福沢諭吉の『学問のすゝめ』 ― 2025/04/27 07:53
江渕崇さんの「アナザーノート」「働く尊厳軽んじたツケ 世界の危機」は、今日84歳になった、私にドスンと響いた。 私は『学問のすゝめ』の福沢諭吉の、慶應義塾大学経済学部を卒業した。 大手の銀行員生活を少々経験した後、家業の零細なガラス工場で長年働いた。 「世界の危機」を考える上で、私が経験したことと関係することが、あれこれ指摘されていたからである。 これをお読みの、友人・知人の皆様は、共通の体験をされた方もいらっしゃるので、ご意見をお寄せ頂きたい。
まず、社会の分断の問題だ。 「エリートが自分たちを見下し、日々の仕事に敬意を払っていないという労働者の不満や憤りが、トランプの成功の根本にあります」、お金だけでなく、名誉や承認、敬意の欠如、つまりは「尊厳」をめぐる問題があるというマイケル・サンデル教授の指摘だ。 一方、困難に打ち勝つには、大学で学位を取り、高給の仕事にありつくこと――。 民主党主流派やリベラル派が発したのは、個人の上昇志向と社会の流動性に解決を求めるメッセージだった。
福沢諭吉の『学問のすゝめ』。 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」、されど人間世界を見渡すと、「賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり。」 「人は生れながらにして貴賤貧富の別なし。唯学問を勤て物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。」 「学問とは、唯むずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽み、詩を作るなど、世上に実のなき文学を云うにあらず。」 「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、イロハ四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱等を心得、尚又進て学ぶべき箇条は甚多し。」 地理学、究理学、歴史、経済学、修身学。 「右は人間普通の実学にて、人たるものは貴賤上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に士農工商各その分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。」(初編)
「信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し。」 「文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、その働(はたらき)の趣を詮索して真実を発明するに在り。」 「事物の軽々信ずべからざること果して是ならば、亦これを軽々疑うべからず。この信疑の際に就き、必ず取捨の明(めい)なかるべからず。蓋し学問の要はこの明智を明(あきらか)にするに在るものならん。」 「異説争論の際に事物の真理を求るは、猶(なお)逆風に向て舟を行(や)るが如し。その舟路を右にし、又これを左にし、浪に激し風に逆い、数十百里の海を経過するも、その直達の路を計れば、進むこと僅に三、五里に過ぎず。航海には屢(しばしば)順風の便ありと雖ども、人事に於ては決して是れなし。人事の進歩して真理に達するの路は、唯異説争論の際にまぎるの一法あるのみ。而してその説論の生ずる源は、疑の一点に在て存するものなり。疑の世界に真理多しとは蓋し是の謂(いい)なり。」(十五編)
水天宮のミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションと福沢諭吉 ― 2025/04/10 07:12
先日は、前から行ってみたいと思っていて、なかなか行けなかったミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションへ、「南桂子展 小さな雲」(3月30日まで)を観に行った。 浜口陽三が精密な銅版画家で、ヤマサ醤油の創業家の出身であることは、知っていた。 創業者の浜口梧陵(儀兵衛)と福沢諭吉の関係があったからだ。 浜口陽三は、十代目浜口儀兵衛の浜口梧洞の三男として、1909(明治42)年4月5日、和歌山県有田郡広村(現、有田郡広川町)に生れ、幼少時に一家で千葉県銚子市に転居したという。
「南桂子展 小さな雲」を後回しにして、南海トラフ巨大地震とも関連するので、浜口梧陵(儀兵衛)と大津波、和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係について、書いたものをまず引いておきたい。
大津波と浜口梧陵、和歌山と福沢・慶應義塾<小人閑居日記 2019.1.19.>
浜口梧陵については、まだブログに配信する前の「等々力短信」に、「大津波と浜口梧陵」<等々力短信 第947号 2005.1.25.>を書いていたので、あとで引く。 和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係、福沢諭吉と浜口梧陵、その和歌山教育史との関係については、下記を書いていた。
