平賀源内を戯作にみちびいた狂歌連 ― 2025/04/01 07:06
平賀源内『火浣布略説』巻末の「嗣出書目」(近刊予定書)広告に、『物類品隲』の「嗣出書目」にあった『物類品隲後編』がなかっただけでなく、そこにあげられた「嗣出書目」のどれ一つとして実現されないで終わってしまう。 それは源内が、戯作者風来山人として忽然として出現するからだ。 『物類品隲』の刊行からわずか4か月後、同じ1763(宝暦13)年11月、源内は江戸神田白壁町岡本利(理)兵衛方から一挙に二つの戯作小説を出版した。 天竺浪人の戯号による自序をもつ『根南志具佐』五巻五冊と、同じく紙鳶(しえん)堂風来山人・一名天竺浪人の自序をもつ『風流志道軒伝』五巻五冊とであった。 源内の、この神出鬼没ぶりを、芳賀徹さんは、「いまで言えば、昨日までの農学部助教授が今日井上ひさしとなって数冊の小説をひっさげて登場したようなものでもあろうか」と、譬えている。
天下いよいよ泰平、文化はいよいよ甘く熟していく時代に、知識人たちの間にもゆとりと寛容と好奇心が生れつつあった。 江戸に群れはじめていた、物産家仲間とは少しばかりずれる別なインテリ逸民のグループが、この宝暦末年のころまでに源内のまわりに出来上がっていたようである。 そしてもともと文学好きの源内を、戯作という文芸の道に誘い込み、たちまちこの方面での華麗なパイオニアたらしめる、きっかけとなった。
『風流志道軒伝』の叙「独鈷山人」は南条山人川名林助(りんすけ)、跋に「滑稽堂」の印のあるのは平秩東作(へづつとうさく)のことだと、大田南畝旧蔵の同書に註記されていることを森銑三氏が三村竹清の『本の話』で知ったという。 大田南畝(四方赤良(よものあから)、蜀山人(しょくさんじん))は、戯作者平賀源内の門人で、平秩東作のもっとも親密な若い友人だった。 「独鈷山人」川名林助は、享保17(1733)年江戸の内藤新宿、享保11年生れで6歳年長の平秩東作と、同じ場所に生れた。 享保13年生れの源内より4歳年少になるが、みな同世代と見なしてよいだろう。 平秩東作の父は、尾張の出で尾州家の一門の小役人を精勤した後、内藤新宿の馬宿稲毛屋の株を買い、同業を営んでいた。 東作は父の没後、商売を変えて煙草屋を営み、商人ながら儒学を学び、牛込加賀屋敷の内山賀邸のもとに出入りして和歌を修め、狂歌も作った。 その狂歌趣味から、同じ賀邸門に入ってきた23歳年下の才子大田南畝と親交を結ぶようになり、朱楽菅江(あけらかんこう)、唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)などの同門の同志も加わる。 その狂歌・狂文・狂詩の仲間には、本木網(もとのもくあみ)・智恵内子(ちえのないし)のような風呂屋の主人夫婦も常連だった。
なだいなださんの『江戸狂歌』から、狂歌をいくつかみてみたい。 3月2日の「出版が商売として成り立つようになる江戸時代」では、四方赤良・蜀山人、つまり大田南畝が藤原俊成の歌のパロディーで詠んだ<ひとつとりふたつとりては焼いて食ふ 鶉なくなる深草の里>を引いていた。 平秩東作が蜀山人、大田南畝を詠んだ歌がある、<おうた子を声にてよめばだいたこよ いづれにしてもなつかしき人>。 大田姓を負うた子に、大田は「だいた」とも読める。 父親ぐらいの年の東作が蜀山人と初めて会った頃、あんた初々しかったねえ、若かったねえ、抱いてやりたいような、かわいい坊やだったよ、というのだ。
