『虎に翼』「共亜事件」のモデル「帝人事件」2024/05/08 07:00

 朝ドラ『虎に翼』で、1936(昭和11)年12月、1年半に及んだ裁判の判決が出て、猪爪寅子の父猪爪直言(なおこと・岡部たかし)が無罪になった疑獄事件「共亜事件」のモデルは、「帝人事件」である。

 1927(昭和2)年の金融恐慌後、台湾銀行は鈴木商店に対する担保として、その子会社である帝国人造絹糸(帝人)の株22万余を所有。 台湾銀行も日銀から特別融通を受けたため、帝人株は日銀に入れられた。 その後、帝人が業績をあげたため、1933(昭和8)年台湾銀行は同行保有の帝人株を売却した。

 翌年1月『時事新報』は実業家グループ番町会のメンバーが政府関係者に働きかけて、そのうち10万株の帝人株を不当に安く購入し、謝礼として帝人株を配った、とのキャンペーンを展開した。 そのため「番町会事件」ともいう。 検察当局は、4月番町会の帝人監査役河合良成、同社取締役永野護、旭石油社長長崎英造、そして帝人社長高木復亨(前台銀理事)、台銀頭取島田茂らを、5月には黒田英雄次官以下大久保偵次銀行局長ら5人の大蔵官僚を検挙した。 斎藤実首相は、閣僚への波及必至とみて7月3日に総辞職(7月に三土忠造鉄道相、9月に中島久万吉商工相を収容)。 河合らは背任、黒田らは収賄、三土らは偽証容疑で起訴され、1935(昭和10)年から265回の公判が開かれ、1937(昭和12)年12月16日に出された判決で取引は正当であったと全員無罪となり、検察の過酷な取り調べに対しては司法ファッショという批判が加えられた。 平沼騏一郎(きいちろう)閥の策動ともいわれるが、斎藤内閣の反対派にとっては格好の倒閣材料となる事件であったとされている。

 「あたかも水中に月影を掬いあげようとするかのごとし」「証拠不十分にあらず、犯罪の事実なきなり」と、一連の起訴内容が事実無根で、検察側の捏造であったとする判決文を書いたのは、左陪席裁判官の石田和外(かずと)で、世間が注目したこの裁判の判決で一躍有名になったそうだ。 『虎に翼』では、桂場等一郎(松山ケンイチ)という名前になっている。 ドラマの「共亜事件」の判決が1936(昭和11)年12月で、「帝人事件」の判決が1937(昭和12)年12月と、一年ずれているのは、なぜなのだろう。 「帝人事件」の裁判の始まったのは、1935(昭和10)年6月22日。 昨日見た、武藤(三淵)嘉子が明治大学専門部女子部法科から、明治大学法学部に入学したのが、1935(昭和10)年だったから、一年ずらしたのかな。

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