光林寺ヒュースケンの墓 ― 2023/02/11 07:03
光林寺のヘンリー・ヒュースケンの墓へ。 光林寺、あらためて入ってみると、立派な寺だった。 慈眼山、目によさそうな山号、山門から紅梅が見え、中に入ると蝋梅も咲いていた。 方丈の綺麗な障子が印象的だ。
ヒュースケンの墓については、以前永井荷風に詳しい宮川さんから「『断腸亭日乗』に、荷風がヒュースケンの墓をしばしば訪れている。その寺は光林寺で、一篇の文章がある」と聞き、探して岩波文庫の永井荷風『問はずがたり・吾妻橋 他十六編』所収の『墓畔の梅』を読み、この日記に書いたことがあった。 それをプリントして、当日参加の皆さんに配らせてもらった。 永井荷風と広尾光林寺ヒュースケンの墓<小人閑居日記 2020.12.28.> ヒュースケンの暗殺、光林寺での葬儀<小人閑居日記 2020.12.29.> 永井荷風『墓畔の梅』、「一樹の海」?<小人閑居日記 2020.12.30.>
初めて見るヒュースケンの墓は、墓がごみごみ並ぶ中にあって、まわりに梅の木などない。 墓石は破風つきの笠石がのる和風だが、墓碑面には十字架と英文が刻んである。 俵元昭さんの『港区史跡散歩』を見るのが後になって、見て来なかったのだが、ヒュースケンの墓の斜め前には、イギリス公使館付き通訳だった伝吉(ボーイ伝吉)の墓もあった。 伝吉は紀州出身の漂流民で、英国に帰化して公使館の通訳をしていたが、洋妾をあっせんし市中を乗馬で通行するなど外交特権をかさにきた粗暴な行いから、安政7(1860)年1月7日の白昼、イギリス公使館のあった高輪の東禅寺(2020年9月6日、三田あるこう会の第525回例会で行った)の門前で、刺殺された。 犯人は野州浪人桑島三郎とされるが、伝吉の素行がもとの事件で、外交問題にはならなかったという。
ヒュースケンと伝吉の二つの墓が、無縁にもかかわらず、今日までよく保たれているのは、隣接墓地の釋家先代の賜物だった。 今も遺言で参詣を続けられたおかげで外国にも恥ずかしい思いをしないで済む。 両通訳の冥福とともに釋氏の志にも敬意を表したい、と俵元昭さんは記している。
さらに、ヒュースケンの葬儀と墓が、アメリカ公使館のあった善福寺でなく光林寺になったかについても、俵元昭さんの本に、「土葬が善福寺のある出場限朱引というものの内では禁止されていたかららしい。この朱引のすぐ外に光林寺があった。作家の春名徹家のように菩提寺は善福寺、埋葬は光林寺という同様な檀家が他にもある。」とあった。 福沢先生の埋葬が、葬儀の行われた菩提寺の善福寺でなく、常光寺になったのも「朱引」に関係するらしいので、あらためて考えてみたい。
ヒュースケンの墓から、本堂と方丈の裏を回って外に出る途中、丘の上に大名墓らしい立派な墓が並んでいるのが見えた。 讃岐国丸亀藩と多度津藩、京極家の墓らしかった。 京極家、明治維新を迎えたのは四家、両藩の他に、但馬国豊岡藩(俳句で有名な京極家)、丹後国峰山藩があった。
池澤夏樹さんの追悼「いささか私的すぎる解説」 ― 2023/02/02 07:05
池澤夏樹さんは、星野道夫『旅をする木』の「いささか私的すぎる解説」で、自分は星野道夫より七つ年上だが、彼が死んだ三年前の夏には51歳になったばかりで、友人たちはみんな若かったので、親しい者の死を受け止めるすべを知らなかった、という。
池澤さんは、「旅をする木」の話がいいと、内容を紹介した後で、こう書く。 「つまりトウヒにとって、枝を伸ばして葉を繁らせ、次の世代のために種子を落とすという、普通の意味での人生が終った後も、役割はまだまだ続くのだ。死は死でなかった。最後は薪としてストーブの中で熱と煙になるのだが、その先も、形を失って空に昇った先までも、読む者は想像できる。トウヒを成していた元素は大気の中を循環し、やがていつかまた別の生物の体内に取り込まれるだろう。トウヒの霊はまた別の回路をたどってたぶん別の生命に宿る。人は安易に永遠のいのちとか、不老不死とかいうけれども、本当はこういう意味だ。みんなこのトウヒになれればいいのだが。」
「今となると、ぼくには旅をする木が星野と重なって見える。彼という木は春の雪解けの洪水で根を洗われて倒れたが、その幹は川から海へくだり、遠く流れて氷雪の海岸に漂着した。言ってみればぼくたちは、星野の写真にマーキングすることで広い世界の中で自分の位置を確定して安心するキツネである。彼の体験と幸福感を燃やして暖を取るエスキモーである。それがこの本の本当の意味だろう。」
