佐藤允彦さん、銀座ジャズピアノ事始 ― 2026/07/23 07:18
佐藤允彦さんのことは、下記のように、当日記にいろいろ書いてきた。 その内、佐藤允彦さんの出発、そして落語とジャズ<小人閑居日記 2014.2.2.>、佐藤允彦さん、銀座ジャズピアノ事始<小人閑居日記 2018.6.22.>、八っつあんはジャズ通だった<小人閑居日記 2014.2.3.>、「マラ」と「ラ・マラ」どのくらい違うか?<小人閑居日記 2014.2.4.>の四本を、二日にわたって再録したい。
佐藤允彦さんのジャズ・ピアノで新年会<小人閑居日記 2014.2.1.>
佐藤允彦さんの出発、そして落語とジャズ<小人閑居日記 2014.2.2.>
八っつあんはジャズ通だった<小人閑居日記 2014.2.3.>
「マラ」と「ラ・マラ」どのくらい違うか?<小人閑居日記 2014.2.4.>
「佐藤允彦さんのジャズ・ピアノで新年会」訂正補足<小人閑居日記 2014.2.7.>
佐藤允彦さん、銀座ジャズピアノ事始<小人閑居日記 2018.6.22.>
佐藤允彦さんのピアノが歌ったナンバー<小人閑居日記 2018.6.23.>
「有楽町」今昔ものがたり<小人閑居日記 2018.6.24.>
佐藤允彦さんの「ジャズに親しむ夕べ」<小人閑居日記 2018.9.19.>
佐藤允彦さんの出発、そして落語とジャズ<小人閑居日記 2014.2.2.>
佐藤允彦さん、慶應高校の一年生の時から、毎日放課後、銀座のキャバレーへ通っていたという。 ピアノは小さい頃から弾いていて、慶應普通部時代は音楽学校へ進む勉強もした。 父上の事業が傾いて、何かしなければならない。 母上が時代はジャズだろうという。 ピアノを弾いていたら、煙突掃除の人が聞いて、ジャズのアレンジをする先生を紹介してくれた。 その先生が、銀座のキャバレーへ連れて行って、バンドの演奏を見学していなさいと言った。 一年(cf.2/7の日記)通ったら、バンドが交代して、たまたまそこにピアニストがいなかった。 高校一年生から、稼いでいた。 予習復習は出来ないから、授業は懸命に聴いたという。 そんな苦労を、同級生は全く知らなかったようだ。 大学卒業後、米国バークリー音楽院に留学して、作曲と編曲を学ぶ。
佐藤允彦さん、たいへんな落語好きらしい。 志ん生の「火焔太鼓」、円生の「正札附」、文楽の「野崎」など、噺家の出囃子を、メドレーのジャズにした。 それを『江戸戯楽』というCDにしている。 佐藤さんの本『一拍遅れの一番乗り』(2002年/スパイス・カンパニー刊)には、「落語とジャズの粋な関係」という一文がある。 ジャズ・ミュージシャンには落語好きが多く、噺家の師匠連にはジャズ通が多い。 佐藤さんは、落語とジャズの共通項を考えて、「庶民の芸能」、「即興性」、「紅灯街」(ジャズはニューオーリンズの紅灯街ストーリーヴィルで生れ、禁酒法時代のジャズはギャングの庇護のもと、シカゴやカンザスシティーのもぐり酒場やナイトクラブで育った)、「粋」(落語もジャズも、伝承のなかで洗練されてきた)を列挙する。 そして、「鰍沢(かじかざわ)」「黄金餅」「死神」「心眼」「大仏餅」など、いわば落語のスタンダードナンバーを多く残した三遊亭圓朝が没したのが1900年、その世紀の変わり目に後年ジャズで大きな役割を果たすことになる人物が生まれているのは、何となく面白いという。 1898年ジョージ・ガーシュイン、1899年デューク・エリントン、1900年ルイ・アームストロング。 さらに、1950~60年代、ジヤズの黄金期は、また落語の絶頂期でもあった、と書いているのである。
佐藤允彦さん、銀座ジャズピアノ事始<小人閑居日記 2018.6.22.>
