『万国政表』『増訂華英通語』の刊行、英字新聞の翻訳要約を売る ― 2026/10/15 07:19

まだ、2. 需要を読むのだ。 は続く。 時流に合った情報を伝えることでお金を稼ぐ、――福澤が体験したことは、まさにジャーナリズムそのもので、出版事業そのものであった。 近代文化のマスメディアとはそういうことだ。 福澤の場合、最初にマスメディアとして出版したのは『万国政表』、オランダ人プ・ア・デ・ヨングの『地球上の全ての国々についての統計表』を翻訳した作品だ。 人生初のアメリカ行きが決まったため、適塾の後輩で、のちに慶應義塾の初代塾長になる岡本周吉に任せて渡米、岡本の訳者名で出版した。 福澤にとって統計は、「時流に合った貴重な情報」――つまり当時の日本には存在していないが、今後絶対に必要になる学問そのものだった。 実際、15年後に執筆した『文明論之概略』では、「スタチスチク」(統計)こそが、社会にとって必要だと強く説いている。 人口、物価、婚姻数、出生数、死亡数、病患者数……それぞれ数値を示した表をつくり、比較することで真実がわかるのだ、と。

『万国政表』刊行と同年の万延元(1860)年、サンフランシスコで手に入れた『華英通語』を翻訳した『増訂華英通語』を自分の名前で出版した。 英語にカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横に日本語の訳語を付記した。

3. キュレーション雑誌で学費をつくる。 福澤は、幕府に翻訳方として勤め、同時に副業で福澤塾を経営しているときも、翻訳で金を工面することを思いつく。 中津藩の藩命で始めた塾を、元治元(1864)年に拡大を狙って中津から6人ほど優秀な若者を呼び寄せ、英語を勉強させて、塾の講師役を手伝ってもらおうとした。 彼らの生活費が必要で、福澤はご近所さんだった友人に頼る。(木挽町汐留の中津藩上屋敷の近く、旧新橋停車場鉄道歴史展示室のあたりに仙台藩の上屋敷があった。福澤塾は、築地鉄砲洲の中屋敷。)

大童信太夫、2歳年上の彼は、洋風趣味で、洋書も大好き、仙台藩の重臣・留守居役だった。 ちなみに同じ仙台藩の開国論者・大槻磐渓は『万国政表』に序文を書いている。 大童が福澤に頼んだのは、「仙台藩の資金で購入した毎週発行の英字新聞の主要記事を、翻訳し買ってもらう」という案だった。 福澤は「今週読むべき記事」をキュレーションし、翻訳したものを毎週仙台藩に売ったのである。 これは「横浜出版日本形勢新聞」とか「横浜開板日本新聞」とか題して10冊ほどの写本になり、熊本藩や佐賀藩などの留守居(いわば諸藩の外交官的な部署)に定期購入してもらった。 この英字新聞は、文久元(1861)年からイギリス人のA・W・ハンサードが横浜居留地で創刊した『ジャパン・ヘラルド』で、上海から輸入した輪転機を使用したらしく、このとき協力した日本人はその後日本語の日刊新聞の創刊にかかわることになる。 そこに掲載される政治的意見は、イギリス人から見た日本、という見方を意識させるのにじゅうぶんだっただろう。

需要に合わせれば、人は文章を買ってくれるという体験は、のちに『学問のすゝめ』や『時事新報』という書籍や新聞の執筆につながったのではないか、と三宅香帆さんは考える。 福澤にとって文章とは、最初は自分の想いを綴ったりするものではなく、まずは相手の期待に合わせて翻訳するものだったのである。 時勢の学問を理解していなければ、ただの飯を喰う字引になってしまうからだ。

この時期、福澤は幕府の公務として外交文書を翻訳しつつ、イギリス人から見た日本政府を英語でずっと読んでいた。 そしてその技術で、福澤はお金を稼いだ。

だが同時期、福澤は著作『唐人往来』を著し始めている。 自分の意見をテキストに書くようになるのである。 まとめサイトの編集長では終わらない。 自分自身の文章を、提言を、文体を、書くようになる。