「旅をする木」と、ビル・プルーイット ― 2023/02/01 07:28
星野道夫『旅をする木』の本の題名になっている「旅をする木」に、ふれておきたい。 星野道夫は、アラスカに移り住んで最初の1979(昭和54)年夏、北極圏のベーリング海に突き出た地の果てのような半島、ケープトンプソンの美しい入り江にいた。 北極圏最大の海鳥の繁殖地で、鳥類学者のデイブ・ローゼットと二人で、海鳥の調査をしていた。 デイブから、この話を聞いた。
1960(昭和35)年アラスカで、〝水爆の父〟エドワード・テラーのもとで、アメリカ原子力委員会が「プロジェクト・エリオット」という計画が進められていた。 核爆発による実験的な港をつくろうとしたのである。 絶対的な圧力の下で初めからゴーサインの出された国家的な計画だった。 環境アセスメントに雇われた生物学者の一人で、アラスカ大学の若き研究者のビル・プルーイットは、周辺のエスキモーの村や北極圏の自然に取り返しのつかない結果をもたらすだろうと、計画に反対に立ち上がった。 巨大な圧力によってビルは大学の職を追われたが、その行動はエスキモーの人々に計画に対する危惧を抱かせ、大きな反対運動につながってゆく。 それは草の根を力とした闘いになり、「プロジェクト・エリオット」は潰されていく。 ビルはこよなく愛したアラスカを去り、アメリカ本土の大学にも圧力で行かれず、カナダに移住、後にマニトバ大学の動物学の教授になる。
星野道夫の宝物、ビル・プルーイットのアラスカの動物学の古典“Animals of the North”(北国の動物たち)は「旅をする木」で始まる。 早春のある日、一羽のイスカ(スズメ目アトリ科の鳥。「交喙の嘴(イスカのはし)のくいちがい」のイスカ)がトウヒ(唐檜、エゾマツの変種)の木に止まり、浪費家のこの鳥がついばみながら落としてしまう、ある幸運なトウヒの種子の物語で始まる。 さまざまな偶然をへて、川沿いの森に根づいたトウヒの種子は、いつしか一本の大木に成長する。 長い歳月の中で、川の浸食は少しずつ森を削ってゆき、やがてその木が川岸に立つ時代がやって来る。 ある春の雪解けの洪水にさらわれたトウヒの大木は、ユーコン川を旅し、ついにはベーリング海へと運ばれてゆく。 そして北極海流は、アラスカ内陸部の森で生まれたトウヒの木を、遠い北のツンドラ地帯の海岸へとたどり着かせるのである。 打ちあげられた流木は木のないツンドラの世界でひとつのランドマークとなり、一匹のキツネがテリトリーの匂いをつける場所となった。 冬のある日、キツネの足跡を追っていた一人のエスキモーはそこにワナを仕掛けるのだ……一本のトウヒの木の果てしない旅は、原野の家の薪ストーブの中で終わるのだが、燃え尽きた大気の中から、生まれ変わったトウヒの新たな旅も始まってゆく。
星野道夫は、このビル・プルーイットの本全体に流れている極北の匂いに、どれだけアラスカの自然への憧れをかきたてられただろう、と書いている。
星野道夫、亡くなる一年前の本『旅をする木』 ― 2023/01/31 06:59
星野道夫は、1989(平成元)年には『Alaska極北・生命の地図』で第15回木村伊兵衛賞を受賞する。 1993(平成5)年、萩谷直子と結婚、翌1994年、長男・翔馬が誕生。 しかし、1996(平成8)年8月8日の午前4時頃、TBSテレビ番組『どうぶつ奇想天外!』取材のため滞在していたロシアのカムチャッカ半島南部のクリル湖畔に設営したテントでヒグマに襲われて死亡した。 まだ43歳だった。 アラスカに渡って18年暮らしたことになる。
展覧会『星野道夫 悠久の時を旅する』のパンフレット、表題の下に星野道夫の言葉が引用されている。 「私はいつからか、自分の命と、自然とを切り離して考えることができなくなっていた。」
落語を聴きに行って、本屋に入ったら、文庫本の平積みの中に、星野道夫『旅をする木』(文春文庫)があった。 単行本は、彼の死の一年前、1995(平成7)年8月文藝春秋刊。 文庫本は1999(平成11)年3月10日第1刷、その2022(令和4)年7月25日の第53刷。 カバーには望遠レンズを構える星野の写真、――誰もがそれぞれの一生の中で旅をしているのでしょう。――という引用、多くの人に〝人生を変えた本〟と紹介された、永遠に読み継がれるべき1冊、というキヤッチコピーがある。