15日は6月の第三金曜日、毎年「ジャーミネーターの会」がある。 高校時代に、日吉の慶應高校と三田の女子高、それに私の志木高で、新聞を作っていた仲間の会だ。 「ジャーミネーター」というのは、発芽試験器だそうで、三校の新聞部が新人研修のために出していた研究新聞の名前だった。 洒落た先輩(生意気な高校生)がいて、名前にしても、そんな新聞を出していたことも、大したことをやっていたものだと思う。
有楽町の日本外国特派員協会が会場で、今年はわれわれ昭和35(1960)年高校卒の年代が幹事役だった。 同期で、世界的に活躍しているジャズピアニスト、佐藤允彦(まさひこ)さんに来てもらって、トークと演奏をお願いした。 高校時代に、同じクラスだった新聞会員が、二人もいたのだ。
佐藤允彦さん、高校1年生の時に、お父上の会社がギブアップして、自分で食えということになった。 小さい時から、母上にピアノを習わされていた。 穐吉敏子がオスカー・ピーターソンに見出された後で、母上が時代はジャズだろう、アメリカへ行けば食えるという。 だが、ジャズをどう学べばよいのかわからない。 ピアノを弾いていたら、小判型の風呂の煙突掃除屋さんが聞いて、お客さんにジャズを教えてくれる人がいるという。 先生というより、米軍キャンプのクラブにバンドを、ABCDなどのランクに分けて紹介する人で、PXで流行歌の見開きのソング・フォリオを手に入れ、コードネームにして、4~5人の人に渡す、簡単なアレンジもする。 その人がピアノを弾かせ、感じをつかめば弾けるといって、SPのレコード(3分ぐらい)を渡してくれた。 それを譜面にコピーして、何ページかにしたのを、練習した。 実地にやっているところを見ればできると、スーパーカブの後ろに乗せて、銀座のキャバレー、並木通り5丁目のカリオカ・クラブに連れて行き、バンドの演奏を見学していなさいと言った。 12月1日から31日まで、授業が終わると、行って見学した。 大晦日、坊や、毎日来て偉かったね、来年からバンドが替わる、という。 次のバンドが来ていて、実はピアノがいない、と言う。 ピアノなら、この子がいる、となった。
1月8日、親父のジャケットを着て、行った。 テナーサックス、ベース(?)、ピアノのカルテット、顔合わせにブルースをやってみよう。 ブルース? fのブルース、イントロを弾け。 イントロ? 本当に何にも知らないんだな。 座ってろ、弾かなくていいから。 早い内はお客さんがほとんどいない、女たちが化粧なんかしている、ナンバーワンが駄目といったら、首になる。 セカンド・セット以降は、お客が入って、ダンス・ナンバーになるから譜面がある。 何とかなる。 わかんなかったら弾くな、八重洲口に「ママ」というモダンジャズ喫茶があって、レコードかかっているから、聴きに行け。 授業が終わると、「ママ」へ行き、5時半から6時半まで聴く、急いで駆けつけると7時にカリオカ・クラブが始まる。 「ママ」では、同じレコードがかかる。 曲を聴いていて、繰り返しに気付く。 7小節目に、コードが変わる。 想像力を働かせて、だんだんと覚える。 1か月が経った。 バンマスが、もう1か月置いてやるといった。 そこに半年いた。 それが始まり、丁稚奉公、実地で商売を覚えた。
母親の女学校時代の友達に、税理士の夫人がいて、夫がジョージ川口の経理をやっていた。 ピアノがいないので、テストするから、すぐ来いと言われた。 高校2年の初めのことで、大学生になったら入れてもらうと言ったけれど、入ったのが高校の3年から大学の1年の時だった。 高校卒業式の日も、不二家ミュージックサロンで昼夜の公演があった。 同級生が、お前も名前を呼ばれたぞ、と卒業証書を持って来てくれた。 司会をしていたイソノテルオが聞きかじって、それ総代じゃないか、ピアノの佐藤允彦は今日、慶應高校を首席で卒業した、と紹介した。 のちに大学を卒業した時も、ジャズの雑誌に、佐藤允彦は慶應大学の経済学部を首席で卒業したと書いた。 それほどジャズ・ジャーナリズムはいい加減(笑)。
