春風亭一蔵の「鷺とり」2026/09/05 07:12

 一蔵は、グレイの羽織に、黒の派手な縦縞の着物で、趣味はダイエット、特技はリバウンドと始めた。 年子の娘がいて、次女の高校卒業式はコロナの時期で無観客だった。 長女の時は、卒業式があり、若いそこそこイケメンの担任が、最後のホームルームで、大声のオーバーアクションで、「ソツギョウ、オメデトーーッ!」と呼びかける。 涙は流さない、ずっと「頑張れ!」と言ってきたが、もっと慎重に使うべきだった。 二度と「頑張れ!」は、使わない。 これから順番に、お父さん、お母さんに、感謝の言葉を、述べるように。 トップは、青木まなみ。 しばらく、言葉が出ない。 担任は、言った。 「頑張れ!」

 これから落語をやります。 この話、95%脚色してない。 その時、笑ったのは、私一人、落語家は、社会不適応者。 ぼんやりと、大らかな気持で、聞いて下さい(と、羽織を脱ぐ)。

 隠居に仕事をしなさいと言われた男。 あっしは、スズメを捕まえようと思っている。 うんと捕まえて、焼き鳥屋へ売る。 ここを使う、と指す。 コメカミか? 頭だ。 米粒を三日三晩、味醂に漬ける。 それを撒いておいて、後で南京豆も撒く。 スズメが…(前歯を出す)。 なんで、前歯を出す? くちばしだよ。

 味醂に漬けた米粒を撒いたが、罠だ、捕まるぞ、と一羽も下りてこない。 西のスズメが、「何やってんのん。乙なもんでっせ。」と、下りて食った。 それを見て、江戸っ子のスズメが、みんなチュン、チュンと下りて来て、米粒を食って、アルコール分に、ヨロヨロ、ヨロヨロ、そこへ南京豆を一つかみ撒く。 いい枕が来たと寝る。 寝ているところを、箒とチリトリで集めて、焼き鳥屋へ持って行くんだ。

 その罠、うまくいったのか? スズメがふらふら、スズメなのに千鳥足になったところに、南京豆を撒いた。 みんな寝た。 まさか! だが、西のスズメが、馬鹿に酒に強かった。 江戸っ子のスズメをみんな起して、二次会だと、スズメだけで焼き鳥屋へ行っちゃった。

 鷺を、捕まえることにした。 池や沼で、大きな声で、呼ぶ。 サギーーッ! 人間に、呼ばれたよ、前へ出よう。 (手を上げて、鷺の恰好をする。手が顔で、出した前歯は)、お腹の白いところ。 声を小さくして、呼ぶ。 サギーーッ! もっと、声を小さくして、呼ぶ。 サギーーッ! 人間は、遠くに行ったようだ、いなくなった。 実は、鷺の真後ろにいて、金槌で「バコン!」とやる。 うまくいくのか、かぼちゃやかなんか、やっていた方がいい。

 鷺のいそうな、池や沼はあるか。 上野の不忍池。 夜、不忍池にやってきた。 見張りの鷺が、ぼんやりした鷺だった。 みんな寝ている、鷺の真後ろに行き、金槌で「バコン!」「バコン!」とやった。 袋を忘れた。 仕方がない、帯のところに、鷺の首を挟み込む。 帯の周りに、鷺がぎっしり。

 夜が明けてきた。 みんな、捕まったぞ。 みんなで、飛べ。 バタバタ、バタバタ! 奴っこさんが、飛んで行く。 詐欺に遭ったようだ。

 夏の高校野球でも活躍した、花巻東高校のグラウンドで、それを落とした。 野球をやらして、天下のメジャーで大活躍の、大谷翔平由来の一席でございます。

立川笑二の「かぼちゃや」2026/09/04 07:06

 8月31日は、第698回の落語研究会だった。 立川笑二は、談笑の弟子。 沖縄読谷(よみたん)村の出身で、小中高とソフトボールをやったという。 高校の男子ソフトボール部のスローガンは、1年の時が「打倒!○○高校」、2年が「九州制覇!」、3年は「練習前の飲酒禁止!」で、全国大会2位になった。(黒羽織を脱ぐ、茶色の着物)

