凸版印刷から、TOPPANへ ― 2023/09/27 07:03
『カンブリア宮殿』、次の週のTOPPANの回も見た。 凸版印刷は、10月に社名から「印刷」を外すという。 持株会社体制への移行で、商号を「TOPPANホールディングス」にし、事業を継承する会社を「TOPPAN」と「TOPPANデジタル」にする。 凸版印刷は、明治33(1900)年に大蔵省印刷局の若手技術者たちが独立して、「エルヘート凸版法」という当時最先端の技術を基礎に、証券印刷やパッケージ印刷などの分野にビジネスチャンスを見い出して創業した会社だ。 現在「印刷技術」をベースに、「情報コミュニケーション事業分野」「生活・産業事業分野」「エレクトロニクス事業」の三分野にわたり幅広く事業を展開している。
麿秀晴社長は、山形大学工学部卒、口下手な技術者だったが、敢て営業への配置を希望し、よくしゃべるようになって、社内外でコミュニケーションが取れるようになったという。 その体験から、会社では「ゼネラルなスペシャリスト」が求められていると語る。 技術者として、いくつかの特許を持っているが、その一つ「GLバリア」透明フィルムは、高いバリア性があり、食品など内容物の鮮度を維持し賞味期限を延長するとともに、環境適性にも優れたパッケージなどとして使われ、トッパンのドル箱になっている。 松山の「一六タルト」、札幌の「白い恋人」は、売り上げが伸びたと喜んでいた。 そして、事業分野の拡大で、観光施設「白い恋人パーク」の、企画設計運営の分野にも関わっている。
缶飲料の容器を紙でつくる「カート・カン」、木目を印刷した建材や家具などでも売り上げを伸ばしている。 タグ「RFID」は、ダンボールや袋の中に入っているものにつけたタグの情報を電波で読み取れるもので、複数アイテムを同時に読み取れるため、バーコードに代わる管理手法として、商品の在庫管理や棚卸など、アパレルなどさまざまな業界で、導入が進んでいるそうだ。
そういえば、昭和30(1955)年代に高校新聞を作っていた頃、写真や飾り見出しなどは、活字を組んでもらうのとは別に、注文して「凸版」にしてもらうのだった。 アルミ製かと思う「凸版」が出来て来て、紙面に組む時、活字の組み版と並べるのだった。 朝ドラの『らんまん』で、槙野万太郎は石版印刷を習得し、石版印刷機を入手する。 まだ、「凸版」は普及していなかったのだろう。 あれは、明治何年ごろのことか。 朝井まかてさんの『ボタニカ』を見たら、牧野富太郎が「石版印刷機」を買うと上京し、技術を習得するため、神田錦町の太田石版店に給金なしでと頼み込むのは、明治19(1886)年5月とあった。
『カンブリア宮殿』“Be Unique”の「コクヨ」 ― 2023/09/26 07:03
テレビ東京の『カンブリア宮殿』という番組(木曜日午後11時5分から)は、2013年6月「親を安心して預けられる病院づくり!」大塚宣夫さんの青梅慶友病院、よみうりランド慶友病院の放送で知った。(大塚宣夫さん20日(木)テレビ東京『カンブリア宮殿』に登場<小人閑居日記 2013. 6.16.>)
ずっと見ていなかったが、相変わらず、村上龍、小池栄子の司会で続いている。 文房具の「コクヨ」をやるというので、久しぶりに見た。 若い五代目の黒田英邦社長(47)が“Be Unique”を掲げ、カジュアルな格好で出社し、社員もそれに習っている。 二代目社長の祖父黒田暲之助の「人より先に失敗する」の企業カルチャーを引き継ぎ、数々の改革を押し進めている。
1975年の全面が広がる無線綴じのCampasノートは、お馴染みのヒット商品だが、テープ状の字消しは行間に合わせ5ミリ、4ミリのものがあり、乾くのを待たずにすぐに上に書ける。 消費者の細かいニーズを拾い上げ、アイデア文具を生み出すため、品川の東京本社の1階にカフェ&直営店を設け、直接手に取ったり、遊んだりした来店者から、もろもろのニーズを聞き出している。 鋏と先端のナイフが一体になったダンボール開けもある。
