谷崎潤一郎、千代、佐藤春夫三名連記の挨拶状 ― 2026/10/20 07:29
河野龍也編著『佐藤春夫読本』、河野龍也さんの「佐藤春夫の足跡(年譜と業績)」で、そのあたりを見てみる。 「小田原事件」を機に、春夫文学は急旋回した。 まず、詩作を再開。 古風なスタイルで恋の苦さを余すところなく詠い上げた『殉情詩集』(新潮社、大正10(1921)年)は、時の好尚に投じ広く愛誦された。 また、散文も一変、派手な怪奇小説から、市井の幸福を夢見る男の落魄した心境を綴るようになる。 「私小説」「心境小説」は後の震災前後の流行語だが、春夫の作品はその典型例と目された。 『剪られた花』、「侘しすぎる」、「一情景」、「この三つのもの」など。
関東大震災で新宮に帰郷。 翌大正13(1924)年初め上京、西信濃町の弟秋雄方に寄寓し、3月に秋田出身の小田中タミとここに住み始めた。 タミは「徳勇(あるいは太子)」と名乗った赤坂の芸妓で、春夫詩集の愛読者。 改造社の山本実彦の紹介で馴染みになったとされ、一女美代子を連れて春夫に嫁した。 15(1926)年4月、長編執筆を約して報知新聞社の客員となる。 小石川区関口の旧前島密邸の分譲地を購入、夏に自邸の新築を開始、昭和2(1927)年3月に入居する。 当時『改造』に「小田原事件」の心理経過を複数の人物の視点で描いた「この三つのもの」を連載中だったが、15年5月以降、江戸川橋周辺に出没する「魔女」(山脇雪子)の誘惑に春夫が籠絡され、9月、谷崎夫妻に相談したことで友情が復活。 連載は10月で中止され、未完となった。
昭和5(1930)年6月、小田中タミと離別。 下旬、関西に旅行。 その後、8月18日付で谷崎潤一郎、千代、佐藤春夫三名連記の挨拶状を出し、千代と結婚した。 結婚は当事者間で十分協議した上での決断だったが、慎重を期した挨拶状がかえって物議を醸し、「細君譲渡事件」として騒がれた。
拝啓
炎暑之候尊堂益々御清栄奉慶賀候
陳者我等三人此度合議を以て千代は
潤一郎と離別致し春夫と結婚致す事
と相成潤一郎娘鮎子は母と同居致す
可く素より双方交際の儀は従前の通
に就き右御諒承の上一層の御厚誼を
賜度何れ相當仲人を立て御披露に
可及候へ共取敢□寸楮御通知申上候
敬具
昭和五年八月 日
谷崎潤一郎
千代
佐藤春夫
様
侍史
尚小生は當分旅行致す可く不在中
留守□は春夫一家に託し候間この
旨申し添へ候
谷崎潤一郎
関東大震災で新宮に帰郷。 翌大正13(1924)年初め上京、西信濃町の弟秋雄方に寄寓し、3月に秋田出身の小田中タミとここに住み始めた。 タミは「徳勇(あるいは太子)」と名乗った赤坂の芸妓で、春夫詩集の愛読者。 改造社の山本実彦の紹介で馴染みになったとされ、一女美代子を連れて春夫に嫁した。 15(1926)年4月、長編執筆を約して報知新聞社の客員となる。 小石川区関口の旧前島密邸の分譲地を購入、夏に自邸の新築を開始、昭和2(1927)年3月に入居する。 当時『改造』に「小田原事件」の心理経過を複数の人物の視点で描いた「この三つのもの」を連載中だったが、15年5月以降、江戸川橋周辺に出没する「魔女」(山脇雪子)の誘惑に春夫が籠絡され、9月、谷崎夫妻に相談したことで友情が復活。 連載は10月で中止され、未完となった。
昭和5(1930)年6月、小田中タミと離別。 下旬、関西に旅行。 その後、8月18日付で谷崎潤一郎、千代、佐藤春夫三名連記の挨拶状を出し、千代と結婚した。 結婚は当事者間で十分協議した上での決断だったが、慎重を期した挨拶状がかえって物議を醸し、「細君譲渡事件」として騒がれた。
拝啓
炎暑之候尊堂益々御清栄奉慶賀候
陳者我等三人此度合議を以て千代は
潤一郎と離別致し春夫と結婚致す事
と相成潤一郎娘鮎子は母と同居致す
可く素より双方交際の儀は従前の通
に就き右御諒承の上一層の御厚誼を
賜度何れ相當仲人を立て御披露に
可及候へ共取敢□寸楮御通知申上候
敬具
昭和五年八月 日
谷崎潤一郎
千代
佐藤春夫
様
侍史
尚小生は當分旅行致す可く不在中
留守□は春夫一家に託し候間この
旨申し添へ候
谷崎潤一郎
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