松の丸殿京極竜子と、兄の京極高次2023/12/15 07:14

秀吉が寵愛した絶世の美女の側室、松の丸殿京極竜子の兄は、京極高次(1563~1609)という数奇な運命の武将、大名だ。 京極高𠮷の長子で、幼年期は京極氏が浅井氏の配下にあったため、人質生活を送ったが、天正元(1573)年浅井氏の滅亡により織田信長に仕え、五百石を与えられた。 天正10(1582)年本能寺の変に際し、明智光秀を後援したため羽柴秀吉に追われ、越前の柴田勝家、次に若狭の武田元明を頼った。 勝家、元明の二人は相次いで秀吉に滅ぼされたが、高次は、秀吉が元明の妻であった妹竜子(松の丸殿)を側室にしたので許され、天正12(1584)年近江高島郡で二千五百石を与えられた。 室の初は、淀殿の妹である。 大河ドラマ『どうする家康』では、高次没後の慶長19(1614)年の大坂冬の陣で剃髪姿の常高院(鈴木杏)となって、徳川方の阿茶局(松本若菜)と交渉し、堀を埋めるのを条件に、秀頼が大坂に留まることを決めた。 何も言わない茶々の乳母・大蔵卿局(大竹しのぶ)も同席していた。

昨日見た磯田道史さんの『日本史を暴く』では、「京極竜子は、とくに悲惨である。絶世の美女に生まれてしまい、それが彼女に不幸をよびよせた。竜子には夫がいたが、秀吉が彼女の体を欲しがった。どういうわけか、夫が明智光秀に加担したかどで、秀吉・丹羽長秀連合軍に謀殺されるという厳罰をうけ、結局、美しい体を秀吉にささげさせられた。秀吉は有馬の湯に専用浴場を作り、彼女に「母親以外と入るな」と厳命し、自分だけで彼女の裸体を鑑賞した。そんな秀吉の書状まで残っている。」とある。

京極高次は、その後、秀吉の九州征伐(1587年)、小田原征伐(1590年)、さらに文禄の役(1592~93年)に従軍して、1595年近江大津六万石に加増された。 秀吉の死後、徳川家康につき、関ヶ原の戦いで大津城に籠城した。 その功により、若狭小浜八万五千石、翌年加増して九万二千石を領した。 母はオルガンティノに受洗した京極マリアで、高次も晩年は信徒になったという。

関ヶ原の戦いでの功績というのは、大津城に籠城し西軍最強といわれた立花宗茂を引きつけたからだということを、前に書いていた、それはまた明日。