維新の負け組、幕臣の幼い娘、アメリカ留学へ2026/06/23 07:20

 私は、2022年にテレビ朝日で、広瀬すず主演のドラマ『津田梅子―お札になった留学生』を見て、3月25日の等々力短信 第1153号に「津田梅子の父、仙」を書いた。 そこには、こう書いていた。 「明治4(1871)年の北海道開拓使の女子留学生募集には、なかなか応募する者がなく、維新の負け組、会津の家老山川家の捨松が、一旗揚げるべく留学、後に大山巌と結婚して、鹿鳴館などで活躍する話は聞いていた。 だが、6歳の津田梅子を10年間のアメリカ留学に送り出した父親のことは知らなかった。 ドラマでは(伊藤英明)、東京近郊に住み、農業などをやっていた。 梅子の父、仙も、冷や飯組の幕臣だった。 天保8(1837)年佐倉藩士の家に生まれ、藩校成徳書院で学び、藩主堀田正睦の洋学好きもあり、藩命でオランダ語、英語を学び、江戸の蘭学塾で洋学、砲術、森山栄之助に英語を学び、文久元(1861)年外国奉行の通訳に採用された。 慶応3(1867)年、小野友五郎の軍艦引取り交渉の遣米使節で、福沢諭吉、尺振八と三人が通訳として随行した。 津田仙はクリスチャン、明六社社員、初めて西洋野菜を育て、通信販売も初。」

 岩倉使節団に同行して派遣するべく、北海道開拓使(黒田清隆長官)の女子留学生募集に応募したのは、吉益亮子15歳、上田悌子15歳、山川捨松12歳、永井繁子9歳、津田梅子8歳の5人だった。 みな明治維新で敗者となった幕臣の娘で、維新後、親達は薩長閥の色濃い新政府の下級官吏として日の当たらない生活を強いられていた。 西洋体験や外国事情に明るかった親達は、近い将来に西洋の学問や技術を日本が必要とする時が必ず来る、それまでに娘をアメリカで教育させて、薩長に見返してやろうという強い思いがあった。

 会津戦争に敗れた会津藩は、青森の荒れ野の斗南に転封され、藩士山川家は、11歳の捨松(当時の名は咲子)も母唐衣や姉達と田名部へ移住した。 長兄浩は藩の指導者として自らすすんで粗衣粗食の生活をしていたため、母親と相談して一番下の捨松を箱館へ預けることにした。 12歳になった捨松のもとを兄浩が訪れ、これから東京へ行き女子官費留学生として10年間アメリカでみっちり学問をするのだ、と言い渡した。 長兄浩とは15歳も齢が離れていたが、会津戦争以来離ればなれになっている齢の近い次兄健次郎がアメリカに留学していて、その兄に会えること、それにお国のためになるならばと、捨松は直ちに出発の準備にとりかかった。 上京の途中、母や姉達に別れを告げに、田名部に立ち寄ると、母唐衣はお国のために愛する娘を10年も遠い異国に旅立たせなければならない切ない気持を込めて、幼名咲子を「捨松」と改名した。 私はお前を“捨”てたつもりでアメリカにやるが、お前が立派に学問を修めて帰って来る日を毎日心待ちにして“待”っているよ、と気持を二字に込めたのであった。 

 横浜を出発して2か月、岩倉使節団が首都ワシントンに到着したのは、1872年2月29日(旧暦明治5年1月21日)であった。 それからの条約改正交渉は、天皇の全権委任状を伊藤博文と大久保利通が日本に取りに戻る失態もあり、4か月余りかけて不成立、使節団は次の訪問地イギリスへ向かった。 5人の女子留学生は、森有礼弁務使の書記官チャールズ・ランメンの世話になりジョージタウンの家で、英語の勉強やピアノのレッスンを受けた。 吉益亮子と上田悌子は、体調を崩し精神状態が不安定になったので、10月末に帰国することになる。 残る三人、捨松と永井繁子は、コネティカット州ニューヘイヴンのレオナルド・ベーコン牧師の家に、一番年下の津田梅子はチャールズ・ランメン夫妻のところに引き取られることになった。

