等々力短信五十年、量と質<等々力短信 第1188号 2025(令和7).2.25.>2/18発信2025/02/18 07:00

   等々力短信五十年、量と質<等々力短信 第1188号 2025(令和7).2.25.>

 「短信五十年量と質とを比ぶれば夢幻の如くなり」と、年賀状の多くに添え書きした。1975(昭和50)年2月25日、「広尾短信」第1号を創刊した。 原紙を和文タイプで打ち謄写版印刷したハガキ通信だった。 月に三回の発行で400号を迎えた1986(昭和61)年、私家本『五の日の手紙』を刊行、はしがきに「中学生の時、「ささやかなる しずくすら ながれゆけば うみとなる うみとなる」という讃美歌を教わった。海とは、ほど遠いものにしろ、ささやかな積み重ねが、ここに一冊の本になった」と書いていた。 以来、ことあるごとに「量が質に転化するか」と言ってきたのだった。

 1991(平成3)年3月からはパソコン通信ASAHIネットにフォーラム「等々力短信・サロン」を設けてもらい、そちらにも配信を開始した。 家業を畳むことにした2001(平成13)年から短信は月一回の発行にしたが、ネットには日記を綴っていて、2005(平成17)年5月からはブログ「轟亭の小人閑居日記」として毎日発信している。

 1185号の原田宗典著『おきざりにした悲しみは』を読んだ大学の同級生が、毎年(毎月でなく)一冊、本を推薦してくれというので、10月に亡くなった高階秀爾さんの『本の遠近法』(新書館)を2006(平成18)年11月25日の969号「「メタ情報」の力」で、紹介した。 短信は「私にとっての『リーダース・ダイジェスト』」と評した読者がいた。 洪水のように出版される本の中から読むに足る本を見つけ出すのに、ダイジェストやアブストラクト、書評といったさまざまな「メタ情報」を活用すべきだ、と加藤秀俊さんの『整理学』に教わった。 『本の遠近法』は「メタ情報」の宝庫だ、と伝えた。

 すると友人は、私が2006年の短信を取り出したのに驚いて、ハガキをくれた。 彼は同窓会の案内を一人一人ハガキで出すので、パソコンを使えばアッという間に全員に伝わるのに、と言われる。 しかし、ハガキを書き終えると、近くのポストまで全力疾走して、パソコンの遅れを少しでも取り戻そうと対応していると、反論するそうだ。

 何か調べたいことや、どこかに書いたと思い出したことがあると、パソコンに作ってある「等々力短信」と「小人閑居日記」のINDEXを、まず検索する。 すると、自分でも忘れていた、思いがけないものが出てくるのだ。 大河ドラマの『べらぼう』の蔦屋重三郎などは、べらぼうな数が出てきた。 『光る君へ』については、「紫式部と藤原道長」を2005年3月7日の「小人閑居日記」に、丸谷才一さんの『輝く日の宮』を読んで書いていた。 『源氏物語』には、二巻目に「輝く日の宮」という帖があったが、紫式部(37歳)との関係があって藤原道長(44歳)が隠蔽したというのだ。

 短信五十年、量が質に転化したのかどうか、第二の脳がパソコンにある。

幕末の昼夜金三両という値段と、福沢諭吉2025/02/17 07:01

 つづいて『萬延元年 横浜(港崎)細見』の万延元(1860)年は、福沢諭吉の咸臨丸アメリカ渡航の年なので、当時のAランクの遊女揚代の昼夜金三両や、福沢諭吉から見た金三両について書いていた。

      幕末の昼夜金三両という値段<小人閑居日記 2011.1.31.>

 Aランクの遊女揚代が、昼夜金三両、夜斗(だけ、という意味だろう)金壱両弐分という。 そこで、幕末の金1両がどのくらいの金額になるかが、問題だ。 これが、なかなか難問である。

