佐々木家の「青天の霹靂」、「負けない男」2026/07/05 07:23

 佐々木邦は、早熟で悪戯好きだったが、成績はよかった。 当時の小学校は尋常科が4年、高等科が4年で、中学へは高等科2年終了で進学するシステムになっていた。 邦は尋常科の1年から2年へも、2年から3年へも一番で進級し、尋常科3年から高等科へは一学年飛び級することを許された。 日清戦争の勝利に日本中が沸いた明治28年の春、林蔵は邦を芝公園にあった正則中学(旧制)に入学させる。 正則の最上級にはのちの首相吉田茂も在籍していた。 だが、日清戦争の海軍熱の時代で、邦は職業軍人になる意志を貫き、正則中学から海軍予備校へ転校する。

 しかし、その年の夏、青天の霹靂ともいうべき出来事が一家を襲ったのである。 母はるが、自殺未遂事件を起こしたのだ。 三日三晩、死に場所を求めて歩き回り、最後に家の近くに戻って赤坂の溜池に投身したが、近所の人に救い出され、警察を通して無事に家に戻された。 原因は、年齢とともに顔と手先に出たシミをハンセン病と疑ったことで、一種のノイローゼだが、田舎者のはるが、慣れない都会生活に加え、林蔵の部下の接待や、上京してきた弟達の世話でストレスが溜まっていたのだろう。

 結局は事なきを得たのだが、警察沙汰になった事件は林蔵の体面を傷つかずにはおかなかった。 おそらく林蔵は人一倍潔癖な人間だったのだろう。 事態を重く受け止めて、はるが精神的な安定を取り戻すために、はると子供たちを郷里の沼津に帰すことにし、自分は役所から身を引くことにしたのである。 近代化の進展で、西洋建築の需要が高まり、請負業が生まれていた。 林蔵は、役所を辞すと同時に、月給40円の技術員として大阪土木株式会社に入社した。

 しかし、林蔵の転職には、思わぬ落とし穴が待ち構えていた。 まもなく大阪土木で、青森連隊の兵舎建設を請け負うため青森支店長として赴任する。 郷里では妻はるの健康も恢復し、邦も一時沼津に帰ったため海軍予備校を除籍になったが、翌年には早稲田中学に入り直し、東京の叔父の家から学校に通っていた。 林蔵は、せっかく努力して建てた青森連隊の兵舎に不正があるという疑いが生じ、その責任者として検挙され、裁判にかけられたのだ。 不正は、出来上がった兵舎の柱が、設計図より細いというものだった。 林蔵は、所要の太さが入手できなかったので、細目の柱を予定以上用いて建築して、安全を期したと主張した。 第一審は有罪だったが、第二審の控訴院で無罪放免となった。

 だが、事件発生時、会社は責任を逃れるため林蔵を罷免していた。 孤立無援で無実を主張し、無罪を勝ち取ったものの、以後、林蔵の人生には仕事探しの苦労が常につきまとうことになる。 四人の息子たちは、その父の苦労を見ながら成長したのである。 のちに立教大学の総長になるクリスチャンの三男・順三は、こう書いている。

 「父は若いときから「負けない男」である。彼は自分の力を確信して静かに待った。「最後まで忍ぶものは救われん」という聖書の言葉を、もちろん彼は知ってはいなかったが、その生涯は、たまたまこの聖句を地で行ったもののようであるといってもいいだろう。」