佐々木邦の父・林蔵、田舎の大工がなぜドイツ留学2026/07/03 07:27

 松井和男著『朗らかに笑え ユーモア小説のパイオニア佐々木邦とその時代』、佐々木邦の父・林蔵は、田舎の大工なのに、なぜドイツに留学する研修生の一人に選ばれたのか。 林蔵の長男・邦の弟(三男)で、戦後、立教大学の総長を務めた順三は、一家の唯一の通史である「佐々木家の人々」という私家版の小冊子を残していた。 順三が生まれたのは、林蔵がドイツ留学から帰ってからだから、古い話には伝聞が多いという。

 留学の経緯を、順三はこう説明している。 「日本にも神社仏閣等の大建築はあったが、西洋風の大建築殊に議事堂という特殊の新建築は初めてである。勿論、大学教授や外国人技師等に設計はしてもらえるが、現場で大工や職人を指導する技術員は、日本には全くいなかったのである。政府はこれに備えて、急遽二十数名の若い建築研修員を全国から募集してこれを三年間独逸に留学させ、西洋建築を学ばせて国会議事堂新築の際、技手としてそれぞれの部門の指導者とすることにした。「何かやって見たい」アンビシャスの父が、これを看逃す筈はなかった。彼は直ちに母や母の親達に相談し、その賛成を得、東京に出て採用試験に応じこれに合格した。」

 だが、松井和男さんが、文献や資料に当ったかぎりでは、「募集」や「試験」に関する記録や証言は見つからなかった。 公募も試験もなく推薦によったとすれば、誰に推薦されたのか。 邦は「半世紀前の洋行」に、「大工は腕に覚えがあるけれど、もう満員で入れなかったから、左官(正しくは石膏職)ということにして採用して貰ったのである」と書いている。 松井さんは、順三のいう「アンビシャス」から考えて、当時、西洋建築への憧憬があり、洋風校舎などを建てた棟梁たちがいたことを考える。 林蔵の出身地から遠くない西伊豆の松崎町に明治13年9月に「岩科(いわしな)学校」が建っている。 そこには松崎出身の左官で鏝(こて)絵師の入江長八の仕事が残っている。 しかし、息子たちの回想からは、それが林蔵の「アンビシャス」の核心だったとは思えない、という。

 松井さんは、林蔵ドイツ留学時の、留守中の思い出を書いた邦の文章に(「半世紀前の洋行」)、そのヒントを見つける。 「母と4歳の私と2歳の弟を無一物で残して行った父は村の評判が悪かった。命知らずだというのだった。何分明治19年だ。当時「日の出の独逸の国へ……」という歌が出来たそうだ。独逸へ行くのは好いけれど、後に残った妻や子は何(ど)うしてその日を送るやらというのだった。しかし、道理の分かった人達は父を褒めた。
「林(りん)さんは今に出世する」
と言ってくれた。(中略)父の帰る少し前に、私は小学校に入った。
「お前の親父は今に官員さんになるんだ」
と言って、友達が私の顔に髭を描いてくれたことを覚えている。」

 「官員」とは政府の役人だ。 普通なら田舎の大工に開かれた世界ではない。 しかし、官費で職人を留学させるのは、帰国後、政府の仕事をさせるためで、それは官吏になるということだろう。 新しい身分へと上昇する道だ。 明治の日本は官僚国家である。 官吏になれば、生活も安定し、東京に出て子供たちに教育を受けさせることもできる。 それが、時代を読んだ林蔵の「アンビシャス」だったのではないだろうか、と松井和男さんは考えるのだ。

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