 先々の時計になれや小商人、二十(はたち)になった与太郎を呼んで、八百屋の伯父さんが、働かなけりゃ飯が食えない、かぼちゃを売って来い、という。 大きいのが10、小さいのが10ある。 合わせるとハタチだ、と与太。 大が13銭、小が12銭だ、売る時は上を見て売れ。 裏通りを行け、腹を立てずに、向こうの言いなりになるんだ。 売り声は大きく、天秤棒を担いで、一回りして来い。

 与太郎、出かける。 かぼちゃ! かぼちゃ! こんな所に、花がある。 朝顔だ。 なんだ、家の前に座り込んでいる奴がいる。 何を、やってるんだ? 朝顔の花言葉を知っているか、はかない恋ってんだ。 かぼちゃ! かぼちゃ! それじゃあ、売れない、「唐茄子屋でござい!」と、売るんだ。 買ってくれよ。 これから湯へ行くんだ。

 「出来立て、ほかほかの、かぼちゃ!」 路地の行き止まりだ、回れない。 ここで歳を取りたくない。 路地を広げろ、蔵をどけろ! 馬鹿が、引っ掛かった。 身体だけ、回れ。 回れた。 格子に傷がつくじゃねえか、張り倒すぞ。 いくつ? 殴られよう。 さあ、殴れ。 家に入って来やがった。 唐茄子、買ってよ。 いくらだ? 大が13銭、小が12銭。 大を二つ、釣りはあるか。 ない、上を見ている間に、持ってけ。 変な奴だな。

 唐茄子屋だ、安いから、お光さん、お兼さん、おじさんも、買ってやれ。 大が13銭、小が12銭だ。 上を向いてるから、早く売れ。 すっかり、さばけたぞ。 売上は、お前の儲けだ、2円50銭あるだろう。 軽くなった。 ありがとうございます、ぐらい言わないか。 どう、いたしまして。

 ばあさん、与太郎が帰って来た。 そっくり売れたのか、儲けを出せ。 えらいな、元と儲けを,別にしているのか。 儲けは? これだ、2円50銭。 それは、元だ。 上を見たんだろ? ん! 大が13銭、小が12銭。 それは、元だ。 ノドチンコ、カラカラにして、空を見ていた。 もう一度、回って来い。 掛け値をしろ、大の13銭を15銭、小の12銭を14銭、2銭ずつ儲かるだろう。 二十(はたち)になったんだろう、それじゃあ飯が食えない、女房、子が養えないぞ。

 好きで二十になったんじゃない。 掛け値をしろ、か。 路地、行き止まりだ。 また、引っ掛かったよ、同じ馬鹿だな。 大の13銭は、今15銭、小の12銭は、今14銭、空を見ていないで、掛け値をしろって言われた。 馬鹿だな。 買う方が馬鹿だ。 おめでたいな。 明けまして。 お前、齢はいくつだ。 六十。 どうみても、二十ぐらいだ。 四十は掛け値、掛け値をしないと、女房、子が養えない。

福澤、世間より個人が大切、時代の潮流に乗る2026/09/03 07:02

 三宅香帆さんの『波』連載「福澤諭吉をよみなおす」、8月号の第2回は「なぜ福澤諭吉の書く本は売れたのか?」。 そもそも福澤が世に知られたのは、著作『西洋事情』初編(慶応2(1866)年)が、バカ売れ25万部のベストセラーになったからだ。 福澤、33歳の出来事だった。 それまでの福澤は、三宅さんがいまふうにいう「やたら勉強する陽キャ(対人関係が得意な人)」で、自分の「実力」には自信があるのに、「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)、身分制度のためにフラストレーションを溜めていた。 手先も器用だった。 やたら器用な陽キャこと福澤の人生は、門閥制度という世間を憎んで始まったのだった。

 陽キャというと人が好きであるように思われるが、そこには案外冷たい視線があるように三宅さんは思う。 たとえば世間というものを、福澤は依存や愛情を前提すべきではない関係のものとして捉えていた。 つまりは愛情というよりは、個人同士自立した存在として関係すべきである、くらいに捉えていたのだ。 家族と世間はちがう。 家族は愛情をもって接し合う相手である。 だが、世間は違う。 面倒で、謎のルールを押し付けてくる存在である、と福澤は何度も語っている。