「新しい旅」という最初の一篇。 アラスカに暮らし始めて15年がたちましたが、ページをめくるようにはっきりと変化してゆく、この土地の季節感が好きですと始まる。 初夏が近づくフェアバンクス、夕暮れの頃、枯れ枝を集め、家の前で焚き火をしていると、アカリスの声があちこちから聞こえてきます。 残雪が消えた森のカーペットにはコロコロとしたムース(アメリカでヘラジカのこと)の冬の糞が落ちていて、一体あんなに大きな生き物がいつ家の近くを通り過ぎていったのだろうと思います。 頬を撫でてゆく風の感触も甘く、季節が変わってゆこうとしているのがわかります。 人間の気持ちとは可笑しいもので、どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから、人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。 きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう。
「北国の秋」では、アラスカの秋の様子を報告して、こう書く。 「無窮の彼方へ流れゆく時を、めぐる季節で確かに感じることができる。自然とは、何と粋なはからいをするのだろうと思います。一年に一度、名残惜しく過ぎてゆくものに、この世で何度めぐり合えるのか。その回数をかぞえるほど、人の一生の短さを知ることはないのかもしれません。」
星野道夫、慶應の高校・大学から自然写真家へ ― 2023/01/30 07:08
学生時代のクラブの仲間で、長い等々力短信の読者から、珍しく手紙をもらって、写真展を勧められた。 たまたま、家内がNHKテレビの『ダーウィンが来た』で、その写真家のことと、写真を見ていた。 それで恵比寿ガーデンプレイスの東京都写真美術館の『星野道夫 悠久の時を旅する』展に行ってきた。 会期が22日までと迫っていたので、ウエブで予約すると21日土曜日午後4時からが取れた。 地下1階の会場への階段は入場を待つ人の行列で、見終わって出る人がいると5人とか10人とか入場させる、ウエブ予約はそれと別に時間で入場できる。 予想以上の人気、混雑だった。
星野道夫の写真は、家内が気に入ったタテゴトアザラシの赤ん坊の写真を家に飾っていたことがあった。 しかし、慶應の経済卒だとは知らなかった。 1952(昭和27)年の千葉県市川市生まれ、慶應高校在学中に北米大陸への旅行を計画し、地下鉄工事などさまざまなアルバイトで旅費を貯め、父の理解と援助も得て、1968(昭和43)年16歳のとき、約2か月間の冒険の旅に出た、というから凄い。 慶應義塾大学経済学部に進学、探検部(私の頃はなかった)で活動し、熱気球による琵琶湖横断や最長飛行記録に挑戦した。
大学1年生19歳のとき、神田の古書店街の洋書専門店で、『アラスカ』(ナショナル・ジオグラフィック・ソサエティ、1969(昭和44)年)に出合う。 この本に掲載されたベーリング海と北極海がぶつかる海域に浮かぶ小さな島の、エスキモーの村、シシュマレフの空撮写真に魅せられ、1972(昭和47)年10月村長宛に訪問したいという手紙を書く。 半年後の1973年4月、村長から訪問を歓迎する旨の返事が来た。 翌1974(昭和49)年夏、日本から何回も航空機を乗り継いで、シシュマレフに渡った。 現地でホームステイをしながら、クジラ漁についていき、写真を撮ったり漁の手伝いをしながら、3か月間を過ごす。 帰国してから、指導教授にアラスカでのレポートを提出し、なんとか卒業単位を取ることができたという。
卒業後、動物写真家の田中光常の助手を2年間務めたのち、1978(昭和53)年、アラスカ大学フェアバンクス校の野生動物管理学科に入学、一年の大半をアラスカを中心にカリブー(北アメリカのトナカイ)やグリズリー(ハイイログマ)など野生の動物や植物や、そこで生活する人々の写真を撮影して過ごす。 しかしアラスカ大学は、結局中退してしまう。
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