阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』〔昔、書いた福沢144〕2024/12/06 07:10

阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』〔昔、書いた福沢144〕                 <小人閑居日記 2019.11.1.>

      自分で考えるということ<小人閑居日記 2002.7.22.>

 6月のワールドカップ・サッカーの熱狂ぶりをみていて、そういう私もかなりテレビを見てはいたのだが、日本人が集団で一方向に走りだす傾向が、気になった。 日本が負けた瞬間、もう一つ上に行けたのにという声が、瞬時に圧殺され、よくやったに世論が統一されたのには、何となく不安を感じた。 そういえば昨年の4月頃は、小泉人気というものがあったと、思ったのである。

 このところ、そんなことを考えているものだから、阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』(都市出版)を読んでも、アメリカ人の個別主義についての記述が気になる。 たとえば、後にジャパンタイムズのジャーナリストになる村田聖明(きよあき)さんの章。 村田さんは、日米開戦の6か月前にアメリカへ留学し、戦争が始まると一時アリゾナの収容所に入れられたが、10か月で出所、普通に大学生活を送る。 戦争相手である日本人の村田さんを、当り前に遇する普通の市民が、思いがけなく大勢いる。

 「目の前に敵国人が現れたとき、その人物を個人として評価する。 政府が何と言おうと新聞が何と書こうと、自分で考え、それを遠慮なく口にする。」 「おそらく日本にも、戦争中アメリカ人の捕虜を人道的に扱い、占領地の住民と個人として親交を深めた人はたくさんいたに違いない。 しかしどちらの国民が、戦争という極限状況下における集団ヒステリーから比較的自由であったかと言えば、どうもアメリカに軍配を上げざるをえないだろう。」

       自分の意見、相手の意見<小人閑居日記 2002.7.23.>

 阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』の山本七平さんの章に、天皇訪米に合せアメリカへ行ってみないかといわれた山本七平さんが、キリスト教指導者植村環(たまき)女史の戦争直後のアメリカ講演旅行のことを思い出す話がある。 昭和21年5月渡米した植村環女史は、「石もて追われる」ような、きわめて厳しい旅を経験する。

 「しかし、植村女史の記録を仔細に読むと、アメリカ人の反応は同じ状態に陥ったときの日本人の反応と違うと、山本は感じる。いかに非難すべき相手でも、その発言自体は決して非難・妨害しないのである。」

 「面と向かって日本人は悪魔だと言いながら、納得すると照れずに意見も態度も変える。植村女史は『トルーマン大統領その他知名な人々も、高圧的な態度で自分の意見を他に圧しつけることがないかわりに、自分に納得のいかない不審な点は、あくまでも、きく』と記した。どうも日本人とは異なる反応の仕方だ。多数は流動的で固定しないから、『これが天下の世論だ』などと高圧的に言ってもききめがない。『一夜にして全国民が一定“世論”のもとに一変するといった事態は逆に起こらない』。」

トクヴィルと福沢諭吉(2)〔昔、書いた福沢143-2〕2024/12/05 07:05

         トクヴィルと福沢諭吉(2)〔昔、書いた福沢143-2〕

                <小人閑居日記 2019.10.31.>

    自治のアメリカ、群れるアメリカ<小人閑居日記 2002.5.28.>

 トクヴィルとボーモンは、とくにボストンやフィラデルフィアで、アメリカ民主主義の実態と根幹に触れた。 州は、小さな共和政体である町(タウン)の連合だ。 それぞれ首長を選び、自分たちのことは自分で行なっている。 彼らを結びつけるのが州議会。 町の権限は法律で定められ、その範囲を越えることがらだけが、州議会の管轄になっている。 さらに、州が集まって、国をつくっている。 政府が口出ししない結果、個人が自分自身で何でもやる習慣がつく。 他から助けを求めず、自分で考え、自分で対処する。 大学、病院、道路などを建てよう、改良しようとするとき、政府に陳情することなど考えもしない。 教育も政府に任せては駄目だ、フランスで教育助成のための公的基金を設けることなど、絶対やめろと言われている。(阿川さんは金をかけた「本郷の大学」にふれた)