「日本初の女子留学生 大山捨松のチャレンジ」2026/06/22 07:11

 19日は、慶應義塾3高校(女子、日吉、志木)の新聞編集者の集い「ジャーミネーターの会」が、三田キャンパス北館のファカルティクラブであった。 私は何年ぶりかの参加だった。 少し早く行って、前日始まった慶應義塾史展示館の春季企画展「福澤諭吉の臨終―『独立自尊』の誕生」を覗く。 明治34年元旦の揮毫「独立自尊迎新世紀」や、福沢が「戯去戯来」について自ら孫に「お祖父さん記して中村壮吉くんへ」と記した書を見た。

 「ジャーミネーターの会」、講演は久野明子さんの『日本初の女子留学生 大山捨松のチャレンジ』。 久野明子さんは、大山捨松の曾孫で、昭和39年塾文学部卒、現在日米協会副会長。 昭和39年卒といえば、私と同期の105年三田会だが、まったく知らなかったので、名簿を見たら文学部西洋史学科だった。 講演後、同期だとお話すると、一年上なのだがアメリカに留学したので105年三田会、104年三田会の名簿にも載っているそうだ。

朝ドラの『風、薫る』を一緒に見ている家内が常々、多部未華子演じる大山捨松が、自宅でも鹿鳴館などと同様に洋服に帽子まで被っているの、おかしいと言っていた。 そこで、そのことを久野明子さんにお尋ねすると、「着物、着物」、朝ドラにはときどき違和感があるそうだ。 久野明子さんの著書『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生』(中公文庫)に、たくさんの写真がある。 実は、渋谷区隠田(原宿)の大山巌邸は第二次大戦の空襲で焼失、写真や手紙や日記など多くの資料が失われたため、これらの写真にはアメリカで発見された写真が多いのだそうだ。 その中に、明治33年、女子英学塾設立のため来日したアリス・ゴードンと、津田梅子、瓜生繁子とのもの、明治37年、日露戦争出征の日、大山邸で大山巌と子供たちとのものがある。 両方とも、大山捨松は「着物」姿である。

久野明子さんは、この本を、「鹿鳴館の貴婦人」「鹿鳴館の華」として名高い大山捨松でなく、副題の「日本初の女子留学生」としての大山捨松の「チャレンジ」を、ぜひ伝えたいために書いたという。 講演で、その発見の物語を話してくれた。 それは、明日から。

収穫量の競争から、高く売れるブランド米へ2026/06/18 08:12

 日本は60年代後半にコメ余りの時代に突入した。 農水省は関税などで国内市場を隔離したうえで、予測する需要量にあわせて生産量を抑制する減反政策を続けた。 それがコメ作りにどんなひずみをもたらしているのか、『揺れるコメ改革 減反は何をもたらしたのか』を見てみたい。 第2回では、10アールあたりの収穫量(単収)を競う全国コンテストと、品種開発の歴史が扱われている。

 10アールあたりの収穫量(単収)を競う全国コンテストは、終戦直後の食糧難の解決が緊急課題だった1949年に始まった。 毎年およそ2万人が参加する激戦を勝ち抜こうと、農家はいち早く多収品種を導入し、日本一に輝く品種は、毎年のように入れ替わった。 前年に配布が始まった新品種「ふ系55号」を採用して、1961年に975キロ、62年に863キロで制した八ヶ岳の麓に広がる長野県富士見町の小池政之さん夫妻の田んぼには「日本一 生産の地」の石碑が建っている。 一方、2025年産の収穫量の全国平均は、農水省によると573キロだ。 コンテストは、68年で打ち切られた。 そのころ、コメ政策は転換点を迎えていた。 増産が進む一方、食生活の洋風化で需要は伸び悩み、政府は山積みになる余剰米の処理に苦悶していた。 翌69年には、生産量を抑えるための減反に踏み切った。

 減反で消えた、もう一つ、品種開発では、多収の研究が止まり、食味や冷害への対応力の向上が中心になった。 限られた生産量でいかに収入を増やすかに注力し、高く売れるブランド米ばかりをつくるようになった。 それが半世紀にわたって続いた結果、かつて世界トップレベルを誇った日本のコメの単収の地位が大きく低下した。