三宅香帆さんは、脚注6で『増訂華英通語』について、福澤がどうやって出版したのか謎で、矢放昭文氏が誰か出資者がいたのではないかと指摘してはいるが、ご存じの方がいたらぜひ教えてほしい、と書いている。 富田正文著『考証 福沢諭吉』上(岩波書店・1992年)には、『増訂華英通語』の表紙の見返しに「快堂蔵版」とあり、慶應義塾図書館の元副館長伊東弥之助氏は木村摂津守の日記から研究して、木村喜毅家が版元であったとしている、とある。 蔵版元の「快堂」は木村喜毅の別号「楷堂」と音通である、と。 それで私は、新潮社『波』編集部にその旨メールし、三宅香帆さんに伝えてもらうように頼んだ。

福澤、情報はお金になると気づき、需要を読む ― 2026/10/14 07:21

三宅香帆さんの新潮社『波』連載「福澤諭吉をよみなおす」、9月号の第3回「幕末、饒舌は武器にならなかった」を、この日記の9月1日「福沢諭吉と慶應義塾「社中」の由来」に、7月号の第1回「動画の時代に読み直す福澤諭吉」を、9月2日の「「演説」喋りで他人を説得するメディア、相手に伝わる「文体」」、8月号の第2回「なぜ福澤諭吉の書く本は売れたのか?」を、9月3日の「福澤、世間より個人が大切、時代の潮流に乗る」に書いて来た。 たまたま、三宅香帆さんがNHKの『スイッチ・インタビュー』で、大相撲の湊川親方(元大関・貴景勝)と対談しているのを見たので、10月号の第4回「きっと儲かる翻訳のススメ」を読むことにしたい。

1. 福澤父の働いていると本が読めない日々。 福澤のいた中津藩は、江戸後期、換金性の高いコメ以外のものを作る貨幣経済への変化に乗り切れず、譜代藩ののんきさがたたったのか、借金が多かった。 朝ドラ『あさが来た』で有名な豪商・加島屋(廣岡家)に、どれだけの融資を求めたかの記録が残っている。 中津藩の平均収入は1年間に米14万俵、平均支出が24万俵だったらしい。 10万俵の赤字に、借入金が約29万6537両・利子付き、とんだ大赤字藩である。 大坂蔵屋敷に詰めて、財務担当役人、借金工面の係だったのが、福澤の父だった。 もともと漢学者で、本が好きだったのに、大坂商人の番頭の接待飲み会やら、働いてばかりで本が読めない。 結局、福澤が3歳の時に亡くなった。

一家で中津に帰るが、大坂の自由で経済の匂いのする空気は、福澤家に漂っていて、中津では身分制度に嫌な思いをすることが多々あった。 士農工商の役割分担がはっきりしていて、武士が稼ぐことを軽蔑していた江戸時代に、福澤は幼少期に是から先き何になる積りかと兄に聞かれて、「先ず日本一の大金持になって思うさま金を使うて見ようと思います」と答えた。

2. 需要を読むのだ。 中津から長崎へ蘭学を学びに出て、山本物次郎という砲術家の家に住み込んだ。 時代はペリーの黒船のうわさが日本中を駆け巡っていた。 眼病を患う先生の身のまわりの世話から何から何でもこなして可愛がられる。 そのうちに、砲術関係の書籍の「写本」が儲かることに気づく。 山本家秘伝の本を写し、貸す時は高額のレンタル料を取った。 福沢はオプションに、大砲の図面を引いて、図入りでわかりやすく砲術の講義をし、出島オランダ屋敷に行きたい人のアテンドをした。 山本家に1年もいないうちに、砲術のプロみたいな顔をして他藩の役人に講義していたのかと、ツッコミを入れたくなるが、おそらくこの時「需要に合った情報を伝えれば人はお金を払ってくれる」ことにも、気付いたのだろう。

山本家を出た福澤は、生涯の師・大坂の緒方洪庵のもとで学ぶことになる。 洪庵の適塾でも、学費が払えなかった福澤は、中津藩の家老の息子から借りて密かに写本を作っていたオランダ要塞造営の書籍を訳して渡す、ということで学費の代わりにしていた(『福翁自伝』)。 情報はお金になる、ということである。