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その1<小人閑居日記 2012.9.22.>
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その2<小人閑居日記 2012.9.23.>
「紀州塾」、福沢が方向づけた和歌山の教育<小人閑居日記 2012.9.24.>
〈明治前期〉教育史と紀州の中学の個性<小人閑居日記 2012.9.25.>
県立和歌山中学と、自由民権運動の中学<小人閑居日記 2012.9.26.>
等々力短信 第947号 2005(平成17)年1月25日
大津波と浜口梧陵
番組表に「浜口梧陵」の名前があったので、13日NHK放送の“その時、歴史が動いた”「百世の安堵をはかれ―安政大地震・奇跡の復興劇」を見た。 黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、三つの巨大地震が日本を襲った。 嘉永7(1854、改元されて安政元)年11月4日、下田でプチャーチンのディアナ号を大破した安政東海地震が発生、その30時間後の5日の夕方には、紀伊半島南部と四国南部が震度6以上の安政南海地震に見舞われ、紀伊半島南西岸から土佐湾沿岸を大津波が襲って、多数の死者が出た。 銚子と江戸で醤油醸造業(ヤマサ)を営み、半年は故郷の紀州広村(現、広川(ひろがわ)町)で暮していた浜口梧陵は、地震直後、海の様子を見に行き、真っ暗で、閃光が走り、雷のような物凄い音を聞いた。 津波の襲来を予感した梧陵は、村民に高台の八幡神社への避難を呼びかけて回り、暗闇で道がわからないと見ると、たいまつで稲むらに火を放ち、避難路を照らした。 地震発生から40分で津波の第一波が到着、5回にわたり最大5mの津波が押し寄せた。 浜から神社まで1.7km、避難には20分かかる。 津波を予感した梧陵の早い判断と的確な避難指示によって、全村民の97%の生命が救われた。
しかし地震と津波による被害は甚大で、梧陵が私財で仮小屋50軒を建て、農具などを提供しても、離村者が出るようになった。 梧陵は村人に希望と気力を取り戻させるため藩に願い出て、私財を投じ、村人の働きには給金を出し、津波を防ぐ大堤防の建設に着手する。 翌安政2(1855)年の安政江戸地震で江戸の醤油店が罹災、閉鎖に追い込まれたものの、銚子で最高の生産高を上げて堤防建設に送金し、安政5(1858)年12月、これだけの規模の盛り土堤防は世界最初、村民の自助努力で防災と生活支援を同時に実現した復興事業も画期的という「広村堤防」が完成する。 下って昭和21(1946)年、M8.0の昭和南海地震では、高さ4mの津波が襲ったが、村の大部分は被害を免れた。
『福澤諭吉書簡集』に、浜口儀兵衛(梧陵)あて書簡が3通、浜口の名の出てくる書簡が10通ある。 梧陵は慶応4(1868)年、和歌山藩の藩政改革で抜擢されて勘定奉行となり、翌明治2年藩校の学習館知事に転じ、明治3年松山棟庵の協力を得て洋学校・共立学舎を設立した。 この時、旧知の福沢を招聘しようとしたが、福沢は受けなかった。 だが二人の交際は続き、晩年の梧陵が計画し明治18(1885)年ニューヨークで客死することになる世界一周視察旅行には、福沢が格段の配慮をしている。
木版から活版印刷へ、福沢の著書と、近代印刷の父・本木昌造 ― 2025/03/04 07:06
木版印刷が、活版印刷になった時期は、いつ頃だったのか、気になった。 『福澤諭吉事典』のIII「著作」に「著作単行書一覧」があり、「印刷技法」と「形態」の欄がある。
万延庚申(万延元(1860)年)の『華英通語』から始まり、『西洋事情』初編(慶応2(1866)年)、『西洋事情』外編『雷銃操法』『西洋旅案内』『条約十一国記』『西洋衣食住』(慶応3(1867)年)、『兵士懐中便覧』『訓蒙窮理図解』(慶応4(1868)年)、『掌中万国一覧』『英国議事院談』『清英交際始末』『洋兵明鑑』『頭書大全世界国尽』(明治2(1869)年)、『啓蒙手習の文』(明治4(1871)年)まで、全てが木版印刷(和装・半紙本が多く、一部大本、中本、小本)である。
『学問のすゝめ』(二編登場以降「初編」と呼称)は、中津市学校に学ぶ青年に向けて明治4(1871)年12月に活版印刷(洋装・四六判)で刊行され、好評を博したが、その活版印刷は紙型による鉛版印刷が未発達で大量印刷に不向きであったため、5(1872)年6月に木版印刷(和装・小本)に改められている。 『学問ノスヽメ』初編として、明治6(1873)年4月木版(和装・中本)で刊行、二編が同年11月木版(同形態)で官許出版、三編が同年12月木版(同)で官許出版されている。 そして四編と五編が、明治7(1874)年1月に活版(和装・中本)で刊行された。 だが、六編は同年2月に、七編は3月に、活版と木版の両方(和装・中本)で刊行されている。 同年4月の八編と、5月の九編は、活版のみで、6月の十編は木版のみ、7月の十一編は活版のみ。 12月の十二編と十三編から、明治8(1875)年3月の十四編、明治9(1876)年7月の十五編、8月の十六編までは、木版のみ。 11月の十七編は、活版のみで刊行された。 明治13(1880)年7月、『学問のすゝめ』として一編から十七編まで一冊にまとめられ、活版(洋装・四六判)で出版された。