 当時のお金には、金建て、銀建て、銭建ての三系統があった。 金建ては、1両=4分=16朱という四進法で、小判のほかに、小粒金・小粒・分判(ぷんぱん)と呼ばれる、二分判(二分金)・一分判・二朱判・一朱判の金貨を使う。 銀建ては、匁・分(ふん)の十進法で丁銀・豆板銀(小粒銀)という、重量を計って使う秤量貨幣だったが、のちに一分銀・二朱銀・一朱銀などの定位貨幣も造られた。 銭建ては、文(もん)の十進法で、一文銭・四文銭の銅貨・鉄貨・真鍮貨を使う。

 榎本滋民さんは、落語鑑賞には、金1両=銀60匁=銭6貫文(6,000文)=米1石と覚えておけば、たいしたあやまりは生じないと言っている。 裏長屋の店賃は、500・600文から1分、ごく高いのが1分2朱、ごく安なら300文だったから、ちょっとした職人なら、2~3日の稼ぎでまかなえた。 職人の手間賃は、文化文政から天保にかけては銀3匁(=銭324文の計算)前後だが、幕末には5匁5分に上昇したという。 金1両を稼ぐのに、20日~11日かかることになり、金3両は幕末の月収ぐらいになろうか。 杉浦日向子さんの本に、〈来月の分だと茶屋に五両おき〉という川柳があるが、それは安い方で、一流の花魁になると百両で三日もてばいい方だ、とある。

 ネットを検索すると、幕末豆知識11:金1両の価値(1両で買えた米の量、現在のお金にすると?)というのを書いてくれている人がいた。 『大江戸ものしり図鑑』『米価変動史』『会津藩の崩壊』という本の数値から計算したという。

 金1両で買えた米の量は、幕末前は1石(1,000合)・150キロ・一人当たり200日分・現在の4万円〈よくみかけるのは金1両=6万円〉だったのが、文久3(1862)年(江戸)では0.4石(400合)・60キロ・一人当たり80日分・現在の1万6千円〈2万4千円〉に、慶応3(1867)年末(大坂)では0.086石(86合)・12.9キロ・一人当たり約17日分・現在の3,440円〈5,120円~1万円〉に、物価が高騰、つまり価値が下がっているという。

 金三両、幕末前だと12万円~18万円、幕末でも5万円~7万円になろうか、芸者を揚げて飲み食いをすると、倍ぐらいの勘定になったのだろう。 けっこうなお金だったことがわかる。

       福沢諭吉から見た金三両<小人閑居日記 2011.2.2.>

 福沢さんは、緒方洪庵の適塾で、「僕は登楼はしない。しないけれども、僕が一度び奮発して楼に登れば、君たちの百倍被待(もて)て見せよう」(『福翁自伝』)と、言っていた「血に交わりて赤くならず」の清浄潔白の人だから、こういうところで例に引くのも何なのだが、ちょっと『福翁自伝』の記述を相場の参考にする。

 父福沢百助の身分は、下級武士としては最上級の中(なか)小姓という家格で、禄高は籾13石2人扶持。 籾13石は年俸で、玄米に換算すると7石8斗に当り、扶持というのは1人当り一日に玄米5合の割で支給されるのだという。 13,4歳の頃、以前福沢の家の頼母子講で、大阪屋という回船屋が掛棄にした金2朱を、やっと今年は融通がついたから、返せるという母の使いをした話が「一身一家経済の由来」にある。

 兄の三之助が死んで、適塾から中津に帰り、家督を継いだが、母の許しを得て大阪再遊と決めた。 その時の、福沢の家の借金が40両、その時代の福沢のような家にとっては「途方もない大借」、家財を売ってようやく返済したが、臼杵藩に買ってもらった父百助の蔵書が15両、天正祐定の拵(こしらえ)付の刀が4両、池大雅の柳下人物の絵の掛物が2両2分、頼山陽の半切の掛物が金2分だった。