 福澤にもともとあった世間より個人のほうが大切だという性格と感覚が、ちょうど時代の潮流と重なっていく。 日本が西洋の個人主義を取り入れたいと盛り上がったタイミングに、本を出す著述業を彼が手にしていた。 ベストセラー作家とは、本人の気質と時代の潮流が一致したときに登場するものだと思う。 そして彼は、「演説」というひとりで語るスタイルを日本で流行させるに至る。 それはよく勉強する陽キャだからこそできたことだっただろう、と三宅さんは書く。

 福澤は、中津にいたころ、「世間」の人間関係のなかで生まれてくる嫌悪や不快な感情については、それを意識的に克服した。 褒められても、喜ばない。 軽蔑されても、怒らない。 手を出さない。 19歳で長崎に出て、蘭学を勉強し、その後、緒方洪庵という師にも出会う。 だが根本的な、世間に対しては「個人は個人」という考え方は変わらなかったのだろう。 それは彼の思想の根本になる。 アメリカとヨーロッパに渡り、そして倒幕の嵐が吹く中で『西洋事情』を刊行することになった。 その時も、自分の感情よりも対人関係を優先させる思想こそが、彼の著作の背景にあるものだったのである。

 三宅さんは、それは現代の日本人にとっては、案外親しみやすい思想ではないだろうか、と言う。 「喜怒色に顕さず」、さまざまな人とコミュニケーションをとろうとする。――その福澤の説いた姿は、案外SNS社会的だな、と思ってしまう。 それは彼の中に絶対に突き通したい正義がなかった証ではないか。 むしろ絶対的な正義やビジョンなどなく、彼の人生や著作を眺めていると、そこにあるのはむしろ「西洋という時代の波がやってくるなかで日本人はいかに生きるべきか」という解釈と提言の語りかけである。 その時代に日本人が適応し生きのびる――サバイブするにはどうしたらいいのか、を説いたことだった。

 福澤の言葉がいま響くのは、やっぱり日本人もちゃんと個人で独立しろ、世間に染まりすぎるな、公のことを考え、勉強していろんな人たちとコミュニケーションを取れ、ということがいまだに難しいからだ。 日本人に自由は難しい。 公共のことを考えた個人であれ、という教えはいまも伝わりづらいだろう。 だけどあえていうなら「それだけ」を福澤は語った。 それが近代社会をサバイブするということだからだろう、と三宅香帆さんは指摘している。

「演説」喋りで他人を説得するメディア、相手に伝わる「文体」2026/09/02 07:17

 三宅香帆さんの新潮社『波』連載「福澤諭吉をよみなおす」、7月号の第1回は「動画の時代に読み直す福澤諭吉」だった。 『文明論之概略』の緒言で「一身にして二生を経(ふ)る」といった福澤が、明治維新後の数え40歳になる明治6(1873)年ごろから、意識していたのは「演説」の必要性であった。 「口頭での言語パフォーマンスとそれを中心とした集団的意思決定の仕組みを日本社会に導入すること」が必要だと強く意識していた。 書くことではなく、喋ることで意思を伝えるメディアが必要だ、と。 書籍や新聞だけでなく、喋りで他人を説得するという新しいメディアに彼は注目していたのだ。

 なぜ演説を広めようとしたのか。 それは、欧米の議会制度を実際に目で見たことがきっかけだった。 福澤は、議会だけでなく、日常においても日本人が「会議」つまり口頭で意思を伝えあう場が必要になってくるだろう、とも思ったのだ。 「会議」という、独立した個々人が交際するための場が必要になってくるだろうと福澤は直感した。 演説。 それは日本にやってきた新しいメディアだったのだ。

 これを読んだ私は、参考文献に挙げられている、松崎欣一さんの『三田演説会と慶應義塾系演説会』(慶應義塾大学出版会・1998年)と『語り手としての福澤諭吉 ことばを武器として』(慶應義塾大学出版会・2005年)、そして参考文献には挙げられていないが、都倉武之さんの『メディアとしての福沢諭吉―表象・政治・朝鮮問題』(慶應義塾大学出版会・2025年)を思って、嬉しい気持になったのだった。