佐藤允彦さんのジャズ・ピアノで新年会<小人閑居日記 2014.2.1.>
佐藤允彦さんの出発、そして落語とジャズ<小人閑居日記 2014.2.2.>
八っつあんはジャズ通だった<小人閑居日記 2014.2.3.>
「マラ」と「ラ・マラ」どのくらい違うか?<小人閑居日記 2014.2.4.>
「佐藤允彦さんのジャズ・ピアノで新年会」訂正補足<小人閑居日記 2014.2.7.>
佐藤允彦さん、銀座ジャズピアノ事始<小人閑居日記 2018.6.22.>
佐藤允彦さんのピアノが歌ったナンバー<小人閑居日記 2018.6.23.>
「有楽町」今昔ものがたり<小人閑居日記 2018.6.24.>
佐藤允彦さんの「ジャズに親しむ夕べ」<小人閑居日記 2018.9.19.>
佐藤允彦さんの出発、そして落語とジャズ<小人閑居日記 2014.2.2.>
佐藤允彦さん、慶應高校の一年生の時から、毎日放課後、銀座のキャバレーへ通っていたという。 ピアノは小さい頃から弾いていて、慶應普通部時代は音楽学校へ進む勉強もした。 父上の事業が傾いて、何かしなければならない。 母上が時代はジャズだろうという。 ピアノを弾いていたら、煙突掃除の人が聞いて、ジャズのアレンジをする先生を紹介してくれた。 その先生が、銀座のキャバレーへ連れて行って、バンドの演奏を見学していなさいと言った。 一年(cf.2/7の日記)通ったら、バンドが交代して、たまたまそこにピアニストがいなかった。 高校一年生から、稼いでいた。 予習復習は出来ないから、授業は懸命に聴いたという。 そんな苦労を、同級生は全く知らなかったようだ。 大学卒業後、米国バークリー音楽院に留学して、作曲と編曲を学ぶ。
佐藤允彦さん、たいへんな落語好きらしい。 志ん生の「火焔太鼓」、円生の「正札附」、文楽の「野崎」など、噺家の出囃子を、メドレーのジャズにした。 それを『江戸戯楽』というCDにしている。 佐藤さんの本『一拍遅れの一番乗り』(2002年/スパイス・カンパニー刊)には、「落語とジャズの粋な関係」という一文がある。 ジャズ・ミュージシャンには落語好きが多く、噺家の師匠連にはジャズ通が多い。 佐藤さんは、落語とジャズの共通項を考えて、「庶民の芸能」、「即興性」、「紅灯街」(ジャズはニューオーリンズの紅灯街ストーリーヴィルで生れ、禁酒法時代のジャズはギャングの庇護のもと、シカゴやカンザスシティーのもぐり酒場やナイトクラブで育った)、「粋」(落語もジャズも、伝承のなかで洗練されてきた)を列挙する。 そして、「鰍沢(かじかざわ)」「黄金餅」「死神」「心眼」「大仏餅」など、いわば落語のスタンダードナンバーを多く残した三遊亭圓朝が没したのが1900年、その世紀の変わり目に後年ジャズで大きな役割を果たすことになる人物が生まれているのは、何となく面白いという。 1898年ジョージ・ガーシュイン、1899年デューク・エリントン、1900年ルイ・アームストロング。 さらに、1950~60年代、ジヤズの黄金期は、また落語の絶頂期でもあった、と書いているのである。
佐藤允彦さん、銀座ジャズピアノ事始<小人閑居日記 2018.6.22.>
15日は6月の第三金曜日、毎年「ジャーミネーターの会」がある。 高校時代に、日吉の慶應高校と三田の女子高、それに私の志木高で、新聞を作っていた仲間の会だ。 「ジャーミネーター」というのは、発芽試験器だそうで、三校の新聞部が新人研修のために出していた研究新聞の名前だった。 洒落た先輩(生意気な高校生)がいて、名前にしても、そんな新聞を出していたことも、大したことをやっていたものだと思う。
