知らなかった言葉や読めなかった字 ― 2025/05/12 07:07
くだかけを春立つ空に放ちけり
「立春当日、小金井の貫井神社を歩いていたら、男の人が、にわとりを空に向かって何度も放っていました。何故やっているのかは聞きませんでしたが、不思議な出来事なので、この句が生まれました。」 句集『くだかけ』を頂いた時、私は「くだかけ」が分からず「朝早く鳴く鶏をののしって言う語だという」と書いていた。 今回ネットを検索したら、「ニワトリの古名」と出た。
近江牛食べたや水の澄める日は
「おかずで一番好きなのは「牛肉」です。ステーキ、すき焼き、しゃぶしゃぶなど何でも好きです。神戸に勤務した時には取引先の牛肉屋で肉を安く分けてもらい土産に持ち帰りました。サ高住の今は牛肉はめったにお目にかかれません。」 「サ高住」は、サービス付き高齢者住宅。
翻車魚を食らへば梅雨の海荒るる
「沖縄で翻車魚を食べたことがあります。味は覚えていませんが感激するようなことはありませんでした。あんな可愛い形の魚を食べてはいけないと思います。海が怒るのも無理はないと感じます。」 翻車魚は「まんぼう」。
こぼるるも垂るるも水に榛の花
「何故か榛の花がやたらに好きです。神代植物公園に水生植物園があり、その一樹を私の榛の木と決めています。花は冬には下がり始め、春には落ちます。水辺を好む木ですから、水に落ちる花も沢山あります。」 榛の花は、「はんのはな」、ハシバミ。
初山河羈旅への思ひ新たなり
「この句集『羈旅』を出版した平成の頃は毎月のように国の内外を歩いていました。今は透析で旅もままならぬようになり、あの頃しっかり歩けたことは本当に有難かったとしみじみ思っています。」 「羈旅」は「きりょ」、「たび。旅行。また、旅人。」「和歌・俳句の部立(ぶたて)。旅に関する感想を詠じたもの。」
花を仰ぎ一日は我も飫肥城主
「飫肥には三度行きました。宮崎句会の皆さんと「花」の盛りにも行きました。城主の部屋があり、ご自由にお座りくださいとあったので、脇息に凭れてひと時の城主気分を味わいました。」 飫肥は、「おび」。 「宮崎県南東部、日南市の中心地区。もと飫肥藩伊東氏五万石の城下町。」
金堂の磚のゆるびや冬日差
「京都の常照皇寺です。ここの金堂の床が不安定で、訪ねるたびに少し歩きにくいように感じます。寺の奥には北朝初代の光厳天皇の陵墓もあります。毎回お参りしていましたが、参拝者は少ないようでした。」 磚は「せん」、中国で煉瓦のこと、土を焼いて方形または長方形の平板とし、敷瓦・壁体化粧材などに使用。日本では主に飛鳥・奈良時代に敷瓦として使われた。
『自句自解 名和未知男の百五十句』 ― 2025/05/11 07:24
句集『羈旅(きりょ)』もある名和未知男さんは、世界中をよく旅をした方である。 その句と、自解は、こうなる。
慶州にキムチ嫌ひが悴める
「三十数か国を歩き中国のように十数回も訪ねたところもありますが、隣国の韓国は一度しか旅をしていません。ニンニクが嫌いなのも一因です。しかし慶州の仏像と王墓だけは見たくて出かけました。美しい仏様でした。」
雪嶺の泣けとばかりに晴れわたる
「二十代、三十代はさかんに山に登りました。北アルプスの主要な山は踏んでいます。ある時期から高山は眺めるだけの存在になりました。遠い雪の稜線を眺めるたびに、昔を思い出し泣きたくなります。」
亀鳴くや名のみ残して日吉館
「奈良の博物館の前に「日吉館」がありました。大学生の頃に知り数知れずお世話になりました。仏像などのファンが集まる宿で、大学の大先生の話などを横で聞くことも出来ました。後年「日吉館のおばさんに感謝する会」にも入会しました。葬儀には行けず――。」
文月や般若心経うろ覚え
「小学六年生時に金沢に集団疎開をしました。名刹大乗寺です。毎朝「般若心経」を唱え、歴代天皇の名前を暗唱しました。それから八十年、般若心経はテキストがないと唱えられなくなりました。天皇の名前も二十数人しか思い出せません。」
草矢打つ生死不明の友思ひ
「小中高大と学友は沢山いますが、一番会いたいのは集団疎開に一緒に行った大阪の小学仲間四十数人です。学校が戦災に遭い、再建されなかったのと私が転居したので連絡が取れなくなりました。後年大阪勤務時に懸命に探したのですが、一人も見つかりませんでした。」
