柳亭市遼の「千早ふる」2026/07/11 07:30

 7月5日は、会場の都合か、珍しく日曜日開催の第697回落語研究会だった。 市遼、いちりょう、濃紫の着物に、黒の羽織、いきなり市馬の一番弟子と言い、慌てて十番弟子と訂正、5月に二ッ目に昇進したと拍手をもらう。 いつも、名人になれないかと、考えていると言う。 スマホが壊れて、修理に出したら、退屈で、退屈で、時間がつぶれない。 ふだんはやらない、落語の稽古をやることにした。 カラオケボックスで3時間、歌を歌って、「気付き」があった。 昭和の名人、志ん生、文楽、円生たちは、スマホを持っていなかったから、名人になったんだ。 これ、本当。 志ん生、文楽、円生は、ようがすなんて言っていても、炎上なんかしなかった。 われわれの年代が、60から80になると、落語は終わる(と、羽織を脱ぐ)。

 ひとにものを聞きに行く。 旦那は物識りだ、娘がうるさいんで、歌のわけを教えてもらいたい。 ハイハイ、造作もないことだ。 何だっけ、千早ふる神代もきかず竜田川からくれないに水くぐるとは、って歌。 金さん、いい歌だよ、情景が浮かぶ、涙がポロリと落ちる。 その歌のわけを。 千早ふる…、神代もきかず…だな、竜田川…、からくれないに…とくれば、水くぐるとは、だな。 旦那、切れ切れに、言っただけじゃないですか、歌の絵解きをお願いします。

 そうか、竜田川というのは、江戸時代の相撲取だ。 へえ。 田舎で強かったのが、修業を重ね、神信心で、絶ちものをした。 女絶ちだ。 その甲斐あって、五年目に大関になった。 願ほどきというんで、三月、吉原へ夜桜見物に行ったな。 不夜城の絶景、花魁道中を見た。 清掻(すががき)という三味線に乗って、チャンランチャンランと歩く、三番目に、シャナリ、シャナリと、出てきたのが、飛ぶ鳥も落とす勢いの、千早太夫という全盛の花魁だ。 竜田川は、ブルブルっと、震えたな。 あの花魁と、一度でも話がしてみたい。 お茶屋へ呼んでもらったが、一流になると、相撲取や噺家の席には出てこない。 わちきは嫌でござんす。 妹女郎にも話をしたが、また振られた。

 それで、竜田川は、相撲取をやめて、田舎に帰って、豆腐屋になった。 せっかく大関になったのに、女に振られて、豆腐屋になったんですか。 当人がなりたいってんだから、しょうがない。 豆腐屋として五年働いた。 秋の夕暮れのことだ、一人の女乞食が、豆腐屋にやってきて、三日三晩何も食べてない、積んであった卯の花をつかんで、わけてくれないか、と言う。 見上げ、見下ろす、顔と顔、ジャン!ジャン!ジャン! チャッ!チャッ!チャッ! 金さん、その女乞食は、誰だと思う。 わからないよ。 あの千早太夫の、成れの果てだ。 おかしいよ、飛ぶ鳥も落とす勢いの、全盛の花魁が、五年で女乞食になるのかい。 乞食なんか、すぐなれる、お前さんだってなれる。  竜田川は、卯の花をやらずに、女乞食の肩を突いた。 元大関の力だ、女乞食はビューーーッと飛んで行って、山にぶつかって、戻って来た、ゴムまりみたいだ。 それをまた突いたら、柳の古木のそばにある井戸に身を投げて、息絶えた。 その井戸から、うらめしやとか言って、出るんだろう。 怪談噺にはならない、これで終わりだ。

 これが歌のわけだ。 エーーッ! 初めから、「千早ふる」だろ、「神代もきかず竜田川」となるだろう。 卯の花をくれない、「からくれないに」、井戸に飛び込んで「水くぐるとは」と、なるだろう。 旦那、「とは」が、余計のようですが? 金さん、勘定高えな、よーく調べたら、「とは」は千早の本名だった。

鶴岡のこまやかな人情が気に入る、老いらくの恋2026/07/10 08:04

6月25日の「等々力短信」第1204号に「佐々木邦(くに)をご存知ですか?」を書き、7月1日からのこのブログに、佐々木邦と父・林蔵の物語を書いてきたのは、実はこの佐々木邦と山形県鶴岡の話を書きたいためだった。 「等々力短信」の前号、前々号に、佐藤賢一さんの『釣り侍』から、鶴岡の話を書いて来た流れになる。

日本海に面した漁村で、一冬を過ごした邦は、終戦の翌年の4月、三女うめを東京に帰し、妻の小雪、四女のとも子とともに、鶴岡市紙漉(かみすき)町の本鏡寺という寺の離れに移った。 市内といっても、雨蛙が蚊帳の中に入ってくるぐらい自然が近い環境だった。 気がかりは、かねてから胃を患っていた小雪の病状がよくないことだった。 それでも、昭和22年に入るとすぐ、病床に就く小雪の面倒を見ながら、長編「心の歴史」の執筆に取り組んでいる。 その連載が終った22年12月10日、小雪が亡くなった、62歳だった。