 裁判もまた自分たちの手で行なう。 トクヴィルは、陪審制度が人々に、自分達の問題を自分自身で解決することを教え、社会問題解決を自分自身の仕事とみなすようにさせることの重要性を見た。

 アメリカ人はまた、何かというと集まってアソシエーション、すなわち各種の団体を、変幻自在に結成する傾向がある。(阿川さんは福沢諭吉協会はアソシエーションそのものと言った) 商業上の連合、政治、文学、宗教上の団体をつくる。 決してお上へ陳情して成功をめざすのではなく、個人の才覚に訴えて調和ある行動を組織し、成功へと進む。 その最も極端な例が禁酒協会で、ニューヨークに727、マサチューセッツに209、全国で2千以上ある、とトクヴィルは報告している。 民主政体のもとでは、すべての人は独立しており力がない。 自分一人では何もできない。 互いに協力し、共同歩調を取る習慣を身につけないかぎり、文明は危殆に瀕するからだろうと、トクヴィルは考える。(つづく)

       握手、対等なアメリカ<小人閑居日記 2002.5.29.>

 阿川尚之さんは『トクヴィルとアメリカへ』で、イギリス人や日本人が初対面の人にたいして回りくどい態度をとるのに対して、アメリカ人は簡単に握手する、と書いている。(講演では、瀋陽の副領事は握手しますけどと言った(5月8日北朝鮮人5名が瀋陽の領事館に亡命のため駆け込む事件があった)) トクヴィルの時代も同じだったようで、「アメリカには少なくとも表面上、信じられないほどの平等が行き渡っている。 すべての階層の者が、常に互いに交流している。 社会的地位の差ゆえの傲慢は、露ほども見かけられない。 みんな握手を交わす。 カナンダイグアの刑務所では(トクヴィルとボーモンはアメリカの刑務所制度視察の名目で渡米した)、検察官が囚人と握手しているのを見た」

 トクヴィルとボーモンは、ホワイトハウスでアンドリュー・ジャクソン大統領に面会している。 19世紀には大統領が面会日を定めていて、その日訪れればだれでも大統領に会えたらしい。 それから35年後にワシントンを訪れた福沢諭吉は、日記帳にホワイトハウスの見取り図を描いて、その片隅に「冬の間一週一度大統領国民え面会」と記した。 福沢が会ったのは、リンカーン暗殺のあとを継いだアンドリュー・ジョンソン大統領だ。 漂流民ジョセフ・ヒコにいたっては、ホワイトハウスでビアス、ブキャナン、リンカーンの三人の大統領に面会している。 ヒコはビアス大統領を訪れた時、護衛も家来もなく、大して豪華でない家に住み、普通の服を着て気さくに対等に客と話す紳士が国家元首だとは、どうしても信じられなかったと、自伝に記しているという。

     『トクヴィルとアメリカへ』の雑学<小人閑居日記 2002.5.30.>

 初期の植民地では、ヴァージニアあたりでも当然、インディアンとの確執があった。 ディズニーのアニメにもなった「ポカホンタス」は、12歳のインディアンの少女で、ヴァージニアの初期植民地ジェームズタウンの長、キャプテン・ジョン・スミスがインディアンのラパハノック族に捕らわれた時、スミスと仲良くなって、父親である部族の長ポーハタンが処刑を命じると身を投げ出して、彼の命を救った。 万延元(1860)年に遣米使節を乗せ、咸臨丸とともに太平洋を渡ったアメリカの軍艦ポーハタン号は、「ポカホンタス」の父親の名に由来していたのであった。

 トクヴィルはメンフィス滞在中、二年前にこの地区から選出された、変り者の下院議員の話を聞く。 学校へ行ったことがなく、ほとんど字が読めない。 財産がなく、住所不定。 森の中に住み、狩りをして獲物を売って生計を立てている。 トクヴィルは日記に「普通選挙が実施されると、これほどひどい人を選ぶことになる」と記し、民主主義の弊害を心配した。 その議員の名は、デーヴィッド・クロケット。 5年後、テキサスの独立をめざすアメリカ人の一群が、サンアントニオの町にあるアラモの砦で玉砕したなかに、この冒険家がいて、アメリカ史に名を残すことになるとは、さすがのトクヴィルにも想像がつかなかった。