 奥平壱岐が買った『ペル築城書』の値段が23両。 福沢は、それを密かに写本にしたものを、翻訳するという名目で、適塾の食客生にしてもらう。 諸藩の大名の注文で、たとえば『ズーフ・ハルマ』辞書を写本にするのに、横文字は一枚16文、日本字は8文だった。 その頃の、白米1石が3分2朱、酒が一升164文から200文、書生在塾の入費は1か月1分2朱から1分3朱あれば足りる。 1分2朱はその時の相場でおよそ2貫400文になるから、一日が100文より安い。 それが『ズーフ』を一日に十枚写せば164文(960文=1貫とする割合で、96文を100文と数えるから、4文のはしたが出る)になるから、余るほどになる。

 文久元(1861)年、幕府の遣欧使節の随員となった時、手当として400両もらったので、その中から100両を中津の母に送った。 100両だの、200両だのという金は生れてから見たこともない金だった。 西川俊作さんによると(『福沢諭吉の横顔』97頁)、二度目にアメリカへ行った慶応3(1867)年当時、幕臣福沢の給与は年間300両(高150俵と手当15両、480ドル相当)だったという。

『萬延元年 横浜(港崎)細見』2025/02/16 07:54

 この「等々力短信」第1018号「江戸文化の仕掛け人」に、「蔦重」蔦屋重三郎が『吉原細見』で版元として頭角を現したことを書いたら、万延元(1860)年の横浜、港崎(みよさき)遊廓の『萬延元年 横浜(?)細見』(横浜らしい字が黒く塗りつぶしてある)の、写真版のコピーと、その解読版を送ってくれた方がいた。 それを書いたものを再録する。

      開港地横浜の港崎遊廓<小人閑居日記 2011.1.29.>

 先月の「等々力短信」1018号「江戸文化の仕掛け人」に、「蔦重」蔦屋重三郎が『吉原細見』によって版元として頭角を現したことを書いたら、福澤諭吉協会で知り合った古文書をお読みになる方が、面白いものを送って下さった。 万延元(1860)年の横浜、港崎(みよさき)遊廓の『萬延元年 横浜(?)細見』(横浜らしい字が黒く塗りつぶしてある)の、写真版のコピーと、その解読版である。 解読のおかげで、私にも内容がよくわかった。

 万延元(1860)年といえば、福沢諭吉の咸臨丸アメリカ渡航の年である。 その前年福沢は安政6(1859)年、開港直後の横浜を見物に行き、看板の字が読めず、蘭学から英学への転向を発心した。

 安政6(1859)年6月2日に横浜が開港、4日に神奈川奉行所、運上所(税関)が設置された。 手回しよく5か月後の11月10日に港崎遊廓が、現在の横浜公園に開業している。 開港の日付については、以前Nさんに頂戴した『わかるヨコハマ』(神奈川新聞社)でわかったが、港崎遊廓の話はどこにも出て来ず、わからなかった。 あとがきを見たら、この本は横浜市立中学校の社会科、理科、「横浜の時間」の副読本として編集・発行されたもので、志ん生ではないが、そういうことは学校では教えてくれないのだ。

 ウィキペディアの「港崎遊郭(みよざきゆうかく)」によると、横浜開港に伴い、開港場を横浜村とすることに反対する外国人を引き付けるため、また、オランダ公使から遊女町開設の要請があったことにより、外国奉行は開港場に近い関内の太田屋新田に遊郭を建設することを計画、品川宿の岩槻屋佐吉らが泥地埋め立てから建設までを請け負い、約1万5千坪を貸与されて開業した。 遊郭の構造は江戸の吉原を、外国人の接客は長崎の丸山を手本にした。 規模は遊女屋15軒、遊女300人、他に局見世44軒、案内茶屋27軒などがあった。

 町の名主となった岩槻屋佐吉が経営したのは、岩槻の音読みから「岩亀楼」(がんきろう)という名で、遊郭の中でも特に豪華で、昼間は一般庶民に見物料を取って見せていたほどの設備を誇った。 幕府は外国人専用遊女(羅紗緬)を鑑札制にし、岩亀楼に託した。 岩亀楼内は日本人用と外国人用に分かれており、外国人は羅紗緬しか選ぶことができなかった。