「密やかな美 小村雪岱のすべて」展<等々力短信 第1207号 2026(令和8).9.25.> ― 2026/09/25 07:12

 北浦和の埼玉県立近代美術館で「密やかな美 小村雪岱のすべて」展を見てきた。 「すべて」というだけあって、よくもこれだけ集めたという、川越市出身の美術家の作品が展示され、全貌を伝えていた。 小村雪岱(せったい)、明治20(1887)年~昭和15(1940)年、54歳の若さで亡くなった生涯に、大正から昭和期にかけて、おびただしい数の絵を描いていたことに驚く。 東京美術学校日本画選科を卒業後、書籍の装幀、挿絵、舞台装置や映画の美術考証、商業美術デザインなど、幅広い分野の作品を手掛けた。

 まず大正3(1914)年、泉鏡花の『日本橋』の装幀で、世に出る。 人影の見える土蔵が立ち並ぶ日本橋河岸に、荷舟が行き交い、赤靑黄白の蝶々が舞う、斬新な意匠で、たちまち人気を得た。 手がけた書籍は300点に及ぶ。 当時の「袖珍本(しゅうちんぼん)」という懐や袖の中に携行できる、文庫本サイズの函入りの本が、可愛らしい。 泉鏡花では『鏡花選集』『星の歌舞伎』『愛染集』『粧蝶集』『雨談集』『銀燭集』『番町夜講』など。 久保田万太郎、水上滝太郎、里見弴、吉井勇、岡本綺堂、田山花袋も。

 四季を描いた『日本橋』の見返しの「春」、のちに肉筆画や版画になる絵は、俯瞰した若柳の垂れかかる座敷の、香るような青畳に、三味線と二つ鼓が置いてある。 芸者はいない、今まで稽古をしていたのか、客がいたのか、絵を見る人にいろいろと想像させるところが、五七五の短い詩だけで読む人に鑑賞をゆだねる俳句に似ている。

 雪岱を一躍人気挿絵画家にしたのは、昭和8(1933)年朝日新聞連載、邦枝完二の小説『おせん』の挿絵だった。 邦枝では『江戸役者』『夏姿團十郎』『お傳地獄』、白井喬二『斬るな剣』、子母澤寛『突っかけ侍』、吉川英治『遊戯菩薩』、矢田挿雲『忠臣蔵』、村松梢風『浪人倶楽部』。 雑誌の表紙では、『婦人之友』『演芸画報』『月報プレイガイド』、さらに『處女之友』なんてのもあったが、今だったら売れないだろう。

 昭和3(1928)年、水上滝太郎の世話で、泉鏡花を囲む親睦会「九九九の会」が料亭・藤村で始まり、雪岱に加え、里見弴、久保田万太郎、岡田三郎助、鏑木清方らが会員だった。 毎月23日の開催、会の名は会費が十円でなく九円九十銭だったことによる。

 2023年秋、福澤諭吉協会の金沢旅行で、生家跡に建つ泉鏡花記念館の鏡花生誕150年記念特別展「再現・番町の家」を見た。 少年時代から泉鏡花に心酔した阿部章蔵(水上滝太郎)は、筆名も鏡花作品から取り、鏡花の作品を断簡零墨にいたるまで蒐集した。 滝太郎は、鏡花没後に、鏡花自筆原稿や愛用品の、遺族から親友小泉信三を介して慶應義塾図書館への寄贈に関わり、それは空襲を免れた。 鏡花は昭和14年に、15年には、滝太郎と『三田文学』水上滝太郎追悼号に原稿を寄せた雪岱も亡くなった。

原武史さんの「皇室典範と国民」、井上毅は男系男子による皇位継承を主張 ― 2026/09/13 07:52

皇室典範改正問題と井上毅(こわし)<小人閑居日記 2026.7.27.>や、川越宗一著『絢爛の法』書評「〝満腔の熱血〟井上毅ここにあり」<小人閑居日記 2026.8.12.>に始まり、それぞれ何回か井上毅について書いた。 政治学者の原武史さんは、朝日新聞読書欄の「ひもとく」の「皇室典範と国民」(8月22日朝刊)で、男系男子による皇位継承を主張したのは井上毅だったと書いている。

「7月24日、改正皇室典範が公布された。最大の眼目は、1947(昭和22)年に皇籍を離脱した旧11宮家の男系男子を皇族の養子として迎えることを可能にするとともに、その子どもが男性であれば皇位継承資格をもつとしたことにあった。男系男子による皇位継承にこだわる保守派の意向が露骨に反映されたのだ。

