秀長を異父弟とし、出世の仕方も違う説 ― 2026/02/15 07:23
『英雄たちの選択』スペシャル「秀吉と秀長―激突! 豊臣チルドレンの関ヶ原」(12月31日放送)を見た。 平山優さん(健康科学大学特任教授・日本中世史、近世史)も冒頭で、「天正19(1591)年秀長の死をきっかけに豊臣政権の凋落が始まった」と話した。
この番組では、豊臣秀吉の弟、小一郎・豊臣秀長を、大河ドラマ『豊臣兄弟!』の同父弟と違って、異父弟と、紹介した。 藤吉郎・秀吉は、木下弥右衛門と大政所(名はなか(仲)とも、不詳とも)の子だが、秀長はその3年後の竹阿弥と大政所の子という説だった。 竹阿弥は、同朋衆(和歌や能楽を扱う)。 木下弥右衛門も、竹阿弥も、貧しく畑を耕していた。
藤吉郎は、18歳で織田信長に仕え、小者から足軽になった。 小一郎は、『信長公記』に直臣、赤武羅之衆(あかほろしゅう・赤母衣衆)の一員とあり、使番(つかいばん、命令を伝達するエリート)。 天正2(1574)年、長島一向一揆攻めで、武功を上げ、信長から長の一字を与えられ長秀(のちに(天正12(1584)年)秀長と改める)となる。 バランスの取れた知的な人物。
番組では、信長の下に、吏僚、旗本、部将、家老、連枝衆があり、旗本の中に、六人衆、小姓、馬廻衆がある図を出した。 秀吉は、部将。 秀長は、馬廻衆。
秀吉は、元亀元(1570)年の織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍との姉川の戦いや、天正元(1573)年の近江の浅井氏攻めでは指揮官として軍功をあげ、浅井氏旧領の北近江三郡を任され、12万石に見合う長浜城で、城持ち大名となり、家臣を集める。 小一郎がこの戦に参陣していたと、手紙にある。
秀吉は、天正6(1578)年から信長の命令で播磨但馬侵攻を開始するが、秀長は但馬への総大将となる。 播磨と但馬の境界付近の生野銀山(現、兵庫県朝来市)を押さえたのは、経済に詳しい近江衆のすすめだという。 竹田城(兵庫県朝来市)を攻め、秀長は城代となり、一城の主となる。 秀長は、秀吉と同じ苗字を名乗り、羽柴一門衆、秀吉を支える血縁的一族となる。 天正8(1580)年、二人の協力で播磨但馬を平定、秀吉は20年で50万石以上の大名となった。
秀吉と秀長には、性格のすみ分けがあった。 性格が、真反対だった。 秀吉は、大言壮語し、物言いがはっきりしていた。 秀長は、そんなにしゃべらず、柔軟で、もやっとした性格。 秀吉にとって秀長は、信用できる兄弟だった。 秀長は、秀吉と臣下の間にあって、調整役を果たした。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』、弟の小一郎・豊臣秀長 ― 2026/02/14 07:30
大河ドラマ『豊臣兄弟!』、八津弘幸作、弟の小一郎・豊臣秀長(仲野太賀)を主役にしたところが新機軸で、巧い切り口を見つけた感じがする。 第一回の題は、藤吉郎・豊臣秀吉(池松壮亮(そうすけ))と、「二匹の猿」だった。 豊臣秀長については、ほとんど何も知らなかった。 雑誌『サライ』2月号は、大特集が「謎解き「豊臣秀吉」」だったが、秀長については、ほんの少ししか書いていない。
謎2、〝攻城の天才〟はなぜいくつもの超軍略を使えたのか→「時代別に活躍した3人の参謀が秀吉の強さを支えました」で、竹中半兵衛、黒田官兵衛と並べて、豊臣秀長(1540~91)を挙げている。 「豊臣軍の総大将を担った絶対的信頼の弟」として、「通称は小一郎。秀吉の異父弟ともされるが同父弟が有力。秀吉が中国攻めの司令官として播磨攻略を進めていた天正6年(1578)頃より確かな史料に名前が表れる。秀吉の中国攻め以降は、秀吉のほとんどの合戦に参加し、四国攻めでは総大将を担う。大和郡山城主で100万石を領し、大和大納言と称される。豊臣政権の重鎮として存在を示したが、秀吉に先立って52歳で病死した。」
秀長は、秀吉の絶対的信頼のもと、四国攻めの総大将など、まさに秀吉の分身としての役割をはたしていく。 小和田哲男さん(静岡大学名誉教授)は、「天下統一の総仕上げである小田原攻めも、病気にさえならなければ秀長は総大将クラスで出陣したでしょう。その翌年に秀長は逝去しますが、豊臣政権にとって重大な痛手でした」と。