 ミシシッピー川をニューオーリンズへ向う船上で、サム・ヒューストンという面白い男に会った。 テネシー州の知事まで務めたが、家庭がうまくいかず、妻を捨てて奥地に逃げ込み、チェロキー族インディアンの社会に入り、族長の養子となって、その娘をめとって、何年間かを暮した。 トクヴィル達が会った時は、再び白人社会に戻る決心をして、同じルイヴィル号の船客となっていたのだった。 5年後、サム・ヒューストンはテキサスに姿を現わす。 馬にまたがり、テキサス独立軍の指揮官として、「アラモの屈辱を忘れるな」と叫びながら、メキシコ軍を散々に打ち破った。 彼はメキシコから独立したテキサス共和国の初代大統領になり、その名は、テキサスの大都会の名として、今でも残っている。

トクヴィルと福沢諭吉(1)〔昔、書いた福沢143-1〕2024/12/04 07:06

 阿川尚之さんについては、2002年の5月18日に福澤諭吉協会総会の記念講演で「トクヴィルの見たアメリカ、福沢諭吉の見たアメリカ」を聴いた後、著書の『トクヴィルとアメリカへ』(新潮社)と『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』(都市出版)を読んで、この日記に書き、後に〔昔、書いた福沢〕としてブログにも出していた。 それを改めて、三回に分けて再録することにしたい。 折から、石破茂首相は所信表明演説で、地方こそ成長の主役であり、地方創生を強力に推進し、来年度予算では交付金を倍増すると語っている。

トクヴィルと福沢諭吉(1)〔昔、書いた福沢143-1〕<小人閑居日記 2019.10.30.> トクヴィルと福沢諭吉(2)〔昔、書いた福沢143-2〕<小人閑居日記 2019.10.31.> 阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』〔昔、書いた福沢144〕<小人閑居日記 2019.11.1.>

     トクヴィルと福沢諭吉(1)〔昔、書いた福沢143-1〕                      <小人閑居日記 2019.10.30.>

      日本橋界隈の句碑など<小人閑居日記 2002.5.18.>

 福沢諭吉協会の総会が、日本橋の三井本館に間借り中の交詢社であった。 阿川尚之さん(慶應義塾大学総合政策学部教授・作家阿川弘之氏の長男)の「トクヴィルの見たアメリカ、福沢諭吉の見たアメリカ」という記念講演を聴いた。 その話は、また別に書く。

 日本橋に行ったので、神茂のはんぺんと、高島屋で扇屋の玉子焼を買ってきた。 神茂で日本橋一歩会という「日本橋北・室町・本町」名店会の地図をもらったら、界隈にある「芭蕉句碑」や「日本橋魚河岸記念碑」「三浦按針屋敷碑」の場所と説明があった。 このあたり、割によく行く所だが、そんな碑をあらためて見たことがなかった。 神茂の斜め前、日本橋鮒佐の所にある「芭蕉句碑」は「発句也松尾桃青宿の春」、ここ日本橋小田原町で宗匠として念願の独立を果した芭蕉の喜びと意気込みが伝わってくるという。 日本橋橋際の「日本橋魚河岸記念碑」には、竜宮城のお遣いとしての乙姫像と久保田万太郎の「東京に江戸のまことのしぐれかな」の句があるという。 今度、ゆっくり見に行ってみよう。

      トクヴィルと福沢諭吉<小人閑居日記 2002.5.26.>

 「また別に書く」と書いた阿川尚之さん(慶應義塾大学総合政策学部教授・作家阿川弘之氏の長男)の「トクヴィルの見たアメリカ、福沢諭吉の見たアメリカ」という5月18日の講演は、なかなか歯切れがよくて面白く、勉強になった。 阿川さんは、慶應を二度中退しているという。 法学部3年の時、ジョージタウン大に留学して一回、ソニー勤務の折か、友達の結婚式の司会をしたら列席していた法学部の教授に「もったいない」といわれたので通信教育で卒業しようとしたが、またアメリカのロースクールへ行くことになったので二回。 1951年生れで、ニューヨーク州およびワシントンDCの弁護士資格を持ち、アメリカの法律事務所勤務、ヴァージニア大学ロースクール客員教授などを経て、二度中退した大学の教授になった。

