心電図で「上室性期外収縮」 ― 2025/06/24 06:56
かかりつけの内科のクリニックで、毎年受ける世田谷区の「長寿健診」を受けた。 幸い長い間、何の問題もなく過ごしていて、何も薬を飲んでいないのを、眼圧を下げる目薬をもらう薬局で、いつも珍しがられていた。 ただ検査項目では、尿酸値とLDL(悪玉)コレステロールの数値が標準値より若干高かった。 尿酸値については一度だけ、痛風の痛みが出て、粗食なのに不思議だと笑ったのだが、痛み止めを飲むとすぐに消えた。 コレステロールは、体質だろうということだった。 それでも、3年前の健診で、薬を飲むことを勧められてから、弱い薬を飲むことにしたのだった。
そこで、今回の健診だが、心電図でちょっと違う動きが出た。 血液検査の結果の出る翌日に、循環器が専門の若先生にくわしい説明を聞くことにした。 結論は、「上室性期外収縮」というもので、まったく心配ないということだった。 心臓には、右と左の心房と心室、四つの部屋があると、図を描いて説明してくれた。 心房から通常より早いタイミングで電気信号が送られる不整脈なのだということで、基礎心疾患がなく、症状もなくて、頻度も多く無ければ、放置しておいてよいということだった。 安心した。
なお、尿酸値とLDL(悪玉)コレステロールの数値は、基準値に収まっている。 薬は継続して、飲んでいる。
小林一三の「平凡主義礼賛」<等々力短信 第1192号 2025(令和7).6.25.>6/23発信 ― 2025/06/23 07:16
小林一三の「平凡主義礼賛」<等々力短信 第1192号 2025(令和7).6.25.>
『三田評論』6月号が通巻1300号記念号で、「三田評論と昭和100年」を特集している。 昭和になってまもなくの昭和3(1928)年11月号に掲載された、小林一三の「平凡主義礼賛」という慶應義塾大学最上学年の学生に対する講演が再録されている。 小林一三は塾員で、阪急東宝グループの創始者、電鉄を中心にした多角経営のモデルを創案した。 今年1月世田谷美術館の「東急 暮らしと街の文化―100年の時を拓く―」展を見て、小林一三が、渋沢栄一の田園都市株式会社の経営に参画しており、小林一三を通じて五島慶太がこの事業に協力し、それが今日の東急につながったことを知った。 それで改めて、阪田寛夫著『わが小林一三 清く正しく美しく』を読み、何日かのブログに、小林一三は三田の山から初めて海を見たか、三井銀行入行、大阪支店、名古屋支店での遊びぶり、79歳で明かした愛人との結婚の事情などを、綴ったのであった。
さて、「平凡主義礼賛」である。 就職を東京でするか、大阪でするか、大阪だとこういう御利益があると、手前味噌の話から始める。 入社してくる連中に、平凡主義を鼓吹している。 毎日平凡に平凡に暮らす間に、一頭地を抜くと云うことの外に、名案はないと信じている。 大阪は民衆の大都会だが、すべてのリーダーが実業に興って、コツコツと仕上げた人である。 事業としての電気鉄道の経営は、将来は一般乗客の為に利益の大部分を犠牲に供すべきものだ。 毎日出入りする公衆に便利を与えて、そしてウマイ商売をして見たい。 ターミナルで老舗の大きなデパートメントを経営する計画だ。 民衆芸術論、大劇場論を東京でもやって見たい。 民衆相手の仕事を研究すればするほど、これからの世の中は平凡主義でなければならぬ。 私の会社に入ると、工学士、法学士、電気技師も、一遍は必ず車掌運転手をさせられる。 自らが平凡な民衆の一員となって働かねばならないということが、阪神急行のモットーである。