ドラマや小説などでは、秀長は秀吉の朝鮮出兵に反対し、豊臣家の行く末を案じながら亡くなっていったように描かれることがある。 本当だろうか。 小和田哲男さんは、「その逸話は研究者の間で疑問符がつけられている『武功夜話』という史料にのみ記されているため、あまり信憑性のある話とは捉えられていません。しかし私は、秀長が朝鮮出兵に反対したというのはありえると思っています。なぜかというと、秀長が亡くなると秀吉はすぐに朝鮮への前線基地となる名護屋城の築城を命じているのです。豊臣家の実力者の秀長が朝鮮出兵に反対したら、秀吉も築城を強行できなかったでしょう」と。
実際、秀吉の朝鮮侵略は失敗し、豊臣政権は揺らいでいく。
『今だからわかること 84歳になって』 ― 2026/02/13 07:04
2月10日の朝日新聞、鷲田清一さんの「折々のことば」3574は、末盛千枝子さんの言葉を紹介した。
「何かを手放した時、その状況から逃げ出さなければ、先がある。失って、満たされることが人生には起こるものです。 末盛千枝子」
鷲田清一さんの解説。 「絵本の編集者は20年間運営してきた出版社を閉じて岩手県に移住し、直後に大震災に遭う。家や親を失った子どもらに絵本を届けるプロジェクトを思い切って立ち上げたら、国内外から23万冊が集まった。ずっと絵本にかかわってきたのも、出版社を畳んだのも、この時のためだったと思った。『今だからわかること 84歳になって』から。」
末盛千枝子さんとは、同期とわかった1986(昭和61)年11月以来、お互い84歳になるまでの長いおつき合いで、いろいろ「等々力短信」や「小人閑居日記」に書かせてもらった。 それを一覧にしておきたい。
末盛千枝子さん関連「等々力短信」
第411号 1986.12.5. ある絵本の話/①末盛千枝子さんの『画家 AN ARTIST』
第412号 1986.12.15. 電話番号/②彫刻家舟越保武氏のコラム「電話」
第413号 1986.12.25. どうにか様/③口中バランス回復剤“元気の素”明治丸
第517号 1989.12.15. 心なごむ時間/すえもりブックスの絵本
第616号 1992.10.15. 海の「きゅうり」/絵本『THE ANIMALS(どうぶつたち)』
第617号 1992.10.25. 『まどさん』/阪田寛夫の、まど みちお伝
第725号 1996.1.15. 孫への葉書/永六輔作・絵の絵本『こんにちは赤ちゃん』
第844号 1999.6.5. 長崎の二十六聖人像/高橋睦郎『日本二十六聖人殉教者への連祷』
第914号 2002.4.25. 小川未明の「眠い町」
第1010号 2010.4.25. 本好きの福音
第1082号 2016.4.25. 『「私」を受け容れて生きる』
第1093号 2017.3.25. 明治大正、船の恩返し
第1118号 2019.4.25. 皇后美智子さまの御歌
第1166号 2023.4.25. 絵本が生まれるとき
第1167号 2023.5.25. 世界の人が行きたい盛岡
第1187号 2025.1.25. 正面に岩手山が見える家
末盛千枝子さん関連「小人閑居日記」
美しく光っているもの<小人閑居日記 2002.2.7.>
長崎26聖人の殉教日<小人閑居日記 2002.2.12.>
シルヴィア・保田遺作展<小人閑居日記 2002.12.1.>
彼岸の墓参りと聖イグナチオ教会<小人閑居日記 2004.3.17.>
本を造る者のこころ<小人閑居日記 2004.3.18.>
SUEMORI CHIEKO BOOKS の誕生<小人閑居日記 2004.3.19.>
(2005.5.14.からはブログに発信)
ゴフスタインの『ピアノ調律師』<小人閑居日記 2005.8.9.>
ある「クリスマスの思い出」<小人閑居日記 2005.12.25.>
タシャ・チューダーの庭と生活<小人閑居日記 2005.12.26.>
アメリカのシスター<小人閑居日記 2010. 4.28.>
『暮しの手帖』編集長と末盛千枝子さん<小人閑居日記 2010. 6.18.>
山本容子さんの絵本『おこちゃん』<小人閑居日記 2010. 8.29.>