春雷の怪しく起こり百閒忌
「内田百閒、安藤鶴夫、福原麟太郎の三人が私の文章の先生です。勿論全集も持っています。よく読んだという意味では百閒さんが第一です。『阿呆列車』などは何度読んでも飽きることがありません。『贋作吾輩は猫である』もお勧めです。」
惜春やダークダックス同世代
「ダークダックスの四人はゾウさんとゲタさんが上級、マンガさんは同級、パクさんは一年下でした(マンガさんだけは一度会いました)。まさに同世代です。それだけに四人には常に親近感を抱いていました。」
「花に 雲に 海に 風に」 ― 2025/05/10 06:58
「花に 雲に 海に 風に」
等々力短信 第496号 平成元(1989)年5月15日
隠岐島からの「飯美便り」は、’89・2・16・付の№316を最後に、永久に頂けないことになってしまった(この号は11月下旬からのご闘病中、唯一の「飯美便り」で、おそらく渾身の力をふりしぼって、お書きになられたものであろう)。 横田武さんが4月28日に亡くなられたことを知らせる奥様からのお葉書は、宛名が横田武さんそっくりの筆跡だった。 ただ宛名の下が、空白になっている。 その空白が、悲しい。 そこはいつも横田さんが、題字と詩を書かれていたスペースだった。
’88・9・9・№313「光に風に緑に水に」 静かな心 静かな心は/照らされている心/静かな心は/仰ぎみている心//静かな心は/待ちわびている心〈信州にて〉
’88・5・26・№309「お寒いことで」 日常 いま/せんならんことを/一生懸命でする/ただ それだけで/そんなつね日ごろ/いまの重味/いま三昧/いま
’87・12・20・№304「暖冬」 書く 字も/文も/いまの/自分を/書いて/いるんですね
昨年の夏、布施村が朝日森林文化賞の優秀賞を受けたことをきっかけとして、等々力短信に「森を守る村」「ノリノス・メノハノス」「神在る里」の隠岐シリーズを書いた。 横田さんはたいへん喜ばれ、「この冬にでも、この里の習俗を書き留めてみようかなどと」思っているというお手紙を下さったのだが、残念ながらその時間はなかったのではなかろうか。 ’88・11・10・№315には、もうご不調だったろう10月下旬。 兵庫県柏原町で開かれた「巨木を語るフォーラム」に出張された記事が見え、添え書きに「巨木フォーラムで「森を守る村」が六百の全員にコピーして配られました おゆるしを」とあった。
横田武さんは、ふるさと隠岐の教育に生涯を捧げられた方で、小学校長を定年退職後も、隠岐に住んで、地域の発展のためにつくし、隠岐を愛し、隠岐を書きつづけてこられた。 その著『隠岐の四季 わたしの心象風景』の序文で、横田さんの先生である森信三さんに「『天』はあの隠岐という日本海上に孤絶する一小島にも、著者のごとき一偉材を配して、遠く民族の心ある人々のために、その断面の概要を残さしめられたとしか、この書の感慨は表白の仕様がないのである」と言わしめた。 その本に、独特の温かい書体で、サインして下さっている。 「花に 雲に 海に 風に」。 ご冥福をいのる。
「森を守る村」 ― 2025/05/09 06:59
森を守る村
等々力短信 第468号 昭和63(1988)年7月25日
隠岐島の布施村が、朝日森林文化賞の優秀賞を受けるという6月27日付け朝日新聞朝刊を読んで、うれしくなり、すぐ布施村飯美の横田武さんに、お祝いのハガキを出した。 横田さんは、隠岐の自然と風土、その四季の移りかわりを、手書き謄写版刷りのハガキ通信「いいび便り」に綴って(ほぼ月一回)送り続けていらっしゃる。 私が『五の日の手紙』の本を出した時、息子の同級生のお祖父様である横田さんが、この道の大先輩であることが、わかった。 以来、「いいび便り」と「等々力短信」の交換をさせていただいている。 だから「隠岐」や「布施村」という字を見ると、とても親しい感じがする。