創業者は黒田善太郎、二代目は祖父黒田暲之助。 四代目の父黒田章裕(会長)は、スチール家具に進出するため、試作を重ねるのだが、朝出社すると、二代目に壊されていたという。 スチールデスクも1975年。 1990年代、「フリーアドレスオフィス」を実践、働き方の研究を通じて、事業をオフィス空間設計に広げている。 オフィス家具では、試作を繰り返して、失敗で培ったノウハウを凝縮した、腰に優しい椅子「ベゼル」がヒットしている。
黒田英邦社長は、文具やオフィス家具だけでなく、高齢化が進む地域の活性化を図るため、戸越銀座の社宅跡のビルで、商店街とコラボして、新展開も始めている。 地域に開かれた8つのスタジオをつくり、入居者が週に一日から、やってみたい副業に挑戦できる。 例えば、ヨガやフィットネスの教室、エステ店のような…。 人が集まる拠点をつくって、街を元気にする試みだ。
等々力短信 第1171号は… ― 2023/09/25 07:28
<等々力短信 第1171号 2023(令和5).9.25.>山田洋次監督の“母もの” は、9月19日にアップしました。 9月19日をご覧ください。
「もうせん」あったこと、長崎の原爆 ― 2023/09/25 07:12
「もうせん」あったこと<小人閑居日記 2015.12.21.>
長崎の原爆について、吉田直哉さんの『敗戦野菊をわたる風』(筑摩書房)を読んで、前に書いたことがあったのを思い出したので、引いておく。
等々力短信 第902号 2001(平成13)年4月25日 「もうせん」あったこと
しみるのだ。 じんとくるのだ。 1941(昭和16)年生れの私でさえ、そうなのだから、十歳年上の、著者と同じ年代や学童疎開を経験した世代の方々が読めば、なおさらだろう。 若い人にも、すすめたい。 吉田直哉さんの『敗戦野菊をわたる風』(筑摩書房)である。 「敗戦野菊」は、戦後のあらゆる焼け跡に生えてきて、たちまち蔽いつくしてしまう荒地野菊のことを、当時そう呼んでいたのだそうだ。
吉田直哉さんの父上は吉田富三博士、テレビ・ディレクターと文化勲章受賞のガン研究の権威、ちょっと異質な感じがする。 医学に進めば、なにをやっても七光りといわれ、少なくとも比較される。 向かないとも思っていたので、二高を受ける前、父親に、もういちど別の学問をやるとしたら何を専攻したいかと聞いた。 父上は真顔になって考え、「哲学だな」と答えた。 直哉少年すかさず「じや、ぼくがそれをやる」
直哉さんの母上の生家、小石川西原町の家は山椒魚だらけだった。 祖父の田子勝彌さんが大山椒魚とその天敵赤腹の研究家だったからである。 大山椒魚の卵を守るのは雄で、卵を生んだ雌はなぜか赤腹側につき、三者敵味方入り乱れての死闘をくりひろげて、三億年になるという。 なにより実用に遠い研究だから、家計は火の車だったろうに、ご本人は「慈父」を絵にかいたような温厚、世話好きな人物で、その家にはつねに何人もの食客、寄宿人、旅人がいた。 慈父の姉の長男で福島の小学校を卒業したばかりの富三さんが中学入学のため上京して来た時、5歳だったこの家の娘がのちに直哉さんの母上になる。 その家も昭和20年4月13日の空襲で全焼する。 翌朝、焼け跡を見て来た富三さんは、奥さんの「辛さとはくらべものにならないが、俺は俺で、ああ青春というものを焼かれた、あのころが灰になった、と思った」と言う。
これより前、留学から帰った父上が長崎医大に勤務したので、直哉さんは中学2年で長崎中学に転校する。 一家は直前に仙台に転勤して難を逃れたが、同級生の多くが原爆の犠牲になった。 長崎の風景と、仲間たちの思い出が、哀切である。 吉田直哉さんは「私が死ぬと私と共に生きてきた何人もの、すでに死んでいる人びとがもういちど死ぬ」「たくさんの、すでに失われた風景も永遠に消えてしまうのだ」「私事にすぎない思い出の集積が、じつは歴史というものになるのではないか」といい、自分を含め、なるべく大ぜいが書きとめるべきではないかと考えたという。
山田洋次監督の映画『母と暮せば』 ― 2023/09/24 07:36
『母と暮せば』と『父と暮せば』<小人閑居日記 2015.12.18.>