蜀山人が『東海道中膝栗毛』の十返舎一九に語ったという逸話がある。 蜀山人がある日、多摩の河原の治水小屋で、<朝もよし昼もなほよし晩もよし その合ひ合ひにチョイチョイとよし>と、自作の狂歌を口ずさみながら酒をチビリチビリ飲んでいた。 すると、のみが一匹ピョンと盃に飛び込んだ。 そこで、<盃に飛び込むのみものみ仲間 酒のみなれば殺されもせず>と詠んだ。 ところが、盃の中ののみの奴、生意気な野郎で、<飲みに来たおれをひねりて殺すなよ のみ逃げはせぬ晩に来てさす>と、こしゃくな口のききようだ。 蜀山人は怒って、盃から奴を引っ張り出して、敷居の上でひねりつぶそうとした。 すると、のみはつぶされながらも歌よみの意地は忘れぬとみえて、ぜひ辞世の歌を残させてくれというので、もっともな願いだから、かなえてやった。 <口ゆゑに引き出されてひねられて 敷居まくらにのみつぶれけり>。
「本の末尾にある、これから刊行される本の広告」 ― 2025/03/31 06:59
芳賀徹さんに『平賀源内』(朝日評伝選23)(朝日新聞社・1981(昭和56)年)という本がある。 おそらく芳賀徹さんからいただいて、本棚にあった。 これまで平賀源内を書く間に、その末尾の年譜や、杉田玄白が撰んだ「処士鳩渓墓碑銘」の「噫(ああ) 非常ノ人」で、参照させてもらっていた。 ところが、「一〇 戯作者の顔」の「1 風来山人の出発」をパラパラやっていて、とんでもないものを見つけてしまった。 昨日、終りに書いた、田中優子さんの「本の末尾にある、これから刊行される本の広告」の件である。
平賀源内は数え年36歳の1763(宝暦13)年7月、全六巻の『物類品隲』を江戸須原屋市兵衛から刊行した。(「非常ノ人」マルチクリエーター平賀源内<小人閑居日記 2025.3.26.>参照) その『物類品隲』巻末奥付に、源内は「鳩渓平賀先生嗣出書」(近刊予定書)として、『物類品隲後編』『神農本草経図註』『浄貞五百介図』『日本介譜』『日本魚譜』『四季名物正字考』の六書をあげていた、というのである。 しかし、先人の書の写本の覆刻である『浄貞五百介図』(1764(明和元)年刊)以外は、残念ながら日の目を見ることがなかった。 さらに2年後の1765(明和2)年、『火浣布略説』というごく薄いパンフレットを同じ江戸須原屋市兵衛から刊行した時は、巻末の「嗣出書目」はさらに充実して、源内の本草・物産・博物の学者としてのいよいよ広く熱烈な野心を誇示していた。 『神農本草経図註』『日本介譜』『日本魚譜』『四季名物正字考』に加えて、『神農本草経倭名考』『本草比肩』『食物本草』とかが、いちいち内容説明つきでつけ加えられ、『穀譜』『草譜』『石譜』『獣譜』『菜譜』『木譜』『禽譜』『虫譜』と日本博物図譜のシリーズを大成するつもりだったと思われる。
蔦谷重三郎『一目千本』の安永3(1774)年より、『物類品隲』は11年前、『火浣布略説』は9年前の刊行なのである。 そして蔦重は当然、平賀源内の浄瑠璃本『神霊矢口渡』を出版した須原屋市兵衛を知っていただろう(大河ドラマ『べらぼう』では、須原屋市兵衛のアドバイスを受けていた)。 「本の末尾にある、これから刊行される本の広告」は、平賀源内、須原屋市兵衛から学んでいたのかも知れない。
杉山伸也さんの「福澤諭吉『民情一新』と「文明の利器」」後半 ― 2025/01/14 07:00
1875(明治8)年の『文明論之概略』では、進歩史観が見られる。 中国(清)やイギリス、ロシアとの対内的、対外的関係で、日本の存立が危ぶまれる。 日本は半開で、文明の精神が必要だ、文明国になる必要を説いた。 単に有形の制度や物質にとどまらず、無形のもの、すなわち国民全体の智徳の進歩が伴わなければならないという、文明の主義を主張した。 一身独立して一国独立、一国独立のためには一身独立が必要だ。