私のハガキに対して、横田さんは、さっそく「’88・7・1・天然林が森林文化賞に輝いた日に」という、ご署名入りの『造林始祖二百年祭記念誌』を送って下さった。 布施村は、昨、昭和62年11月3日、造林始祖二百年祭を挙行して、江戸時代の享保年間に、貧しかったこの村で、杉の植林の事業を始めた五人の人物に感謝状を贈ったのだ。 杉を植えることを教えた老医と、その教えを実践した当時の若者四人に、である。 その人々の先見と努力が、布施村林業の、ひいては隠岐島林業の礎になったためだそうだ。
「故 藤野孫一殿 あなたは 享保の昔 旧元屋村 原玄琢翁に教を受け 郷党相計り相扶け 荒地を開墾し杉の植林に 刻苦精励されました このことが 本村林業の先駆となり 経済基盤の確立ともなりました」。 布施村長の感謝状の「あなたは 享保の昔」という書き出しの文句には、感動した。 五人の始祖の子孫の人々が、島内はもとより松江や茨木、西宮から駆けつけ、揃って式典に参列しているのも、とてもよい。
隠岐布施村の、この話には、都会にあって、めまぐるしい変化にさらされながら、毎日を送っている私たちが、忘れてしまった大切なものが、あるような気がした。 なつかしい、あたたかい心がある。 なによりも「物指し」の長いところが、いい。 輸入材の方が安いからといって、日本中の森林を荒廃するにまかせておいて、いいはずがない。 森林の生育には、五十年、六十年という歳月を必要とすることを考える時、この「物指し」の長さは、とても大切なことに思われるのだ。
「伐採すれば、村はその利子だけで食っていけるが、山はもうおしまいだ」。 優秀賞の天然林について、大田正春村長はそう語ったそうだ。 村は超過疎で、財政もひっぱくしている。 それでもなお、天然林を守ろうという心意気が、すばらしい。
「ぷろふぃる 三人三様」と道元「愛語」の世界 ― 2025/05/08 06:55
私が隠岐の島の先生、横田武さんと知り合った事情は、「等々力短信」に書いたことがあるので、いずれ引くけれど、『花蓮陀の本 慈』の巻末に「ぷろふぃる 三人三様」というのを、発行所の手鞠舎主人が書いている。 「横田先生は隠岐布施村生れ。1910年のこと。だから歳は勘定しやすい。島根師範を出てからずっと島の先生だった。横田先生の先生は哲学者森信三先生。森先生は横田先生の前著『隠岐の四季』の序文に「天は隠岐という日本海に孤絶する一小島に著者如き偉材を配した」と記す。横田先生の純真さは間違いなく隠岐の風土が生み育てたものだ。」
画の佐藤勝彦さんは、「勝彦さんは無茶苦茶である。その無茶苦茶が風穴を開ける。だから勝彦さんの周囲はいつも涼風が吹き抜けている。この風通しのよさの由来をたどると、大連1940年生れにゆきあたる。鳥取大学を終えて奈良帝塚山学園小学部の絵の先生である。一人一光、生命全開と叫ぶ勝彦さんはやはり型破りな先生らしい。」
序文の渡辺誠弥さんを、「ジャンボさん、と皆がそうよぶ。185センチ、85キロ。あるときジャンボには英語でノロマの意があるというとスワヒリ語でコンニチワの意もあるとの返事。これはいゝ。縁こそ財(たから)がジャンボさんの口癖だからだ。挨拶は縁の始まり。房州育ち1941年生。NHKの現役アナウンサーである。」
今回、改めて『花蓮陀の本 慈』を再読して、その渡辺誠弥さんの序に、驚いたのだった。 私の寝室の頭の上に架けてある良寛書の道元禅師の「愛語」が出てきたからである。(永青文庫の「心のふるさと良寛」展<小人閑居日記 2018.5.17.>参照)
「私は横田先生の詩と佐藤先生の画を拝見したとき、これは道元さん云う処の愛語の世界だなと思いました。愛語というのは道元さんの正法眼蔵に出てくる言葉です。
道元さんは愛語について次のような言葉を添えております。
「慈念することなほ赤子のごとしおもひをたくはへて言語するは愛語なり」と。
さらに言葉をくわえて
「愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり」とも。
相手を慈しむ心から生まれた言葉というものは聞く人の人生を変えるぐらいの大きな力があるものですよと道元さんはおしえてくれています。
その意味で詩画一体となったこの『花蓮陀の本 慈』は文字通り愛語の世界、慈しみの本です。」
最近のコメント