具体的なアドバイスもある。 学校を出て会社に入ると、何も彼も新進の知識を得ているので、みな馬鹿に見える。 いろいろなことが馬鹿に見えるが、下らないことが諸君には分からない。 この時そこに共通の欠点が現れてくる。 誰にも聞かない、聞くのをいやがるのだ。 「聞くに越したことはない」。 「議論をしてはいけない」。 もし実行を伴わない議論ならば三文の値打ちもない空論である。 提案したのを、上役が自分の説にしたら、それを実行する。 それは福澤先生の「縁の下の力持は必要である」という教えに一致する。 これが一番成功の秘訣だと考える。 結局、実行せしめれば宜しい。 「盛んな時には行くな」「人の前では力(つと)めて敬語を使え、二人の中では言い度いことを言え」。 残念、この講演、就職する前に聞きたかった。
「夏服」と「草茂る」の句会 ― 2025/06/22 07:22
いささか時間が経ったが、6月12日は『夏潮』渋谷句会だった。 兼題は「夏服」と「草茂る」、私はつぎの七句を出した。
夏服の街頭写真父若し
夏服や君等の臍に脅かされ
羅(うすもの)の人間国宝トリを取り
羅の噺家「あくび指南」かけ
付き人の極彩色の浴衣かな
三軒の建つとふ更地草茂る
荒屋(あばらや)に覆ひ被さり草茂る
私が選句したのは、つぎの七句。
介護士の夏服の腕頼もしや なな
麻服に籐のステッキパナマ帽 和子
白シャツの父に抱かれて登園す 作子
夏服に老いをあらはにさらしたる さえ
味噌醬油運びし湊草茂る 作子
草茂るしやらしやらと鳴る草もあり 美佐子
石炭の栄華は昔草茂る 耕一
私の結果。 <夏服の街頭写真父若し>を英主宰、和子さん、美佐子さん、<夏服や君等の臍に脅かされ>を耕一さん、照男さん、千草さん、幸枝さん、ななさん、<羅(うすもの)の人間国宝トリを取り>を英主宰、美佐子さん、<三軒の建つとふ更地草茂る>を淳子さん、ななさん、<荒屋(あばらや)に覆ひ被さり草茂る>を庸夫さんが、採ってくれた。 主宰選2句、互選11票、計13票、近来稀な成績だった。
主宰選評。 <夏服の街頭写真父若し>…「街頭写真」、世代によって、記憶に残っている人もいるだろう。歩いていると、「写真を撮らせてください」と寄って来る街頭写真屋、太っ腹な父親が、写真を撮らせたのだろう。家族の姿が見える。 <羅(うすもの)の人間国宝トリを取り>…羅姿の男の芸人。背筋のピンと伸びた様子が、まことに良いものだ。
嵩、暢に半年遅れて上京、暢の部屋に転がり込む ― 2025/06/21 07:01
上司にも同僚にも恵まれ、和気あいあいとした中で誌面を作る『月刊高知』での日々は楽しかった。 だが、仕事の面白さを感じるほどに、中断された夢がよみがえってくる。 嵩の中で、もういちど東京でデザインの仕事をしながら漫画家を目指したい気持がふくらんでいった。 大切な二十代の五年間を戦争で奪われてしまったのだ。 東京でやっていける実力があるのかわからず、生活をしていけるのかも不安だった。
そんなとき、暢が上京すると言い出した。 以前からの知り合いが高知県選出の代議士になり、速記の技術を持つ暢が、東京で秘書をしてほしいと頼まれたという。 嵩が上京したいと思っていることを知っていた暢は、「先に行って待ってるわ」と言って、さっさと上京してしまった。
暢に遅れること半年、嵩も上京の決意をする。 暢が待ってくれていることはもちろん、もうひとつ、気持に区切りをつけたのは、昭和21(1946)年12月21日午前4時に起きた南海大地震だった。 しばらく寝て、後免町から徒歩で新聞社に向った嵩が、ようやく社にたどりつくと嵩以外はみんな出社していて、すでに第一報が出ていた。 自分はジャーナリストに不適格であると悟ったのだ。
昭和22(1947)年6月、嵩は上京、とりあえず東京田邊製薬時代の仲間が新橋で始めたデザイン会社を手伝う。 住まいは見つけることができず、暢が東急東横線の大倉山駅の近くで間借りしている部屋に、転がり込む。 暢の友人夫妻の家で、子供がふたりいた。 3歳の男の子と、生れたばかりの女の子である。 下の女の子は両親と一緒の部屋で、上の男の子は子供部屋で寝ていた。 暢は、この男の子と同じ部屋で暮らしていた。 男の子の世話をするかわりに下宿代は無料だった。 嵩の財産は、軍隊時代の飯盒ひとつ。 暢は、例の紺のジャンパーの着たきり雀で、嵩が持ってきた背広とコートを作りかえて着せると涙ぐんでよろこんだ。