 国連食糧農業機関(FAO)の統計によると、日本の1968年の単収は世界4位だったが、2024年は14位に落ち込んだ。 米国(8位から5位)中国(25位から5位)などに抜かれた。 日本が減反を始めたころ、世界では単収を引き上げるために肥料を多く与えても稲穂が倒れないよう、背丈が低い品種の開発や普及が加速した。 日本で進んだのは、この逆だった。 1979年以降、作付面積トップのコシヒカリは、背丈は高く、単収は少ない。 コシヒカリは、56年に命名された古い品種だ。 海外の主流品種は、古くても10年ぐらい前のもので、半世紀以上前に開発された品種がいまだにトップになっている日本の構図は、世界では異例だという。

 増産をタブー視するコメ作りに変化の兆しも出てきた。 20年に安倍政権は「食料・農業・農村基本計画」に、長年封印してきた「多収品種の導入」を盛り込んだ。 注目されたのが、15年に配布を始めた「にじのきらめき」、食味と収量を両立させた品種で、通常の品種より1~3割ほど多く収穫できる。 ただ、「にじのきらめき」など多収米の収穫量は、まだ全体の6%程度だ。 立ちはだかるのは、半世紀で築き上げられてきたブランド米信仰の壁だ。

 多くの農協は、ブランド米を前提に作業日程や貯蔵庫などの設備を構築してきた。 このため従来の品種以外への対応は柔軟に行えず、「にじのきらめき」の栽培は、自前の流通設備を整えた大規模農家に限られているという。

日本のコメ、失われた国際競争力の裏に2026/06/17 07:20

 日本は戦後、自由貿易を掲げて関税を引き下げてきた。 世界銀行によると、日本の22年の平均関税率は1・6%で、米国(1・5%)や欧州連合(1・3%)と遜色ない水準だ。 だが、コメの事情は別だ。 日本は無関税枠を除く輸入に、1キロあたり341円をかけている。 輸入価格によって率は変わるが、23年の実績をもとにすると200%程度だ。 トランプ大統領は、相互関税を発表した25年4月、「日本は友人だが、700%の関税をかけている。なぜなら、我々にコメを売らせたくないからだ」と批判した。 「700%」は事実ではないが、関税が高率であることは否定できない。

 「令和の米騒動」では、業界関係者が驚く事態が起きた。 高関税で事実上禁止したはずのコメの輸入が急増したのだ。 25年の関税を払う民間輸入は、前年の95倍の9万6834トンに跳ね上がった。 米価急騰で、関税を支払ってでも輸入した方が安くなったためだ。 輸入米の多くを利用していると見られるのが、一部を海外産に切り替えた牛丼チェーンの松屋や吉野家といった業務用の分野だ。 輸入拡大を食い止めようと、農水省は業務用のコメの生産に出す新たな補助金を検討中だ。 「輸入封じ」の補助金とみなされれば、米国とのさらなる火種になる恐れもある。

 コメの輸出が補助金頼みになるのは、日本の米価が国際水準からかけ離れて高いからだ。 農水省によると、25年産の国産米の業者間取引(1キロあたり)は627円。 タイ産はその10分の1の63円、米国産は4分の1以下の142円だ。

 政府は昨年4月、「食料・農業・農村基本計画」を閣議決定し、24年は4・6万トンだった輸出量を、30年に35・3万トンに増やす野心的な目標を掲げた。 だが、25年はほぼ横ばいの4・8万トンだった。

 実は、日本のコメの価格は、昔から高かったわけではない。 1950年12月、池田勇人蔵相(当時)の失言とされた「貧乏人は麦を食え」は、朝鮮半島産やタイ・ビルマ産の輸入米と比べ、国内の生産者米価は2~3割安いので、国際価格にあわせて国内の米価が上昇した際には、低所得の人は麦を食べてほしいという文脈だった。 池田は、自由貿易のもとでは、米価も他の製品と同様に、「国際市場に鞘寄せされる運命」だという持論を述べたのだが、75年以上経った今も、池田が「運命」だとした米価の国際価格への「鞘よせ」(価格差が小さくなる)は、国際価格より高い国産米という逆の形で、実現していない。