山田洋次監督の映画『母と暮せば』を観た。 井上ひさし原作の『父と暮せば』は、こまつ座の芝居を2004年7月に観て、その8月に黒木和雄監督の映画も観た。 芝居は父・福吉(ふくよし)竹造を辻萬長、娘・福吉美津江を西尾まりが演じ、映画では父を原田芳雄、娘を宮沢りえ、芝居には出てこない木下青年を浅野忠信が演じた。 昭和20(1945)年8月6日の広島の原爆で、父は死んだが、娘は生き残った。 「うちはしあわせになってはいけんのじゃ」と思い込んだ娘は、勤め先の図書館で知り合った青年への恋心を無理やり押さえつけようとする。 そこへ父・竹造が現れ、「恋の応援団長」を名乗って、なだめ、すかし、「じゃこ味噌」をつくり、青年のために風呂を焚き、娘が心を開いて幸せになるようにと、奮闘するのだった。
井上ひさしさんは、広島の『父と暮せば』と対になる、長崎の『母と暮せば』を書きたいと言い、資料を集めていたという。 2007年、長崎九条の会主催の講演会で、「どうしても今度は長崎を書かなければならないわけです」、「しばらくは長崎言葉を勉強して、今度は『母と暮せば』というタイトルで書こうかと」と、語っていたそうだ。 井上ひさしさんは2010年4月に亡くなった。 3年半ほど前、三女でこまつ座社長の井上麻矢さんが、プロデューサーの榎望さんに相談し、2013年初夏、山田洋次監督にお願いに行く。 ひさしさんと山田監督とはシナリオの共作もあり、親交があった。 タイトルを耳にした山田監督は、たちまちアイデアが浮かんだようで、1週間ほどで快諾したという。
『母と暮せば』は、昭和20(1945)年8月9日朝、長崎医科大生の福原浩二(二宮和也)が慌ただしく坂の上の家を出て、学校へ出かけるところから始まる。 母の伸子(吉永小百合)は助産婦で、夫を結核で亡くし、長男も戦死して、二人暮しだった。 浩二は満員の市電にぶら下がって、階段教室の席に着き、川上教授(橋爪功)の心臓の講義がはじまる。
「プルトニウム爆弾」(広島に投下されたのは「ウラン爆弾」)を積んだアメリカ軍のB29「ボックスカー号」(広島は「エノラ・ゲイ号」)が、第一目標の小倉上空へ向かう。 操縦席から見下ろす小倉は、雲に覆われていた。 「目視投下」を厳命されていた「ボックスカー号」は、第二目標の長崎上空へ向かう。 長崎もまた、雲に覆われていた。 だが、長崎上空に達すると、一瞬、雲が晴れて、市街地が目視できた。
階段教室の机にインク壺を置いてノートを取っていた浩二は、11時2分、突然の青白い閃光、凄まじい轟音に包まれた。 インク壺が、ぐにゃりと歪んだ。
三年が経った、昭和23(1948)年<小人閑居日記 2015.12.19.>
『母と暮せば』、母の伸子は浩二を探し歩くが、あの一瞬に消えていて、遺品の一つも見つからない。 三年が経った。 原爆の日、動員されていた工場を腹痛で休んで助かった、浩二の恋人(婚約者? 親戚? 伸子が「町子」と呼び捨てにするのが気になる、と家内も言う。)で小学校の先生になっている町子(黒木華)は、たびたび伸子を訪ねて慰め、手伝ってくれている。 その日8月9日は卵を持って来てくれて、二人で墓参りに行くが、伸子は町子に「もう、浩二のことはあきらめよう」と宣言する。 伸子はその夜、卵焼きをつくり、今日で陰膳をやめよう、と独り言を言っていると、後ろに気配がする。 階段に、学生服の浩二が座って、笑いかけていたのだ。 「あんた、浩ちゃん?」 「母さんは、いつまでもぼくのことをあきらめんから出て来られんかったとさ」 『父と暮せば』は原爆で死んだ父の亡霊が娘を励まし、『母と暮せば』は息子の亡霊が母に、ちゃんと血圧の薬は飲んでいるか、と尋ねる。 「あんたは元気?」 「元気なわけなかやろう。ぼくは死んでいるんだよ。母さん、相変わらずおとぼけやね」
浩二は、おしゃべりで、よく笑う、ユーモラスで人懐こい性格、映画や音楽を愛し、指揮者や小説家、映画監督になりたいという青年だ。 文科に進みたかったが、召集された柔道二段の兄に、母を守るため理科へ行けと言われて、召集猶予のある医科大学に進んだ。 金を出してくれた伯父に、将来ノーベル賞を取るような学者になれと言われて反発、離島で貧しい患者のために働きたいと言って、大喧嘩になり、伸子がひたすら頭を下げて謝ることになる。
