雷門音助の「高砂や」2026/04/12 07:42

 こいつ、だれ? と、お思いでしょう。 雷門音助、二ツ目、雷門助六の弟子、落語芸術協会所属。 前座を4年やって二ツ目、都合14,5年で、5月1日雷門五郎で真打に昇進する。 顔と、名前を二つ、覚えてもらいたい。 「五郎」の字の書き方を説明しなかったので、プログラムの長井好弘さんの「当世噺家気質」で知った。

 江東区の学童向け、小学1~6年生、60名ほどの多目的ホールで話をした。 いきなり噺に入ると、パニックになるので、頭で落語の解説をする。 話を聞いて、自分の頭の中でイメージをふくらませるのだと。 それから、落ちの説明をする。 小咄で。 「鳩が何か落としたね」「フーン!」、「隣の空き地に囲いができたよ」「ヘーイ!」 おぼえた人、誰か、座布団に座って、やって下さい。 3年生の男の子が上がって来た。 「鳩が何か落としたね」「ヘーイ!」

 付け焼刃は剥げやすい、という。 隠居さん、大変だ、大変だ。 八っつあん、何だい。 千葉県で、牛が卵を産んだ。 牛が卵を産むものか。 牛が卵をふんだ、鶏小屋で。 そして、言った、こんな黄身の悪いことはねえ。

 仲裁頼まれた、婚礼の。 それ、仲人だろう。 表通りの伊勢屋の婚礼。 おかしいな、伊勢屋といえば大家だ。 伊勢屋の裏の空き地に、大旦那の隠居所を建てることになって、大工のあっしが若旦那と一緒に木口を見に行った。 その材木屋の娘が、いい女で、若旦那が一目惚れした。 つがいになる橋渡しをしたんで、大旦那に頼まれたという訳で。

 それで、かかあが隠居に紋付き羽織袴を借りて来いってんだ。 婆さん、紋付きを出してやれ。 その箪笥の一番下じゃなくて、一番上の畳紙(たとう)に包んであるのが、いい。 よく知ってるな。 さっき、二人がいない時に、見た。

 礼儀作法は、わかるのか。 かかあは、行儀見習いをしていたころに、二三度見たことがあるそうだ。 ご祝儀に、謡、「高砂や」を唄う。 朝潮のいた? それは、高砂部屋だ。 婆さん、洋箪笥から白扇を出してやれ。 姿勢を正して、目が肝心だ、まなこだ。 「♪高砂や この浦舟に 帆を上げて」。 恥を知らねえのは、恐ろしい。 真似してみろ。 「♪タカタカタカ、タカタカタカ、タカッタ、タカッタ!」 相撲から離れなさい。 「♪タカタカタカ、タカタカタカ!」 それじゃあ、蛙だよ。 「♪ターッ、ターッ、ターッ!」 お話中の電話だ。 お婆さん、逃げることはない。

 頭のてっぺんから声を出さないで、下腹に力を入れて、声を出すんだ。 「♪清水港の次郎長は……」 それは浪花節だ。 人の真似はうまい、ラッパの豆腐屋なんか、「トーーフィーー、トーーフィーー!」っと。 うまい。 「トーーフィーー、トーーフィーー、ナマアゲ、ガンモドキ!」 その調子で、「高砂や」とやれ。 「トーーフィーー、高砂やーー、この浦舟にィーー、ガンモドキ、帆を上げてェーー」。 いいじゃないか、その後は親類の方がやって下さる。 新しい履物はあるのか。 ゴムの長靴がある。 婆さん、新しい履物を貸してやりなさい。 そう思って、裸足でやって来た。

お仲人の八五郎さんが、ご祝儀をつけて下さる。 一つ、よろしくお願い致します。 (高い声で)「タカサゴヤー」。 調子調べで、「トーーフィー」。 お戯れを。 「高砂やーー、この浦舟にィーー、帆を上げてェーー」。 「高砂やーー、この浦舟にィーー、帆を上げてェーー」。 どうぞ、お先を。 親類の方がやって下さるんでは? 親類一同、不調法でして、お仲人さん、お続けを。 いんちきだ。 やれば、いいんだよ、どうぞ、お先を。 「高砂やーー、この浦舟にィーー、帆を上げてェーー」。 上げっぱなしで。 「高砂やーー、この浦舟にィーー、帆を下げてェーー」。 下げちゃあ、駄目ですよ。 風がない。 「高砂やーー、この浦舟にィーー、帆をまた上げてェーー」。 泣いてないで、どうぞお先を。 「高砂やーー、この浦舟にィーー、トーーフィー、ウゥッ、助け舟ェー!!」

