編集者を主人公に、作家を、そして文芸を書く2023/12/01 07:06

 乙川優三郎さんが、新潮社の『波』11月号に「あやしい胸底のあれこれ 新刊『クニオ・バンプルーセン』に寄せて」を書いていた。 「出がらしの作家を自覚している。」と始まる。 乙川優三郎さんは1953(昭和28)年2月17日生まれの70歳だ。 「物忘れがすすんで佳い言葉を思い出せない。致命傷を感じて落ち込むものの、ありがたいことに日本語には意味の同じ別の言い方がたくさんあるのでどうにか書いている。もっとも、そんなものが小説の表現として立つはずもなく、ましな一文を求めてうろつく毎日である。」

 「長編小説を書こうとするとき、おぼろげな構成とともに夢が膨らみ、必ず佳いものになると錯覚することがある。文章は書きながら練るしかないと分かっているのに、そんな夢を見ることから私の執筆ははじまる。そしていつものように冒頭でつまずく。」

 「私の場合、書き出しが拙いと最後まで修正がきかなくなるので、これでよいと思えるものになるまで書き直すことになる。言うなれば最初から正念場である。効率の悪い執筆だが、そこをクリアーしないことには先へすすめないのだから、仕方がない。」

 「〝クニオ・バンプルーセン〟の冒頭部分は比較的早く書けた方だが、思い切って千字ほど削った。直感で、いらない、と思い、捨てることはよくあるので、惜しいとも思わなかった。」

 「けれども、もしこの時点で編集者が読んでいたら」と、乙川さんは言う。 あってもよいのではないかと言うに違いない。 彼らは読者にとって非常に親切な説明が好きだ。 長編は編集者の期待に応えてすべてを言いつくすことができるが、乙川さんはそれを好まない。 想像あっての読書であり、行間あっての小説だと思うからだ。 そこを編集者がつついてくるなら、「教則本をかくわけではないから」というのが、乙川さんの密かな返答だという。

 「そもそも編集者には自信家が多く、小うるさい。押し並べて人当たりが良く、押し並べて底意地が悪い。見識はあるが、他業種での経験がないせいか、意外に考え方が狭い。海千山千の作家から見ると、知的な凡人といった印象が強い。しかし、よい目を持ち、よい仕事を選んだ人たちでもある。」

 主人公のクニオ・バンプルーセンは、編集者である。 「編集者を書くことは作家を書くことでもあり、私の属する文芸を書くことでもある。」

 そこで〝クニオ・バンプルーセン〟の冒頭部分である。 まず安房鴨川の地の描写。 定年まで数年を残して退職したクニオが、知人の車で、たぶんもう帰ることはないだろうと思う東京から、最後の棲みかにする別荘へ向かっている。 そして最近よく思い出す、英語の児童文学の最後の一節、もうすぐ七百歳になる楽園の亀の述懐だ。

クニオ、日本文学に目覚め、石坂洋次郎を評価2023/12/02 07:02

 父のジョンは最後の任務を終えて帰還し、一家のベトナム戦争は終わった。 まもなくジョンはグアムの特殊作戦部隊に転属になり、クニオもグアム大学を目指すことになった。 日本語の読み書きは基本ができていたので、本を取り寄せて独学するうちに、日本文学の繊細さに目覚めた。 読書家の母真知子に導かれて、クニオは佳いものを知っていった。

『クニオ・バンプルーセン』には、たくさんの作家の名と、少しの作品名が出てくる。 クニオが「太宰や谷崎よりおもしろく、三島や川端よりも身近な文学を感じたのは石坂洋次郎だった。書くものが先駆的で、若い女性が強く、作品世界がのびのびしている。地方が都会に負けず輝いている。日本文学は総じて暗い印象であったが、古風を嫌ってあけっぴろげであった。」

「戦後まもなく発表した〝青い山脈〟がよい例で、クニオは日本人らしからぬ会話を愉しんだ。英語ならどうということもないやりとりが生き生きとしているのは、当時の日本では新しいからで、思想や発言の自由、個人の尊重、旧弊の打破といったことを未来を担う若者に言わせて歯切れがよい。敗戦によって復活した作家はすでに中年で、それまで国家によって押さえつけられていた信念を一気に吐き出したという気がする。大衆もそうした世界を待ち望んでいたのであろう。」 「大衆受けしたから下等な通俗小説と決めつけるのは、大衆を小馬鹿にする自称崇高な文学者か、識者を気取る世間知らずのすることではないかと疑った。」