 アレクシ・ド・トクヴィル(1805-1859)は、フランス・ノルマンディーの貴族出身の法律家で、革命に揺れ王制から共和制へ向う時代の激しい流れの中、1831年、26歳の時、親友で同僚のギュスターヴ・ド・ボーモンと二人、新生の民主主義実験国アメリカに渡り、10か月間、当時はミシシッピーの東側24州だったアメリカ合衆国の各地を、当時すでに発達していた蒸気船網などを使って、精力的に見て回り、フレンドリーでよくしゃべる沢山の人々に会い、克明なノートや日記、たくさんの手紙を書いた。 その体験をもとに深い考察と思索によって著された『アメリカにおける民主主義』(1835年)は、160年以上経った今日でも、アメリカ合衆国や民主主義研究の必須の書で、さまざまの身近な場面で引用されている。

 福沢諭吉(1835-1901)は、トクヴィルの約30年後の1860年(25歳)と、1867年(32歳)の二回アメリカへ渡航している。 トクヴィルの『アメリカにおける民主主義』は、英訳本やその小幡篤次郎訳で読み、『分権論』(明治10年・1878年)に、その影響が最も顕著に現れている。 (つづく)

阿川尚之さん、トクヴィルと福沢諭吉『分権論』2024/12/03 07:03

 阿川尚之さんが亡くなったのを、11月18日の原武史さんのX(旧ツイッター)で知った。 「『東京人』で新幹線をテーマに対談したが、初めて会ったのに慶應の後輩として前から知っていたかのような物腰の軟らかさに感銘を受けた、いつだったか、たまたま自由が丘からたまプラーザまで電車でご一緒したときもそうだった、もちろん御父上(阿川弘之さん)の話題も出た。楽しいひと時だった。」とあったのだ。

 訃報を見ると、亡くなったのは「11月12日、73歳。米国憲政史が専門、知米派の法学者として活躍、慶應義塾大学名誉教授、慶應法学部を中退、ジョージタウン大学ロースクール卒。2002~05年駐米公使。阿川佐和子さんは妹。」

 阿川尚之さんは、2002年の5月18日に福澤諭吉協会総会の記念講演で「トクヴィルの見たアメリカ、福沢諭吉の見たアメリカ」を聴いた。 アレクシ・ド・トクヴィル(1805-1859)は、フランス・ノルマンディーの貴族出身の法律家で、革命に揺れ王制から共和制へ向う時代の1831年、26歳の時、親友で同僚のボーモンと二人、新生の民主主義実験国アメリカに渡り、10か月間各地を見て回り、『アメリカにおける民主主義』(1835年)を著した。 この本は、160年以上経った今日でも、アメリカ合衆国や民主主義研究の必須の書で、さまざまの身近な場面で引用されている。 福沢は、トクヴィルの『アメリカにおける民主主義』を、英訳本やその小幡篤次郎訳で読んでいて、『分権論』(明治10年・1878年)に、その影響が最も顕著に現れている。

 2011年3月11日の東日本大震災から4か月後の、7月25日の「産経ニュース」に阿川尚之さんが「かくなるうえは『殿様』の復活を」というのを書いていた。 その最後に≪福沢諭吉の「分権論」に学べ≫というのがある。

 「中央の政治家が人々の心を支えられないなら、今や失われた古いしきたりや伝統を意識的に復活してもいい。例えば、突飛(とっぴ)なようだが、各地で殿様を復活してはどうだろう。むろん殿様にはいかなる政治的権限も与えない。政治家になった殿様には遠慮してもらう。殿様がいない所では人望ある人を新しく選べばいい。そのうえで知事、町長、村長、地元出身の国会議員、大臣、みな羽織袴(はかま)でお城に上り、平伏して殿様に伺候(しこう)する。儀式はあくまで厳粛に行う。