『民情一新』の第5章は「国会論」、イギリス式議院内閣制の導入と、大政党による政権交代の必要を説くため、先行して『郵便報知新聞』に藤田茂吉と箕浦勝人の名前で出した。 先行研究では、この「国会論」によって『民情一新』を政治論にしていて、19世紀文明論が正当に評価されないことになっている。 1870年代後半、慶應義塾は経営危機の時期にあり、福沢は新しい文明論を早く知らしめたいと、短期間で執筆した。 1870年代後半の世界は、外交関係が穏やかで、独立についての危機感がなかった。 一方、国内は大混乱、自由民権運動の激化、士族の反乱があり、政府は復古主義的傾向を強めていた。 それに対し、福沢は自分の言葉で書き下ろした『民情一新』を自信作だとして、留学中の一太郎、捨次郎への手紙で(明治17年1月16日付、書簡集第4巻書簡番号824)、『民情一新』を送り、英訳して新聞に投書し、さらに英語版まで出そうと考えている。 記念碑的著作なので、(1)外国人の日本事情の認識、(2)日本の学者の思想を英語で表現、(3)日本の学問の国際化を図りたい、と手紙に書いている。
『民情一新』の第3章は、「蒸気船車、電信、印刷、郵便の四者は、1800年代の発明工夫にして、社会の心情を変動するの利器なり」。 技術革新が歴史の進歩の原動力で、人間内部の精神まで動かす。 『民情一新』の序文は文明論で、蒸気の発明、科学技術の発展によって、19世紀は違う時代なんだと説く。 『文明論之概略』で説いた無形の文明の精神から、有形の実物、科学技術の方が重要なんだと、考え方が変わっている。 郵便印刷は、情報通信の手段、思想通達の利器。 インフラの重要性、とりわけ鉄道が大切だとする。 電信は、西南戦争で全国的なネットワークが出来たことを、高く評価。 新聞は人間交際の手段、前年に178紙あり、全国に広まった。 『西洋事情』が現実になっている。 文明の利器とともに、社会が進む、日本の将来は明るい。
「智徳」、智は学びて進むもの。 知恵には教え、教育が重要。 『文明論之概略』のインテレクトから、『民情一新』はインフォルメーション。 知恵こそが文明の精神で、蓄積される。 科学技術は、知恵の結晶。
西洋はもはや標準にするにあたらない。 日本は自らの道を進まなければならない、自立の必要性。 『民情一新』は、科学技術を組み込んだ『文明論之概略』。 「文明論」の到達点、後期福沢の出発点。
2001年に、e-Japanイージャパン構想というのがあった。 日本政府が掲げた日本型IT社会の実現を目指す構想。 しかし、日本のデジタル化は遅遅として進まない。 2023年のデジタル貿易の赤字は5兆3千億円、物の貿易赤字に匹敵する。 生成AIのツールで福沢研究を進めるような、未来に向けた知的環境をつくっていくことを、福沢は望んでいるのではないか。
杉山伸也さんの「福澤諭吉『民情一新』と「文明の利器」」前半 ― 2025/01/13 07:06
第190回福沢先生誕生記念会、記念講演は、杉山伸也名誉教授の「福澤諭吉『民情一新』と「文明の利器」」だった。 昨年8月刊行の著書『近代日本の「情報革命」』(慶應義塾大学出版会)第7章の表題だという。 杉山さんは、今年は昭和100年、戦後80年にあたるが、30年の停滞で実質50年、半世紀といってもいい。 自分は団塊の世代だが、敗戦の1945年から80年前は1865年、明治より前になる、その80年は短いにもかかわらず大きな変化があった。 日本の歴史と貿易の関係が専門だったので、福沢全集はここ数年で読んだ。
『民情一新』は明治12(1879)年、福沢44歳の作、文庫本で80ページほどのものだが、内容が凝縮している。 インフラ、通信ネットワークの構築、地方自治など。 福沢の主張は、1880(明治13)年前後を境にして、前後に分かれるといわれる。 前期福沢と後期福沢。 1881(明治14)年の政変からは、ジャーナリズムの時代で、『時事新報』などで具体的なテーマを議論している。 その分岐点が『民情一新』で、ストレートに、前向き、楽観的な考え方を展開している。 それは緒方塾の影響が大きく、自然科学の最先端、科学主義、論理的、合理的なサイヤンス(実学)を強調する。 反対に、儒学は虚学だと。 福沢は、学問の要諦は、物事の関わり合う関係性、因果関係だとする。 今で言う文理融合を体験しているのだ。