末盛千枝子さんの絵本、待望の復刊<小人閑居日記 2012. 4. 21.>
末盛千枝子さんの「千枝子という名前」<小人閑居日記 2014.4.11.>
同じ時代の育ち<小人閑居日記 2014.4.12.>
末盛千枝子さんの「卒業五十年」<小人閑居日記 2014.7.8.>
レオ=レオニの『フレデリック』を読んで<小人閑居日記 2016.5.1.>
舟越保武さんの「ダミアン神父」<小人閑居日記 2016.5.2.>
放送作家、作詞家としての永六輔さん<小人閑居日記 2016.9.19.>
末盛千枝子さん「3.11絵本プロジェクトいわて」の話<小人閑居日記 2017.11.2.>
皇后様と末盛千枝子さん<小人閑居日記 2017.11.3.>
岩崎(ちひろ)さんが岩崎さんになって行く過程<小人閑居日記 2018.9.3.>
「根っこと翼・皇后美智子さまに見る喜びの源」<小人閑居日記 2018.9.7.>
皇后様と島多代さん・小泉信三さん<小人閑居日記 2018.9.8.>
皇后様、文学・芸術の豊かな人脈<小人閑居日記 2018.9.9.>
再び山本周五郎にはまる<小人閑居日記 2019.1.7.>
『知恵泉』永六輔『夢であいましょう』秘話<小人閑居日記 2021.6.6.>
ある絵本の話(等々力短信 第411号)<小人閑居日記 2023.4.21.>
電話番号(等々力短信 第412号)<小人閑居日記 2023.4.22.>
どうにか様(等々力短信 第413号)<小人閑居日記 2023.4.23.>
末盛千枝子さん関連「等々力短信」「小人閑居日記」<小人閑居日記 2023.4.24.>
長崎の二十六聖人像と舟越保武さん<小人閑居日記 2023.4.25.>
舟越保武さんの《原の城》<小人閑居日記 2024.2.7.>
『三田評論』の岩谷時子さんの文で同期と知る ― 2026/02/12 07:14
末盛千枝子さんの『今だからわかること 84歳になって』で、私が岩谷時子さんの『三田評論』で大学の同級生だとわかったというのは、1986(昭和61)年の11月号だった。 そこで、「等々力短信」411号「ある絵本の話」を、ささやかながら応援の気持をこめた、これは愛読者カードですと書いて、勇気をふるって、末盛千枝子さんに送ったことで、文通が始まり、「等々力短信」を読んでもらうようになったのだった。 今度のご本で「等々力短信」にふれていただいたことは、今月2月25日に1200号を迎える「等々力短信」への、とても大きな力になる激励である。
電話番号<等々力短信 第412号1986(昭和61).12.15.>
『三田評論』の11月号に、詩人の岩谷時子さんが「絵本と千枝子さん」という題で、末盛千枝子さんのことを紹介している。 『あさ・One morning』の受賞を祝うパーティで、この絵本の文章を書いたのが、千枝子さんの妹のカンナさん、そして、お父様は彫刻家、「千枝子さんのなかに芸術家の血が流れている」ことを、初めて知ったと、岩谷さんは書いている。 しかし、お父様のお名前はない。 例の『画家』に、はさんであったパンフレットで、妹のカンナさんの姓が、「舟越」であることを確認して、私は安心した。 彫刻家の舟越保武さんという方が、この7月から、日本経済新聞夕刊のコラム「あすへの話題」の火曜日を担当している。 その文章が素晴しい。 10月28日の「電話」が、特にいいと、教えてくれたのは、兄である。
「長野の山荘に、長女と孫二人を連れて行った。二年前の初秋であった。/谷川のほとり、林の下で孫達は楽しくとびまわった。小学三年と一年の男の子、この子達の父は、前の年の夏、突然死んだ。/孫達は、亡くなったパパのことを口に出さない。前の年にはパパの運転する車で、この山荘に来たのだ。孫達の胸の中には、パパと遊んだ前の年のことが、しきりに思い出されているはずなのに、一言もパパのことを言わない」
翌日大阪から、長女の友達が、男の子を連れて合流し、三人の男の子達は、一日中秋の陽をあびて、あそびまわる。夕食後、その友達の御主人から電話がかかった。大阪の子が、電話にとびついて、山の中で今日一日遊んだことを、弾んだ声でパパに話した。
