楠木正成の子、多聞丸正行(たもんまるまさつら)を描いた小説なのだが、高師直(こうのもろなお)が好色な男だったことが、時々、舞台回しとしての女を登場させる。 このたびは、相貌、躰付き、声色、全てが師直好みの、羽林家のとある公家の娘、齢二十七、その手を掴んで引き寄せようとした。 そこへ、「兄上!」と師泰が、楠木正行の楠木党が決起したと知らせてきたのだ。

 「羽林家」を『広辞苑』で引く。 「中世以降、公卿(くぎょう)の家格の一つ。大臣家に次ぐ。大納言、中納言、参議にまで昇進でき、近衛中・少将を兼ねた家柄。四辻・中山・飛鳥井(あすかい)・冷泉・六条・四条・山科などの諸家があった。」

 「公家(くげ)」を引くと、その(3)「公卿(くぎょう)(1)に同じ」とあり、そこには「公(太政大臣および左・右大臣)と卿(大・中納言、参議および三位以上の朝官)との併称。上達部(かんだちべ・かんだちめ)。月卿。卿相。月客。俗に「くげ」とも。」

 「羽林家」が「大臣家に次ぐ」というので、「大臣家」を見る。 「摂家・清華(せいが)に次ぐ家柄。内大臣から太政大臣まで昇ることができるが、近衛大将を兼ねることはできない。藤原氏の正親町(おおぎまち)三条、三条西、および源氏の中院(なかのいん)の三家をいう。三大臣家。」

 「摂家」は、「摂関家」に同じ。 「摂関に任じられる家柄。古代・中世を通じて、藤原一族中の北家、特に初代摂政の良房の子孫に限られ、鎌倉初期には近衛・九条・二条・一条・鷹司の五摂家に分かれた。一家(いちのいえ)。執柄家。」

 「清華(せいが)家」は、「公卿の家格の一つ。摂関家に次いで、大臣家の上に位し、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることができる。主に七家(転法輪三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門(おおいみかど)・今出川(菊亭))を指す。室町時代には10家あった。江戸期には広幡・醍醐の両家を加えて9家。英雄。英雄家。華族。」

 芋づる式に、公家の家格は、「摂関家」「清華家」「大臣家」「羽林家」の順になる。 では、百姓で関白になった秀吉は、どういう手を使ったのか、新たな疑問が湧く。

 加藤秀俊さんの『隠居学』(講談社)に、こうあった。 おや、なんだろう、なぜこうなっているのだろう、という疑問をもつと無性に知りたくなるものなのだ。 それは野次馬根性、あるいは好奇心というやつで、「知りたい」という欲求、およそ知的探究という行為に「目的」なんぞありはしない。 学問というものは、おおむねゆきあたりばったりの、偶然の知的発見の連鎖以外のなにものでもない、と。