慶應義塾予科教授から、「ユーモア小説」の第一人者へ2026/07/08 07:07

 独りユーモア文学の孤塁を守ってきた佐々木邦に、日の当たる時が近づいた。 きっかけは上京で、大正6(1917)年、34歳の邦は、長年の就職活動が功を奏して、慶應義塾の予科の教授に就任したのだ。 六高の後釜には、東大の英文科を卒業した弟の順三を推薦した。 まだ一面に麦畑が広がる豊多摩郡渋谷豊分(とよわけ・現在の渋谷区広尾)の借地に家を建て、9月に家族とともに移り住んだ。

 さっそく、邦の家で飼っていた鳩が、同じ町内の開業まもない主婦の友社の社長石川武美(たけよし)の家に迷い込み、付き合いが始まるという、幸運な出来事が起こった。 大正7年3月『主婦の友』に、イギリスの作家シムスの小説を翻案した「主婦采配記」の連載を開始すると、適度に知的で、適度に間が抜けている、平凡な家庭を舞台にした滑稽小説が、大評判になった。 第一次大戦後の平和ムードの中で、人々は「富国強兵」から個人や家庭の幸福に向かい始めていたのだろう。 邦は、自信をつけたが、すぐに専業作家になったわけではない。 学生時代は馴染めなかった慶應だったが、官立の学校にはない自由な雰囲気が気に入っていた。 同僚には明治学院の大先輩戸川秋骨もいた。 安定した収入をもたらす教師の仕事を続けながら、副業で小説を書く生活に満足していたのである。

 邦の執筆が忙しくなるのは、大正13、4年頃からである。 大正12年の関東大震災後、雑誌の大量生産が始まった。 今まで知識階級の高い所を目標にしていた雑誌が、一般大衆に狙いを移し、大衆雑誌や婦人雑誌が幾種類も出た。 雑誌も儲けたが、大衆も今まで味を知らなかった娯楽のための読書という文化的習慣を獲得したのである。 裏を返せば、「文筆も今は食える職業」になった。 時代小説や講談の流れを汲む作家が多い中で、「ユーモア小説」という言葉が定着し、その第一人者となった邦は、昭和3(1918)年、慶應の教授を辞任し、作家活動に専念することになる。

 雑誌『講談倶楽部』を出していた講談社の昭和5年の広告には、「日本で一番売れている九大雑誌」とあるが、邦は、そのうち『幼年倶楽部』を除く8誌に、大正14年から昭和5年までの6年間に、長編だけで43本の小説を連載している。 『少年倶楽部』「苦心の学友」「村の少年団」、『少女倶楽部』「プラスとマイナス」「小女権論者」、『キング』「親鳥子鳥」「新家庭双六」「ガラマサどん」、『講談倶楽部』「愚弟賢兄」「御婦人閣下」、『冨士』(面白倶楽部)「容姿端正会」「或良人の惨敗」、『婦人倶楽部』「主権妻権」「美人自叙伝」、『現代』「使う人使われる人」「村の成功者」、『雄弁』「凡人伝」「駄弁無任所」。 昭和5(1930)年~6年、大日本雄弁会講談社から『佐々木邦全集』(全十巻)が刊行された。