明治23年の帝国議会開会に向け、仮議事堂の建設 ― 2026/07/04 07:35
林蔵がドイツ留学から帰国したのは明治22年、内務省臨時建築局は、翌年の11月に開かれる帝国議会第一回議会に向け、霞ヶ関に仮議事堂の建設を急いでいた。 ドイツから帰った職工は三年間臨時建築局で働くことが義務づけられていて、林蔵は衆議院と議長官舎の現場監督になった。 一家は上京し、現場に近い芝区西久保明船町(現在の港区虎ノ門2丁目)に居を構え、邦は明治3年創立の日本初の文部省認可の小学校、鞆絵小学校に入学した。 邦は、悪戯心が常に発動する少年で、近くの金毘羅様で、罰があたるかどうか研究のため、拝殿のうしろに小便をしたという、福沢諭吉少年のようなことをしている。 高輪の泉岳寺も遊び場の一つで、義士の墓の入口の看板「ぎしはか」の文字に、ペンキで濁点を打ち、「ぎしばか」にしたこともある。 現在のホテル・オークラの敷地は池で、氷が張るとスケートを試み、氷が割れて溺れかけるという騒ぎを起こしている。
ようやく完成した仮議事堂は短命だった。 会期が始まって間もない24年1月24日、突然の出火で焼失したのである。 火災の原因は不明だが、当時採用したばかりの電灯の漏電説、電灯で仕事が無くなるガス灯関係者の謀略説が流れたという。 議会の方は旧鹿鳴館と旧工部大学校に場所を移して続けられたが、秋に開かれる第二回議会に間に合うよう、急ぎ6か月で議事堂を再建しなければならなくなった。 昼夜兼行の工事となり、林蔵も夜を日についで詰めていたので、邦が毎朝登校前に牛乳(ドイツの三年間で朝食はパンとバターになっていた)を持って行った。 その途中の琴平町の小間物屋に評判の看板娘がいて、前を通るたびに覗いて見た。 「八つか九つの少年にしてはませていた」と、自分で書いている(「半世紀前の洋行」)。
明治25年12月、林蔵は内務省雇、正式の職員となり、月給30円で、仮議事堂完成後は裁判所(現在の最高裁にあたる)の建築に関わることになる。 技術官僚は、技監が天皇の命令で任命される勅任官、技師が天皇に奏上して任命される奏任官(ここまでが高等官で食堂やトイレも別だった)、技手が長官の判断で任命される判任官、「雇」は技手よりも下だった。 兄弟思いの林蔵は、郷里で大工をしていた弟の弥太郎と春吉、実家を守っていた小僧の長太郎を呼び寄せ、自分の下役として内務省に採用してもらった。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。