「純文学と大衆文学の区別を持たないクニオは「佳いものは佳い」と見る主義で、おとなしい印象の日本女性が大胆な小説を書くのもよいことに見ていた。実際、日本の文壇はそうした女流たちの存在で華やいでいたし、かつて石坂が提唱したように言いたいことを言い、書きたいことを書くようになっていた。」

『クニオ・バンプルーセン』に出てくる作家と作品2023/12/03 07:35

クニオは飯田橋の泉社という小出版社に入り、社長の与田とこんな会話をする。 「山本周五郎と中里恒子を同類の作家とみることはできない、独自の作品世界に芸術的良心を持ち込み、読者に媚びないという点では一致するのに、書くものが違うからだろう」という与田に、「それもこれも文学でいいでしょう」「私は文学に関してはニュートラルな立場でいたいと思います」というと、「実は私もそうだ」と社長が返した。

月例会議でクニオは、「山田風太郎さんの発言やエッセイを集約してみてはどうでしょう、名言のゴミ箱のようになっています」と提案するが、大物すぎて実現の可能性は低かった。 その年の秋、石坂洋次郎が逝き、追いかけるように円地文子が旅立つと、彼はいつになく息苦しい渇きを覚えて〝女坂〟を読みはじめた。 (1986(昭和61)年のことだ。)

母の真知子は、石川達三、三浦哲郎、水上勉、吉行淳之介、半村良をいいとすすめ、読んだの、と聞く。 クニオは、半村良の〝雨やどり〟はおもしろかった、ああいうものは日本人にしか書けない気がした、という。 「日本の女流はへたな男より剛力よ」と、芝木好子の短編をすすめる。 芝木は病身でヨーロッパ旅行をして、〝ルーアンの木蔭〟〝ヒースの丘〟を一度きりの生を全うしようとする人間の最後の力で書き上げる。 その、たやすくはできない美しい終わり方を思うと、クニオは震えた。 芝木好子の終焉(1991(平成3)年)と前後して昭和に別れを告げた日本はバブル経済が崩壊し、なにか豊かな流れが途切れたときの淋しさが漂うようであった。 日本がまたひとり美しい生を知る作家を失った。

後年、日本文学の精華を求めて名作の再読をはじめたクニオは、あるときその特質を客観的にとらえるために〝ジ・イズ・ダンサー〟を読んだ。 これはもう手のつけようのない別物だと思った。 自在に語順を変えられる日本語の原文と、文章の組み立てに限界のある英語の訳文を比べてみると、冒頭の部分からして柔軟性の差が瞭然としていたからである。 貧しい旅芸人の踊子とダンサー、雨脚とシャワーの違いを早く言うなら、こまやかな情景描写から入る日本文は「道がつづら折りになって」ではじまり、英文は原則通り主語の「にわか雨」ではじまる。

「例えば芝木の短編を作者不詳としてフランス語で仕立て直したら、彼らは傑作とみるだろう。」や、「井伏の〝山椒魚〟はどうだろう、あのラストの心境を外国人が美しいものとして受け入れるだろうか」などというところもある。

「そのときがくるまで精々人生を愉しもう」2023/12/04 07:14

 社長の与田は温厚な人だが、中身は結構な情熱家で、佳いものとみれば採算を度外視したり、貧しい作家に肩入れしたりすることもあった。 昼日中からクニオを飲み屋へ誘ってこんな話をした。 「人間なんてのはなにを食って生きるかで人生が決まる、文学は栄養たっぷりのご馳走だよ、ところが味見もしないやつがごまんといる、彼らの言い訳はそんなことより生活があるから、腹の足しにならないから、他人の考えに振りまわされたくないからといったところだろう、冗談じゃない、だったらそれで食ってる俺たちは馬鹿そのものか、違うよな、それで食えるってことはとんでもなく幸せなんだよ」

 与田社長が、著名な老作家の随想録の刊行を決めてきて、クニオに「この本は君に任せる、性根を据えて作れ」と。 随想の中に潜んでいるであろう作家独自の方程式を発見できたら、それは日本文学の底流を覗き見ることでもあった。 後日、クニオは母真知子にその作家と会った話をして、「随想録を読めば分かるけど、彼も相当苦労している、というかそういう星の下に生れた人でね、よくまあここまで上りつめたと思う、ほんの一歩踏み外していたら、まったく別の人生になっていただろうから」、「その危なっかしい瞬間にある選択肢はふたつぐらいという気がする、伸るか反るか、一か八か、右か左かと言った決断を迫られる状況で常に本道を選んできたのが三浦という人だろう」と。 随想録を出すことで古い自分と決別するであろう彼は、これから掌編や短編の世界で最高の三浦文学を生んでゆくに違いなかった。