 日本は60年代後半にコメ余りの時代に突入した。 そのころには、人件費が上昇するなどして、国際競争力を失っていた。 経済原理に従えば、コメが余れば米価は下落し、国際競争力は回復していくはずだった。 だが、実際にはそうはならなかった。 農水省は関税などで国内市場を隔離したうえで、予測する需要量にあわせて生産量を抑制する減反政策を続け、米価の高値誘導を続けたからだ。

 高い米価は、疲弊する地方経済を下支えし、農家を主な支持基盤とする自民党が安定政権を築くことを可能にした。

 その一方で、消費者は、税金や社会保険料の負担が増すなかでも、高いコメを購入し続けることを強いられた。 高い米価のもとで生産性が低い零細農家が残り、農家の技術革新も停滞した。

農政、コメ輸出より減反を選択した裏に2026/06/16 07:16

 「令和の米騒動」、結局はどうなったのか。 「令和の米騒動 現在」で検索したら、「2024年に発生した「令和の米騒動」による極端な品薄や買い占めは完全に解消され、現在は一転して「コメ余り」と小売価格の下落傾向が起きています。消費者の米離れも進み、卸や小売店の倉庫には在庫が積み上がっている状況です。」と、出た。

 朝日新聞は、5月18日から『揺れるコメ改革 減反は何をもたらしたのか』という連載をした。 農地改革や減反政策をはじめとする戦後の農政がいま、コメ作りにどんなひずみをもたらしているのか、5回に分けて検証するというシリーズだ。

「コメ政策をめぐる歴史」という表がある。 1950年…池田勇人蔵相(当時)による「貧乏人は麦を食え」発言。 61年…農業基本法制定。 60年代後半…コメ不足から一転、米余りの時代に。 69年…減反政策を試験的に導入。援助を名目にした余剰米処理開始。 79年…コシヒカリが品種別作付け面積のトップに。 86年…米国のコメ業界が日本の輸入制限を米通商法301条で提訴。市場開放要求が過熱化。 93年…平成の米騒動。 95年…食糧法施行。食管制度が廃止され、備蓄米制度創設。 99年…コメの関税化。 2004年…新食糧法でコメの流通がほぼ自由化。 18年…減反政策の廃止を掲げたが事実上存続。 24年…令和の米騒動。

 第一回は、こう始まる(大日向寛文編集委員、井東礁記者)。 過去半世紀のコメ政策には一つの謎がある。 なぜ、政府はコメ余りを防ぐために減反の道を選び、最近まで海外への輸出に活路を見いだそうとしなかったのかだ。 歴史文書をひもとくと、二つのキーワードが見えてくる。 「コストの壁」と「米国の圧力」だ。 外務省が公開している1969年12月作成の内部文書には、「対外的に余剰米処理を匂わせることを極力避けることが肝要である」とある。 当時、戦後の食糧難は一変し、政府は余剰米の処理に頭を悩ませていた。 69年には、主食用米の生産を制限する「減反政策」に試験的に踏み出していた。

 コメの輸出を増やすことも選択肢にあがった。 ただ、日本産はすでに国際競争力を失い、海外産より高かった。 上の12月の内部文書の前、海外を援助するという名目で、3月には韓国にコメ33万3千トンを無利子で貸す破格の条件で合意した。 米国は7月、これに苦情を言い、ハーディン農務長官は「米国の商業ベースの貿易は数百万ドルも損失を蒙(こうむ)る」と釘を刺していた。 その後、日米貿易摩擦が過熱する。 米国は日本をコメの有望な輸出先と見込み、市場開放を強烈に迫るようになる。

 「令和の米騒動」後の増産で、再びコメ余りが懸念されている。 政府では、援助を含めた輸出を強化する案が浮上しつつある。 だが、国の補助がなければ輸出が成り立たない構図は、解消されていない。 米国を含めた国際社会から異論が出るリスクはつきまとい、すでにその兆候もある、そうだ。