浩二は、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲ホ短調が大好きで、ベルリン・フィルハーモニーのレコードを聴き、「メニューインのヴァイオリンはいいなあ」と言い、指揮者の真似をする。 町子のウェデングドレス姿を想像して、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」の中の「結婚行進曲」を口ずさむ。 脱線するが、「メニューイン」、私の子供の頃は「メニューヒン」と言っていたような気がする、Menuhinと綴るからか。 同様に、「ディートリヒ」を「デートリッヒ」、「ハーシー」Hersheyのチョコレートを「ハーシェー」と言っていたように思う。
「ハーシー」で思い出したが、闇屋で伸子に密かに、途中から明らかに、好意を寄せ、奮闘努力の甲斐がなかった、“上海のおじさん”(加藤健一)がいい。 彼が持って来る闇の品物に、「進駐軍」のLUXの石鹸、ピーナツ・バター(SKIPPY?)など、見覚えのあるものがあった。 また、脱線。 わが家にも、“上海の伯母さん”“シャンおばさん”がいた。 父の姉で、戦後上海から引き揚げて来て、父が目黒の工場の一角に建てた家に住んでいた。 子供の頃、兄と私は泊まりに行って、上海に行く前に嫁入り先で覚えた上方の押鮨をご馳走になったり、トランプの一人占いをするのを見、いっしょにダウトや神経衰弱やポーカーで遊んだりした。 昭和23(1948)年は、わが家に弟が生まれ、私が小学校に上がった年だ。
『母と暮せば』で、吉永小百合は終始、きちんとした着物姿だ。 息子の名は浩二。 私の名は紘二、字は八紘一宇の紘だが…。 吉永小百合が、「こうちゃん」「こうじ」と呼びかけるたびに、母に呼ばれているような気がした。 と書いて、亡き母へ捧げる。
「運命じゃない、人間が始めた事」<小人閑居日記 2015.12.20.>
『母と暮せば』、伸子は甲斐甲斐しく世話をしてくれる町子に助けられ、町子は伸子に頼られることで自分を持ち直し、二人は何とか生きてきた。 だが、町子にはこれからの人生がある。 三年が経ち、浩二のことをあきらめて、好きな人ができたら結婚するように諭すのだ。 しかし町子は、「私たち、もう一遍生まれ変ってもまた愛し合おうねって約束したとよ」と泣き出す。 このあたりが、映画の泣かせどころだ。
明るく、よくしゃべり、よく笑う亡霊の浩二だが、心配なのは、母の健康と、町子のことである。 伸子は浩二に、町子にこう諭したと話すと、浩二は「絶対嫌だ」と怒り出し、涙をためる。 映画は、浩二が悲しくなり、涙を流すと、消えてしまう設定だ。
黒木和雄監督の映画『父と暮せば』で、娘の恋人役で登場した浅野忠信が、『母と暮せば』でも、町子の相手として登場する。 町子と同じ小学校の先生で、出征の日にメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲ホ短調を聴いて出かけたが、戦争で片脚を失くして帰還、勤務先の学校で同じ曲を聴き、涙を流したという黒田だ。 子供達には「黒ちゃん」と呼ばれて、親しまれている。 母と息子は葛藤し、町子の将来を話し合ううちに、浩二は次第に納得するようになってゆく。 「町子が幸せになってほしいっていうのは、実はぼくと一緒に原爆で死んだ何万人もの人たちの願いなんだ」と言う。 だが、町子が離れていくと、伸子は行き場を失うことになる。
山田洋次監督はインタビューに、こう答えている。 「ぼくはメッセージのために映画はつくりません。この作品の芯にあるのは、息子に突然先立たれた母の悲しみはどんなに深いか、ということです。太平洋戦争で何百万人の若者が死に、その親や恋人や兄弟は同じ思いをした。観客が、母の悲しみや愛情の深さに涙しつつ「なぜそのような不幸が起きたのか。この地球上で将来起きることはないのか」というようなことを、観終わった後でふと考えてくれるような作品になってくれていれば、ぼくにとってこれほど嬉しいことはありません。」 浩二が、自分が死んだのは「運命だから」と言うと、母は「運命じゃない、人間が始めた事」と、きっぱり否定する。
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