 三宅香帆さんは、「明治の演説ブーム」で演説=喋りによる説得とは暴力の時代へのアンチテーゼであるから、いまの時代に最も重要なメディアのひとつにも見えてはこないだろうか、と指摘したあと、「福澤諭吉の文体」について書く。 福澤はベストセラー『学問のすゝめ』を生み出した「書き手」であり、同時に、演説を日本に広めた「喋り手」でもあった。 しかもそれでいて、福澤は政治家にはならず、最後まで自分の思想や知識を、言葉で、伝えることに注力した。 ここで、松崎欣一さんの『語り手としての福澤諭吉』の長い引用がある。 「読者を「軽侮罵言する」ということがある。そうなってしまっては、「客を招待して門前に番兵を置き、却てこれを叱咤する」ことに他ならないではないか」、「世情の勢いをより高尚の域に導くべく、当代の学問に励む者-学者-の責務として、難解な書物を読むことで終わるのではなく、翻訳、著述、演説、対話、あらゆる方法を駆使して必要なメッセージを積極的に発信しようというのである。」

 書き手としての福澤の文体も特徴的だ。 彼は洋書の翻訳をするときも、とにかく平易に、だれにでもわかるように書くことを意識していた。 こうして本人いわく「雅俗めちゃくちゃ」文体が完成した。 誰に向かって書いているのかを意識すること。 それは演説においても同様だった。 重要なのは、伝える方法――メディアの選び方、喋り方、身振り手振りの方法など――なのだ、と。 文体も、喋り方も、訳語の選び方も、福澤にとっては同じ問題だった。 重要なのは、スタイルなのである、と。

福沢諭吉と慶應義塾「社中」の由来2026/09/01 07:14

 科学技術・生存システムを研究している友人から、初期の慶應義塾ではなぜ「入社」というのか、と聞かれた。 入塾者の名簿は、「入社帳」と表記されていた。 慶應義塾には「社中」という言い方があり、「先生」と呼ぶのは福沢諭吉だけで、教える者も教わる者も「半学半教」、お互いに教え合い、共に学び続けるので、「入社」なのだろう、と答えた。

 改めて『福澤諭吉事典』の事項索引を見ると、「社中」はないが、「慶応義塾社中之約束」があった。 「明治4(1871)年から30年頃まで出版された慶応義塾の規則集。」「初期の「社中之約束」には、慶応義塾は「福沢氏ノ私有ニアラズ社中公同ノ有」とあり、慶応義塾が「私」の存在ではなく、「公」のそれであることが述べられている。慶応義塾では教える者も教えられる者も同じく「社中」であり、その「社中」の人びとが対等な立場で取り決めた約束として「社中之約束」は存在した。」とある。

 7月号からの新潮社『波』に、三宅香帆さんが(実は、この人のことを、まったく知らなかった)「福澤諭吉をよみなおす」を連載していて、9月号の第3回は「幕末、饒舌は武器にならなかった」だが、そこに福沢の「社中」の起源が書かれていて、なるほどと納得した。 攘夷渦巻く文久元(1861)年、幕府の翻訳方にいた福沢は遣欧使節団に通訳として加わり、一年間、国制、軍制、税制など制度面の調査をみっちりすることができた。 なかでも彼にとって衝撃だったのが――ロンドン滞在中、イギリスの「或る社中」の「建言書」に出会ったことだった。

 それは、イギリスの外交官オールコックが、日本で乱暴を働いたり、まるで征服者のようにふるまっていることを批判する意見書だった。

 ここでいう社中とは、政府が主導するのではなく、民間人が結びついて立ち上げる学校や病院などの自発的結社・組織のことだと指している。 ようは、海外で外交官が横暴を働いていることを、監視し批判する自発的結社が存在する――そのこと自体が福澤にとっては衝撃的だったのだ。 しかもその監視とは、公明正大な国際法にもとづくものだった。 公明正大な世論こそが、政府の権力主義をチェックし得る。 福澤はこのイギリスの世論と社中の力に衝撃を受け、帰国後の彼の人生は、世論をつくる民衆の言葉を自立させそして慶應義塾というひとつの社中をつくることに尽力するものとなる。