天皇の歴史を振り返れば、江戸時代までは養子となった後に即位した天皇もいた。現天皇の直系の祖に当たる光格天皇は、江戸時代に創られた閑院宮家の出身で、後桃園天皇が男子を残さず死去したため、養子として迎えられた。

明治期に皇室典範が制定される際には女性天皇や女系天皇を認めるべきだとする意見があった。辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』(講談社現代新書)が記すように、それを否定して男系男子による皇位継承を主張したのが井上毅だった。伊藤博文『憲法義解』(岩波文庫)には、皇室典範を起草した井上自身による解説書である「皇室典範義解」が収められている。井上は第1条で皇位継承を男系男子に限定したのは、過去に存在した女性天皇は「祖宗の常憲」でなく、「後世の模範」にならないからだとしている。

他方で第42条では養子を禁じている。井上はその理由を「宗系紊乱(びんらん)」、すなわち血統の秩序が乱れる恐れがあることに求めている。

昭和天皇と香淳皇后の間には女子が4人生まれ、男子がなかなか生まれなかった。宮内庁編修『昭和天皇実録』第五(東京書籍)には、天皇が31(昭和6)年3月、皇室典範改正による「養子制度導入の可否」につき、元老の西園寺公望の意見を聴こうとしたという記述がある。このときは西園寺が難色を示し、33年12月に皇太子(現上皇)が生まれたことで、男性皇族を養子として迎える案は葬られた。

戦後の皇室典範の改正に際しては、女性天皇を認めるべきか否かが問題になった。笠原英彦、小川原正道編著『天皇と皇室の近現代史 思想・制度・外交』(慶應義塾大学出版会)に収められた論文で、笠原はそれが検討されながら結局否定され、男系男子による皇位継承が踏襲される過程を考察している。養子を禁ずる規定もまた踏襲された。

だが65年に文仁親王(秋篠宮)が生まれて以降、皇室に男子が生まれない状況が続いた。2005(平成17)年に出された有識者会議の報告書では、皇室典範を改正して女性天皇や女系天皇を認めるべきだとする、一方、旧宮家の男系男子を養子として迎える案は国民の理解や支持が得られないとして否定された。」

在学中の塾長は? 慶應義塾大学歴代塾長 ― 2026/09/12 07:07

塾長の制度が明確に規程化されたのは、1881(明治14)年以後のことだそうだ。 ある方と、石川忠雄塾長が16年務めたという話になって、調べてみた。 私が志木高校に入学した1957(昭和32)年から、大学経済学部を卒業した1964(昭和39)年までの在学時は、奥井復太郎塾長~高村象平塾長の時代だった。

浜野定四郎(さだしろう)  1881(明治14)~1887(明治20) 6年
小泉信吉(のぶきち)  1887(明治20)~1890(明治23) 3年
小幡篤次郎 1890(明治23)~1897(明治30) 7年
鎌田栄吉 1898(明治31)~1922(大正11) 24年
福澤一太郎 1922(大正11)~1923(大正12) 1年
林毅陸 1923(大正12)~1933(昭和8) 10年
小泉信三 1933(昭和8)~1947(昭和22) 14年
高橋誠一郎 (塾長代理)1946(昭和21)~1947(昭和22) 1年
潮田江次(こうじ)  1947(昭和22)~1956(昭和31) 9年
奥井復太郎(ふくたろう)  1956(昭和31)~1960(昭和35) 4年
高村象平 1960(昭和35)~1965(昭和40) 5年
永沢邦男 1965(昭和40)~1969(昭和44) 4年
佐藤朔 1969(昭和44)~1973(昭和48) 4年
久野洋 1973(昭和48)~1977(昭和52) 4年
石川忠雄 1977(昭和52)~1993(平成5) 16年
鳥居泰彦 1993(平成5)~2001(平成13) 8年
安西祐一郎 2001(平成13)~2009(平成21) 8年
清家篤 2009(平成21)~2017(平成29) 8年
長谷山彰 2017(平成29)~2021(令和3) 4年
伊藤公平 2021(令和3)~  2期目