 三浦が胃の半分を取る手術をして、社長とクニオを呼び、自分が死んだら全作品を泉社で管理してほしいと申し出た。 先に逝く人間の権利として自分を生ききろうとしているようであった。

 クニオが食道から噴門にかけての末期癌になり、退職することにして、早朝私物を片づけていると、先輩の女子社員の白川千鶴が来て手伝ってくれ、言った、「なあクニオ、過剰に悲観するなよ」。

 引退していた与田が見舞の電話をくれて、「実は私も癌らしい、遠からずあの世で会うことになりそうだな」と、常の調子で明るく言った。 病魔はいつ誰に寄ってくるか知れない魔物であったが、同時期に与田に取りついたことに奇妙な安堵を覚えてもいた。 人間は勝手で、自分と似たような不幸にある人を歓迎するらしかった。 「まあ、そのときがくるまで精々人生を愉しもう、私の結論はそんなところだ」 「同感です」

 場末のバーで、色っぽい女から聞いた言葉を、クニオは不意に思い出して口の中でなぞってみた。 「人は生まれて、生きて、死ぬ、〝生きて〟が大事よねえ」

ヘンリー・キッシンジャーさんと加藤秀俊さん2023/12/05 07:05

 ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官が11月29日、コネティカット州の自宅で死去した。 100歳だった。 1970年代に歴史的な米中接近やベトナム和平を推進した人だ。 それで、思い出したことがある。 加藤秀俊さんが『九十歳のラブレター』に書いていたことだ。

 加藤秀俊さんは一橋大学を卒業してまもなく、大学の掲示板で京都大学人文科学研究所の「助手採用公募」の広告を見て、応募する。 あれこれアルバイトをしていたなかで、もっとも知的でたのしかったのが、「思想の科学研究会」という団体の機関誌「思想の科学」編集のお手伝いだった。 その雑誌の実質的編集長は鶴見俊輔さん、加藤さんより5年ほど年長の多田道太郎さんが副編集長格で活躍していた。 鶴見さんは京大人文研の助教授、多田さんは助手、京都在住だから、毎週のように京都と東京を往復していた。 そのたびに加藤さんは、いろいろと教えられ、このおふたりに共通していたのは東京のアカデミズムからはまったくかけ離れた自由な発想で、そのことにいつも敬服していたから、「人文科学研究所」という名前にはしたしみとあこがれをもっていた。 加藤さんは、この助手公募試験に合格し、京都大学人文科学研究所に就職した。

 それからそこに一年もいたかいないかで、昭和29(1954)年、ハーバード大学の「国際夏期セミナー」に応募して、合格、渡米する。 セミナーの期間は8週間だったが、参加したら、加藤さんはアメリカという国にすっかり魅了されてしまった。 大学での知的刺激もさることながら、この国と文化がおもしろくてたまらなくなった。 すると、「よかったらあと一年ほどアメリカで研究したらどうかね」と声をかけてくれたハーバードの助教授がいた。 このセミナーを企画した人物で、その名をヘンリー・キッシンジャーといった。 加藤さんが即座に「イエス」と答えた。 やがてキッシンジャー助教授は「話はきまった、明日でもニューヨークにいってきなさい」といって、鉄道のキップとマンハッタンにある訪問先の地図と電話番号のメモを手渡してくれた。 ニューヨークの訪問先はロックフェラー財団、担当の女性はたいへん知的で愛想のいい人で、「よかったわね、さあ、これが今月分、来月からは郵送するわ」と、ほほえみながら300ドルの小切手を手渡してくれた。

 となると問題は、結婚目前になっていた彼女のことだった。 2か月ほどと渡米したのに、いきなり滞在を大幅に延期してしまったのだ。 思い切って彼女をアメリカによび、ここで結婚しよう、と無謀なことをかんがえ、そのことをキッシンジャー先生に相談すると、「それじゃ、どうにかかんがえよう」と、彼女をボストンまで呼び寄せる手段や手続きをととのえてくれた。 加藤さんも若かったが、のちアメリカ合衆国国務長官という要職についたキッシンジャー先生も若かった。 親身になってふたりのことを気づかってくれたのである、と加藤さんは書いている。