 福沢諭吉は明治になって失われつつあった「士族の精気」の維持を説いた。一手段として、国権を中央の「政権」と地方の「治権」に分け、後者を旧士族に任せるよう提案している(『分権論』)。徳川幕藩体制の下2世紀半にわたり公の仕事を担ってきた士族の能力と精神を活用、地方の民の活性化と自立を目指したのである。

 震災で大きな被害を被った東北地方には、戊辰戦争に敗れて国が滅びた記憶が今も残る。殿様復活には、中央へ渡した権威と正統性を取り戻す象徴的な意味がある。東北だけでなく、北陸でも九州でも殿様と儀式を復活させれば、中央の政治家から失われた精神性が郷土に蘇(よみがえ)るだろう。中央主導で行われる地方分権の議論にも魂が入る。本格的なサムライの儀式復活は大きな観光資源ともなろう。

 長州農民の末裔(まつえい)は半分本気でそんなことを夢想したのである。」

310週1239日の『にっぽん縦断こころ旅』2024/12/02 07:01

 「蔵出しスペシャル」を見て、火野正平さんに会った人々や、食事をした店の方々は、火野正平さんが亡くなって、どんな思いをしているのだろうか、番組を見ているわれわれよりも、深い感慨があるのだろう、と思った。 この番組を見始めた頃に書いたのがあって、正平さんは69歳だった。 それから5年半、出発地が山や丘の上など、少し高い所が多くなって、まさに『人生下り坂最高!』となった。 腰痛もあったのだろう、近年は息切れや愚痴も多くなったような気がする。 今年の春編が始まった時、自転車がチャリオ君から、電動アシスト付きの「チャリ丸」に変更されていたが、その期間は、ごくわずかだったことになる。 ピンチランナーの山口智充さんが、手紙を読むのを聞いて、火野正平さんの手紙の朗読が上手くて、聞きやすかったことに、あらためて気付かされた。 そういえば、正平さんが手紙を読むときに座っていたプラスチック製の折り畳み椅子は、わが家で洗濯物を干すときに籠を載せるのと同じものだった。

  火野正平の「にっぽん縦断 こころ旅」朝版<小人閑居日記 2019.3.5.>

 火野正平の「にっぽん縦断 こころ旅」朝版。 俳優の火野正平さん(1949(昭和24)年生れ69歳)が、チャリオ君と名付けた自転車に乗って、視聴者から寄せられた手紙にある思い出の、「こころの風景」の場所へと向かう。 7年以上続き、昨年秋からは、北海道から南下して、静岡までだったが、出だしで北海道胆振東部地震に遭遇した。 一行は5、6人だが、別にカメラを構えるクルーやサポートのメンバーもいる。 途中で、さまざまな飲食店に寄って昼飯、この場面がけっこう多い。 正平さんは辛いのが好きで、タバスコを多用する、そして「ムセ芸」を見せる。 寄って来て一緒に写真を撮りたいという女性にかける決まり文句が「妊娠!妊娠!」 初めに見た時は、よくNHKが火野正平を使うな、と思ったが、考えてみれば、プレーボーイというイメージは、週刊誌広告の見出しやテレビの情報番組で、漠然とそう感じていただけで、本当のところはよくわからないのであった。 正平さん、虫や草花に詳しく、歌がうまい(CDを出していたことなど知らなかった)。 電車やバスで移動する時に使う、「輪行」という言葉に違和感があったが、『広辞苑』の、りんこう【輪行】には「(1)サイクリング(2)公共交通機関で、サイクリングを始める所まで自転車を持って移動すること」とあった。

 感心するのは、視聴者の手紙のすばらしさだ。 それぞれのエピソードが、聞く者を感動させる。 「人生を変えた忘れられない風景」、「大切な人との出会いの場所」、「こころに刻まれた音や香りの情景」、「ずっと残したいふるさとの景色」というテーマもよいのだろう。 そうしたテーマだと、ひとりひとりが心に大切にしまってあるものが、自然に湧き出して来て、綴ることができるのかもしれない。 パソコンを使うのか、多くの手紙がプリントされているのも、あらためて現代を感じさせる。

 火野正平+NHKチームこころ旅 著『人生下り坂最高!』(ポプラ社・2015年)という本もあるそうだ。