日本で最も古い野球部は?2024/05/05 08:02

 東京六大学野球春のリーグ戦、慶應は第一週の東大戦を5-2、8-3と連勝、4月27日からの第三週、法政との初戦を2-6で落とした後、28日は5-4でタイに持ち込み、29日は外丸、篠木両エースの投げ合いから1-1での延長戦となり、引分で明日の4試合目かと思われた12回裏、昨年の慶應高校甲子園優勝のキャッチャー渡辺憩が代打で登場、神宮初打席でさよならホームランを放ち2x-1で勝ち点2としたのであった。

 このところ、東京六大学野球はもっぱら、BIG6.TVで見ているのだが、今シーズンからは、従来のアナウンサー一人だけの放送に、解説者が加わる試合もあるようになった。 慶法戦、初日は明治OBでヤクルト、巨人、阪神でプレーした広澤克実さんの解説、二日目はオリックス、日ハム、ヤクルトでプレーした法政OB大引啓次さんの解説、三日目は戸崎貴宏アナだけだった。

 その広澤克実さん、野球の歴史などの細かいことに詳しくて、野球の始まりは慶應義塾に野球部が出来た三年前に、明治学院の野球部が出来、その主将は白洲次郎さんの父(文平)だった、白洲次郎さんは軽井沢のゴルフ場で会員でない田中角栄がプレーをやりたいというのを断った人だと話していた。

 『慶應義塾史事典』の「野球部」には、「慶応義塾で野球の団体が初めて創られたのは明治17(1884)年であり、当初、青山英和学校(現青山学院)などと対戦しているが、公式には三田ベースボール倶楽部が組織された21(1888)年を野球部発足の年としている。」とある。 「明治学院の野球部」でネットを検索すると、明治学院野球部の創部は1885(明治18)年であり、日本で最も古い野球部の一つであると言われている(学校名が明治学院となるのは翌1886年)、とある。 当時は、一高や駒場農学校、工部大学校(これら三校とも後の東京大)、高商(後の一橋大)、青山学院、慶應義塾、学習院などが野球部を組織化していた、ともある。 明治学院は1885(明治18)年で、慶應義塾は公式には1888(明治21)年だから、広澤克実さんのいう通りなのだろう。

 明治学院では、アメリカ人教師マックネイン教授が「野球」を伝え、創部以前には横浜の外国人チームと試合を行い、当時は野球を「校戯」と称していた。 1885年、東京一致英和学校(明治学院の前身の一つ)にベースボール部が創部され、白洲文平(ふみひら、白洲次郎の父)が活躍した。 1887年、学校が荏原郡白金村に移転し「白金クラブ」と名乗り、黎明期の日本野球界・学生野球界に名を轟かせた。 白洲文平は初代主将で、日本初のキャッチャーミットの使用者、実弟の純平・長平(1891年に同志社に転校して野球部を組織)も所属し名手として活躍した。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック