大関和は、東京看護婦会で、鈴木雅の片腕となり活躍 ― 2026/08/09 07:47
明治29(1896)年夏、大関和は、瀬尾原始をはじめ知命堂病院の仲間たちに送られ、5年半を暮らした新潟県の高田を後にした。 大所帯となり、神田猿楽町から神田錦町へ移った東京看護婦会で、鈴木雅の片腕として多忙な日々を送ることになる。 雅の設立した「慈善看護婦会」は、かつて無償の看護で経営が行き詰まり、有償のみとしたため、雅は忸怩たる思いで「慈善」の文字を外していたのだった。 和が、最初に担当した患者は、元土佐藩士で、藩主山内容堂に大政奉還を説いた後藤象二郎だった。 維新後は国務大臣を歴任した象二郎は、この頃心臓病を患っており、翌年他界する。 彼は、和の当意即妙の受け答えが気に入り、病床での会話を楽しんだ。
このあと和は、政府高官や華族の家々から派出看護を指名されることになる。 元家老の娘という出自が気に入られた面もあろうが、相手が誰であっても臆することなく、患者のために必要なことを遣り遂げる点が、患者やその家族の信頼を得、口伝てで評判が広がったのである。 和が名立たる家々で期待以上の成果を上げたことで、東京看護婦会の収益が増え、再び慈善看護を行えるようになった。
さらに、高田時代に赤痢の防疫で名を馳せた和のもとには、全国の自治体や病院から、防疫の協力要請が相次いだ。 帰京した明治29年から翌30年にかけて、各地で赤痢の集団感染が発生すると、和は東京看護婦会の看護婦たちを率いて、対策に向かっている。
5年前、雅が「慈善看護婦会」を設立した頃は、ほかになかった派出看護婦会も次第に数を増してきて、日清戦争を境に一気に急増し、看護婦全体の8割を派出看護婦が占めるまでになっていた。 戦後の伝染病の蔓延によって看護婦の需要が増えたことに加えて、看護婦の資格や派出看護婦会の基準についての定めがないことが、急増に拍車をかけていた。 まったく素人が経営したり、髪結いや下宿屋、商店等による兼業が、東京市内だけで100以上もあると、新聞が伝えた。
トレインド・ナースとして誇りを持って働いている和にとって、それは耐えがたい状況だった。 和は、内務省衛生局長の後藤新平に会いに行く。 後藤は、今年の夏も方々で防疫で活躍した和の評判を耳にしていた。 和の一つ年上で、陸奥国水沢藩士の家に生まれ、須賀川医学校に学んだ後藤の語調は、和の故郷黒羽の言葉に似たところがあり、親しみを覚える。 和は後藤に、看護婦の技能を一定の水準に保つためにも、医師と同じように資格制にするなど対策が必要で、あまりにも低劣な派出看護婦に対しては、取り締まりも必要だと、訴える。 後藤は、今すぐとはいかないけれど、準備が整い次第、取り掛かると、約束した。 この約束が果たされるのは、4年後のことである。
結局、和と雅は、自分たちでできることから始めようと、隣に一軒、家を借り、「東京看護婦会講習所」として、看護婦を養成することにした。 さらに二人は、ここに所属している看護婦なら信頼できると、世間が認める、看護婦の団体を創立することにした。 名前は「大日本看護婦人矯風会」とし、和が会長を務めることになった。
日清戦争で看護婦(トレインド・ナース)への認識が変わる ― 2026/08/08 07:24
明治26(1893)年、知命堂病院は往診料を減額すると同時に、貧困者への無償診療を始め、翌明治27(1894)年4月には、新潟県で初の看護婦および産婆の養成所である「知命堂病院附属産婆看護婦養成所」を開く。 養成所の教員も務めるようになった和は、在任中に200人弱の看護婦を育てることになる。
明治27(1894)年8月、日清戦争が始まる。 日本赤十字社は広島、松山、名古屋など各地の陸軍予備病院に看護婦を派遣した。 日本赤十字社は明治10(1877)年の西南戦争の際に設立された「博愛社」という救護団体が前身で、日本政府のジュネーブ条約(赤十字条約)加入翌年の明治20(1887)年、博愛社は日本赤十字社に改称。 日赤は、日清戦争における救護が、最初の本格的活動だった。 新島襄亡きあと、日赤の正社員になっていた妻の八重(大河ドラマ『八重の桜』、戊辰戦争の会津鶴ヶ城籠城戦で戦った山本八重)は、日赤の篤志看護婦として広島陸軍予備病院に赴任していた。 彼女は看護婦たちに、「敵なればとて、傷を受くる者、仁愛の心をもって助けよ」という陸軍大将大山巌の訓示を伝えている。 同病院へは、日清両国の傷病兵が連日100人以上運び込まれ、看護婦たちが不眠不休の看護を行った。 4人の看護婦が伝染病で殉職している。
新島八重や、皇族の小松宮妃頼子といった上流階級の女性たちが篤志看護婦として活動したことにより、看護婦に対する賤業視が一気に払拭される。 そして、看護婦といえば、従来の「看病婦」ではなく、トレインド・ナースを意味するようになり、一転して憧れの職業となった。 また、戦場から持ち込まれた伝染病が国内で蔓延したことから、看護婦の需要が高まり、全国で次々と派出看護婦会が設立された。
近くの山村で、赤痢の集団感染が発生、和は避病院を改良 ― 2026/08/07 07:24
高田の知命堂病院は順調にすべり出し、地元はもちろん、遠方からも患者が訪れるようになった。 夏になって、高田から数里離れた山村で、赤痢の集団感染が発生し、県から病院に、防疫に協力してほしいという要請が来た。 すでに村の近くに避病院が建てられ、四日前に隣村の医師によって隔離が行われたが、その後も患者が増え続け、手に負えないという。 院長の瀬尾原始は、内科医の篠田栄吉と和を呼び、翌日の早朝から村へ行くよう指示した。
早速、和は出勤していた8人の看護婦たちを集め、感染の恐れもある危険な任務であると説いた上で、同行者を募ったところ、意外にも全員が志願してくれた。 和は、農村出身の二人の若い看護婦を選び、看護学校時代にまとめた「消毒法」「汚物扱方」「屍体扱方」のノートを手渡し、読んでおいてもらうことにした。
翌早朝、県の用意した馬車の荷台に、いくつもの桶と鋤(すき)、ありったけの雑巾と清潔な手拭、消毒に使う石炭酸、開院時に原始に頼んだ購入してもらった琺瑯製の差し込み便器、その他の看護道具、入院患者用の米を一俵積み込んで、篠田栄吉と和、サヨと清は村へ向かった。 村の入り口で、巡査と役場の助役、用具を携えた二人の消毒係と合流した。 ひっそりとした村だが、石礫(つぶて)が飛んできた。 避病院に連れて行かれたくなくて、隠れているのだ。 手前の家は、心張り棒をかっている。 和は、努めて明るく、「知命堂病院から参りました、医師と看護婦です。診察をさせていただけないでしょうか。米も持って参りました」と声をかける。 引き戸が開き、垢じみ疲れ果てた中年の夫婦が現れ、「助けてくれ。何か食いものを」と夫が泣き出し、妻も中を指さし「子供が死にそうだ」と泣く。三人の子供が横になっていた。 栄吉が診察し、小さく、しかし決然と「避病院へ」と言った。
いつの間にか、村の男たちが集まっていた。 和が、二人を連れて避病院へ行ってもよいかと聞くと、栄吉は「診断は俺一人で出来る、避病院をどうにかしない限り、この状況はどうにもならん。頼むよ」と言う。 和は、体力のある男たちに「鍬や鋤を持って一緒に避病院へ行ってもらえないか、女たちには患者の出ていない家の台所でお粥を作って運んでくれないか」と頼む。 鍬や鋤は墓穴を掘らせるためかと、血相を変えてにじり寄る聞く男たちに、和は「違います! 避病院の外に厠をつくるのです。衛生的な厠を作ることで、あらたな病人を出さずに済むのです」。 子供が避病院にいる、女たち、男たちから始まり、協力する者が出てくる。 和は、男たちに周辺の排泄物を集め、穴を掘って埋めるように頼んだ。 その後、避病院の周りを歩き、村と反対側で、かつ避病院の風下に、よい場所を見つけ、穴をできるだけたくさん掘り、掘り出した土はそのまま脇に置いておくように指示した。 患者は穴にまたがって用を足し、直ちに土で埋めるのだ。
和は、サヨと清をともない、見るからに急ごしらえの粗末な避病院へ足を踏み入れた。 ものすごい臭気の二十畳ほどの小屋に、布団が敷きつめられ、患者が横になっていた。 八割が子供で、中には絶命している者もいた。 医師も看護婦もいない。 和は、「さあ、一刻も早く、ここを居心地のよい場所に変えましょう」と、まずは掃除と換気に取り掛かる。 鋤で汚物を取り除くと、床を水拭きし、石炭酸を薄めた水で消毒する。 目を閉じたままだった子供たちが、きびきびと働く看護婦たちの姿を追う。 和が「今、村でおいしいお粥を作っていますからね」と言うと、見捨てられたと思っていた子供たちの目に光が宿る。
栄吉が三人きょうだいを含む七人の患者を大八車で運んできた。 和は、「衛生状態はかなりよくなりましたが、布団の交換が必要です。もう一棟小屋を建て、重症患者と軽症患者を分けたほうがいいと思います。そして軽症患者用の小屋に台所を作り、食事を定期的に与えるべきです。そうすれば、回復する患者が増えるはずです。」 「わかった。瀬尾先生に頼んで、県に掛け合ってもらうよ。」
和の意見をもとに改良が進められた村の避病院は、入院後の死者数が激減。 衛生環境を整えることの重要性を世間に知らしめた。
鈴木雅、アメリカへ渡らず、「慈善看護婦会」を設立 ― 2026/08/06 07:18
明治24(1891)年11月29日、新設された知命堂病院で開院式が行なわれ、和も挨拶した。 開院の広告には、院長瀬尾原始以下、内科、外科、産婦人科、眼科の錚々たる医師たちとともに、看護婦長の和も紹介されている。
年末、和は帰京する。 一年と少しの間見ないうちに、14歳になった六郎は、和の身長を追い越していた。 心は、あらたまった調子で、「お母様、心も将来、看護婦になりたいのです」と言った。 『女学雑誌』で、和のことを「まるでナイチンゲールのようだ」と書いた記事を読み、学校の図書室でカルクスの『フローレンス・ナイチンゲール』という本を読んだのだという。 図書室には、和や雅たちが翻訳した『Notes on Nursing』もあるそうだ。 桜井看護学校を勧めたいところだが、和たちの卒業と同時に閉鎖されたので、慈恵看護婦養成所への入学を勧めた。
母の哲は、和はアメリカにいるとばかり思っていた雅が10日ほど前に来て、先月、本郷森川町に「慈善看護婦会」という派出看護婦会を設立したと、話したという。 マリアに同行してアメリカへ渡るため、乗船の前日、横浜駅に降り立った雅は、駅前で人力車に撥ねられ、脳震盪を起して倒れ込んだ。 俥に乗っていたのは、外国人居留地で診療所を開いていたアメリカ人医師のウィリアム・ブレイズだった。 彼が介抱すると、雅はすぐに意識を戻した。 ブレイズが急いでいたのは、貧民窟で天然痘が発生したためだった。 雅は流暢な英語で、「私はトレインド・ナースです。種痘も済ませているので手伝わせて下さい」と話し、ブレイズは承知する。 ブレイズと雅は、まず患者の隔離に取り掛かり、空き家に隔離所をつくった。 ブレイズの要請で大病院の医師と看護婦らが痘苗を運んで来てくれ、まずは感染が疑われる住民から接種していく。 雅は、この修羅場を放り出してアメリカに発てないと考えた。 マリア・トゥルーへの連絡がうまくいかず、雅は行方不明とされてしまったのである。 結局、雅は二週間貧民窟にとどまり、患者の看護と種痘に明け暮れたが、感染拡大を抑えることはできなかった。 この時の天然痘発生により種痘を受けた横浜市民は1万1601人。 年末までに患者436人、死者117人を数えた。