有楽町の日本外国特派員協会が会場で、今年はわれわれ昭和35(1960)年高校卒の年代が幹事役だった。 同期で、世界的に活躍しているジャズピアニスト、佐藤允彦(まさひこ)さんに来てもらって、トークと演奏をお願いした。 高校時代に、同じクラスだった新聞会員が、二人もいたのだ。
佐藤允彦さん、高校1年生の時に、お父上の会社がギブアップして、自分で食えということになった。 小さい時から、母上にピアノを習わされていた。 穐吉敏子がオスカー・ピーターソンに見出された後で、母上が時代はジャズだろう、アメリカへ行けば食えるという。 だが、ジャズをどう学べばよいのかわからない。 ピアノを弾いていたら、小判型の風呂の煙突掃除屋さんが聞いて、お客さんにジャズを教えてくれる人がいるという。 先生というより、米軍キャンプのクラブにバンドを、ABCDなどのランクに分けて紹介する人で、PXで流行歌の見開きのソング・フォリオを手に入れ、コードネームにして、4~5人の人に渡す、簡単なアレンジもする。 その人がピアノを弾かせ、感じをつかめば弾けるといって、SPのレコード(3分ぐらい)を渡してくれた。 それを譜面にコピーして、何ページかにしたのを、練習した。 実地にやっているところを見ればできると、スーパーカブの後ろに乗せて、銀座のキャバレー、並木通り5丁目のカリオカ・クラブに連れて行き、バンドの演奏を見学していなさいと言った。 12月1日から31日まで、授業が終わると、行って見学した。 大晦日、坊や、毎日来て偉かったね、来年からバンドが替わる、という。 次のバンドが来ていて、実はピアノがいない、と言う。 ピアノなら、この子がいる、となった。
1月8日、親父のジャケットを着て、行った。 テナーサックス、ベース(?)、ピアノのカルテット、顔合わせにブルースをやってみよう。 ブルース? fのブルース、イントロを弾け。 イントロ? 本当に何にも知らないんだな。 座ってろ、弾かなくていいから。 早い内はお客さんがほとんどいない、女たちが化粧なんかしている、ナンバーワンが駄目といったら、首になる。 セカンド・セット以降は、お客が入って、ダンス・ナンバーになるから譜面がある。 何とかなる。 わかんなかったら弾くな、八重洲口に「ママ」というモダンジャズ喫茶があって、レコードかかっているから、聴きに行け。 授業が終わると、「ママ」へ行き、5時半から6時半まで聴く、急いで駆けつけると7時にカリオカ・クラブが始まる。 「ママ」では、同じレコードがかかる。 曲を聴いていて、繰り返しに気付く。 7小節目に、コードが変わる。 想像力を働かせて、だんだんと覚える。 1か月が経った。 バンマスが、もう1か月置いてやるといった。 そこに半年いた。 それが始まり、丁稚奉公、実地で商売を覚えた。
母親の女学校時代の友達に、税理士の夫人がいて、夫がジョージ川口の経理をやっていた。 ピアノがいないので、テストするから、すぐ来いと言われた。 高校2年の初めのことで、大学生になったら入れてもらうと言ったけれど、入ったのが高校の3年から大学の1年の時だった。 高校卒業式の日も、不二家ミュージックサロンで昼夜の公演があった。 同級生が、お前も名前を呼ばれたぞ、と卒業証書を持って来てくれた。 司会をしていたイソノテルオが聞きかじって、それ総代じゃないか、ピアノの佐藤允彦は今日、慶應高校を首席で卒業した、と紹介した。 のちに大学を卒業した時も、ジャズの雑誌に、佐藤允彦は慶應大学の経済学部を首席で卒業したと書いた。 それほどジャズ・ジャーナリズムはいい加減(笑)。
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