「日曜美術館50」和田信賢アナの娘2026/03/17 07:07

 先週8日と、今週15日のNHK「日曜美術館」が「日美50」特別アンコールということで、50年半世紀の番組アーカイブスの中から選りすぐりを放送していた。 1980(昭和55)年9月「私とベイコン 大江健三郎」、1980年2月「私とピカソ 岡本太郎」。 20世紀イギリスを代表する画家というフランシス・ベーコンは、知らなくて、絵を見たこともなかった。 大江健三郎さんが、(ロンドンで?)展覧会を見る機会があったのに、見るのを止めたことがあったと話していたが、とても気持の悪い絵で、それで私も見る機会がなかったのだろうと思った。 番組が終わっても、気持の悪さが残った。 岡本太郎さんは、若い時ピカソの静物画に感激して、抽象へ向かったが、ピカソを越える、感激したものを越えなければならないと話していた。 子供のような絵も、一律にピカソだからと有難がるのも、批判していた。

 その両方の番組の、司会者とアシスタントが、西橋正泰アナと藤堂かほるさんだった。 藤堂かほるさん、当時一年ほどアシスタントを務めているが、あの和田信賢さんの没後に生まれた娘だという。

和田信賢さんのことは、2023年8月14日に放送されたNHKのドラマ『アナウンサーたちの戦争』を見て、いろいろ書いていた。 日本のラジオ放送は二年後の2025年に百周年、そして「等々力短信」は五十周年を迎える、「思えば長く続けてきたものだ、何とかそれまで元気で続けていたいと、思う。」とあった。 それを二回に分けて再録する。

   『アナウンサーたちの戦争』のアナを知っていた<小人閑居日記 2023.10.12.>10/11発信

 敗戦記念日の前日、8月14日に放送されたNHKのドラマ『アナウンサーたちの戦争』(脚本・倉光泰子、演出・一木正恵)を録画しておいたのを、ようやく見た。 日本のラジオ放送は1925(大正14)年に始まったから、二年後には百周年を迎える。 実は「等々力短信」の前身「広尾短信」は1975(昭和50)年に創刊したから、それで二年後には五十周年を迎えることになる。 ラジオ放送の半分、思えば長く続けてきたものだ、何とかそれまで元気で続けていたいと、思う。

 私は長く生きているので、『アナウンサーたちの戦争』に登場するアナウンサーたちの内、知っている名前が何人もあった。 戦後、物心ついた頃は、ラジオ放送の時代だったからだ。 主人公の和田信賢(森田剛…宮沢りえの夫と聞いていたが、顔は馴染がなかった)、妻になる大島(和田)実枝子(橋本愛(語りも)…大河ドラマ『青天を衝け』で渋沢栄一の妻)、館野守男(高良健吾)、今福祝(浜野謙太)、志村正順(大東駿介)、松内則三(古館寛治)だ。  和田信賢は「話の泉」の司会で、志村正順、今福祝(はじめ)はスポーツ中継で、和田実枝子は子供番組などで、館野守男は解説委員として記憶している。 これは当然聴いていなかったが、ワダチン和田信賢は、「双葉破る!双葉破る!双葉破る! 時、昭和14(1939)年1月15日! 旭日昇天、まさに69連勝。70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭・安藝ノ海に屈す! 双葉70連勝ならず!」と叫んで実況、松内則三は、戦前の六大学野球で「夕闇迫る神宮球場、ねぐらに急ぐカラスが一羽、二羽、三羽」の決まり文句で有名だったという。(なお、「前畑ガンバレ」は河西三省アナウンサー)。

 和田信賢アナは、酒豪で知られ腎盂炎を患っていたが、1952(昭和27)年ヘルシンキのオリンピック中継に派遣され、実況を終えて帰国する途中、五輪期間中に白夜で睡眠不足となっていた疲労の治療で入院したパリ郊外の病院で8月14日に客死した(享年40歳)。 診察した日本人医師は加藤周一で、容態はかなり重篤、和田はその直後に亡くなったと、加藤周一の『続 羊の歌』にあるそうだ。

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