歴史の見方。 福沢は1891(明治24)年に書き、晩年の1901(明治34)年に発表された『瘠我慢の説』で、勝海舟と榎本武揚の明治になってからの出処進退を批判した。 これに対する徳富蘇峰の批判を、研究者に引きずられた資料至上主義だと反論して、幕末の実状、時代の感覚を知らないものだと一蹴した。 時代を共有し、歴史の中の今、特定の場所が重要だ。 明治日本は、どういう時代だったのか、産業革命の直後、交通運搬通信革命の時代で、条約改正が重要課題だった。
福沢は、どういう情報を持っていたか。 取り巻く情況の変化をとらえていた。 三回の欧米体験、特に二回目の遣欧使節が大きかった。 日本を欧米との関係で見られるようになった。 ヨーロッパへの途次、中国(清)やセイロンの住民がどう扱われているかを見て、日本とアジアを実体験し、日本とアジアの相対的地位を認識した。 『西航記』「西航手帳」には、鉄道の記述が多く、電信、新聞その他、「文明の利器」を実際に体験した。
編集という方法と、日本という方法が重なっていった ― 2024/09/09 07:03
松岡正剛さん、2000年以降は、『日本という方法』などで本格的に日本文化論を展開した。 日本は東洋に属して、しかも海を隔てた列島だ。 四書五経も仏教も外から入ってきたもので、稲・鉄・漢字・馬も順番に立ち上がってきたのではない。 そういう国なので、編集的な多重性があるだろうと。 だから日本をよく見ることによって、世界の文明や文化が見えるだろうという関心を持った。
しかし、そんな日本の文化や歴史にもかかわらず、マルクス主義や構造主義、存在論や現象学など西洋の学問の方法で語ろうとしてきたために、説明の付かないものが増えてしまった。 九鬼周造や鈴木大拙のように西洋的ではない「いき」や「禅」で解明しようとした試みもあったが、トータルには説明できない。 むしろ柳田国男や折口信夫が試みた民俗学的な日本を、もうちょっとやり直さないといけないなと考えた。
「日本が大事だ」といえば、ナショナリズムと思われがちで、「松岡正剛の右傾化」と受け取られることもあった。 しかし、正剛さんが考えていたのは、日本という国そのものが「方法」であるということだ。 「日本は方法の国だ」という確信は初期からあって、だんだんそれを固めていった。 最終的には「擬(もどき)」と言った。 なぞらえる。 あやかる。 歌舞伎や江戸遊芸では「やつし」と呼ばれるものだ。 本来のものを想定はするんだけれども、そこに少し逸脱をかける。
どうも大日本帝国主義とか神国日本というのは、その本来を巨大化しすぎてしまう。 奥には正体不明だけれども日本が実感される「何か」はあるかもしれない。 でも、それを神様とか天皇に求めるべきではない。 やつさないと、そらさないと。 そのために方法がある。 私(正剛さん)が考えてきた編集という方法と、日本という方法が重なっていったのだ。
最後に『仮説集』を残したい、エビデンスなしで、無責任な仮説を並べたてて終わりたい(笑)。 虚実をまぜた「編集的ボルヘス」という感じのもの。 芭蕉が「実から虚に行くな、虚から実に行け」という方法に近いものだ。 リアルがあってバーチャルがあるんじゃない。 バーチャルを先に作らないとリアルなんて説明がつかないと。 これですね、最後にやりたいのは。 それでやっと「本当にあいつは変だった」といわれるんじゃないですか(笑)。
最近のコメント