「電話が終わったとき、それまでじっと聞いていた一年坊の孫が、うつむいたまま、ポツンと一言「うちのパパからは、電話が来ない」と言った。私は、その時の長女の胸の中を思い、何も言えず辛かった。/意外にも、長女は、とびきり明るい声で、/「こっちから、電話してごらんよ、パパに」/と言った。/「電話番号しらないもん」/「105番にかけて聞いてごらん。天国の電話番号は何番ですかって」/孫の顔に一瞬、緊張が走った。/孫はその時、耳の奥に、パパの声を聞いていたに違いない。室内がしいんとした。/少しして、孫は「やあだよう」と言って、急いで遊びの中に入って行った。/リンリンと鳴くコオロギの声の中で、みんな、それぞれの想いに沈んだ」
引用しているうちに、ワープロの画面がボーと霞んだのは、機械の故障ではない。
末盛千枝子さんとペーパーウエイトと「等々力短信」 ― 2026/02/11 07:10
実は、末盛千枝子さんの『今だからわかること 84歳になって』(KADOKAWA)の第III章「私の好きなもの」の、「ペーパーウエイト」に、私と「等々力短信」が登場している。 1989(平成元)年6月、「等々力短信」500号記念のパーティーを友人たちが開いてくれて、記念品に三角形のガラスのペーパーウエイトを出した。 それを、その会に来てくれた末盛さんが、今でも大事にしてくれているのだ。
末盛さんとのご縁は、1986(昭和61)年の夏、神田の三省堂でM・B・ゴフスタイン作・絵、谷川俊太郎訳の『画家・AN ARTIST』を手にしたことに始まった。 それを「等々力短信」411号「ある絵本の話」に綴った。
ある絵本の話<等々力短信 第411号1986(昭和61).12.5.>
この夏の初めのことである。 本の用事で神田に出かけたついでに、三省堂をのぞいてみた。 絵本の売り場で、なにげなく手にした一冊が、とても気に入った。 つい仏心が出て、家内のおみやげにしたほど、ひとの心に温かいものを通わせる本だった。 絵もいいが、なによりも色がいい。 簡単な詩のような文章がついているが、それがなにやら、奥深いものを感じさせる。 本の造りや、色にも、細かい神経が行き届いていた。
それは、M・B・ゴフスタイン作・絵、谷川俊太郎訳の『画家・AN ARTIST』という本で、ジー・シー・プレスという会社から出ている。 奥付の上に、SUEMORI CHIEKO BOOKSという木のマークがあった。 本の中にはさんであった「まだ、絵本は子どもだけのものと、お思いですか?」というパンフレットによれば、末盛千枝子さんは、ブック・アンド・ブックスというシリーズの絵本を出していて、最初の六冊のうち『あさ・One morning』が、今年度のボローニャ国際児童図書賞のグラフィック大賞を受賞したという。 『画家』は、それにつぐ二期目の本の、一冊らしい。
末盛、絵本、大賞とたどっていくうちに、おぼろげに、一つの話を思い出した。 新聞か雑誌で読んだことがあった。 NHKのディレクターに末盛憲彦さんという人がいた。 あの「夢であいましょう」という番組の演出を担当して、テレビのバラエティー・ショーに新分野を開いたほか、「ステージ101」「ビッグショウ」「テレビファソラシド」などのユニークなショー番組を作った。 「夢あい」などは、私の青春(?)の思い出に重なり、「変な外人」「けっこうなチャキリス」などのギャグは、今だに口をついて出る。 末盛憲彦さんは、三年前の夏、突然に亡くなった。 二人の幼い男の子を残して……。 千枝子さんは、末盛さんの奥さんである。 そして、絵本を作る仕事を始めた。
最初の六冊の中に、末盛千枝子作、津尾美智子絵『パパにはともだちがたくさんいた』という素敵な本がある。 「Nのために」という献辞のあるこの本は、「なつのあさ とつぜん/パパが 死んだ/ぼくたちの パパなのに 死んだんだよ」で、始まる。 二人の子供は、テレビ局のホールに出かけ、たくさんのパパの友達に会う。 おじさんの一人が教えてくれた「パパのしごとは/いろんな人を よろこばせたって/そして ぼくたちは/パパの たからものだって」。 私も同感だよ、坊やたち。
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