母の話を聞いた和は、翌日「慈善看護婦会」へ行き、雅に会う。 雅は、まだ派出の依頼がほとんどなくて、チラシと手拭を配って挨拶まわりしている状態と言いつつも、「第一医院のような大きな病院で働く看護婦も必要ですが、私は、看護婦が主体的に働ける職場を作りたかったのです。ここの看護婦たちは、病院にかかることのできない患者さんのところへ出向き、必要とあらば、医師へとつなぎます。でも、立ち位置はあくまで患者さんの側です」と言い、和は大きくうなずく。
高田の廃娼運動、相馬愛蔵、木下尚江、そして瀬尾原始 ― 2026/08/05 08:17
明治24(1891)年2月、高田の教会で「廃娼演説会」が開かれた。 集まった数百人の聴衆のほとんどが、若い男性のクリスチャンだった。 和は、高田女学校の学生を8人連れて行った。 演説の途中、「存娼会」に雇われた暴徒たちが乱入する騒ぎがあったが、すぐに若い聴衆たちが力ずくで外に追い出した。 すべての弁士が演説を終った後、大森隆碩と打合せしていた和は、女学生たちと登壇、オルガンを弾いて、讃美歌「さあ、共に生きよう」を合唱した。
この日の顛末を報告した校長の栗原トヨ子から、厳重注意を受けたが、廃娼運動に関わること自体はクリスチャンとして正しい行いであると認めてくれ、学生たちが慈善音楽会を開き、募金で廃娼運動を支援することを勧められた。 ひと月後、和が一人で「廃娼演説会」に足を運ぶと、驚いたことに、一割ほどが女性の聴衆だった。 讃美歌の合唱の評判を知り、自分たちも歌うことで運動に貢献したいと考えた町の女性たちであった。 彼女たちは自作の「廃娼唱歌」を披露し、以後の演説会では、参加者全員が「廃娼唱歌」を高らかに歌い上げてから閉会することが慣例となる。
高田へ赴任して5か月が経った4月のある日、第一医院に入院中世話した相馬愛蔵(後に、新宿中村屋を創業する)が訪ねてきた。 和の影響があったか、その後、愛蔵は廃娼運動や貧民救済活動に身を投じる。 愛蔵の友人、木下尚江(なおえ)も、和に会いに来た。 明治から昭和にかけて社会運動家として活躍する木下尚江は、愛蔵と同じ松本中学の出身で、東京専門学校(後の早稲田大学)の先輩でもあった。 卒業後は、松本で地元紙の記者をし、この頃は弁護士になる勉強をしながら、廃娼運動に関わっていた。
同じ頃、鈴木雅は、マリア・トゥルーが看護学校再開の資金を募るためアメリカへ行くのに同行して、渡米するため、乗船の前日、横浜駅に降り立ったのだが…。
和は、高田の町で偶然、第一医院でともに働いた医師の瀬尾(せお)原始に会う。 引退した父の跡を継いで、全国から一流の医師たちを集めて、近く洋館の「知命堂病院」を開業するので、看護婦長になってくれないか、いずれ看護婦養成所も作りたい、と言う。 高田女学校の校長、栗原トヨ子は、拍子抜けするほど、あっさり退職を認めてくれた。 マリアが舎監の仕事を斡旋した時点で、和が急な転職をする可能性を伝えてくれていたのだ。 マリアは和の後継者をすみやかに決め、派遣してくれた。 和の看護婦としての能力を誰よりも高く買ってくれていたのが、マリアだった。
和が一つ気がかりなのは、子供たちのことだった。 雅の手紙によれば、真面目かつ天真爛漫な性格の心には、女子学院の厳しい学習指導と自由な校風がとても合っているようだ。 成績もよく、友達も多いらしい。 14歳になった六郎の将来の夢は医師になることで、第一高等中学校を目ざして勉強しているという。 子供たちにとっては、このまま東京で学ぶことが、最善に違いない。
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