邦の戦後を支えたのは鶴岡だった。 疎開のための移住先であり、辛い思いもした地だったが、邦は鶴岡が気に入っていたのである。 東北特有の鶴岡の人々のこまやかな人情味は、いつまでも忘れられず永住してもよいと思ったほどだった。 人づきあいに不器用な邦は、控えめで篤実な東北人と波長が合ったのだろう、地元の文化人と親しく交流し、小雪の親戚だった市長の依頼に応え、県立農林専門学校で英語の講師も引き受けている。

小雪の死の翌年、邦と庄内女性の間にロマンスが生まれる。 二人が出会ったのは、俳句の仲間で、小雪の親戚にあたる山形大学農学部の教授の家に、手伝いに来ていた三十代の未亡人で、進藤信子といった。 ある日、邦が帰ったあと、教授が火鉢を見ると、灰の上に火箸で「信子、信子、信子」と書いてあった。 実は、夫人を亡くしていた教授も、ひそかに信子に恋していたのだが、それを見て自分の恋をあきらめたという。 時に、邦は65歳、信子は35歳、30歳の年齢差があった。

新婚当時、邦が挨拶状に添えた句。 <老いらくの恋といわれて夏暑し>。

中流家庭、佐々木邦一家の太平洋戦争2026/07/09 07:14

 『豊分居雑筆』(昭和16年刊)という邦の随筆集がある。 125坪の借地に、日本家屋を林蔵の弟が建て、二階の応接間だけはマントルピースのある洋間で、その奥の和室に絨毯を敷いた邦の書斎があった。 長男仙一、長女アヤ、次女ふさ、三女うめ(松井和男さんの母)、次男英二、邦の小説のような、二男三女の中流家庭だった。 仙一と英二は、慶應義塾大学で学んでいる。

 作家としての成功と引き換えのように、不幸が邦を襲う。 昭和7年の4月、岡山の邦の家から六高に通い、帝大を出て名古屋で判事をしていた末弟の義朗が40歳の若さで、腸チフスで急逝した。 その年の暮、新婚の長女アヤが21歳で産褥熱で亡くなった。 50歳を目前にした邦は、残された初孫のとも子を養女として引き取り、夫婦で育てることにした。

 親思いの邦は、林蔵が70歳を迎えた時、郷里・沼津の千本浜に、100坪余りの土地を買い、二階建ての両親の隠居所を兼ねた別荘を建てている。 母はるは77歳のとき老衰で、この隠居所で息を引き取った。 父林蔵は、現在の国会議事堂が完成した4年後の昭和16年6月に、眠るように82年の生涯を閉じた。 遺品の中に、建設中の国会議事堂の写真があった。

 日米開戦の翌昭和17年、邦は数えで60歳、還暦を迎えたが、お祝いどころではなかった。 2月には、慶應の英文科を繰り上げ卒業した英二が入隊。 春には妻の小雪が病に倒れ、闘病生活をおくったのに次いで、秋には次女のふさが乳がんで亡くなった。 享年29、商社マンの夫の赴任にともなってアメリカで暮らしたこともある二児の母だった。  18年に入ると、2月にはジャパンタイムズの長男の仙一が同盟通信社特派員としてジャカルタに赴任、4月には、小雪、とも子、三女うめと前年に生れたその長男を沼津の別荘に疎開させている。

 戦況が悪化し、迎えた20年の6月22日、フィリピンのミンダナオ島で次男の英二が戦死した。 26歳だった。 終戦のわずか1か月前の7月17日未明、沼津市が大空襲に遭い、邦の別荘も全焼したが、幸い家族は全員無事だった。 いったん、奇跡的に焼け残った東京豊分に戻ったが、すでに罹災した親戚や知り合いで満員状態だったこともあり、小雪の故郷山形県に再疎開することにした。 山形県西田川郡温海町五十川(いらがわ)(現・鶴岡市)という日本海に面した漁村、小雪の女学校時代の同級生の家だった。

慶應義塾予科教授から、「ユーモア小説」の第一人者へ2026/07/08 07:07

 独りユーモア文学の孤塁を守ってきた佐々木邦に、日の当たる時が近づいた。 きっかけは上京で、大正6(1917)年、34歳の邦は、長年の就職活動が功を奏して、慶應義塾の予科の教授に就任したのだ。 六高の後釜には、東大の英文科を卒業した弟の順三を推薦した。 まだ一面に麦畑が広がる豊多摩郡渋谷豊分(とよわけ・現在の渋谷区広尾)の借地に家を建て、9月に家族とともに移り住んだ。