三代目桂南光襲名披露口上で、師弟ともに泣く2026/04/11 07:21

 桂南光は最初、大師匠の桂米朝に「べかこ」という名前をつけてもらった。 米朝門下には「ざこば」兄さんがいる。 べかこが、内弟子を終えて初めての大みそか、西成の近所に住んでいたんで、ご飯を食べに行くと、出稼ぎの人らで、えらいにぎわっていた。 みんな仲間同士。 でも、こっちはたった一人、アルミ鍋の鍋焼きうどんをつつきながらテレビで紅白歌合戦を見て、「俺はもうこんな人生を選んでしまってんから」って。 噺家としてやっていこうなんて気はまったく起きず、気付いたら涙が流れていた、という。

 いまみたいに簡単にバイトも探せない、ほんとに金がなかった。 ある時、ざこば兄さん(当時は朝丸)が「べかちゃん、お前、お金あんのんか」と聞いてきて、「ありますけど」って強がったら、「いやいや、顔見たらわかんねん。俺もなかったからな」って5千円とか1万円を貸してくれはった。 営業に行って何万円かもらった時に「とりあえず1万円返します」って言ったら、「そんなお前、水くさいことすな。貸したんちゃうからな」って。 噺家の世界っちゅうのはええもんやなあって思った。

 でも、ざこば兄さんの襲名披露のとき、舞台の口上でその話をしたら、「いま俺、金無いから返してくれ」って。

 南光になる時も、楽屋で桂米朝師匠が「おまはんも、いつまでもべかこっていう名前嫌やろ」って。 あなたがつけた名前で、あのとき私がどんだけ嫌やったか、とは言われへんから、「べかこで皆さんに顔や名前を覚えてもろたんで、もうべかこで結構です」って答えた。 そやけど米朝師匠は「そこそこやってきたら、襲名というものをせなあかんから」と。 うちの師匠枝雀も同意されたので、襲名することになった。

 初め、決めかけた名が、萬(よろず)に光ると書いて「萬光(まんこう)」だった。 二代目が明治の噺家で、うちの師匠も「こんなええ名前はないで。それで行こう」と乗り気だった。 ところが、出演していたNHK「バラエテイー生活小百科」のプロデューサーが、番組で笑福亭仁鶴師匠が「萬光」「萬光」と呼ぶことになるので、考え直してほしいって。 うちの師匠が米朝師匠に相談して、「全国ネットのテレビか。それはちょっと具合悪いなあ」と、別の名前を探すことになった。 よう調べたら初代萬光の弟子に初代南光という人がいて、二代目が安政元(1854)年生まれやから世間の人は誰も知らん。 うちの師匠は「南に光る、明るいし、ええやないか」と、私より襲名を喜んでくれた。

 平成5(1993)年11月23日、三代目桂南光襲名披露落語会が大阪の旧サンケイホールで開催された。 口上で、うちの師匠桂枝雀が涙ぐみながら、「この男がなかったら、いまの自分もないような気がします」とおっしゃって、あれにはびっくりした。 20年以上の付き合いやし、最初に病気になられた時も、別に励ますわけやないけど、ずっとそばにおりましたからね。 「やっぱりこの人の弟子になってよかったな」ってほんまに思いました。 もちろん私も泣いてましたけどね。

 襲名の場で「ちりとてちん」を披露した。 一番愛着のあるネタだ。 20代後半の頃、初代桂春団治のレコードにあるこの噺を、師匠が「近ごろ誰もやらんなあ。やったらどうや」って。 知ったかぶりの男が、腐った豆腐を長崎名物の「ちりとてちん」だと言われて、知ってますと強がって、食べて困るっていう滑稽噺だ。 噺の中に、誕生祝いの席でタイの刺身の後にサバのきずしが出てくる。 師匠に「魚ばかりやのうて、きずしの代りに、私の好きな茶碗蒸しとかはどうですか」と相談したら、即座に「茶碗蒸しええな」って。 うちの師匠はたいがいなんも考えんと返事しはるんですわ。