 以前、友人達と横浜散歩をした時、横浜スタジアム横の横浜公園で、岩亀楼の遺物の燈籠を見たことがあった。 横浜市の解説文に「国際社交場をつくった」とあったのには、笑ってしまった。 文久3(1863)年の横浜地図では、この場所がYOSHIWARAとなっている。

        『萬延元年 横浜細見』<小人閑居日記 2011.1.30.>

 『萬延元年 横浜細見』は、『吉原細見』とそっくり同じ造りなのだろう、表紙を除いて(27×2)54ページ建。 表紙裏に、まず料金表「遊女揚代直段合印」(各遊女に付いている印の説明)、「揚屋舞手踊」と「座敷代」(芸者をあげる料金)、「揚屋の(規模の)印」、紋日の一覧表がある。 1頁「まえがき」、2・3頁「揚屋の配置図」、4頁~33頁「一壽齋芳員画・港崎遊廓の全体と各建物を描いた風景画」、34頁~「異人遊興揚屋 仲の丁 岩亀楼さゐ(←楼主の名らしい)」を始めとするそれぞれの揚屋の「遊女・新造・かむろ・禿舞子・仲居の名前」が43頁まで続く、3頁の空白(増設用)の後、47頁~52頁局見世の「遊女の名前」、53頁は男芸者之部・女芸者之部、54頁は案内茶屋之部となっており、奥付に萬延元申 歳春 岩亀楼蔵版、製本所 江戸芝神明前三島町 丸屋甚八 同京橋南紺屋町 伊勢屋卯之助 横浜港崎廓大門前 伊勢屋しゅん、とある。

 1頁の「まえがき」は、「今や四方の海浪静にして、諸舶渡来の船印ハ竪横浜の新港にいや賑はへる繁昌を猶も集合(つどひ)て港崎へ、花柳の里をものすれバ……」に始まり、萬延元年を「よろづ のぶるといふ はじめの年 卯月 梅亭漁父述」としてある。

 問題の料金表「遊女揚代直段合印」だが、34頁からの遊女の名前それぞれに付けられている印の意味を説明している。 「#」に小○三つ、昼夜金三両 夜斗金壱両弐分。 「#」に小○一つ、昼夜金弐両 夜斗金壱両。 「#」のみ、昼夜金壱両弐分、夜斗金三分。 △△△、昼夜金三分、夜斗金一分二朱。 △△、昼夜金弐分、夜斗金壱分。 △、昼夜金壱分、夜斗金弐朱。 大まがき印の付いた「岩亀楼」では、岩越・岩□・岩照・岩之助・勝山・亀人の7名が「#」に小○三つ、若人・菊の井・初の井・九重・八重花・若糸・玉歌・田毎・住の井・染菊・千代春・代々花・花園・三代春・若の井・紅梅・白菊の17名が「#」に小○一つ、新造の此梅以下13名が「#」のみ、となっている。

 一壽齋芳員画の港崎遊廓風景は、横浜田圃の中に提灯を下げた賑やかな揚屋の並ぶ見開きの一枚、斜め上から大門から橋を渡って入った通りを侍や町人や女、異人たちが大勢歩いているもう一枚、そこからは大門・玉川楼(小まがき)・保橋楼(小)・泉橋楼(中)・千歳長家・寿長家・金浦楼(小)・伊勢楼(中)・新岩亀(大)・見番=幸福楼・岩里楼(中)・会所・岩亀楼(大)・異人屋敷・新いすゞ楼(小)・萬長家・いすゞ楼(大)・出世楼(小)・金石楼(小)・開勢楼(小)・戸咲楼(小)・大門と往復して両側の建物の姿が描かれている。

