第六高校で英語を教え、夜は翻訳「精力絶倫居士」 ― 2026/07/07 07:16
結婚の翌明治42(1909)年5月、邦が初めて自分の名前でアメリカのメタ・ヴィクトリア・フラー・ヴィクター作の小説A Bad Boy’s Diaryを訳した『いたづら小僧日記』が内外出版協会から単行本になると、朝日新聞が漱石の「猫」と同工異曲のユーモア小説と評して評判になり、ベストセラーになった。 邦は釜山に、身重になった小雪は日本にいた。 この大ヒットによって、弱冠26歳の無名の青年が、作家につきもののデビューの苦労を素通りして、一躍文名を世に知らせたのである。 もし、この幸運がなければ、ユーモア作家佐々木邦は生れなかった可能性が高く、林蔵のドイツ留学に匹敵する人生の契機だった、と松井和男さんは書いている。
『いたづら小僧日記』が売れると、邦は釜山の学校を辞め、翻訳で食べていく決心をする。 長男の仙一が生まれ、帰心矢の如きものがあった。 岡山の第六高等学校で英語を教える話も来た。 邦を六高に推薦したのは、同校から東京の高等師範学校に移ることになった石川林四郎教授で、東大出だが中学は明治学院、日頃から自身の英語は明治学院で学んだと公言しており、後釜には後輩を据えたいと考えていたのだ。 明治42年8月、邦は、妻と生まれたばかりの長男仙一を連れて、岡山に赴任した。
問題は待遇だった。 邦は、5年間講師を務めた後、再三催促してようやく教授に昇格し、7年目にして初めて俸給が上がった。 生活が苦しいから、内職に翻訳をして、遣り繰りをつけた。 教科書の選定が自由だから、ユーモア小説をずいぶん教え、つぎつぎ翻訳を出版した。 『いたづら小僧日記』のヒットで、名前が売れていたからだ。 明治42年『続 いたづら小僧日記』『千万円』、明治43年『各国滑稽小説』『当世良人気質』『グッドボーイ日記』、明治44年『新訳簡易生活』、大正元年『独身者の独思案』、大正2年『新世帯物語』『夢想生活』『ビックウィック倶楽部物語』『少年少女基督伝』、大正3年『ドン・キホーテ物語』。 昼間は学校で教え、夜は書斎で原稿を書く。 人の二倍の仕事をこなしながら、疲れも見せない邦に同僚は呆れ、「精力絶倫居士」の称を与えている。
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