お金もなく、将来のこともわからず、夜は隣に三歳児の寝息を聞きながら眠るコブつきの同棲生活。 だが、ふたりでいるというそれだけで心は満たされた。 暢は言った。 「とても幸せよ。でも、いまがいちばん幸福だったらいやだなあ」 「もっと幸福になるさ」 嵩はそう答えた。
この年、日本橋三越で、戦後第一回の日本広告展が開催された。 以下、三越の包装紙とショッピングバッグ<小人閑居日記 2025.6.10.>へ戻って、続く。
嵩が好きになった小松暢のこと ― 2025/06/20 06:53
『月刊高知』創刊号が発売になった7月末、編集部員みんなで東京へ取材旅行に行くことになった。 高知県出身の国会議員や作家へのインタビュー、東京の盛り場のルポなどが目的である。 外食には「外食券」が必要で、自分の食べる米は靴下に入れて持っていかなければならない時代だ。 嵩は、編集室で前の席に座る暢(のぶ)のことが気になっていたので、一緒に行動できるのもうれしかった。 紺色のスラックスにジャンパーの暢は、童顔でショートヘアということもあって、まるで少年のよう、横になって休むこともできない汽車旅だったが、好奇心に目を輝かせている。
飯倉片町にあった高知新聞社の支局に宿泊、まず国会議事堂で高知県出身の林譲治内閣書記官長にインタビューした。 嵩の役目は、林の似顔絵をスケッチすることだった。 東京での取材もほぼ終わったので、闇市の屋台でおでんを食べた。 ところが翌日、暢をのぞく皆が腹痛と下痢、食中毒になった。 暢がなんともなかったのは大根ばかり食べていたからだった。 暢の看病で、最初に回復したのは嵩だった。 暢と嵩は荷物を整理し、高知に送るためリヤカーで駅まで運んだ。 途中、通り過ぎるトラックやすれちがう男たちが、冷やかしの声をあびせる。 嵩は、いやだね、とは言ったが、自分たちが恋人のように見えたのかと思うとうれしかった。
高知に戻り、ふたりで取材に行った帰りの夜道で、ふとしたことから暢にキスをしてしまった。 すると、ひきよせた彼女のからだが急に重くなって、嵩の胸にたおれこんできた。 ふだんの気の強い暢とのギャップに、嵩は「なんてかわいいんだ」と、愛しさでいっぱいになった。 暢も嵩のことが好きだとわかり、ふたりは晴れて恋人同士になった。
暢の父・池田鴻志(こうし)は、高知県安芸郡安芸町の生まれ、高知高等商業(現・高知市立高知商業高校)、関西法律学校(現・関西大学)を卒業して、大正5(1916)年、鈴木商店の系列の九州の炭鉱会社に入社、すぐに鈴木商店本体に引き抜かれ、大阪木材部に勤務した。 鈴木商店は、当時日本一といわれた総合商社で、大番頭の金子直吉は、高知県吾川郡名野川村(現・吾川郡仁淀川町)の出身で、高知高等商業の卒業生を積極的に採用していた。 暢は、父の大阪木材部時代に生まれ、兄と二人の妹がいた。 父は大正8(1919)年に釧路出張所の所長になるが、大正13(1924)年に亡くなった。 暢が6歳のときである。
家族との縁の薄さは、父との死別だけではなかった。 暢には結婚歴があったが、その相手も若くして亡くなっている。 暢は大阪府立阿倍野高等女学校(現・府立阿倍野高校)を卒業し、しばらく東京で働いたあと、21歳のときに結婚した。 相手は6歳上で、高知県出身の小松總一郎、日本郵船に勤務していたが、一等機関士として海軍に召集され、終戦直後に病死した。 ひとり残された暢は、自活の道を求めて高知新聞社の記者募集に応募したのだった。
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