15年前に「江戸文化の仕掛け人」蔦屋重三郎2025/02/15 07:04

 吉原のことは、長く聴いてきた落語の廓噺で、知っているつもりだったが、知らないことも多いのだった。 大河ドラマ『べらぼう』の第一回「ありがた山の寒がらす」で、吉原の不景気の原因を岡場所の隆盛だと見た蔦重・蔦屋重三郎が、頓智を使って一計を案じ田沼意次に「警動」を頼みに行くのだった。 「警動」は、「怪動」や「傾動」とも書くようだが、2022年からの、沢木耕太郎さんの朝日新聞連載『暦のしずく』を読むまで知らなかった。(深川芸者お六と「怪動」、江戸に戻った文耕の暮らし<小人閑居日記 2024.8.2.>)

 蔦重・蔦屋重三郎については、いままでいろいろ書いてきていた。 その最初が、2010(平成22)年12月25日の「等々力短信」第1018号「江戸文化の仕掛け人」だった。 『べらぼう』の第二回「吉原細見『嗚呼御江戸』」の『吉原細見』も出てきた。

      等々力短信 第1018号 2010(平成22)年12月25日                   江戸文化の仕掛け人

 柳家小満んが、先月のTBS落語研究会に「二階ぞめき」をかけた。 「ぞめき」というのは、遊廓をひやかし騒ぎ歩くこと。 吉原は、元和3(げんな・1617)年から40年人形町にあって、今の千束に移ったが、昭和33(1958)年になくなるまで340年間、「アメリカ合衆国」より長い歴史がある、と演ったのには、吹き出してしまった。

 蔦屋(つたや)重三郎(1750~97)、通称「蔦重」は、その吉原で生れた。 24,5歳で妓楼や遊女の名などを詳しく記したガイドブック『吉原細見』を出版、飛ぶように売れる。 毎年刊行し、版元として頭角を現す。 時は江戸の中期・安永、戦国の時代ははるかに遠く、百万都市江戸の市民たちは、太平の御代を謳歌していた。 当時の吉原は、知識人が集う文化サロンであり、文化の発信地だった。 蔦重は新吉原大門口の、自らの書店で出版工房でもある「耕書堂」をたまり場とし、狂歌師の大田南畝、戯作者の山東京伝など、その頃屈指の文化人たちと意図的に交流、南畝や京伝の本を出版し、自らも蔦唐丸(つたのからまる)の名で狂歌の会に参加していた。

 六本木のサントリー美術館で「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展を見た。 蔦重版『吉原細見』は18.5×12.4センチ、今の新書判より少し大きい位、細かくびっしりと書いてあるので、老眼には読みにくい。 吉原へ行くような連中、昔は特に、目が良かったのだろうなどと、思う。 安永9(1780)年、蔦重の黄表紙出版が始まる。 黄表紙も、同じような大きさだ。 山東京伝は、もともと北尾政演(まさのぶ)という浮世絵師で、22歳の時に文章と挿絵の両方を手がけた黄表紙『御存商売物』のヒットで世に出る。 その天明2(1782)年の暮、京伝は蔦重の招待で、当時人気の戯作者でその後の狂歌ブームを牽引していく四方赤良、朱楽菅江、恋川春町、唐来参和、元木綱といった面々や、さらには師匠の北尾重政、同門の北尾政美(鍬形斎)らと共に、吉原の大文字屋で遊んでいる。

 蔦重は当代一流の絵師を起用して、花魁道中など遊女の艶姿や生活の情景を華麗な浮世絵として刊行し、人気を集めた。 京伝・北尾政演の『青楼名君自筆集』、早くからその才能を見込んで家に居候させていた喜多川歌麿の「青楼十二時」シリーズはその成果だ。 蔦重は松平定信の寛政の改革で身上半減の処分を受けるが、「学問ブーム」に乗り単価の高い堅い往来物(初歩の教科書)や稽古本を出したり、歌麿の大首美人絵や写楽や北斎の役者絵を世に送る、アイデアマンだった。