 この「ちりとてちん」は、師匠と二人で相談しながら作り上げていったネタで、「茶碗蒸し、初めてでございます」って大げさに言ったり、アドリブから「銀杏(ぎんなん)って、どんなん、こんなん」っていうギャグがうまれたりした。 そして、茶碗蒸しのくだりは、上方落語で幅広く採用されるようになった。

感想文を送ると、やってくれた「浮世根問」の初稽古2026/04/10 07:11

桂枝雀の人柄が分かるので、桂南光の「語る―人生の贈りもの―」の先を読みたい。 「君は落語も聞かんと私とこへ弟子入りに来たんですか」と言われた南光、何とか落語を知っていると伝えたくて、この間、桂春団治さんの『寄合酒』をテレビで見ました、「面白かったです」と。 すると、桂枝雀(小米)は、「それなら君、春団治さんのとこ行きなさい。私の落語も聞いてないのに、私のとこへ来るのはおかしいでしょ」と。 それでも、食い下がって、春団治さんとは気が合わない、小米さんとは気が合うと思うと言うたら、「とりあえず私の落語を聞いて、感想文でも送ってきなさい」と、京都の安井金比羅宮でいまもやっている米朝一門の勉強会のことを教えてくれた。

枝雀(小米)の『寄合酒』を聞き、感想文を送ると、電話がかかって、日曜日に伊丹にあった師匠の下宿先に行った。 「感想文はなかなか面白かった。あなたが噺家になれるかどうかはわからないけど、一応、落語というものを体験してください。お稽古しますからって」。 浴衣を着せてもらって、師匠と向かい合わせで座った。

「浮世根問」という前座のネタを目の前でやってくれはった。 初めて聞きますし、めっちゃおもろい、ガーハッハッハって笑ってたら、師匠が「森本くん(本名)、私はね、君を笑わすためにやってるんやないねんから。これ稽古や。君が覚えて、君がやんねん」って言われたので、「こんなアホなことよう言いませんわ」と言うたことを覚えている。 で、うちの師匠がアッハッハーって笑って「それでは噺家になれませんなあ」。

「はあ、すんません。なんとか頑張りますわ」って。 でも、上下(かみしも)も分かりませんやん。 師匠が「こんにちは」 「おう、おまはんかいな。こっち上がり。どないしてんねん」 「いや、ここんとこ仕事がのうてね。ぶらぶらしてまんねん」 「あかんがな」って、三回ぐらいやりはって、「森本くん、ちょっとずつでいいからやってみて」と言いはった。

「どこ見たらいいんですか」と聞いたら、「いや、どこ見るとかじゃのうて、ここに甚兵衛さんという人がおるねん。その人を見て言うわけや」と。 そして、師匠が動いてくれて、「私が甚兵衛さんだから、私に向かって『こんにちは』と言いなさい」。 それで「こんにちは」と言うと、師匠がまた動いてくれて、「今度は君が甚兵衛さんになって、『おまはんかいな』と言いなさい」。 師匠がいちいち動いて教えてくれはった。

自分なら「そんなことも知らんのか。もう、君、無理やわ」って言うのに。 なんてええ人なんや、この人がええ人で、気が合うと思ったのは間違いないと思った。

桂枝雀の落語を聞かずに、弟子入りを志願した桂南光2026/04/09 07:04

 桂枝雀の弟子、桂南光が2月末から、朝日新聞の「語る―人生の贈りもの―」14回を連載した。 桂南光は、NHKの料理番組で、大原千鶴との軽妙なやりとりで、東の和田明日香・「ずん」の飯尾和樹組の向こうを張っている噺家である。 桂南光は、進路に迷っている頃、ラジオの深夜放送で桂枝雀(当時は小米(こよね))がパーソナリティの番組で淡々としゃべるのを聞いた。 テーマは、宇宙の話とか、死後の世界とか、人間はどこから来てどこへ行くのかという質問に答えたりとか。 顔もはっきり知らなくて、でも、この人なんか面白いなと。