日本の活版印刷の歴史を、日本印刷産業連合会の「日本における近代印刷は本木昌造で始まった」というホームページで見てみた。 安政3(1856)年、オランダから船で持ち込まれた印刷機と活字で長崎奉行所は活字判摺立所を開設、オランダ通詞の本木昌造は取扱掛に任命され、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷に取り組んでいた。
安政4(1857)年、オランダに造船を依頼した咸臨丸に乗ってやってきた活版印刷技師が、寄港地長崎・出島に印刷所を設置、持って来た印刷用資機材で蘭書を何冊か印刷した。 本木昌造が感銘し、オランダ貿易商人から印刷用資機材を買い、研究に没頭、片仮名邦文の鉛活字をつくることに成功、自分で書いた本(蘭和辞典)を印刷した。
本木昌造は、明治に入って早々の明治2(1869)年、活版伝習所を開設した。
活版印刷の歴史に、福沢と縁の深い「咸臨丸」が登場したのが、興味深かった。
福沢の出版事業の自営、「福沢屋諭吉」 ― 2025/03/03 07:06
富田正文先生の『考証 福澤諭吉』上「出版事業の自営」に、慶応2(1866)年『西洋事情』初編に関して、当時の出版の慣行の説明があった。 「著者が原稿を書き上げると、書物問屋(今日の出版業者)がこれを引き受けて、そのアトは版下書き(原稿を版木に掛けるための清書)、版木彫り、版摺り、製本という順序であるが、それらは一切書物問屋が取りしきって、著者は僅かに版下の校正にタッチするだけで、値段のつけかたも売り捌きも一切関係せず、ただ書物問屋のいうがままに「当合(あてがい)扶持」の金を受け取るというのが、長い間の習慣であった。」
『考証 福澤諭吉』に、福沢が『西洋事情』外編3000部の収支計算をしているのがある。 (支出)版木草稿代金1000両、3000部製本料750両(1部に付1歩)、計1750両。 (収入)3000部代金2250両(1部に付 価1歩)、書林に渡し 二割引450両、計1800両。 つまり3000部売って50両の利益があり、それ以上売れた分については、その版元の収入になるという計算である。
福沢諭吉は、こんな扱いに黙っているような人間ではなかった。 数寄屋町(現在の日動画廊付近)の紙問屋鹿(加)島屋から土佐半紙を千両の即金で買いつけて、芝新銭座の慶應義塾の土蔵に積み込み、次に書林(書物問屋)から版摺り職人を貸してもらい、何十人も集めて仕事をさせ、その職人から業界の内部事情を聞き出し、版木師や製本仕立師も次々と引き抜いて、最終的には全工程を福沢の直轄下に組み込むことに成功する。 その一方で既得権益を侵害された書林から苦情を言う者も出てきたので、『西洋事情』初編の版元だった芝神明前の書林、尚古堂岡田屋嘉七を証人として、明治2(1869)年書林の問屋仲間に加入した。 そのときの屋号が、「福沢屋諭吉」である。 (つづく)
出版が商売として成り立つようになる江戸時代 ― 2025/03/02 07:48
2月28日の「教養とは何か、本居宣長と上田秋成」は、『江戸狂歌』の第五章「教養とは何かを考えさせられる」に依った。 狂歌の笑いは、作者の教養と読者の教養が木霊(こだま)しあって生まれるので、ある時代の狂歌を読むと、その時代に住んでいた人たちの教養の水準を知ることができるというのだ。
四方赤良(よものあきら・蜀山人(しょくさんじん))の作に、こういう歌がある。 鶉(うずら)を一羽とり二羽とりして焼き鳥にして食べているうちに、深草の里には鶉が一羽もいなくなってしまったよ、というのだ。
ひとつとりふたつとりては焼いて食ふ 鶉なくなる深草の里
これは、藤原俊成の、次の歌のパロディーである。
夕されば野辺の秋風身にしみて うずらなくなり深草の里
狂歌のパロディーが成り立つためには、元の歌が当時、広く世間に知られていなければならない。 このような仕掛けで笑った人間が、町人に多かったとなれば、それは町人層の教養の水準を示しているわけである。 かなり高い水準といってよかろう。
では、どうして、そうなったのか。 日本の印刷術は一方ではキリシタンたちが持ち来たしたものである。 他方秀吉の朝鮮侵略時にも朝鮮からもち帰られた、朝鮮の活字印刷術の影響で、印刷術は徳川の初期に大いに発達した。 まず最初に経典の類が出版され、次が、公式の儒学の教科書で、そのあとで文学の本が出る。 当時の大衆は、あらそって古典的な文学作品を買い求めた。 古典が大量に出版され、出版が商売として成り立つと、資本が出版業に集まるようになる。 それに連れて、小説本なども出版されるようになった。 本居宣長の『古事記伝』が成功したのも、そのような背景があったからだ。 こうして、いわゆる作家が職業として成り立つ時代が、到来したのである。 平賀源内たちの現れたのは、ちょうどそのころだった。
この印刷術の話で、蔦屋重三郎の『吉原細見』などの、細かい木版摺りの技術には驚くばかりであるが、私は江戸時代の出版物が木版印刷だったことを、ほとんど意識していなかった。 福沢諭吉の『学問のすゝめ』にも、初めのうち、木版印刷のものがあったのを聞いたことがあった。 (つづく)
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