夫婦愛の写真集“Reiko’s Garden”2025/02/14 06:59

 大塚宣夫さん、青梅と、よみうりランドの慶友病院を経営する慶成会の会長、この日記ではおなじみの慶應志木高校の同級生である。 その大塚さんが、三冊の写真集“Reiko’s Garden”を送ってくれた。 裏表紙には、my k.u.hosp.とあるが、表紙の題字とともに、奥様の玲子さんの筆跡かと思う。 ハードカバーにせず、手頃な厚さの三分冊にした配慮も好ましい。 青梅の病院開設45年目、よみうりランドも20年目、当初から入院している方とご家族が一緒に散歩できるような庭をつくろうと、宣夫さんがまったく素人の玲子さんに「丸投げ」し、玄関に飾る花から始めて30年余、その熱心な研究心と絶えざる努力によって、慶友病院といえばその庭の大きさと内容の豊かさで名を馳せるまでになったという。

 その「庭に何と多くの患者様とご家族が訪れ、人生の最晩年のひとときを一緒に過ごされたことか。そればかりか患者様が亡くなったあとも庭を訪れ、思いに浸るご家族の姿は今も絶えることがない。これぞ私が目指した病院の姿である。/この写真集こそはその活動の証左であり、我が妻として、というよりも我が最強のパートナーとしての玲子の活動に心からの感謝を捧げたい。玲子、本当にありがとう。」と、宣夫さんは「はじめに」に書いている。

 写真と文は、玲子さんである。 「いつもどこかが花盛り!」をモットーに、遊歩道、北花畑、西花畑の3ヶ所を使い、ナノハナ、ヒナゲシ、コスモスと回していた。 春のナノハナ畑がショボショボになってきた。 市販の野菜種を同じ畑にまき続けると、連作障害で育たなくなる。 自家採種を7年繰り返すことで、その地に合った固定種を作ることができると聞いて、堆肥も入れない自然栽培で、4年前から自家採種に切り替えた。 今年のナノハナは慶友育ち4代目、あと3年で慶友オリジナルの菜の花種が出来る。

 ヒナゲシ、赤いケシの種を遊歩道にまいている。 ケシの花はフランス語で“コックリコ”、<ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)我も雛罌粟 与謝野晶子>

 今年は不順な天候で、7月、長期の低温と日照不足でヒマワリが半分枯れ、8月になると今度は極端な酷暑が続いた。 気候が激しく変動する状況では畑を一種類で埋め尽くすのはリスクが大きいと考え、西花畑の半分は従来通りコスモス等の種まき花壇とし、残りの半分は多種の宿根草を組み合わせた英国風ナチュラルボーダーガーデンにした。 夏に先駆けて咲くジャーマンアイリスやギガンジウム、タチアオイ等大ぶりの花の間を、早くもキャットミントや白蝶草等が一面を埋め尽くし、やがてダリアや宿根ヒマワリが咲いてくるだろうという。

   花壇の植え替えは春を迎える大事な作業、毎年3月にはハボタンを抜き、チューリップの芽に気をつけながらパンジー、ヴィオラ等を植え込む。 ところが近年、この時期にパンジーの入手が難しくなった。 寒さに強いように改良され、主に秋に出荷されるようになったからだ。 パンジーは和名三色スミレ、春の代表花スミレの仲間なのに…、そのうち秋の花になるのか。

 桜100本を目標に、桜の季節を長く楽しもうと、八重桜、まめ桜、大島桜、しだれ桜等も加えてきたが、いろいろな事情で100本には到達していない。 庭も10年を経ると、成長した樹木が込み合ってきて、整理を余儀なくされる。 10年間一度も花も実もつけないレモンの木の前で「もう切ってしまおうか」と植木屋と話をしていたら、突然花が咲き実を3個つけた。 ここ何年も背ばかり高くなってピンクの花をチラホラしかつけないミズキに、一発ハッパをかけようかと思っている。