 いろいろ調べたら、阪神百貨店にあったサテライトスタジオで別の番組を収録していることが分かった。 阪神と阪急をつなぐ陸橋で、「弟子になりたいんですが」と言うた。 イメージとしては、一緒に暮らせる書生っていうのはええなって思っていたんだが、相手は噺家なので、書生って言えなかった。 師匠は「ほぉ、私の弟子にね、分かりました。じゃあ話聞きましょうか」と言って、近所の喫茶店でお茶を飲みながら、「私の落語の何が気に入って来たんですか」と聞いてこられた。

 うそ言われへんし、「いや小米さんの落語は聞いたことなくて、いつもやってはる深夜のラジオのディスクジョッキーを聞いて面白いなと思いました」と言うたら、「君は落語も聞かんと私とこへ弟子入りに来たんですか」と。

ミレニアムの頃、「浪速の爆笑王」桂枝雀を失った2026/04/08 07:12

 パソコンやコンピューターで、ミレニアム問題が騒がれたことがあった。 1999年から2000年に変わる時に、誤作動を起こす可能性があるというのだった。 結局は、大したことはなかったのだったけれど…。

 朝日ネットのパソコン通信の電子フォーラムに、「演劇談話室」があり、その中に「浮世床談笑噺」という落語について語り合う分科会があった。 朝日ネットでは、そのパソコン通信も、電子フォーラムもなくなり、今や、ブログ「アサブロ」も2月24日で新規アカウントの発行とブログの新規開設受付を終了し、存続が風前の灯かと心配される状況になっている。 その「浮世床談笑噺」に、1999年7月11日、私は「桂枝雀さんの追悼番組」という書き込みをしていた。

 「TBSテレビが13日(火)未明の午前1時30分から3時まで、桂枝雀さんの追悼番組を放送します。 国立小劇場での落語研究会には、枝雀さんが22回も来演されていますが、その中から『三十石 夢の通い路』を選んでの放送です。 関東エリアの方は、必見、必録画かと思います。 山本文郎さんと榎本滋民さんが司会と解説をする例の「落語特選会」という時間枠です。」

 落語研究会で、桂枝雀を22回も聴けたことは、私の落語愛好の歴史で、大きな財産だったというほかない。 その高座は、身振り手振りも含めて、とにかく面白く、爆笑の連続だった。 だが鬱病を発症し、自殺を図り、意識不明のまま1999年4月19日に亡くなった。

 私は、ようやく翌年になって「等々力短信」に、2月15日の第868号に「緊緩の法則」、25日の第869号「桂枝雀哀惜追善 マクラ「進化論」」、3月5日第870号「ナマンダブ」を書いていた。

 「ナマンダブ」から、一部を引く。 「もうすぐ一年になるのだけれど、日増しに桂枝雀という落語家を失ったことの大きさを感じるようになってきた。 枝雀が「緊張と緩和」などと言い出したのは、笑いの法則のようなものが発見できれば、笑いの量産も可能になると考えたからで、あとは日なたでぼーっと暮していればよいといっていたという。 しかし枝雀自身は「緊張と緩和」の法則の発見にあきたらず、「緊張」のしっぱなしで、ついに日なたで「緩和」することがなかった。 毎回グロッキーになるまでやる大熱演で、あれだけの笑いを取りながら、それに満足できなかった真面目な性格が、哀しく、お気の毒なことだった。」

 「国立小劇場の落語研究会へは、昭和55(1980)年1月22日のくしゃみ講釈から、平成9(1997)年12月26日の天神山まで、合計22回の来演があった。 饅頭こわい(2回)、寝床(2回)、くやみ、植木屋娘、代書屋、ちしゃ医者、どうらんの幸助、崇徳院、高津の富、花筏、愛宕山、舟弁慶、住吉駕篭、宿屋仇、軒づけ、三十石、宿替え、高津の富、とネタも厳選し、東京落語への対抗意識を燃やして、この会に臨んでいたのではないだろうか。 マクラは、新幹線、リニア・モーター・カアというのが多かったように思う。 新大阪で買った駅弁の…(ピューッ)…フタを開けたら「トーキョー、トーキョー」という話だった。 合掌。」