 さっそく、邦の家で飼っていた鳩が、同じ町内の開業まもない主婦の友社の社長石川武美(たけよし)の家に迷い込み、付き合いが始まるという、幸運な出来事が起こった。 大正7年3月『主婦の友』に、イギリスの作家シムスの小説を翻案した「主婦采配記」の連載を開始すると、適度に知的で、適度に間が抜けている、平凡な家庭を舞台にした滑稽小説が、大評判になった。 第一次大戦後の平和ムードの中で、人々は「富国強兵」から個人や家庭の幸福に向かい始めていたのだろう。 邦は、自信をつけたが、すぐに専業作家になったわけではない。 学生時代は馴染めなかった慶應だったが、官立の学校にはない自由な雰囲気が気に入っていた。 同僚には明治学院の大先輩戸川秋骨もいた。 安定した収入をもたらす教師の仕事を続けながら、副業で小説を書く生活に満足していたのである。

 邦の執筆が忙しくなるのは、大正13、4年頃からである。 大正12年の関東大震災後、雑誌の大量生産が始まった。 今まで知識階級の高い所を目標にしていた雑誌が、一般大衆に狙いを移し、大衆雑誌や婦人雑誌が幾種類も出た。 雑誌も儲けたが、大衆も今まで味を知らなかった娯楽のための読書という文化的習慣を獲得したのである。 裏を返せば、「文筆も今は食える職業」になった。 時代小説や講談の流れを汲む作家が多い中で、「ユーモア小説」という言葉が定着し、その第一人者となった邦は、昭和3(1918)年、慶應の教授を辞任し、作家活動に専念することになる。

 雑誌『講談倶楽部』を出していた講談社の昭和5年の広告には、「日本で一番売れている九大雑誌」とあるが、邦は、そのうち『幼年倶楽部』を除く8誌に、大正14年から昭和5年までの6年間に、長編だけで43本の小説を連載している。 『少年倶楽部』「苦心の学友」「村の少年団」、『少女倶楽部』「プラスとマイナス」「小女権論者」、『キング』「親鳥子鳥」「新家庭双六」「ガラマサどん」、『講談倶楽部』「愚弟賢兄」「御婦人閣下」、『冨士』(面白倶楽部)「容姿端正会」「或良人の惨敗」、『婦人倶楽部』「主権妻権」「美人自叙伝」、『現代』「使う人使われる人」「村の成功者」、『雄弁』「凡人伝」「駄弁無任所」。 昭和5(1930)年~6年、大日本雄弁会講談社から『佐々木邦全集』(全十巻)が刊行された。

第六高校で英語を教え、夜は翻訳「精力絶倫居士」2026/07/07 07:16

 結婚の翌明治42(1909)年5月、邦が初めて自分の名前でアメリカのメタ・ヴィクトリア・フラー・ヴィクター作の小説A Bad Boy’s Diaryを訳した『いたづら小僧日記』が内外出版協会から単行本になると、朝日新聞が漱石の「猫」と同工異曲のユーモア小説と評して評判になり、ベストセラーになった。 邦は釜山に、身重になった小雪は日本にいた。 この大ヒットによって、弱冠26歳の無名の青年が、作家につきもののデビューの苦労を素通りして、一躍文名を世に知らせたのである。 もし、この幸運がなければ、ユーモア作家佐々木邦は生れなかった可能性が高く、林蔵のドイツ留学に匹敵する人生の契機だった、と松井和男さんは書いている。

 『いたづら小僧日記』が売れると、邦は釜山の学校を辞め、翻訳で食べていく決心をする。 長男の仙一が生まれ、帰心矢の如きものがあった。 岡山の第六高等学校で英語を教える話も来た。 邦を六高に推薦したのは、同校から東京の高等師範学校に移ることになった石川林四郎教授で、東大出だが中学は明治学院、日頃から自身の英語は明治学院で学んだと公言しており、後釜には後輩を据えたいと考えていたのだ。 明治42年8月、邦は、妻と生まれたばかりの長男仙一を連れて、岡山に赴任した。

 問題は待遇だった。 邦は、5年間講師を務めた後、再三催促してようやく教授に昇格し、7年目にして初めて俸給が上がった。 生活が苦しいから、内職に翻訳をして、遣り繰りをつけた。 教科書の選定が自由だから、ユーモア小説をずいぶん教え、つぎつぎ翻訳を出版した。 『いたづら小僧日記』のヒットで、名前が売れていたからだ。 明治42年『続 いたづら小僧日記』『千万円』、明治43年『各国滑稽小説』『当世良人気質』『グッドボーイ日記』、明治44年『新訳簡易生活』、大正元年『独身者の独思案』、大正2年『新世帯物語』『夢想生活』『ビックウィック倶楽部物語』『少年少女基督伝』、大正3年『ドン・キホーテ物語』。 昼間は学校で教え、夜は書斎で原稿を書く。 人の二倍の仕事をこなしながら、疲れも見せない邦に同僚は呆れ、「精力絶倫居士」の称を与えている。